知らない場所を散策するのが好きで、それがこうじて写真を撮るのが趣味になった。見たことも無い景色、不意に映る、心に焼き付くような情景。それらをスマフォのシャッターに捉え、記憶と共に持って帰る。時々アルバムを見返すのが楽しい。
昔の携帯電話には写真なんていう洒落た機能はついていなかったのだが、現代の技術の進歩は恐ろしい。想像もしていなかったことが現実に起こっている。今では、スマートフォンの無い生活など考えられない。地図アプリを片手に、住所を見ながら何処へでも行く。そのおかげで、最近では道に迷うことが無くなった。電車の乗り換えも乗り換えアプリで検索。数年間の利用により、今ではアプリが無くても知っている場所へは何も見ずとも行ける。技術の進歩が、私の能力を拡張しているようである。
しかし、最近では別の意味で心に残る情景も増えている。仕事柄色々な町へ行くが、どこも酷い有様だ。商店街。シャッターだらけですべての店舗がテナント募集の看板付きなんて珍しくない。これが地獄か、と見まごうような光景である。仕事の昼休みにその土地の食べ物屋を探してふらりと入るのも趣味なのだが、最近ではコンビニとチェーン店ばかり。そのせいで飽きてきて、昼ごはんが楽しくない。なんとも悲しい現実だ。
いまだに続く流行り病は、町の食べ物屋の息の根を軒並み止めてしまったのだろうか。刻まれた爪痕の深さに、静かな恐怖を感じている。ここで働いていた人々は、今、どうしているのだろうか。……明るい想像など、できようはずもない。だって、ある日突然仕事がなくなり、次の仕事を探す大変さ。徐々に資金繰りが立ちいかなくなり、金策に奔走する苦しみ。それを、私は知っているから。私にできることは、この方々の無事と生活の安定を祈ることだけである。まあ、私もどちらかといえば。祈られる側なんだけれど。
こういった社会状態では、創作物というのは不況になる。なにせ、虚業だから。しかも、お金を稼いでくる人たちが、稼いだお金で買うコンテンツである。世の中に余裕が無ければ、娯楽を買う余裕もない。買ったところで仕事に忙しくて読んだり遊んだりする時間も無いかもしれない。だからこそ、肌身離さず持ち歩くスマフォ。それで遊べるソーシャルゲームが流行った。時間が無い。ならばガチャでプレイ経験を時短する。お金を払えば強くなれる。遊び方を圧縮する。終わったら次のゲーム、次のサービスへ。スマフォという一つのプラットフォームで、娯楽を使い捨てる。そしていよいよソーシャルゲーム自体が使い捨てられそうな時期に来ている。次の娯楽の形はどうなるだろう。興味深い。
閑話休題。創作物の流行と、社会の流れは密接なつながりがある。ような気がしている。何故そう思うのか。拙いながら、自身の思考をなぞり、言語化してみよう。
私はライトノベルと共に歩んできた側面があるので、それで見てみる。ライトノベルという言葉が無かったような時代に流行っていたのは『ロードス島戦記』、『フォーチェンクエスト』。そして『魔術師オーフェン』や『スレイヤーズ』だ。どれもこれも、純(に近い)ファンタジー。これらが流行った背景には、『指輪物語』があるんじゃないかと思っている。今まで日本では知られていなかったファンタジー文化。それが、受け入れやすい形で伝わってきた。それを下地にして、和製ファンタジーが興る。一つはやれば次々に同じだけれど違う作品がたくさん出てくる。そして、それは一つの大きな流れになった。
『ロードス島戦記』自体はTRPGのリプレイ小説という変則的な作品ではあったが、あれもまた大きく装飾が施された創作小説なので含めさせてもらう。
流れとしては、『指輪物語』の影響を受けた『ロードス島戦記』が流行り、その流れで『スレイヤーズ』や『フォーチェンクエスト』が出てきたという感じだろうか。詳しく研究したわけではないので正しくないかもしれないが。だいたいこんな流れのはずである。私も昔は(当時はお金なくて小説は買ってなかった)アニメで『スレイヤーズ』とか『魔術師オーフェン』を楽しく観ていたような気がする。あの頃のライトノベル業界は、勢いがあった。
そこから、次は現代系。『ブギーポップは笑わない』、『灼眼のシャナ』などが出てきた気がする。ファンタジーが下火になり、流行りのファンタジー作品、というのがなかなか出てこなくなった頃。現代日本をファンタジーする、という異色のジャンルが出現した。下地はあくまでも現代社会。だが、起こる事象はファンタジー。その新しさに、人々は熱狂した。純ファンタジーを好む人たちはそれらを毛嫌いしたり、さげすむ人もいたようだが。新しい世代の消費者には、特に受け入れられていた気がする。「小説」と「ライトノベル」。この言葉の呪縛に縛られた人々の確執は、この頃に始まったのではないだろうか。
由緒ある格の高い文学こそ至高という勢力と、革新的な熱を持つ新時代の読み物こそ究極という勢力。……という形容は極端な気もするが。お互いがお互いを忌み嫌っていたのは間違いないと思う。一般人がオタクを蔑むようなもんだ。何処の業界でも、こういったことはよくあるものだ。私としては、どっちも結局文字でしかないし。「小説」も「ライトノベル」も、形容する言葉でしかないと思っているけれど。
