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夜のひつじ 2021/08/16 23:04

【ホラーSS】「トラックイン」

はじめに

突然変なものあげてすみません。書けない日々が続いていて……すみません……。

どうしても作業が進まなくなったので別の短い話を肩慣らしで一度書こうと思ってこの話ができました。
書けて嬉しいという気持ちを少しでも思い出して、もとの作業に戻ろうと思います。また月末に報告します……恐縮です。

10〜15分くらいで読めるオリジナルのショートストーリーです。
ちょいホラーです。今までの作品とのつながりは全くない、新しいお話です。

森庭さんという女の子と、沢崎さんという女の子が登場します。


【ホラーSS】「トラックイン」本文

「ねえ、あの最後のシーンどういう意味だったの?」

 ……あれ?
 これは私に話しかけているのだろうか。

「……えっと。ごめん。見てなかった」
「そっかー」

 残念そうな声。我が校の放送室。
 放送委員の一年生である私と彼女は夏休み中も週に二回登校して校内放送を流している。

 とはいえ定時の放送を流す以外は圧倒的に暇なので、私は本を読んでいて、彼女は音声編集用のパソコンでゲームをしていたのだ。

 ディスプレイにはエンドロール。
 何やら優しげな歌曲がBGMだった。

「ねえ、このゲームもう一回最初からやっていい?」
「……うん?」
「見ててくれる? わたしストーリーとか苦手でよくわかんなくて……森庭さんのほうが読解力があると思う。いつも本読んでるし」
「え……、え? そうかなぁ……。読書は好きだけど……読解力とかそういうのは、そうとも限らないような気がするけど……」
「現文のテストのとき、すっごく早く解いてたよね」
「……」
 見られてた。
 さっと回答を終わらせて多少以上はドヤってた記憶がある。ドヤると言うべきではないか。そう……“悦に入っていた”。これだ。

「何か考えてる?」
「い、いえ何も、何も。えっと……ゲームのストーリーを読み解いたらいいの……? できるかな……?」
「大丈夫。きっとできるから。信じてる」
「私ゲームとかはよくわかんないし」
「平気だよ。ストーリーを読むのは一緒だし」

 よくわからない篤い信頼を受けてしまった。
「うーん……」
 そうまで言うのなら、私なんかがお役に立てることがあるのだろうか。

 私とペアの放送委員一年生の沢崎さんは、美少女然とした見た目と声とは裏腹に無類のゲーム好きだ。多分。
 この四月からずっと、放送委員の活動の空き時間にはゲームで遊んでいた。
 仲良くなりたいとは思っていたけれど正直めちゃくちゃ話しかけづらかったから、これはいい機会かもしれない。少なくとも放送室でやることもなく本を読んでた時間は無駄でも迷惑でもなかった。話しかけてもらえて嬉しい。

「ルートとか覚えてるから、一時間とちょっと……。一時間半くらいで終わると思う」
「そうなんだ。けっこう短いんだね」
「ホラーゲームって、早解きしたらそれくらい」
「うえ……、ホラーゲームなの……?」
「怖くないから」

 そういう彼女の目は爛々と輝いている。
 沼に引きずり込もうとする人の目だ。

「ぁははは……、ホラーとかはちょっと……苦手で……。できれば遠慮したく……」
「どういうホラーが苦手?」
「どういう……?」
「ホラーにも色々あると思うの。和風っぽいのとか。ゾンビとかモンスターっぽいのとか。薄気味悪いのと気持ち悪いのと、幽霊とか、人が怖い系とか、宇宙っぽいのとか、スプラッタとか――」
「無理無理無理無理、スプラッタは特に無理。血がいっぱいはほんとダメで」
「あ、そうなんだ。じゃあこのゲームは大丈夫だね」

 彼女はいそいそとパイプ椅子を移動させて、ディスプレイの斜め後ろに観客席を作った。どうやらそこが私の着座位置らしい。押しが強い。問答無用という感じだ。

「英語の勉強にもなると思う」
 海外のゲームらしい。

 押されて押されて引ける場所はなく、私はなし崩しで彼女のゲームプレイを見守ることになった。

 薄暗い画面。『はじめから』の文字をポインタが選択する。
 映画っぽい演出。多分ゲームが始まったんだと思う。

「伏線とか、けっこうちゃんとあるっぽいの」
「う……うん」
 注意深く画面を見守らなければいけなくなる。
 伏線があるということは――。
「ホラーだけど、事件の真相……とかがある感じ?」
「そうそう、そういう感じ。そういう感じだけど、最後のエンディングがどういうことかわからなくて」
「へぇ……」

