九条の会 2020/03/22 12:00

(ブロマガでエミリアさん用コラム)昔から今に至るまで、同じことをやってるんだなあ

*このメルマガは、エミリア氏のci-en
https://ci-en.dlsite.com/creator/1091
へ投稿したコラムです(ログ)


たまには昔の話でもしようと思う。

自己啓発本なんかで「自分の好きな事をして生きましょう! 好きな事が見つからない?
大丈夫そんな時は、自分の子供時代にヒントがあります……」
といった論調がある訳だが、
思えば、小学校くらいからやって来た事を今もやってたりする

結局のところ今の食い扶持になっているのはアフィであり文章なのだが、
これの始まりを振りかえってみると、
小学校の頃だな、
プロレスを兄弟揃って見るのが趣味みたいになっており、
そしてそれが嵩じていつしか、ハンディカムを高い所に置いて
スプリングが一番豪華だった両親のベッドで、
兄貴とにゃあにゃあプロレスごっこをする、
もう入場の演出から工夫したりしてね。
それが一試合だいたい20分くらい続き、その風景をハンディカムに収めたものを後で見返すのだ、
そしてその様を、今度は自分たちでスポーツ新聞風に書いたりする……という
今あらましを語ると、奇行ではという事をやっていたし、
兄貴は俺より4〜5歳上のはずで、小学2,3年くらいの子を中学入ったよーな子が
パワーボムとかで叩き付けるみたいのは、ちょっとえげつない光景である、と思うのだけども、
でもきっとそうして兄弟は、両親の不在の寂しさを埋めていたのではあるまいか。まぁいいや。

重要なのは文章との関わりだ、そうしてそのスポーツ新聞風のを書いたりしてた訳で、
今でも覚えているのが、殺人風車との異名を取ったゲリーオブライトの海外の試合のVHSを観たりして、
日本の試合回しとの違いを書いた文章を、兄貴に「この表現はいい」などと褒められたのを、覚えているのだ。

次に記憶があるのは飛んで中学3年の頃だな、もうカリキュラムが終わって卒業前くらいの頃、
選択科目というのをウチの学校でもやってみるかと、
好きにやれる時間が何コマか生まれたのだ、
そして国語の先生はまぁ面倒だったんだろうね、俺たちにテーマは縛らないから
何でも好きな物を長めの文章で書け、と指示したのだ

これは中学入って以来初かというくらい、自主性が与えられた時間で、
そこに参加したネクラな文系の男女に日が灯ったわけだ。
ある女の子は、原稿用紙数百ページみたいな大河歴史小説を書いたりしてましたねえ(目を通す先生の方も大変だ……)

俺はそこでは、当時ワンダースワンの雑誌などから知った、横井軍平氏のことをまとめて書いて、
教師は「文章は面白いと思わないが、読ませる何かがある」と評したんだった。

そこで小学生の時にスポーツ新聞を書いてた事だし、文章を書くというのはなかなか高揚する物だと、
高校では文芸部に入部する事にしたのだ。
しかし当時のそこは、なにが文芸部だ、文ゲイ部の間違えじゃねえのかいっ! というくらい、
平たく言えば女性比率が9:1(男性部員は自分一人)という有様であり、
いや……まぁ、もっと明け透けに言えば、部室にBLっぽい本を持ち込む、などといった空間になっていたのだ

自分は見てないのだけども、まぁ分かるものだよ、あの秘め事のような雰囲気、
あ、なんか今、モノの本を読んで、興奮した感じになってる!
今はなんかそういう雰囲気だぞ! というのは……。
そんな空気を背中で感じ、そう、俺はずっと部室の中でもずっと窓の方を見続け、
女子の一群に背を向けて、一心不乱にずっと書き続けたのだった

思えば、そんな空気への反動もあったのだろうか?
あるいは暗い系文系男子は、大体通る道なのか?