この時代はとてもたくさんの物語が生まれた。『ゼロの使い魔』。『とある魔術の禁書目録』。『デュラララ』。『〇〇物語』系……いわゆる西尾維新作品。本当に多種多様。可能性に溢れた時代だった。
そして、あの時代を象徴する作品。突如現れた彗星爆発。それが、『涼宮ハルヒの憂鬱』ある。あれは凄かった。現代日本を舞台としたリアル系かと思いきや。登場人物が宇宙人と未来人と超能力者。姿かたちは普通の人間なのに、ファンタジー要素の全部乗せである。この欲張りハッピーセットのような作品は、角川の第8回スニーカー大賞をかっさらい。大阪難波の大通りには、果ての見えないような涼宮ハルヒののぼりが立ち並ぶことになる。
時代を真芯でとらえた設定。小説構造自体を使った叙述トリック。目新しさの塊だった。私も、一巻は読んで度肝を抜かれたのを覚えている。ただ、ああいった作品は第一巻が一番面白いもので。二巻以降は、延長戦。賞を狙った小説というのは、それ単体で完結しているのが普通なので。涼宮ハルヒもその例に漏れず、賞の為に全力を詰め込まれた作品だったから。二巻以降は、さして新しくない。残酷な話であるが。どれだけ書こうが、第一巻を越えることは不可能に近い。角川渾身のメディアミックス戦略でそれでも長生きしたけれど。最終的に、自然消滅するかのようにひっそりと消えてしまった。
私はあれを、続きに困った作者がもうお金もあるからと延々引き延ばした末に続きを出す話自体が無くなったのではないかと思っていたりするのだが。どうなのだろう。真実は闇の中である。ただ一つ言えることは。週刊少年誌の大御所や、歴史上の人物が異世界でドリフターするような作品のように。長く休止してもライトノベル業界では待ってもらえないということだ。
涼宮ハルヒについては最近、味のしなくなったガムをもう一回味付けするようにジュブナイル系の装丁で復刊された。私も読んでみた。表紙からオタク系要素を抜いて文学っぽい雰囲気にしたものの、中身は何一つ変わってない。丸写しというか、皮だけ変えた完全移植である。感想としては。角川かハルヒの作者さん。お金に困ってるのかなあ。だけだった。
そして現代。純ファンタジーも和製ファンタジーもやりつくした。もう新しい分野が無い。どうしよう。『とある魔術の禁書目録』から発生した「最弱物」というジャンルで、『魔術科高校の劣等生』みたいなのも出てきはしたのだが。時代を作るほどには盛り上がらない。ライトノベル業界は、窮地に立たされていた。ここで台頭してきたのが「小説家になろう」である。賞を取って文庫化、という流れに限界が来た。だから、既に一定のファンがいるであろう作品を、市井から引っ張ってくる。スカウトというか、ヘッドハンティングというか。育てるのではなく、そのまま持ってくる。ある意味、ライトノベルというもの自体が、ここで終わったのかもしれない。ライトノベルと呼ばれた物は、「なろう系」という言葉に呑み込まれていく。武道の奥義が時を経て他流派へ吸収されるように。ライトノベルもなろう系という言葉に、薄まるように消えていった。
なろう系にも色々ある……ように思うが。実際のところ、流行っている物の大枠としては一つしかない。それは、「異世界転生物」である。主人公は現実世界で死んで、ファンタジーに転生する。『ゼロの使い魔』の時代では、召喚だった。今はもう、召喚物は無い。「転生」する。そして、新しく人生を「生き直す」のだ。これは、現代社会を映す鏡である。どういうことかというと――みんな、「人生をやり直したい」のだ。それは言い過ぎか。だが、「やり直したいと思うほどに、順風満帆な人生を空想している。夢見ている」。それすなわち、「生きるのが苦しい」のだ。
今が苦しいから、転生して楽しく生きる物語に感情移入する。召喚されて世界の危機に立ち向かう、では駄目だ。「死んで転生した自分」というのを、物語に投影する。転生という属性こそが、現代人にとっての癒しなのである。今の世の中は、創作物にすら生きなおしを求めるほどに病んでいる。
転生系も最近はネタ切れか、特殊な職業の人間が特定の役職に転生した、だとかまで派生した。薬師とか、清掃員とか。色々あったと思う。そして最近は少しずつ、純ファンタジーへの回帰も見られる。『ゴブリンスレイヤー』なんかがそうだ。さらには、「ファンタジーの最弱系」のような作品も現れた。盾が武器だとか、回復魔法だけど最強だとか。単純な勇者物じゃなく、勇者っぽくない職業のキャラが勇者みたいなことをする作品。だが、こういう作品が出てくると、いよいよそのジャンルも掘りつくっしたというか。枯渇の気配が出てきていると私は思ってしまう。次の鉱脈を、出版社の方々は探しているのではないだろうか。
商売において、売れたら全て正しい。だから、どんな作品であろうと、そんなものは邪道だ、なんて思ったりはしない。どんな作品でも、あるがままに受け入れられるのが健全な創作環境というものだと思っている。
しかし。社会状態は回復の兆しが見えず。そして、転生物もネタの枯渇が見て取れるほどに極まってきた。今、ライトノベルと呼ばれるジャンルの小説は。これからどんな作品が流行るのか。社会と同様に、先が見えない。