ニャーシャカ 2021/04/24 12:00

【堕鬼の夢】 発売記念SS「鶺鴒鳴」公開!



皆さまこんにちわ🌸

先日追加されました「堕鬼の夢 特別トラック」はお聞きいただけましたでしょうか?

また、たくさんのレビューを頂き誠にありがとうございます!
全てありがたく拝見しております!🙏


本日は、シナリオ担当真琴しぐれによる描きおろしSSをお届けに参りました!

幼い頃の魄と魁の物語をどうぞお楽しみくださいませ…✨


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「鶺鴒鳴」




 くるくると、目まぐるしく変わるもの。
 四季の移ろい、夜空の星。梅雨の晴れ間、日向の薄氷。
 それに、隣にいる彼女の表情。
 どれもこれも儚くて、少し目を離しただけで容易く見逃してしまう。下手をすれば、二度と同じものは見られないかもしれない。
 鬼の刻む時間に慣れ過ぎて、人の短さを忘れてしまうこともあった。
 だからこそ一時も一刻も、凡てが愛しく、掛け替えのないものに思えるのだ。……なんて、もう何度実感したか分からないが。

「魄さんって、最初から人間のことが好きだったんですか」
「なんだ、突然」
「なんとなく気になって。そういえば、聞いたことなかったなって」

 昼下がりの、うららかな日差しのなかで。隣に立つ彼女が、ぽつりと零した。
 さわさわ、と、風に揺られた庭の木々が囁きを奏でる。
 掃き掃除をする俺と、洗濯を干す彼女。いつもと変わらない、幾度となく繰り返した風景。鬼と比べると、呆れるくらいに平凡で、穏やかで、脆くて弱々しい。
 こういったものの積み重ねが〝日常〟であり〝人々の営み〟なのだろう。
 これは先代の住職が教えてくれた感覚だ。けれど、あの人は死んでしまったから、二度と味わえないと思っていたが……。

 ぱん、ぱん。
 皺を伸ばすように着物を干す彼女は、両の瞳をきらきらと輝かせながら俺を見遣る。直視して問い質さないところが、なんともこいつらしいと思う。
 浅からぬ関係にはなったが、こいつは未だにあまり己の意見を押し通そうとはしてこない。
 勿論、俺を全面的に肯定するだとか、そういうことではない。当たり前だが自我もあれば意思もあるので、何か俺が間違ったことをすればきちんと注意をしてくれる。照れたり恥ずかしがったりもするし、頬を膨らませてむくれることだってある。
 けれど、俺に何かを強請るのが、ひどく不得手なのだ。
 今まで〝みんなのお姉ちゃん〟として我慢し続けていたから、やり方が分からないのかもしれない。そんなところが微笑ましくて、少しだけ痛ましくて。どうしても、甘やかしてしまいたくなる。

「あっ、その、もしかして訊いちゃまずいことでしたか」
「いや、大丈夫だ。相手のことを知りたいと思うのは、当然の欲求だもんな」

 ほんの刹那の無言をどう取ったのか、彼女は困ったように眉尻を下げながら謝罪を口にする。
 そんな顔しなくてもいいんだよ、と。そう伝えるかわりに、誰にも話したことのない過去の記憶を、そっと紐解いた。

「ただ、もしかするとお前には血生臭いかもしれないが」
「……それでも、私、聞きたいです」
「そうか。よし、分かった。あれは、俺と魁が、まだ子供だった頃の話だ……」



  ◆◇◆

 さやさや、さらさら。吹き付ける風が、木の葉を揺らめかせ。二重に三重に、音が響き渡った。
 山深くにあるこの里のなかでも、一番奥に建てられた屋敷。一つしかない入り口には閂が渡され、窓には格子が嵌っている。
 何かを隠すように、ひっそりと。何かを逃がさないように、しっかりと。鬼の力では容易く壊れるような子供だましの拘束は、けれど中にいる〝あいつ〟には十分過ぎるくらいの牢獄だった。
 いつも覗き込んでいる格子窓の前で、そっと背伸びをすれば。果たして、あいつは普段と変わらず壁に凭れながら本を捲っていた。

