怖怪館 2021/11/30 19:08

小依子

今月は色々あって忙しく、作業が全然捗りませんでした。
のろのろとイベントを一つ、二つ作ったぐらいです。申し訳ございません。
深夜の制作は原則続けていますが、
正直本当にきついときは睡魔がシャレにならないので、やれていません。

載せられるものも特にありませんので、供養がてら昔書いた小説を載せます。
小説というか、作ろうとしたゲームのプロットの冒頭部分を小説化したものだったと思います。お暇な方は、読んでみて下さい。
※R-15相当。ヒロインの尿失禁あり。
 地味に長い上、暗い描写も多いので、ご注意下さい。

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 霧崎小依子(きりさきさいこ)は後悔していた。
先ほど友人達と立ち寄った喫茶店で、アイスコーヒーを二杯も飲んでおきながら、何故、店を出る前に用を足しておかなかったのか。店先で友人達と別れたときには、殆ど感じなかった尿意が、ものの数分後には、ふつふつと湧き上がってきていた。
 小依子は市立高校に通う二年生で、今日は一学期の終業式であった。午前の内に式が終わると、小依子は仲の良い友人達と夏服のブラウスのまま、カラオケに繰り出した。ひとしきり歌って、カラオケ店を出る頃には、辺り一帯がオレンジ色に染まっていた。それから、小依子達は「一学期の締めに」と喫茶店でしばらく雑談を楽しんだ後、解散、それぞれの帰路についたのだった。
 ……さっきの喫茶店に戻って便所を借りれば、余裕で間に合うだろう。しかし、そんなみっともない真似はしたくない。小依子は一瞬悩んだが、道中にコンビニがあったのを思い出して、そこで便所を借りることに決めた。小依子は足早に歩きながら、軒を連ねる飲食店を、横目で恨めしげに睨んだ。彼女が今歩いているのは国道沿いである。デパートのレストラン街さながら、飲食店や喫茶店がずらりと並んでいるが、コンビニやスーパーは見当たらない。食事をするわけでもないのに、便所だけ借りたいとは言えない。その点、コンビニならば、商品の一つでも買えば失礼にならないだろう。妙な観念に囚われて、小依子は自ら選択の余地を削いでしまった。
 一〇分ほど歩いて、目的のコンビニに到着した小依子だったが、便所のドアに貼られた『使用禁止』の紙を見て、愕然とすると同時に尿意が限界近くまで来ていることを悟った。
「あのっ、お手洗いはお借りできないんでしょうか?」
小依子は駄目元でレジに立つ店員に訊いたが、
「ちょっと今、故障中でして。すみません」
案の定、断られてしまう。よりによって、このタイミングで故障とは……。小依子は自分の間の悪さを嘆かずにはいられなかった。頼みの綱が切れたことにより、小依子の焦燥感は否応無しに増していった。心の内で、まだ大丈夫だと何度繰り返しても、未だ湧き上がってくる尿意は誤魔化せなかった。こ、これ、本当にもう限界っ……。小依子は顔面蒼白になって、脂汗を流した。人目がなければ、泣き出してしまいそうだった。
 激しい尿意と闘いながら、小依子は何とか自宅のある住宅街までやってきた。あともう少しの我慢だ。しかし、小依子は確信していた。絶対に家までもたない……。小依子は下腹部に痛みすら感じていた。こうなったら、どこかの民家に便所を借りるしか手はない。こんなことになるなら、初めに喫茶店に戻ればよかった。飲食店で便所を借りればよかった。その方が民家で便所を借りるより、遥かにマシだった。
 小依子は覚悟を決めて、一軒の民家に近付くと、震える指をインターホンに伸ばした。
――公園。突然、そんな単語が小依子の脳裏をよぎり、彼女の手を止めた。
「公園……」
思わず、小依子は呟いた。何故、忘れていたのだろう。彼女は民家に背を向けるなり、駆け出していた。