 少し迷う。
 もしかしてそのエンディングとやらは、ご都合主義的に物語を終わらせるために終わった類の、手詰まり感が漂うものではないだろうか。

 本を読めば読むほど、物語に親しめば親しむほど、世の中にはすっきり終わるお話が少ないことを知るものだ。むしろすっきり終わっているだけで名作と言われてもいいんじゃないかと思う。

「このゲームは、武器とかはないの」
「武器……」
「こっちから攻撃する手段はないから、うまく逃げるだけでいいんだよ。簡単でしょ」
「でもそれって反撃できなくて一生怖がらせられ続けるっていう感じじゃ……」
「大丈夫。怖くない。怖いシーンの前にきたらわたしがちゃんと言うし。すぐ処理できるから」

 そう言っている間に大音響。画面に突然大写しになる血みどろのマネキンの顔――。
「ひいいぃ!?」
「あ、ごめん。ここ言うの忘れてた。いい声。怖くないでしょ」
「いや十分、めっちゃ怖かったんだけど、ていうか血、血の涙が……!」
「こういうのはよくあるやつで……なんていうんだっけ。フラッシュモブじゃなくて。スプラッシュマ○ンテンじゃなくて。ジャンピングハリケーンじゃなくて……うーん……。とにかくそういうの。よくある演出」
「ぁは……へ、へぇえ……」

 画面はすぐ平常に戻った。ゲーム内の主人公からすれば、一瞬の幻覚を見た、という状態のようだった。

「驚かせてくるだけのやつは怖くないよ。だって意味ないもん。よく見てたら可愛くなってくるし」
 真剣かつ静かな瞳にディスプレイの光が映っている。
 沢崎さんは、驚かせてくる演出が実は嫌いなのではないかとも感じた。であれば“びっくりする怖さ”以外のものを求めてホラーゲームを遊んでいるのだろうか――。

「ここのドアを開けて……閉じてあげて」
 舞台は時代がかった洋館らしい。ディスプレイが薄暗くてアンティークな洋室を映している。
「……メモ魔?」
「あ、そうかも。なんかね、ここの館のあるじは、心を病んでてなんでも書き付けちゃうみたい」
「へ……へえぇ……」

 プレイしてる一人称視点の主人公キャラは、この洋館に肝試しにでもきているのだろうか。いまいち説明が足りない気がする。

「ここのクローゼットも開けて……。ほら、メモとかジャーナルとかあるの。あと記憶のアイテム?みたいなのとか」
「うん、うん」
 ストーリーの手がかりになる情報は逐一、沢崎さんが画面に表示して読み上げてくれる。涼やかでとてもきれいな声だ。こもってぼそぼそした私の声とは違う。
「メモを読んだら……引き出しも閉じてあげて。はい」
「はい」

 部屋のドアを開けて閉じて、部屋のなかのクローゼットや文机を開けて探索して閉じて、開けて読んで閉じて、開けて読んで閉じて、開けて読んで閉じて。

「あ、ここ見て。ドアの上にも書いてあるよ。“近づいてきてるぞ”だって」
「どうやってこんな高い場所に書いたんだろう……」
「それ! いい意見だと思う!」
「お、おう」
 びっくりした。急にテンション上げるやん。

「そうやって考えると不思議だし、ホラーゲームって可愛いよね」
 可愛いとは?
 沢崎女史のおっしゃる可愛いとはいったい?

「読んだらこのドアを開けて……閉じてあげて」
「うう……。ていうかいよいよやべー奴じゃん……メモ書きじゃなくて部屋の壁に直接書いてたら……」
「何で書いたんだろうね」
「書かずにはいられない理由がある……?」
「あ、うん。それもだけど。ペンとか筆とか。何使ったら壁紙にこんなに綺麗に書けるんだろうね」
「……クレヨン?」
「可愛い」
 今のは我ながら可愛かったかもしれない。

「……血だよ」
 ブラァッド、とゲームの音声が重なる。

「ひ……言わないでよぉ……」
 低く不気味なゲーム音声と、沢崎さんの涼やかな声が同時に聞こえると頭が揺れるみたいだ。

「あ、次は本の断片。この人が気に入ってたみたい」
「大事なやつかな……?」
「多分」

「開けて……。『世界は一つであり、かつ、多数であるという。人間の時間は、瞬間、つまり、その間に世界がなんの変化も示さないような最短の時間の断片がつらなったものである。一瞬が過ぎゆく間、世界は静止している。人間の一瞬は十八分の一秒である』……わけわかんないよね」

