水曜日 2023/05/03 22:50

閑話休題 帰省(前編)

 祖父の調子が優れないため帰って来いという母親からの連絡と、九月に中学校のクラス会をやるので来ないかという誘いを同時に受けてから二週間、もう大学卒業まで帰って来ないつもりでいた故郷の駅に一人立っている。
 駅まで迎えに行こうかという両親からの申し出は断った。いつ帰ってくるかも詳細には伝えなかった。駅から家まではそう遠くないので、寄り道をしながら一人でゆっくり歩こうと思っていた。親の運転でまっすぐ帰りたくなかった、というのももちろんあるが。
 岩手の山間に位置する田舎は、夏でも涼しい風が草木の匂いを運んでくる。同じ東の字が使われているのに東京とは大違いだ。コンクリートの高層ビルの代わりに木造の平屋や戸建てが立ち並び、夏休みの日中だというのに人通りは全くと言っていいほどない。ノイズのような蝉が鳴き喚き車やバスが時々過ぎ去る以外は、世界に俺一人だけが取り残されたかのような静寂が背後からひたひたと迫り来るようだった。
 その孤独感が妙に心地よいとも思っていた。東京は好きだけれど、あまりにも人が多すぎる。海のような人込みに毎日呑まれ、星も見えない夜を駆け抜けて帰る狭い家は隣人の吐息すらも聞こえるような部屋だ。寝ても覚めても自分以外の人間の気配を感じながら生きていると、あれほど憧れていた都会での生活も疲労と苦痛の素にしかならない。
 かといってこの田舎に戻りたいかと言われると今は絶対に戻りたくない。せっかく井戸の外に出られたのに、広い世界ではなく住み慣れた井戸に舞い戻るなんて何のロマンも楽しみもない。固定されたメンバーが全員俺が誰でどこの家の人間で今何をしているのか全て把握しているような環境で、また生きていきたくない。嫌でもいずれは戻らなければいけないのだから。
「暑……流石に夏の日中に歩くのは無謀だったな」
「だからタクシー乗ろうって言ったじゃん、ねえ! 今からでも乗ろうよぉ」
 後ろから田舎に似合わない綺麗な標準語が聞こえてきた。俺以外にも人間がいたらしい。世界に取り残されたわけではなかったという安堵と、本当に一人だったらどれだけ自由に生きられたかという思いが一瞬よぎる。
 横に逸れるふりをして素早く二人の顔を見ると、田舎にはそぐわないツインテールで地雷系の女の子と目が合った。彼女は俺と目が合うと一度は視線を前に戻したものの、何かに気付いたかのようにもう一度俺を見た。
「ふみくん?」
 ドッ、と心臓の動きが速まる。なぜ俺の古いあだ名を知っているのだろう、この子は。
「あ、ええ、と」
「ふみくんもクラス会で帰ってきたの?」
 ふみくんも、と言ったということはこの子も俺と同じ学校に通っていたのだろう、クラス会とはいえ一学年一クラスしかないような過疎地域だ。過去のクラスメイト達と目の前の彼女の顔を照らし合わせても、中々出てこない。
「んもー、うららだよ、青山うらら! 中学まで一緒だったじゃん」
「ああ……えっ? う、うらら?」
「あんなに仲良かったしインスタも繋がってるのにさー、忘れないでよもー」
 さらさらの黒髪を指先で弄びながらうららは笑う。芸能人のような眩しい笑顔にピンクと黒を基調にしたワンピース、中学生時代の俺が知っている短髪で男言葉のうららとは全くの別人だった。
「ごめん、可愛くなってるから気付けなくて。久し振りだね、いつぶりだっけ」
「中学校の卒業式? 高校から別だったもんね。懐かしー、ふみくんも大人っぽくなったね」
 俺の言葉に恥じらうでもなくさらりと受け流した彼女の姿は、もう俺の知っている青山うららの面影はなく、都会で遊び慣れて垢抜けた知らない女の子だった。それでも俺のことをふみくんと呼ぶのは変わらず彼女だけで、それが妙に嬉しくも、外見ががらりと変わった彼女を見るのが悲しくもあった。
 うららの隣にはもう一人女の子がいた。こちらは重い前髪を一直線に切り揃えた、Tシャツにショートパンツにビーチサンダルという今一垢抜けない子で、俺を安心させたのは彼女の方だった。
「ええと、そちらは……」
「月子だよ、大学の親友。観光ついでについてきてもらったの」
「赤羽月子といいます」
 テノールの声が胸を貫いた。一瞬女の人とは思えないほど低かったが、それが心地よく俺の脳に響き渡り、もう一度声を聞きたいと願ったものの、彼女は名前以外の情報を何一つ言わなかった。その代わり鋭い三白眼がじっとこちらを見ていて、俺の出方を観察しているようだった。
「国見文人です。うららとは小学校からの知り合いで」
「『あやと』なのに『ふみくん』?」
 赤羽さんはうららの方を見てそう言った。些細なことだけれど、話す相手のことをちゃんと見て話すというのは結構好印象だ。
「そうなんだ、聞いてよ。あたし小二までは二クラスでさあ、小三から一クラスに統合されたんだけど。で、ふみくんは文章の文に人って書くじゃん? 最初に名前を見たときに『ふみとくん』だと思ってたの」
「よく間違われるよ」
「でずっとふみくんふみくんって呼んでてさ、ある日ふみくんと同じクラスだった子に指摘されて初めて気付いたの」
「でもうららが呼ぶあだ名はずっと『ふみくん』だったね」
「失礼かなと思ったけどいいじゃん、あたしだけって。何か特別感あってさ」
「そうだね」
 赤羽さんは短く同意をしながらニッと右頬だけを上げて笑った。その姿が妙に格好良くて、変にドキドキしてしまった。
「ね、タクシー呼ぼうと思うんだけど。ふみくんも乗る?」
「ああ……どうしようかな」
「どうせすぐそこでしょ、歩こうよ。散歩がてら」
「暑いじゃん!」
「俺は徒歩でもいいよ」
 難色を示したのはうらら一人だったけれど、俺と彼女が歩く気でいると知り諦めたようだった。赤羽さんは既に僕たちの数歩先を一人で歩いており、うららのことなどは気にしていない様子だ。
「わかったよもー……ねえつーちゃん待って!」
 少し後に僕とうららが続いて追いかけていく。うららが重そうにキャリーバッグを引くのに比べると、彼女は登山用のリュックサック一つと随分身軽で、躊躇いもせず一人でどんどん歩いていた。どこまでも歩いて行けそうな筋肉質の白い脚だった。

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