高校三年間、作風としては人に理解されないのがむしろ正しい……みたいな、
体裁よく言えばカフカみたいな不条理、あるいは安部公房のような難解な文章を、
でも名作家のような社会的な関係を表すみたいな深い意味付けなんてあるはずもなく、
ただ高二病的なレトリック山盛り、
何が言いたいか分からへんし、何が展開しているかも分からへん
(むしろ書く方も理解されてたら終わりだと思っているからね……)
というのを、ずっと3年間、雨が降る日も、雪が降る日も、
コリコリとしたため続けていたのだ

後悔があるとすればこの頃、まぁそういう小説を書くのは1年くらいに収めてだ、
残り2年くらいは? ちゃんと楽しめる構成と、普遍的な表現で書いて
技術を蓄えたら、その後の人生にもう少し有用だったんじゃないかなぁとは思うのだけど、
ただもう3年間やり通したね。
灼熱の甲子園のマウンドで肩が壊れるまで投げ続ける選手のように、
俺はただ誰にも理解されたくないと、その場所から降りなかったのだ

とにかく類は友を呼ぶもので、毎年供給されるのもほぼ女の子の新入部員、
そんな腐女子の卵たちへの対抗心から、
俺は俺で難解さの卵へ引き籠もっていたという訳だ……
(余談だが、そんな言葉は当時知らなかったが、
夢女子とかの傾向ある子は割と迫害されがちだった雰囲気を覚えてるな、部内で……)


しかしこう振り返って思うのは、
あれこの対立的な関係、光景、どこかで最近目にしてるぞというデジャブ感があって、
つまりだ、今の俺にとってのプログラムというのも……
要はこの時の身を守り、証を立てるような、難解な文章と同じ役割なのでは、という事だ

明らかに、もっと効率的なやり方があるのを知っている、
そうした方が良いのも半ば分かっている、
でもそのとき自分の目から見えてた世間や、潮流ってやつから背中を向けて、ずっと書き続ける……。

毎日毎日、こうした方が物事を言い表せるのではないか(そんな高尚な意味が本当にあれば、だが……)
とか何とかで、一行、二行、こねくり回したり。

高校の部室は3年間でオサラバして何も残さなかったが、
このプログラムって遊びは、まだまだそれ以上にずっと続けていられる。
その果てにあの時は掴めなかった何かを得られるのか?
あるいは3年やってダメだったものは、結局のところ、時と場所を変えようとも同じなのか?


そういえば中学の時に長大な歴史小説を書いていた女の子も、
まぁなんのかんの頭も良くなかったのだろう、
同じ高校に入って、同じ文芸部に入部していたのだった。同期である。
(文章というのは美しい嘘を好むもので、こんな風に書くと、
皆それぞれの頭で美化されたオンナノコ像を描くだろうけど、
まぁ一言で言うと芋っぽい子である、
高校くらいになるとみんな僅かにお化粧とかして来る子も増えるのだが、
頑なにしないし、その頃になるとまぁ、
スカートの短さがイケてる度合いみたいのもあったと思うけど、
その基準で言ったらスカートも校則通り、
多分同学年の中で一、二番くらい長かったのではなかったと思う。
まぁ一言で言えばやっぱ芋っ子であり、いかにも鈍臭いイメージを抱かせるとか、そういう容姿・立ち振舞いであった……)

そして文芸部のやつら(腐女子)というのも、基本は気を遣ってる間柄なのだけど、
自分がたまに見た時に、あれ、この子とこの子はなんか、変だな? ギクシャクしてるぞ?
というパワーバランスがあって、
つまりはその女の子は微妙に無神経な言葉とかが意図せず出ちゃうからなのか、
微妙に、腐女子のその集まりからもハブられてる? 的な感じがあって、
その結果からだろうか、2〜3年になる頃には、文芸部の部長、という立場を押し付けられていたのだ

(あと文芸の顧問であるババア先生からも、どうやらめちゃくちゃ嫌われてると分かった時があって衝撃的だった、
(大人が、教師が、一生徒の小娘にそんな感じの態度出すのかいと)
ある日、部長がそーいうのが心底イヤになったらしく、
全然関係無い自分に、キレ気味にババア先生への書類の受け渡しを押し付けて来て、
何やねんと仕方なく行ったのだが、するとババアは謎の上機嫌、
その口でだらしないとか、ちょっと部長の悪口も言ったりして、もう何だ、そういう、分からん……。
首を傾げながら、雨が降ってる渡り廊下をまた歩いて戻ったのだった。分からん。

*今だからそういう微細な関係にも思い馳せられるけど、当時としては本当に??という感じだったし)

大概みんな文芸部とは言っても、華の高校生活というのを謳歌していて、
まぁ部活に来るといっても、一週間に1,2日くらい。
しかし部長は謎の責任感で、一言で言えばまあ暗さ・自嘲的な雰囲気をまとって毎日来ており、
また111は111で、理解されたら負け、続ける事が勝つことだ、の精神なので
やはりずっと、部室で背中を向けて書き続けていたのだった。