 この館のあるじは心を病んでいたらしいということはわかる。
「うーんー……。ここは……わからなくていいんじゃない? 雰囲気作り? 読んでも読まなくてもいいところ、みたいな」
「そう? じゃあいっか。……閉じてあげて」

 テンポはいいけどだんだん何だかよくわからなくなってきた。いやゲームの情報自体はしっかり説明されて頭に入ってきて、ストーリーの骨組みみたいなものはわかり始めている。

「このロッカーも開けて……。『血だ。血でもって描け』……だって」
「……う、うん」
「閉じてあげて」

 ただ大小の空間の開けて閉じてをテンポよく繰り返しに妙な没入感があって、今自分が何をしているのかよくわからなくなるような――。

「あ、ここ気をつけて。来るから」
「来るって何が――」
「ここを開けて……」

 ――バァン!

 と音がして勝手にドアが閉まる。
「ひっ……」
「ごめんちょっと言うの遅かったかも。いい声。でも音だけだから。怖くないでしょ」
「ちょ、ちょっと薄暗くなってない……?」
「うん。そういう演出。ほら見て。次はこのドアを開けて――」
「ひっ!?」

 ドアを開けた先の廊下。何者かの白い影がふうっと通り過ぎていく。
「……閉じてあげて。一旦、一旦ね」
「な、何いまのは!?」
「何か見えたね。何だと思う?」
「そんなのわからな――」

 言いかけて自分の役割を思い出す。そうだ。ストーリーを紐解いて謎を解いて考察して。それが自分が呼ばれた役割だった。
 今まで表示されたジャーナルやメモ書きのテキストの文言を思い出して整理する。

「……まだちょっと足りないような……」
「うん。じゃあ別のドアから行こうか。こっちのドアを開けて――」
「うわぁ……」

 次のドアを開けて表示されたのはまた薄暗い廊下。長い。本来の意味での画廊、ガレリアとでも言うべき細長い空間。
「このドアは閉じてあげて。どうする? 行く?」
「いや……行きたくはないけど……」
 通り抜ける過程でいかにも何か出そうだし、正面を何か横切っても怖いし、後ろを振り向いたら追いかけられそうで怖い。

「ていうかなんでいちいち開けたドアを閉じるの」
「何か別のものが通ったらわかるように。癖みたいなものかな」
「あは……、はは、行儀がいいってことかな……」
「ほら、この放送室のドア見て。少し開いてるでしょ」
「――え?」

 いきなり現実のほうに話を戻されて驚く。

「……ほんとだ。開いてる」
「ちゃんと閉めたよね」

「え……。え!? ごめん、私は記憶にない……。し、閉めた……かなぁ……?」
「わたしはちゃんと閉めたよ。最後にこの部屋に出入りしたの、どっちだっけ」

「…………」
「…………」

 静寂が訪れる。
 沢崎さんの目はディスプレイのほうを向いたまま。相変わらず瞳にはゲーム画面の青い光が映っている。そんな風に光が反射するには部屋が薄暗くないといけないはずだが、夏休みの午前の放送室の光量はそんなに少なかっただろうか――。

「と……閉じてこようか?」
「もう遅いかも」
「い……いやまあ、半開きだと冷房代もかかるかもだし、もったいないし、なんかよく考えたら居心地悪いよね、やっぱ閉めてくる――」

 ――バンッ!

「ひぇい!?」
 半開きだったドアが勢いよく閉じた。

「……入ってきちゃったかな。いい声。大丈夫、別に悪いことはしないから」
「え、へ、えぇ!? な、何が!? 何が入って……、悪いことって、何!?」
「風で閉じただけだよ」

 ぐっと言葉と息とゼロの唾液を飲み込む。
 そう……だよね。ドアはいつの間にかうっかりで開いてただけで、風で閉じただけだよね。よくあることだ。
 大丈夫、大丈夫。よくあること。