 二、三分とかからずに、小依子の前に小さな公園が姿を現した。住宅街の端にあり、殆ど利用されないためか、夏の日差しで急激に伸びた雑草は全く手入れされていない。遊具もブランコ、滑り台、砂場のみで小学校低学年にも飽きられそうな造りである。しかし、今の小依子には、そんなことはどうでもよかった。
「あった……!」
公園内に設置された公衆便所が小依子の目に留まる。彼女は幼い頃に、この公園で何度か遊んだことがあり、その際、一度だけこの便所を使用した。当時、幼心に感じた印象はすこぶる悪かったが、十年近いときを経た今も変わらず、むしろ悪化しているように見えた。今どき男女兼用で、便器は大小一つずつのみ。長年、雨風に曝され続けたコンクリート壁は所々、変色したり、亀裂が入ったりしている。屋内と屋外を隔てる扉はなく、建物内部も相応に汚れ、傷んでいた。嘘でしょ、電気も点かないの!? 公衆便所に駆け寄った小依子は電灯のスイッチを探して回るが、どこにも見当たらない。とうに夕日も沈み、辺りはかなり暗くなっていたので、感応式というわけでもなさそうだ。臭いし、暗いし、汚いし、最悪……。建物の入口から外灯の光が漏れてくるので、真っ暗というわけではなかったが、薄闇に浮かぶ和式便器を見て、小依子はこんな場所で用を足そうとする自分が惨めに思えた。ふいに、小依子の後ろから物音がした。それは人間の足音にも聞こえた。
何の音だろう? 小依子が振り返ろうとしたその刹那、彼女は背後に立つ何者かによって、首を絞められていた。
「ぁぐっ……あっが」
何が起こったのか全く理解できず、小依子は両手を使って、自分の首に巻きついた二つの手を引き剥がそうとした。しかし、何者かの手は小依子のそれよりも一回り大きく、彼女の首をがっちりと包み込み、びくともしなかった。
「うがっ! がっが……」
絞め上げられ、小依子の身体がわずかに宙に浮く。小依子は、がむしゃらに足をばたつかせ、抵抗を試みるが、何者かは全く堪えていないようだった。
「あ……うぁ……」
だんだんと小依子の抵抗が弱まっていく。やがて、必死に動かしていた両手足がだらりと垂れ、股間から黄濁した液体――小便が流れ出した。小便は純白の下着を淡黄色に染め上げると、スカートや内ももにまで及んだ。衣服が吸いきれなかった分は、タイル張りの床に落ち、跳ね、飛び散り、尿溜まりを形成していった。
「あー……」
小依子は力なく呻くと、口から泡を吹いて、気絶した。小依子が気絶するのとほぼ同時だった。小依子の首を絞めるのに集中していた何者かは、彼女の失禁に気付いていなかったらしく、自分の足元で飛び散る小便を見つけると、驚いて小依子から手を離してしまった。気を失っている小依子が綺麗に着地できるはずもなかった。彼女の身体は膝から落ちると、大の字の形で俯せに倒れ込み、ゴッという鈍い音を立てて、便器の水たまりに顔から突っ込んだ。何者かは慌てて、羽交い絞めの要領で小依子を引き起こした。小依子の顔からはぼたぼたと水が落ち、鼻からはつーっと一筋、血が流れ出した。髪やブラウスには、泥やら埃やら、かなりの汚れが付着していた。スカートの前面は彼女自身の小便で濡れており、全身から何ともいえない臭気を放っていた。
 何者かは顔をしかめると、気絶した小依子を公衆便所から引きずり出した。

 乃村正彰(のむらまさあき)は後悔していた。何故、大学を卒業する前に、もっと本気で就職活動に取り組まなかったのか。過去に正彰が通っていたのは、偏差値があまり高くない私立の四年制大学で、生徒の大半は勉学よりも遊びに忙しいようだった。もちろん、真面目な生徒もそれなりにいて、正彰もその一人だった。彼は一、二年の時点で、卒業するために必要な単位の殆どを取得し終えた。三年のときには、学費の一部が免除される特待生に選ばれ、教授陣からの心証も良かった。そして、四年生になった彼は一年間の大部分を費やし、力作と呼べる卒業論文を完成させた。この論文は見事、学科ごとのコンテストで一位に輝いた。正彰と親しかった友人達は、正彰の栄誉を大いに称えた。それもそのはず、彼らは互いに切磋琢磨して論文の執筆に取り組んでいたのである。皆、正彰の受賞を心から喜んでいた。
