まどか☆マギカ考
魔法少女物に革命を起こした『魔法少女まどか☆マギカ』。今回は、その物語構造を分解することで理解を深めていく。ネタバレなので見る予定がある人は読まない方がいいだろう。
モチベーションの円環の理
この物語の開始地点は、巴マミの魔法少女化から始まる。その変身理由は「延命」。死なないためには契約するしか無かった。これは外的モチベーションであり、本人には別に魔法少女になりたいという意思は無かった。「ならなければ死んでいた」。だからなった。
そこから鹿目まどかと暁美ほむらが魔法少女となる。鹿目まどかはたしか、巴マミに助けられてなっていたように記憶している。魔法少女になった理由が「誰かの役に立ちたい」だった気がするので、一応、内的モチベーションでの魔法少女化ではあるかもしれない。巴マミの行動に触発されたというのは少なからずあるだろうが、鹿目まどか自体には自発的に魔法少女になるという意思はたしかにあった。そんな鹿目まどかに助けられ、暁美ほむらも魔法少女化する。そのモチベーションは、最初は鹿目まどかと似通った部分があったのかもしれない。
しかし、暁美ほむらの戦う理由はある地点において変質する。鹿目まどかからの託された思いを遂げるために戦う。戦う理由が自分のためではなく、「鹿目まどかを死なせない」という方向に変わった。彼女を生かすためならば手段を選ばなくなり、その為ならば巴マミや美樹さやかが犠牲になっても良いとすら思っているような節がある。外的モチベーションに憑りつかれた暁美ほむらは、まどか☆マギカの世界における舞台装置として。歯車の如く同じ一ヶ月を繰り返す。
この物語の主役たちには、鹿目まどか以外に内的モチベーションを持つ者がいない。巴マミはやむにやまれず、美樹さやかは男友だちの為に。佐倉杏子はくわしい理由は分からないが、たぶん巴マミと似た理由ではないだろうかとアニメ中盤で描写されていた気がする。そして、外的モチベーションは自信を動かす意欲にはならない。巴マミたちは「人助けをしている」という自分に酔うことで戦い続ける理由を錯覚する。幼いヒロイズムに陶酔することで、「何のために戦うのか」「いつまで戦うのか」「自分たちはいずれどうなるのか」という思考から無意識的に目をそらす。端的に言えば、正義の味方的活動に現実逃避しているのだ。
だが、そんな外的モチベーションは長続きしないし、簡単に崩壊する。巴マミは魔女の真実を知って自身の未来に絶望し(アニメだとそれでも魔女化はしていなかったので、彼女の自我自体はとんでもなく強固である)、美樹さやかは男友達が別の女友達とくっついてしまって自身の行いの意味と価値を見失い。佐倉杏子も、どうやら破滅願望があったらしく、ヒロイズムに酔って美樹さやかと心中した。いや、家族を失ってさらに新しく出来た友だちまで失って、自暴自棄になったのかもしれない。彼女たちは自身を動かしていた外的モチベーションが崩壊した時、失った自身の未来と自身の行く末に絶望して魔女となるのだ。内的モチベーションを持たない人間がことごとく魔女化していく。難しい構造を見事に回しているこの作品の物語構造は、じつに見事である。
鹿目まどかも本来は魔女化しない魔法少女だったが、暁美ほむらがループすることにより魔女化してしまう運命を背負う。これにより、「鹿目まどかを死なせない」から「鹿目まどかを魔法少女にしない」という目的へモチベーションがシフトする。しかし、暁美ほむらの決意による行動自体が、鹿目まどかの運命をどんどん悪い方向へ転がしていく。この仕組みも見事である。暁美ほむらのせいで、鹿目まどかは魔女化した。しかし、そうさせたのは紛れもなく一番最初の鹿目まどかなのだ。まるでウロボロスの輪のように、負の運命は紡がれていく。円環の理とは洒落た言い回しである。このネーミングは巴マミが痛いということを印象付けるためだけの存在ではない。この作品全体を象徴するキーワードなのだ。
最後、鹿目まどかは魔女化の輪廻を脱するが。以前何処かで、これは仏教における解脱であるという論を読んだとこがある。悟りを開いて魔女とは別の存在に変化したのだと。釈迦となった仏陀のような話なのだろうか。無限に続く暁美ほむらの時間遡行が産んだ、鹿目まどかが神となる結末。たしかに、これは救済の物語なのかもしれない。