「どうする? 進む?」
「あ……、う、うん。ゲームの話だよね。進……もうか?」
「わかった。勇気あるね」
「ゲームの話だよね? ねえ?」

 沢崎さんのどこまでも静かで涼やかな声が、巫女とかイタコとか霊感っぽいものを想像させる。良くない傾向だ。

 落ち着いて、落ち着いて。ここはただの洋館。ちょっと探検に来ただけ――違うそうじゃない。ここは放送室。夏休み中の委員会活動で登校しただけ。

「あ、ここは怖いのが来るからね。大丈夫、すぐ終わるし簡単だから」
「う、うん」

 やっぱりそうか。こんな思わせぶりな長い廊下、何も起こらないはずがない。

「来るよ。来るよ来るよ……、ほら、後ろ」
 背中がぞわっとした。

 ゲーム画面で後ろを振り向く。さっき閉じたはずのドアのほう。開いている。
 ドアは開いているが、何もいない。カーテンが風にそよいでいるだけだ。
「いないと見せかけて、いるからね」
「う……うん……っ」
 パイプ椅子をつい沢崎さんのほうに近づけてしまう。ゲームの話をしているはずなのに背すじが妙に寒い。
 ゲーム画面で振り向いてほしくない。だが自分自身もこの放送室内で振り向きたくない。

「もう一回前を振り向くよ。そしたらもう後ろは見ないから。見ないようにして、次の部屋に行くね」
 ……ちょっとだけ期待はずれにも思える。
 画面の人物の呼吸と心拍数が荒くなっている演出があり、細く裂くようなBGMも流れている。画面の端にもなにかの影が一瞬映ったような気がする。

「ここすごいよ。ここ通り過ぎたら大きいから」
「う、うん」
「怖くないよ。いるだけだから。さっきからいるみたいだけど……なんてことない。この子だけなら大丈夫」
「…………」

 沢崎さんの技巧で画面に何かが直接映ることはなく、次の部屋に駆け込める手筈だ。でもそれがなんだか惜しい。見たいような、見たくないような、この背すじの寒さの正体が枯尾花であると看破したいような、でもまだきっとゲームは中盤――。

「武器を持ってない人には手出しできないのが、今のルールだから」
「へ、へえ……」

「……武器。持ってないよね?」
「え……、何言ってるの、持ってるわけないよ……。あは、あはは……」
 半笑いで言って横目で室内を見てしまう。
 薄暗い。
「……ハサミとかあるから今は見ちゃダメ」
「……っ」
 なんだか有無を言わせない声で息が詰まる。視野をゲーム画面と沢崎さんの横顔に戻す。

「開けて……。閉じてあげて」
 長く不気味な廊下を通り過ぎて次の部屋に着いた。今度は少し明るい部屋。何だかほっとする。

 さっきの長い廊下のシーンでは確実に何かがいて、見られているか追いかけられているかという気配がしていた。視点の操作の仕方によっては、もしかしてその“何か”が見えたのかもしれない。

「……ちょっと空気変わったね」
「うん。わたしたちには手出しできないってわかってくれたから。悪い子じゃないの」
 ……さっきから言い方がおかしい気がする。

「次のストーリー、追っていこうか。だいたいホラーゲームって、こういう探索パートと、逃げるパートを交互に繰り返してく感じなの」
「う、うん」

「んーと、この棚って何かあったんだっけ……開けて……」
 探索パートとやらが始まったらしい。薄暗いけれどさっきよりはおどろおどろしくない部屋。館のあるじが残した文書が表示されていく。

「『この苦しさが、何らかの成長に寄与していればいいのだが。もしかしたらこの苦しい生を何度も繰り返させたほうが、その者にとって都合がいいのではないか? 苦しみから抜け出そうと何度もあがく。あがいてなんとか生き延びているうちに、生き延びているものは私ではなく苦しみそのものになっていく。もはや私は生きている影に過ぎない……』……うーん、やっぱりわたしにはよくわかんないな」
「……だいたいわかってきた、かも……」
「閉じてあげて。本当? すごいすごい」
「いやでもそんなすごいものじゃなくて、大雑把に……ざっくりだけど」
 一度頭のなかを整理してから話す。

 開けて……、開けて。

「ここに住んでた人はとにかく……何か後悔してるみたい。病気で苦しんでるなかで何か事件があって……。たぶん、不幸な事件。事件が起こったことは防ぎようがなかったけれど、その後のことを悔やんでる……。またそのせいでどんどん苦しくなって」
「うん。なんとなく合ってそう」
「だから後悔……和風ホラー風にいえば未練?」

 恨みと未練は幽霊の母と言うこともできるかもしれない。
 ただ、恨みは自分の外からもたらされるものだが、後悔は自分の中にあるものだ。そこが違う。未練はその間のようなイメージがある。
 誰かから恨まれることと、自分で悔やんでいること、いったいどちらがより怖いのか。