「やあ、いらっしゃい二人とも」
「なんだ、俺達が来るのが分かってたのか?」
「うん。君達の足音は、他の皆より軽くて小気味いい。こうして風があっても、意外と響くからね」
「へぇ、耳がいいんだな。俺達も音や臭いや気配を捕らえるのは得意だけど、お前も出来るなんて思ってなかった!」
「ありがとう。でも、ただ慣れてしまっただけだよ。こんな場所まで来るのは限られてるし、僕に用があるのなんて君達くらいだから」
「はぁ? 俺は人間なんぞに用はねぇよ」
「こら魁!」

 そう、この屋敷から出られる筈がない。
 だってそこにいるのは、ただの人間なのだ。
 いつも白い着物を身に付けた、どちらかと云えば非力そうな男。鬼と人とを比べてもなんの意味も無いが、外見だけならば少年と青年のあわいくらいに見える。
 隣に並べば、俺や魁のほうが幼くうつるだろう。尤も、人の刻む一年は俺達にとっては数日くらいの感覚なので、どれくらい離れているのかは分からないが。

「駄目だろ、そんなこと言ったら」
「んだよ、別にいいだろ。だいたい、俺だって暇じゃねえんだ」
「なら、俺についてこなくても良かったんだぞ?」
「手前だけじゃ、ろくなことにならねぇと思ったからだよ!」
「おや、じゃあ魁は僕に会いたくないのか。なんだか弟が巣立ったみたいで寂しいな」
「誰が弟だ! 俺は、手前なんぞより永く生きてんだよ!!」

 ぷいとそっぽを向いてしまった魁の態度に、格子窓の向こう側からくすくすと小さな笑い声が響いた。
 別段気分を害した様子もなく、ひどく穏やかにほほえみ。ぱたり、本を閉じた彼は、そっと音も無く立ち上がる。
 窓を覗く俺よりほんの少しだけ高い場所にある顔は、相変わらず何を考えているのか読めないままだ。人間というのは、もっと感情的な生き物だと思っていたのだが……。

「君達は本当に、とても仲が良いんだね。そういうところは、人間も鬼も変わらないみたいだ」

 何かを噛み締めるように、零れ落ちた声が。
 少しだけ強く吹いた風に、溶けて流れた。



  ◆◆◇◆

「人間が、いたんですか?!」
「ああ。だが、まあ、かなりの訳ありでな」
「ですよ、ね。それにしても、」
「ん?」
「当たり前ですけど、お二人にも子供の頃があったんですね。あんまり想像出来ないですけど」

 それに、と。彼女は、どこか言いにくそうに続ける。

「いくら子供だったとしても、その……魁さんが」
「人間と普通に会話しているのが、不思議か?」
「…………はい」

 小さく頷く表情は、淡く翳りを帯びていた。無意識のうちに掌をぎゅうと握っているのは、あの日のことを思い出してしまったからだろうか。
 口では気にしていないと気丈に振る舞ってはいるが、矢張り本能的な恐怖は拭えていないようだ。
 なんとか緊張を解きたくて、俺は白い掌へと己のそれを重ねた。俺よりも体温の高い、すべすべとした肌。
 触れ合った部分から温もりが広がり、彼女を包み、ほんの僅かでも安心させられたらいいのに、と。そう願いながら。

「あの頃はまだ、人を喰うって事を深く理解していなかったんだ。前にも言ったが、鬼は雑食性でな。木の実から葉物、魚に獣と様々なものを喰らう。人間だけを狙っているわけじゃない」
「確かにそうですね」
「だが、全く口にしなかったかと云われると、そうでもない」

 俺は殆ど喰っていないが、と。言い訳がましく付け加えてしまった。
 なにせ〝あの事件〟があるまで一度も喰っていないなんて、断言出来ないのだから。
 けれど、同じ年頃の鬼――魁や他の奴らと比べると、圧倒的に少ないのだろう。喰っていることに変わりはないが、な。