 論文の発表が終わり、卒業が間近に控えていた。この時期にもなると、内定を獲得して、就職活動を終えている生徒が同学年の過半数を超えていた。正彰が内心、見下していた不良連中でさえも、その殆どがどこかしらの企業に内定済みであった。どんな馬鹿でも働き口はあるもんだ。正彰は鼻で笑ったが、少なからず動揺していた。彼はずっと就職活動をなおざりにしていた。一度、友人と合同企業説明会に顔を出したが、乗り気になれず、すぐに帰ってしまった。
 正彰は卒業論文に打ち込むという大義名分を得て、就職活動から目を背けた。友人達も就職活動を嫌い、彼に同調してくれたのが追い風となった。こうして、彼らの間に、論文執筆に全てをかける! という一体感が生まれた。考えてみれば――。正彰は当時を振り返る。あんな微妙な大学の、しかも、学科内での一位にどれほどの価値があったのだろう。事実、コンテストの数日後には、正彰と友人達の間でさえ、全く話題に上らなくなっていた。
 卒業を目前にした彼らの、専らの話題は就職活動についてだった。しかし、上辺で語るだけで、誰も本気で活動する者はいなかった。彼らは一年かけて、論文を書き上げたことで、完全にやる気を失っていた。結局、正彰は内定を得られないまま、大学を卒業した。友人達の中には、大学院に進んだ者もいれば、知り合いのコネで中小企業に入社した者もいたが、多くは正彰と同じように当てもないまま、卒業した。
 それから、数年後。正彰は定職に就かず、実家で暮らしながら、近所のコンビニでアルバイトとして働いていた。大学時代の友人達と直接会うことはなくなっていたが、SNSを通じて、彼らの近況は把握していた。気付けば、自分以外の全員が何らかの企業や店舗の正社員になっていた。正彰は動揺を隠せなかった。一体、どこで間違ったのか。いや、本当は分かっている。あんな三流大学の卒業論文など適当にこなして、就職活動に重点を置くべきだったのだ。今にして思えば、あの不良連中は正しかった。遊んで回ってはいたが、ほどほどに手を抜きつつ、守るべき最低のラインは守っていた。すなわち、処世術を心得ていたのだ。友人達も何だかんだと軌道修正に成功している。何故、自分だけが未だにフリーターなのか。正彰は自問自答したが、答えはとっくに出ていた。それは、行動力と危機感のなさである。彼はこれまでの人生を全て、誰かの指示や命令、その場の雰囲気や流れに従って生きてきた。規則や時間は厳守するが、やらなくてもいいことはやらない。端的に、彼の性格を言い表すなら、『真面目だが、面倒臭がり』だろう。加えて、実家暮らしの正彰は衣食住に困ることはなかった。両親は彼に甘く、財政にも余裕があった。正彰はどうしても、本気で就職活動に励む気が起きなかったのである。
 あっという間に時が経ち、正彰は二八歳になった。この歳にもなると、さすがに両親も黙っていられないようで、正彰にちくちくと小言を言うようになった。
 正彰には兄妹がいる。兄は正彰より二つ年上で、既に結婚して、子供も二人いる。数年前にマイホームも手に入れ、幸せの絶頂であった。兄は時々、妻を連れて実家に遊びに来る。兄は正彰に会うと、決まって「焦らずに頑張れ」と優しく声をかけたが、正彰にはそれが却ってプレッシャーだった。妹は今年、晴れて名門高校に入学した。妹は賢かったが、意地悪な性格で、不機嫌なときはいつも正彰を罵った。名門には程遠くとも、正彰も公立高校出身だったのだが、妹からすれば、彼は『卑下すべき男』だった。妹は正彰を反面教師とし、馬鹿にしていた。バイト先では、人の良さに付け込まれ、昇給もろくにされないまま、面倒な役目を押し付けられた。新入りの不真面目な学生とさして変わらぬ給料で、責任と仕事だけがどんどん増えていった。ある日、大きなミスをしてしまった正彰は、上司にこっぴどく叱られた。ふざけるなと、彼はそのとき思った。普段、滅多にミスしない自分が、どうしてここまで怒られないといけないのか。小さいミスならいいのか? 学生バイトの中には、ミスを連発する者もいたが、いつも彼がフォローという名の尻拭いをさせられていた。
