はじめてのテンカウント
『姫野ダウーン! 顎にいいのが入ったか、崩れ落ちるように尻もちダウンだ! さあカウントが入ります』
『姫野選手は公式戦初めてのダウンですね。しかし綺麗に入った左フック、これは厳しいですよ』
リングの外から好き勝手言う実況解説はよく聞こえるのに、尻をつけているはずのキャンバスの感触は心許ない。平らなはずのキャンバスが、ぐにゃぐにゃと波うっているような気がする。
「ワーンッ!」
生まれて初めて告げられるカウントは耳障りで、現実味がなかった。これが終われば負ける、ということがどういうことか、イメージしようとしても霞を掴むように消えてしまう。
「ツーッ!」
とにかく、立たなきゃ。キャンバスが揺れていようと。
「スリーッ!」
……脚が、動かない。立たないどころか、曲げることすら叶わない。力を篭めてもガクガクと痙攣するばかりの私の脚は、別の生き物みたいだった。
「フォーッ!」
何か手はないかと周囲を見渡す。トレーナーは声を張り上げて、けれど具体的なことは何も言ってくれない。なるほどこうなったらどうしようもないんだ、と妙に気持ちが落ち着いた。
「ファーイブ!」
首を戻す途中で、対戦相手が視界に入った。私の前評判に気圧されて、妙に腰が引けていた子。負けて当たり前みたいな拗ねた態度が、気に食わなかった。
その子が今、私を見下ろしている。
「シーックス!」
いや、角度の問題はしょうがない。私が低くなっているんだから。
だけど彼女に張りついた卑屈な笑みに、優越感が混じっていたのを見逃すことはできなかった。
「セーブン!」
ふつふつと怒りが湧いてきた。
あんなヘラヘラしておいて、勝てそうになったらあんな顔をするなんて。
それは、私がする顔だ。
私以外の顔はブン殴って、分からせてやる。
「エーイト!」
とにかく立たなければ。
幸い、脚の感覚が少し戻ってきた。
それに腕はもっと動く。組み合わせれば、ロープにすがってカウントを止めさせるくらいはできるかもしれない。
「ナーイン!」
脚を引き寄せて踏んばり、両手を突いて尻を浮かせる。やった、立てた!
けれど私の脚は私を裏切った。しっかりキャンバスを踏みしめていたはずの脚はもつれ、顔面からキャンバスに突っ伏した。
キャンバスについていたお尻は今は天井へ突き出され、四肢はべったりキャンバスに投げ出されている。
立たなければ。
今立たなきゃ、アイツをブン殴る機会はもう二度と来ない。
「テーンッ!」
耳障りなゴングが打ち鳴らされる。無数の足音でリングが揺れる。私のしたいことなんかお構いなしに。
『ノックアウトーッ! 姫野、連勝をストップされられました!』
『あれは立てないですね。頑張ってましたが、脳を揺らされちゃってましたね』
好き勝手言う外野。その中に、彼女もいる。きっと勝利を喜んでいる彼女が。
キャンバスから顔を剥がしたら、私もその中に飲み込まれてしまう。