「人間の肉は貴重品だ。味もいいし滋養強壮にもなるが、山の獣のほうがよっぽど簡単に狩れる。だから俺の両親は、獣や魚しか獲ってこなかった」
「私たちも、山は鬼が出るから近付くなと言いつけられて育ちました」
「だろうな。うちは、機会も成功率も低い狩りより、確実性を選ぶような親だった。たまに人の肉が出る時は、山で行き倒れた新鮮な遺体だったらしい」
「新鮮な遺体……」
「ああ、すまない。いや、俺だって遺体に新鮮という表現はどうなのだろうと思うが、それ以外の適当な言葉を知らないんだ」

 鬼は内臓も頑丈なので少々傷んだものを口にしても死ぬことはないが、だからといって好んで食べることはしない。
 保存食にするにしても、矢張り新鮮なものを選ぶ。だが、別にわざわざ殺してまで食べたいほどではない。
 それもあって、食事に人間の肉が加わることは本当に稀だった。

「子供の頃は、簡単な狩りしか教えてもらえないんだ。自分で捌くにしても、兎だとか魚だとか、そういった小さな獲物が中心だ」

 だから、本当の意味で人間を喰らうのがどういうことなのか、理解出来ていなかった。
 鬼と人とがどんな関係なのか、気付けなかった。

「俺も魁も、本質を知らないままだったんだ」
「本質?」
「ああ。里で唯一の人間――侑(ゆう)は、いずれ喰われる為に〝飼われて〟いたんだよ」



  ◆◇◆

 俺が初めて侑を見たのは、満月の夜。月も星もいつもより明るくて、ひどく見通しの良い夜だった。
 集会場と呼ばれる古い洞窟の前で、里の長と年長者たちが難しい顔で何やら話し合っているのが遠目で確認出来て。その中に、不思議なものを見付けた。

「なんだろう、あれ」

 目を凝らし、おとな達に取り囲まれるそれの正体を暴こうと観察する。
 けれど俺よりも、隣にいた魁の方が先に答えに辿り着いた。

「人間じゃねえか?」
「人間って、あんな子供なのに? こんな夜に、単独で行動するわけないだろ」
「だが、妖(あやかし)や獣の気配はしないぜ。血の臭いもしないから、狩りで獲ってきたわけじゃなさそうだな」
「だったら余計にここにいるのはおかしいだろ」
「んなこと、俺が知るかよ」

 だが、と。歯切れ悪く呟いた魁は、困ったように眉を寄せながらそれを眺める。

「あんだけの鬼に囲まれて悲鳴ひとつ出ねぇなんざ、人間らしくないな」
「…………そうだな」

 はっきりと確認したわけではない。
 けれどあの人間からは、悲しみも諦めも恐怖も、感じ取れなかった。感情の揺らぎが、見付けられなかった。
 粗末な着物を身に纏った、痩せた子供。沢山の細かな傷と汚れの中で、ふたつの瞳だけが静かに輝いていて。
 丑三つ時の湖のようにえらく穏やかで、音が死んだように仄暗いそれは、話に聞いていた人間のものとは思えなかった。


 奴の正体は、翌日判明した。
 この山から人間の足で二日歩いた先の村の子供で、名を侑。歳は数えで五つ。
 大きな戦に巻き込まれ若者や男手を失った村は急激に貧しくなり、なんとか生き残っていた侑の母親や家族も生活が限界に達したらしい。

「僕は、選べる立場じゃなかった。大人に手を引かれ、この山に置き去りにされて、ああ捨てられたんだなって実感した。暗がりの中、来世は鳥になりたいなんて想像をして、現実から目を背けていたよ」

 昔を懐かしむように遠くを見詰めながら、侑はくすくす笑う。
 困った時も悲しい時も、彼はよく笑った。数え五つの幼子だったあの頃も、成長した今も。色の無い瞳のまま、日々を送っている。
 不自由な屋敷の中で、自由に。本を読み何かを書き、時折こうして俺達と他愛ない会話をしながら、生かされているのだ。

「魁は他の皆よりも嗅覚が鋭いから、香草が苦手なのかな」
「つうか、あんなの入れねぇほうが美味いだろ」
「保存の観点から見れば使った方がいいんだけど……それで食べられなくなっていたら、元も子もないね」
「俺は平気だけどなぁ」
「んだよ。魄が鈍いだけじゃね」
「なら、魄には食材の保存方法を教えようかな」