 正彰は長年勤めていたアルバイトを辞めた。金は入ってこなくなったが、後悔の念は微塵もなかった。ここらが潮時――彼はそう思った。正彰は休養期間と称して、辞めてからの数ヶ月を、何をするでもなくだらだらと過ごした。それを過ぎると週に一、二回、職業安定所に赴くようになったが、いつも「ろくな仕事がない」と言って、すぐに帰ってきた。そんな正彰を見て、妹は「いつ、休養期間終わるの?」と彼を冷笑した。
 自宅にいても、非難や皮肉、小言が飛んできて気分が悪くなるだけだ。正彰は就職活動と偽り、頻繁に外出するようになった。彼は普通車免許を持っていたが、全く運転できないペーパードライバーだったので、移動手段は自転車を用いた。となると、自然と行動範囲は狭まってくる。近所のデパートからスタートして、道なりに書店、家電量販店、ゲームセンター、レンタルビデオ店と回るのが、半ば日課と化していた。ほどなくして、正彰はこのルーチンワークに飽きた。それでも、自宅には居場所がない。彼は仕方なく、偽りの就職活動を続けた。
 ある日、正彰は書店前で見覚えのある少女を見かけた。あれは確か……そう、霧崎小依子だ。正彰は自分でも意外なほど、その名前を簡単に思い出すことができた。以前、正彰の勤めるコンビニに小依子が来店した。その際、彼女はポイントカードを作成したのだが、その対応を行ったのが正彰だった。その過程で、正彰は小依子の名前、年齢、住所等を知ったのだった。小依子という変わった名前と、何より彼女の容姿が正彰の印象に強く残った。成人前とは思えないほどグラマーで高身長。目は鋭く切れ長、鼻はすらっと高く、美少女というより美女という顔立ちだが、化粧っ気は薄い。艶やかな黒髪は肩甲骨の辺りまで伸びていて、さらさらしている。オタク受けしそうな娘だな。カードの説明をしながら、正彰は冷静に分析していたが――。こんな娘と付き合えたら、凄い優越感だろうな。正彰は接客スマイルを湛えたまま、そんなことを考えていた。正彰は生まれてこの方、女性と恋愛や性交をしたことがなかった。元々、女性と接するのが得意な方ではなかった上、自分の意思や主張を表に出すことを苦手としていた。そんな正彰が異性に好意を打ち明けたり、遊びに誘ったりなどできるはずもなかった。
 そういうのって、恥ずかしいし、面倒臭いんだよ。正彰は書店に入っていく小依子を凝視する。仮に告白したとしても、フラれたら? 相手が普段から会う人間だったら、次から、どんな顔して接すればいいんだ。それだけならまだいいが、相手が周囲に言いふらすかもしれない。「あいつ、あんな顔で私に告ってきたのよ」てな感じで……。小依子の姿が店の中に消えても、正彰は店の入口から目を離さない。よし、告白が成功したとしよう。最初の内は浮かれると思う。それは間違いない。だけど、だんだん面倒になってくるんだ。そもそも、俺は外出があまり好きではないし、金にはうるさい方だ。そんな性格で、休日の度にデートしたり、食事を奢ったり、誕生日や記念日にはプレゼントを買ってやったり――考えているだけで、頭が痛くなってきた。恋人がいるという優越感だけでは割に合わない。色々考えている内に、正彰はあることに気付いた。そうか、俺は恋愛をしたいんじゃない。彼女持ちという地位が欲しいだけなんだ。さらに言えば、デートやら何やらのプロセスは全部すっ飛ばして、さっさとセックスだけしたいんだ。しばらくして、小依子が書店を出てきた。彼女は正彰には気付かず、歩き始めた。正彰は何かに衝き動かされるように、彼女の後を追った。