「あ……、ちょっと良くないかも。耳をすませてみて」
「うん?」

 ゲームの音。何か聞こえる気もするが、よくわからない。音量をあげてもらったほうがいいだろうか。でもまたジャンプなんちゃらの大音量の演出で驚くのは嫌だ。
 あとはパソコンのファンの音。

「……聞こえた?」
「何が? 何も……静かだね」
「うん。すごい静か。こんなに静かなはずないのに」
「そうだよね。セミの声とか運動部の掛け声とか――、あ、そっちじゃなくてゲームの話?」
「……ううん。あまり深く考えないほうがいいかも」

 またなんとなく背すじが寒い気がする。だけど正体はよくわからないままだ。

「……閉じてあげて。とにかく後悔してるってことだね」
「だと思う。何か事件か事故があったっぽいのは……。本人じゃなくて、家族のほうなのかも」

「森庭さんは、後悔はある?」
「わ、私? 私は……。特に思い当たらない――」

 ドンドンドン、と激しくドアがノックされた。
「あれ……、げ、ゲームの音……、だよね?」
「ううん。あまり考えないほうがいいかも」
「え――」

 ドンドンドン。
「ひぃぃ……!? え、あれ、こここっちの部屋……? 誰か来た……?」
「そう聞こえるだけだよ。いい声。進めよっか。探索パートだからってあまり長いことぼーっとしてると、ほら」

 画面のなかの部屋が溶けるように歪んでいる。
「じ、時間制限的な……?」
「早く進めないとね。開けて……」

 ドンドンドン。
「……っ」
「……閉じてあげて」

 次の部屋に訪れる。何かが通り過ぎていく。
 上がっていた心拍数が落ち着いていく。ゲームの主人公の話か私の話かわからなくなってくる。

「……ごめんウソついたかも」
「そう?」
「うん。あ、まあ、ゲームとは全然関係ないんだけどね。後悔してることはある……と思う」
「そっか。そうなんだって」

 静かな声。私に話しかけているようなそうでないような。
 探索パートの次は追いかけられるパート。怖いシーンのはずだが、だんだん演出に慣れてきた気もする。

 ドアを開けて……、勝手に閉じられる演出が増えてきた。逃げ道がなくなっているということだろうか。
 開けて……、開けて……、開けて。

「うーん……ちょっとまずいかな……」
「……大丈夫だよ」
 開けて。
「森庭さん?」
 やっぱりだんだん平気になってきたと感じる。

 血の文字。クレヨンかな。
 溶ける部屋。目薬さした?
 よこぎる人影。棒アイスでしょ。あは。

 薄暗い部屋。開けて次の部屋へ。
 消えよ消えよつかの間の灯火。
 私は生きている影に過ぎない。
 本当に生きながらえているのは私ではなく、苦しみだ。
 後悔が私を生きている。

「……ねえ、大丈夫?」
「う……」
「ちょっとぼうっとしてたよ。大丈夫だった? 寒い? 冷房ききすぎかな」
「ん……、大丈夫。何だろう……。あ、でもストーリーはだいぶわかってきたよ」
「本当?」

 四階にある放送室。
 廊下を誰かが駆け抜けていく。笑い声。運動部の誰かがふざけているのだろうか。

「やっぱりこの館のあるじだった人は強く後悔してて……」
「うん。どういう後悔?」
「色々あるんだけど、夫婦のことが大きい……。でもそれが一番じゃない」
「……そうだよね。わたしもそう思ってた。あの白い影は誰?」
 白い影。何度か横切った。記憶の回想では、ご夫人は常に黒い大きな影で描かれていた。だから多分白い影とは別物だ。

「わたしが考えたのは、白い影は小さいから、夫婦の間の子供かなって」
 違う。頭が痛い。
「わかんないけど……違う、と思う。すごく長く気を病んで……苦しんでる……みたいで……?」
「うん」
「私たちにもわかることだって言われてる……気がする。ほら、夫婦の問題なんてまだ学生の私たちにはわからないけど、それとは違うもっと身近な……」

 背すじから冷たくてぬるい風が入ってくる。それが胸元にまとわりついて。
「開けて……」
 何かが触れる。
 横から見た沢崎さんの姿はマウスとキーボードを手にしている。でも彼女の手が私の胸に触れていると感じる。違うはずなのに。何かがおかしい。