 こんなふうに、俺や魁に色々なことを教えてくれることもあった。それは里のおとな達が知らない物事だったり、人間独特の風習だったりで、ひどく目新しくて。
 屋敷の内側に入ることは禁じられていたから、こうして格子窓越し。飽きることなく、俺達は夕暮れまでずっと話していることだってあった。
 魚に興味が無かった魁に、見分け方を教えてくれたのも侑だ。
 出会ってどれくらい経ったのか、正確には分からない。本当に一瞬だった気もするし、一年くらいしか経過していな気もする。
 けれど、やっぱり人間の刻む時間は鬼なんかよりよっぽど早くて。
 気付かないうちに、とっくに〝終わり〟が来てしまっていた。

 おとなは、俺達が侑に近付くといい顔をしない。人間なんかと心を通わせてどうするんだと、口々にそう言う。
 幼い俺は、ただ余所者を嫌っているのだと思っていた。でも違った。あれはきっと、優しい警告だったのだ。
 本来ならば他者に興味がなく、里の仲間と云えど弱いものを切り捨てるのが鬼という生き物だ。それでも、まだ分別のつかない年齢だった俺達に、甘くしてくれたのだろう。
 侑に情がうつらないように配慮してくれていたのに、理解出来なかった。気付けなかった。そして、おとな達が想定していたより、侑の成長も俺達が懐くのも早かった。

 侑は賢い人間だった。他に比べる相手なんていなかったけど、間違いなく誰よりも賢い人間なのだと、俺も魁も信じていた。
 そんな侑だから、とっくに――この里に迷い込んで来た時から、分かっていたのだろう。自分が何の為に、いつまで生かされているのか、を。

 ある日。いつもみたいに魁と遊びに行ったら、侑はころころと鈴を転がしたように笑って。
 少しだけ声を震わせながら、ぽつりぽつりと語りだした。
 俺に、蜂蜜漬けの作り方を教えてくれたように。魁に、山女魚(ヤマメ)の捌き方を教えてくれたように。

「僕は、君達に食べられる為にこうして生かされていたんだ」
「……は?」
「僕みたいな幼子を喰らったって一口で終わってしまう、なら少しだけ育ててからでもいいでしょう、と。拾われた日に、僕は持ちかけた。すごいね、ここの長老さんは。きちんと僕の話を聞いたうえで、頷いてくれたんだ」

 捕食者としての余裕かな、と。吐き出すように呟かれ、俺の頭の中に長の顔が浮かぶ。
 何か言いたいのに、口を挟めなくて。それはきっと、魁も同じなのだろう。ぎゅうと拳を握ったまま、先程から侑を睨みつけている。

「少しして、もう一つ取引をした。ちょうど、君達の話を小耳に挟んだからね。僕には鬼のような力は無いけれど、人間にしか分からない知識や知恵がある。生かしてもらっている対価として、子供たちにそれを教えますよ、と」
「……っざけんな!!」

 がん、と。魁の拳が、壁にめり込む。振動で、格子窓がかたかた揺れた。

「じゃあなにか! 手前ェは自分の命が惜しくて、俺らと仲良しごっこしてたってのか!?」
「そうじゃない。信じてもらえないかもしれないけど、僕は君達を本当に好いていたし、弟みたいに思っていた。どうせ食べられるんなら、君達がいいなって」
「俺達、が、侑を……食べる……?」
「ああ。今の僕は、もう大人だ。人間の成長は鬼より早い、君達二人で食べるくらいの肉はある筈だよ」

 何を考えているのか分からない、感情の読めない瞳。
 仄暗く凪いだ、深いふかい湖面。
 穏やかで大人しくて、力の弱いただの人間に、俺達は圧倒されていた。

「どうせ一度死んだ命。使うなら、大切な誰かの為に使いたい。……あの長老さんには申し訳ないけどね」

 そこで言葉を切って、侑はくるりとひとつ、その場で回る。
 ゆっくりと蠢く、白の着物。袖がひらりと、踊るようにたなびいた。

「この里に厄介になってから、僕は白しか身に付けないと決めたんだ。人間にとって白は、死装束の色。いつだって、覚悟は出来ていたよ」
「い、やだ……」
「魄?」
「嫌だ! だって侑は、俺の、俺と魁の、」
「もういい!!」