そういう姿を見て、ある時、部長が111のことを「窓辺の吟遊詩人」なんて言ったりするのを、
なんや、良く分からん、という感じで聞いていたのだ(詩人じゃねえし…)

基本的には、部室で男女が二人きり、でも本当に会話が30分くらい無い、という状態だったのだが
(その状態に居心地の悪さも大して覚えないのが、まさに当時の精神状態を表しているな)
そんな風にたまに会話する時もあって、
111が、部長はなぜこんな時間まで部室におるんだと聞いたらば(自分はいいのか……?)
そしたら部長応えて曰く、家にあんまり帰りたくねえのだと言う。

どうやら親に弟の世話とかを押し付けられてるらしく、
家に帰ったら食事などを作らねばならない、
あんなモンは勝手に食うように仕向けたらいいのだ、だから帰らないだと。
(そこでグレたり不良にならないのが生真面目というか芋っぽさというか、
そんな集まる箇所も無い、田舎の残酷な所というか……)

そんな言葉を、”うわぁドラマで見るような、絵に描いた「不幸せな家庭」やんかあっ!”
と思ったのが、今でも記憶に残っている。
(ちなみに救えないのは、実は当時111の家も、
税金が有利になるからね、と説明されて離婚したはずの両親が、
もうとっくに父親が家に寄り付かなくなっており、どうやら本当の離婚だった、
あとバブル崩壊の余波でウン千万という借金がある、
母親がたまにキレて包丁が登場する、などといった事があったはずなのだが、
それにも関わらず自分の家はまぁまぁ幸せで良かったあ、などと思い込んでいた事だ……。
頭お花畑ってのも、時に救いになるもんである…。

子供時代は身体が柔らかく、プロレス技で叩き付けられても怪我しないように、
子供は子供の不幸を、何処かで薄める処世術を身に付けるんだろうか…)


そうして高校を卒業して、111は働き始めたのだけども、
あマズイな、これは本格的に働きたくないな、世間が俺に向いてないな、となって、
モラトリアム的に「俺は小説家になるんや」と宣言したのだった。
と言ってもそれは親へのポーズであり、小説なんてのは殆ど書いてなかった、
当時はもう、パソコンが面白くてしゃあないのであって、ツクール2003をずっと作っていたのだ
(そしてそういう夢中さこそが、また未来へと繋がっていくんだが…。
大体ここまでの経歴を振り返っても、書くべきは小説じゃなく
何か題材を調べて書くような、読み物だろ……)

母親としてもそれは見抜いており、「じゃあ20になるまでは小説を書いて、遊んどっても良いわ」
とお達しを受けたのだった
(なんで期限をお前に決められなきゃいかんのだとか、小説書いてるんだから遊んでる訳じゃねえだろとか
腹は立ったが、所詮、家に金を入れて同居してる身では、肩身は狭いのである…)

その後は前もメルマガとかで書いた通り、
21歳になると、母親が中古住宅を買うとか言い始め、その借金が家族全員に分散、
俺にも若い身そらで350万という額が降り掛かって来るのだが……
そんな未来もまだ知らないハタチ前のある日、
どこかで家の電話番号を調べたらしく、あの文芸部の部長から電話が数年ぶりに掛かって来たのだった。

話を聞くに、何か地域の集まり? 大学のサークル? かよく覚えてないが、
要は文章的な集まりにお前も参加しないか、付きましては年会費をくれ、という事だった
(後者の話がメインぽい…)

その直球な切り出し方が、相変わらずの垢抜けなさで懐かしく思いながらも、
このやり取りを何故か覚えているのだが、
部長「だから窓辺の吟遊詩人殿をね、また誘おうと思って」
と精一杯明るく言われたのを、
「ハハッ、上手い事言うけど、ダメだねー」
と断った。

それっきりもう連絡は無い。

あの高校の部室の暗さのまま、ずっと文章を書き続けているんだろうか、
あの大長編の歴史小説をさ、と懐かしく思い出したり……、
でも結局は金のアテとして、連絡が来たのを寂しく思ったり……。
(そもそも20歳くらいの子に金集めをさせるとか、それってマトモな集まりなのか?)

その後、俺は地元から離れたが、親兄弟はまだあそこに居て……、
部長はどうなんだろうな、もういい歳だし、普通に結婚とかしたんだろうか、大して知りたい訳じゃないけど。

まだ俺は文章を書いている……。

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