 その日から、正彰は小依子をストーキングするようになった。接客した際、彼女の生徒手帳を見ていたたので、どこの学校に通っているかは知っていた。正彰はいつも放課後の時間を狙って、学校の前で待ち伏せした。何故、こんなことを始めたのか。正彰にも、理由は分からない。ただの暇潰しかもしれない。ただ、この行為を続けた先に何が待っているのか、それだけははっきりと分かった。きっといつか、俺は彼女を襲う。タイミングさえ合えば、いつだって……。
 正彰は女性を力ずくで強○したり、昏睡している女性の身体を弄んだりすることに興奮を覚える人間だった。無論、それはアダルトビデオやフィクションにおける嗜好の話だが、小依子のような美少女を好き勝手に弄くり倒すのを想像すると、股間が痛くなった。物騒な方向に進んでるぞ。正彰は自分をたしなめたが、ストーキングをやめようとはしなかった。
 明確な期日や目標がなかったため、ストーキングで失敗することはなかった。少しでも、小依子に不審な点があったときは、すぐに中止した。正彰は辛抱強く、絶好の機会が訪れるのを待った。俺は一体、何をやってるんだ? 時々、正彰の頭に疑問が浮かんだ。しかし、自宅では虐げられ、仕事の当てはなく、三十路を前に未だ童貞。将来を考えると、発狂しそうなこれらの事実が、彼から物事を正しく見極める能力を奪い、何でもいい、何か行動を起こさなければ! という気持ちにさせていた。
 ある日、正彰が小依子の学校の門前に行くと、いつもと様子が違っていた。放課後の時間になっても、生徒が一人も出てこないのである。彼は時間割まで完全に把握しているわけではないので、今までも空振りに終わることは何度もあったが、生徒が誰一人出てこないということはなかった。ややあって、正彰は気付いた。今日は一学期の終業式だったのだ。働いていないと時間感覚がなくなるというが、その通りらしい。彼は頭を掻くと、校門を後にした。
 小依子が見つからないなら、やることはない。仕方ないので、正彰は自宅に帰ろうとしたが、驚いたことに帰り道の途中、思わぬ場所に彼女の姿を見つけた。彼女は何やら辛そうな顔をして、人気のない寂れた公園に入っていった。これは……。正彰の心臓がドクンと跳ねる。……来たんじゃないか? 思わず、息が荒くなる。……絶好の機会。

 頭と首筋にずきずきと痛みが走った。
「……うっ」
閉じていた目蓋を開き、しなだれた頭を起こす。ぼやけていた視界が、急速に焦点を結んでいく。小依子は覚醒した。
 小依子は見知らぬ部屋にいた。どうやら、どこかの廃墟の一室らしい。天井の電灯は機能していなかったが、彼女の近くに電池式のランタンが置いてあり、薄暗いながら、部屋全体を把握できた。四方をコンクリートの壁に囲まれた、がらんどうな部屋である。広さは彼女の高校の教室ぐらいありそうだった。結構な数の窓もあったが、今の彼女は外を確認することができなかった。
「え? えっ!?」
部屋の中央、小依子はぼろいパイプ椅子に座らされ、荒縄で後ろ手に縛られていた。両足はパイプ椅子の脚に、これまた荒縄で括り付けられていた。かなり頑丈に縛られているようで、小依子は文字通り手も足も出なかった。
 私、誘拐された? 小依子の顔から血の気が引いていく。心臓が高鳴り、全身が震える。極度の緊張からか、尿意が急激に高まってきた。どっ、どうしよう、お、おしっこ行きたくなってきたっ……。小依子は半べそをかきながら、身をよじらせた。
「お、落ち着け、落ち着け……」