 それは、叫びだった。
 怒りと悲しみと、苦しみと、痛みを孕んだ、魁の心からの声だった。

「ははっ、おい人間。それが今生最期の望みってやつか? なら残念だったなぁ、そいつは叶わねぇぜ」
「魁……? お前、何を、」
「手前ェを喰らうのは、俺独りだ。魄には、欠片ひとつだってくれてやらねぇ」
「やめ、ろって。なあ魁、もうやめろよ!」
「魄は黙ってろ!! 俺は今なぁ、頭にきてんだよ。どんな事情があったにせよ、こいつが嘘を吐いてたことにゃ変わりねぇ。俺らを騙して、その上、喰ってくれだァ?」

 さわさわ、と。
 さわさわ、さわさわ、と。
 風が、空気が、湿気と殺気を含んで。皮膚が、びりびりと痺れる。

「都合のいいことぬかしてんじゃねぇ! 好きだなんだとほざくんなら、俺らの見えないところで食われちまえ。よりにもよって、魄に背負わせようとすんなよ!!」
「か、い……」
「本当に覚悟が出来てんなら、ぐだぐだぬかさず勝手に死にやがれ。それが出来ねぇのに思わせぶりに縋ってくるなんざ、やっぱり人間って奴は矜持も持ってねぇ弱い生き物なんだなァ」
「…………そう、だね。僕は弱くて、卑怯だ。この期に及んで、命乞いをしようとしている。里で生かされているうちに、嫌でも実感したよ。君達鬼は、強くて気高い生き物だってね」

 その瞬間、侑の瞳に、大きな波が生まれ。
 刹那の後に、湖面が激しく渦巻いて。両の瞳から、ぼたりぼたりと水が零れ落ちた。
 水は頬を伝い顎を撫で、白の着物に吸い込まれてゆく。

「人間は弱い。真正面から戦う術を持たないから、集団で生き、知恵をつけ、夜に怯えている。……君達とは、正反対だ」
「当たり前だろ。だが、俺は手前のおかげで吹っ切れた。鬼と人は、どうやっても違う生き物だ」
「うん。そうだね。最初から、分かっていたのに、ね」

 死にたくないな、と。
 この世の全ての感情を乗せた音が、侑から紡がれる。
 繰り返されるそれは、次第に嗚咽に呑み込まれ。獣の咆哮のように、格子窓の向こうに響き渡っていた。



  ◆◆◇◆

「結局、その直ぐ後に他の鬼と小競り合いがあってな。随分と長いことやり合っていて、侑はそれに巻き込まれた。発見された時には、半分骨になっていたらしい」
「…………っ、そんな、ことって」
「ごめん、あまり気持ちの良い話じゃなかったな」

 震えた声と、鼻を啜る音。
 視線を向ければ、案の定あいつは、目元を真っ赤に染めていた。

「いい、え。私が聞きたいって、言ったんですから」

 ふるふる、首を振ってから俺を見上げる瞳は、涙の膜のせいかきらりと輝いていた。
 その色を見詰めながら、思う。こいつだって、一歩違えば侑のようになっていたのかもしれない、と。
 見知らぬ鬼に拾われ、喰われていたとしたら……。そんなことを考えると、背筋が凍るように寒くて。胸の奥が、ぎゅうっと痛む。

 あったかもしれない世界を振り払うように口角を上げ、俺はそっと彼女へ近付けば。
 ふわり、やわらかな香りが鼻を擽った。

「その一件から、魁は人間の言葉を信用しなくなった。必要以上に近付こうとしなくなったし、成長してからは餌としか見ないようになった。それは鬼としては正しいんだろうが、俺は馴染めなくてな」
「もしかしたら魁さんは、嘘を吐かれて悲しかったのかもしれませんね」
「はは。まあ、想像するだけなら自由だ。俺は寧ろ、侑が……、」
「魄さん?」
「すまん、先に言っておくが、気を悪くしないでほしい。俺は、侑のそういう脆弱なところが、いじらしく思えた。人間の弱さを知り、儚さを知り、それでも懸命に生きようとする賢さを知って、喰えなくなったんだ」

