しゅれでぃんがー 2020/06/15 21:00

独り言の技術

 学生時代。高等学校の体育の時間。テニスをやったことがある。握ったことも無いラケットを握り、きゃっきゃとはしゃぎながらみんなで球を打つ。ほとんどどんなことをしたかは覚えていないが、それなりに楽しかったような気がする。

 実際に人間とゲームをする前に、壁打ちで球を打つ練習をしたのを覚えている。クラスの全員が各々壁に向かって、延々と球を打ち続ける。初めはあらぬ方向に球が飛んで行っては、小走りで拾いに行くのを繰り返した。でも、慣れてくればずっとやっていられた。文字を書くのは、これに似ている。


 エッセイを書くときは、自分で問題を提起して、それに対して自分で立証したり反証したりして全体を形成していく。取材をするなどが無い場合、そこに対話は無い。自分で自分の考えに対してあれこれ考えるだけである。そこに他人は存在しない。しかし、文字にする以上、誰かが読むとは思っている。だから、他人が読めるような独り言を書く。

 他人の文章を読む楽しさというのは、その人の思考や感性、記憶に触れる楽しさだと思う。だから、私は好きな文章があると、同じ文章を繰り返し読む。そんな文章に出会うことは稀だが、見つけたらずっと好きである。


 高等学校で働いていた時、教壇で授業をしていたのだが。あれもまた独り言だったように思う。授業時間は限られているから、生徒一人一人の質問や言葉に答えることはできない。だから、一人から質問されたりしたら、それを全員に対して返す。それは受け答えではなく、特定の相手がいないということは、ようするに独り言である。授業自体も、生徒全体に話す。だから、独り言。

 教員を辞める時、卒業式で壇上に上がって話した。今思えば、あれは最も極まった独り言だったように思う。何百人という人間の前で、全員に向かって話す。相手の顔は見えるが、個々に話しかけるわけではない。そんな特殊な状況で、他人に対して耳に残る話をするというのは難しいことだ。私が今こうやって書いている文章は、あの仕事、あの時の経験が根底に生きている。


 誰に対してというわけではなく、居る人、読む人全員に向けて語る。その技術は「会話」ではなく、「演説」というのではないだろうか。一方的であるが、押し付けるわけではない。相手に対して語り掛け、置いておくだけの言葉。届くかどうかは分からない。しかし、誰かに何かが届けばいいなと思う。

 もう自分が教壇で独り言を話す機会はないのかもしれない。それは少し寂しいような気もする。だが、こうやって独り言を話す場所があるのが、少しだけ嬉しくも思う。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

記事を検索