小依子は自分に言い聞かせる。次第に動悸が静まり、尿意の波も去っていった。彼女は何度か深呼吸すると、現況の把握に努めた。えっと、まずは――誘拐されたとして、どれぐらいの時間が経った? 外は真っ暗だけど……。縛られてるから、腕時計は見れない。スカートのポケットに携帯電話が――あれ、重みがない。嘘、もしかして、取られた!? やっぱり、誘拐――。小依子はその単語を打ち消すように、ぶんぶん首を振った。
 ここはどこなんだろう? 見た感じ、廃ビルっぽいけど。壁の落書きも凄いし、窓も殆ど割れてる。それにしても、蒸し暑い所だな……。汗が止まらないし、服も肌に張り付いて気持ち悪い。なのに、パンツだけは冷たくて……あ、私、漏らしたんだ。だから、パンツが濡れてるんだ。小依子は顔から火が出る思いだった。まさか、高校生にもなって、粗相するとは……。で、でも、不可抗力だったし! とりあえず、スカートは大分乾いてるみたい。パンツは生乾きだ……。不快に感じる彼女だったが、替えの下着があるわけでもないし、誰かが近くにいる可能性がある以上、下着なしではいられない。そもそも、縛られている現状、着替えなどできないのだ。
「どうしよ、これから……」
誰にともなく、呟く。せめて、窓の外が見れたら……。小依子は身体を揺らしてみたが、パイプ椅子に変化はなかった。動かない……いや、諦めたら駄目だ。今度は思い切り揺らしてみる。すると、
「きゃあああ!」
身体を強く揺らし過ぎたせいで、小依子はパイプ椅子もろとも後ろにひっくり返った。後頭部がコンクリートの床に打ち付けられる。彼女は激しい痛みを感じるとともに、視界に火花が散ったような気がした。
 暗い天井をぼんやりと見つめていると、小依子の両目から大粒の涙が流れ出した。あんな公園に行かなきゃよかった。コンビニのトイレが使えていれば、喫茶店に戻っていれば、まっすぐ家に帰っていれば……。後悔の念がどっと溢れてくる。明日から、楽しい夏休みのはずだったのに。ミカちゃんと一緒にモールで買い物する約束したのに……。堰が切れたように、小依子は大きな声を上げて、泣き出した。近くに自分をさらった犯人がいるかもしれなかったが、そんなこと、どうでもよかった。
 五、六分ほどしたころ、小依子は泣き止み、無言で天井を眺めていた。顔には生気がなく、口は呆けたように開いたままになっている。
「…………」
グウゥ。ふいに、腹の虫が鳴いた。小依子は唇を舌で濡らした。お腹空いたなあ。本当なら、もうご飯食べ終わってる時間かな。母さんと父さん、私のこと、警察に連絡してたりして……。
「……?」
小依子は首を捻ると、辺りを見回した。それから、耳をすませる。割れた窓から、微かに虫の音が聞こえてくる。……おかしい。
「静か過ぎる」
思わず、声に出していた。それだけではない。小依子がこの部屋に連れてこられてから、どれぐらい時間が経ったか分からないが、一向にこの部屋に入ってくる者がいないのだ。
 更に時間が経ち――こんな状況でリラックスできるはずないが、小依子はかなり平静を取り戻しつつあった。慌てふためいても、どうにもならないのだ。大体、自分がどういう状況に置かれているのか分からないのである。指針がなければ、行動の起こしようもない。小依子は成り行きに任せることにした。色々考えても、悪い想像しかできなかった。少なくとも、これが良い状況のはずはない。友人の悪戯? テレビのドッキリ? そんなオチなら今からでも歓迎だが、それはなさそうだ。となると、やはり誘拐か……あるいは。
 しばらく無心で天井を眺めていた小依子だったが、再び尿意を催してきた。このまま、誰も来なかったら、また漏らしてしまう……。がん、がん、がん。突然、そんな音が静寂を破った。がん、がん、がん、がん。小依子の中で、急速に緊張が高まっていく。彼女は音のした方に顔を向けた。それは、廊下に面して二箇所あるドアの方向――つまり、部屋の外から聞こえてきていた。がん、がん、がん。察するに、階段を上ってくる音だろう。おそらく、人数は一人。規則的ではあるが、テンポは速く、かなり急いでいるのが分かる。小依子は全身が震えて、止まらなくなった。もしかして、捜索に来た警察かも! 一瞬、自分に都合の良い想像を浮かべたが、それはすぐに打ち消された。足音が部屋の前で止まると、間髪置かずに鋼鉄製のドアが、轟音を立てて開けられた。見たことない男がずかずかと小依子の元に駆け寄ってきて、椅子ごと倒れている小依子の横にしゃがんだ。