 こんなことを考えるなんて、不遜なのだろう。自分よりも弱いものを愛でるなんて、傲慢もいいところだ。
 でもこれが、鬼であった頃の俺の紛うこと無き本心なのだ。

「俺は鬼には向いていなかったけど、人間の考え方ともずれていた。だが、そんな自分になったことに後悔はしていないよ」
「最初は同情から、だったんですね」
「かもしれない。けれど何度も言っているが、お前に抱いた思いはそういうものとは違うからな。凪いだ湖面ではなく、遥か続く海みたいな感情だ」
「魄さんって、時々難しいこと言いますよね」
「そうか? だとしたら、侑の影響かもしれないな。あいつは回りくどい表現を好んでいたし」
「じゃあ、いつかどこかでお会いしたら、何か言ってあげなくちゃですよ」

 そう言って、彼女はふんわり微笑む。
 侑はよく笑っていたが、やっぱりこいつとは違う。
 今ならば分かる。あれは、感情を押し殺す為の笑みなのだったのだろう。悲哀や諦観や恐怖を外に出さないように、微笑を浮かべる。
 対して、こいつは視線や言葉の代わりに、笑みに感情を乗せて運んでいるのだ。勿論、本人は無意識だと思うので口にはしないが。
 いじらしく思うのは、今だって侑のほう。けれど、愛おしく思うのは、いつだってこいつのほう。
 特別な人間がいるということに気付けたのは、俺が鬼だったから。鬼と人とが、どこまでいっても別の生き物だったから。

「……侑さん、物知りな方だったんですね。今の魄さんの根っこには、侑さんからの教えがいっぱいあるんだなって」
「料理なんかは侑の知識を元に、独学で覚えたからな。ああ、でも、一番役に立ったのはあれだな」
「どれですか」

 きらきら、きらきら。
 寄せては返す波のように、騒々しくて綺麗で。荒々しくて、澄んでいる。
 穏やかなのに、足がつかないくらい底が深くて。どこまでもどこまでも、俺を包み込んでくれる、優しい人。
 愛しい、いとしい、大好きなひと。

「どうせ一度死んだ命。使うなら、大切な誰かの為に使いたい。だから俺はお前に、躊躇いなく角を差し出したんだ」

 瞬きの合間に、腹部にとすんと、衝撃が走る。
 風に舞う洗濯物。音を立てて落ちた箒。遠くで鳴くのは、鶺鴒(せきれい)だろうか。
 俺の胸に顔を埋め、しゃくりあげ。小刻みに上下する背を抱き締め、髪に口付けをひとつ。

「魄さん、は、く、さんっ……」
「うん」
「幸せに、なりましょうね。人間として、ずっとずっと」
「ああ、そのつもりだ。俺がお前を、絶対に幸せにしてみせるから……これからも、宜しくな」

 頬を濡らす涙をそっと舐めとり、そのまま小ぶりな唇を味わう。
 おずおずと応えてくれる彼女が愛らしくて、抱く腕に力が籠った。
 二度、三度。触れ合うだけの口付けを交わしていると、不意に、視界の端を何かが通り過ぎたような気がして。

 ゆらり、ゆらり。
 長い尾を揺らめかせながら、白い鶺鴒(せきれい)が動き回る。
 凪いだ湖面のような瞳をこちらへ向け、小さく鳴いてから。ひどく不器用そうに、飛び去った。
 青空に寄り添う二羽の白が、ふわふわした雲間に吸い込まれ。ひときわ強く、風が吹き過ぎた。
 少しだけひんやりとした肌触り。ほのかに混ざる山のかおり。きっとそろそろ、秋がくる。


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「堕鬼の夢」DLsiteがるまに様にて発売中!
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