「いやああああっ!」
彼のあまりの勢いに、小依子は思わず悲鳴を上げていた。男は一瞬ひるんだが、弾かれたように彼女の口を押さえた。
「あぐんうううううう!」
口を両手で覆われても、小依子の悲鳴は止まらなかった。男は自らの口元で人差し指を立てながら、
「しーっ! 静かにっ!」
「ううううう!」
埒が明かないと思ったか、男は小依子の頬を張った。パアンと小気味良い音が響いて、彼女は静かになった。しょわあああ。小依子は恐怖のあまり、失禁した。座った状態で仰向けに倒れていたため、小便がへその辺りまで流れてきて、スカートはもちろん、ブラウスの裾まで濡らした。乾きかけの下着は再び、びしょびしょになった。男は気にも止めない様子で、小依子を縛っている荒縄に手を伸ばした。
「今から縄を解くけど、暴れるなよ」
男はそう言うと、小依子の顔をじっと見た。彼女の返答を待っているようだった。小依子は半ば放心状態でこくりと頷いた。
 荒縄による拘束は、なかなか解けなかった。特に道具を用意していなかったらしい男は、素手での作業に苦戦し、全てほどき終えるまでにかなりの時間を要した。おかげで、拘束から開放されたときには、小依子は大分落ち着いていた。拘束が解けると同時に、逃げ出そうかとも考えたが、迂闊な行動は避けることにした。
 小依子と男はパイプ椅子を挟んで、向かい合った。そのとき、小依子はまともに男を観察することができた。男は黒縁の大きな眼鏡とポロシャツを見に着けていて、一見すると大学生ぐらいに見える。小依子よりも背が低く、顔も童顔なので、実際の年齢は分からないが、少なくとも三〇はいっていないだろう。
「逃げていいよ」
予想だにしなかった言葉が、男の口から発せられた。小依子はぽかんとして、
「え?」
男はドアから一番遠い窓まで歩いていった。小依子は少し迷ったが、男の後に続いた。
「……あの」
小依子がためらいがちに口を開くと、男は彼女に背を向けたまま、
「ごめん」
ぼそりと言ったかと思うと、突然、小依子に向き直って、土下座した。
「ごめん! ごめんっ! とんでもないことをしてしまった!」
男は地面に顔を押し付けながら、一気にまくしたてた。小依子は唖然としたが、どうやら、自分に対する謝罪の言葉らしいと分かると、急に怒りが込み上げてきた。
「ふ、ふざけないで下さい! 人を誘拐しといて、謝って済むと思ってるんですか!? 私がどれだけ怖い思いをしたと――」
「バチが当たったんだ! きっとそうだ!」
男は小依子の怒鳴り声を凌駕するボリュームで喚いた。
「何、わけの分からないことを……」
「ここの噂は聞いてたけど、まさか本当だとは思わなかった……。あんな馬鹿げた噂、真に受ける奴がいるかよ!」
「噂って、何のことですか?」
不明瞭な発言を繰り返す男に、小依子は少し怖くなってきた。突然、自分に襲いかかってくるのではないか? そんな光景が頭に浮かんで、無意識に後退りしていた。
「悪霊だよ! 悪霊!」
男は猛烈な勢いで顔を上げた。
「このビルに悪霊が出て、人を殺すって噂があるんだよ! いや、噂じゃない! 実際にいるんだよ! もう、一階で……殺されてるんだよ、二人!」
……何の冗談だろう。小依子は棒立ちで立ち尽くしていた。いや、この男が嘘をついているようには見えない。では、今の話は本当か? 悪霊……とても、信じられない。

未完

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