「開けて?」
 私の胸元。そこを開けたら何かがあるのだろうか。

 恨み。あるいは未練。
 ――後悔。

 何か悔やんでることがあるか。今もあるか。苦しく、身を刺されるような、このために刺されても仕方がないというような後悔が、私の中に、そこにある。胸にある。

「開けて?」
 いびつな沢崎さんの声。いつも通りでとても愛らしい。
 いつの間にかその手はハサミを持っている。開いたハサミの刃。ああそれで刺されても仕方がない。申し訳ない。それだけのことをしてしまった――。
 ハサミの刃がもう開いて私の胸に食い込み始めている。
 もう少し力を入れれば。
 でも少し足りない。

「開けてよ」
 過去のことを悔やんでいる。その力だけでは足りなくて、未来のことももう悔やむべきだと思い始める。
 部屋の背景がカラメルみたいに泡立って溶けていく。

 私は後悔の力を四倍にする方法に気づいてしまう。そうだそうだ、いいことを思いついた。どうして気付かなかったんだろう。過去にしたことだけの力じゃ足りないはずだ! 簡単なことだった。あは。
 ハサミを受け取って自分で持ち直した。

 してしまったことだけじゃなく、過去にしなかったことを足せばいい。二倍。未来にするであろうことを足す。三倍。未来にしないであろうことを足す。四倍。

 ――とても悲しい。
 何をしてもしなくても。したこともしなかったことも。
 こういうことだったんだ。
 どうして生きてるんだろう。

 もうなくなってしまうには十分な力を込めることができる。ハサミが食い込めばタールみたいな後悔でどろどろの黒い血を吐いてやっと楽になれる――。

 どくどくと心臓が鳴る。
 耳鳴りがする。
 もうだめだと思う。あああああ、と無意味にみっともなく叫びだしてしまいそうだ、苦しさを断とうとしているのにどうしてまた苦しいのか、私がやっと自由になれるのに――!

「……閉じてあげて」
 涼やかな声がして、ハサミが私の直前の空間で閉じた。

「閉じて、閉じて、閉じてあげて。危ないから。閉じたほうがいいよ」
「あっ、れ……」
「はい、フタもしてあげるね」
 沢崎さんの手によって、刃がケースに収まった。

 私の手はいつの間にかハサミを持っていた。刃を自分の胸に向けて。率直に言って危なかった。怪我でもしたらどうするんだろう。
 もう一度涼やかな声で沢崎さんが言う。

「わたし語彙力ないけど、そういうのどういうか知ってる」
「なんだっけ……」
「“取り越し苦労”だよ」
「あ……、そ、そっかぁ……」
「これは……。机に置いとこうね」
「うん」
 私は素直に答えてハサミを机の上に戻した。

「そろそろ最後のシーンだけど、ストーリーはわかってきた?」
「ああ、うん……、うん。多分。だいたい……」
「ほんと? すごい。さすがだね」
 四階の放送室。今日は妙に騒がしい。運動部の集団がざわつきながら通り過ぎていくみたいだ。野球部かサッカー部が、階下の視聴覚室で試合のビデオでも見ていたに違いない。きっとそうだ。

「うるさいなあ……」
「わたし? ゲームの音量ずっと大きかった?」
「あ、ごめん。部屋の外が」
「……うん。そっか。で、どういう話だったのかな」

「言っちゃったらしょうもないんだけどさ、この演出も怖いのも、全部思い込みっていうか。この館のあるじの後悔が形をとったものなのね」
「うん。合ってると思う」
「後悔してることで自分が苦しんでるから、自分で幻覚を見たり幻聴を聞いたり……全部自分が原因なの。だからおどろおどろしいものはほんとは全然なくて、ただこの人が色んな形で後悔してるのを見せられてるだけっていう……ひとり相撲かな」

 画面に映る小さな白い影。
「じゃあ、この子は誰?」
「この子は――」

「私、だよ」
 キン、と一瞬だけ耳鳴りがした。頭が痛む。
 沢崎さんの瞳がじっと私を見る。ああ違う。この私じゃない。開けてはいけない。閉じてあげて。

「――館のあるじの、初恋の相手……。事故で亡くなった」
「…………」
 瞳。その下の涙袋。涼やかな息。 
 瞬間、人間にとっての時間の断片がつらなる前、一瞬が過ぎゆく間、世界の静止、人間の一瞬は十八分の一秒、見つめられる。

 そして問いかけられる。涼やかな声。
「大切な人のためになら、大きな力が出せる?」

 私は答える。私の声。
「そう、だから、大切な人のためにこそ、大きな過ちを○す」

 瞳が滑らかに輝いている。ゆっくりとまばたき。
 見られる時間が終わって、私はやっと解放された。

「えー……っと、だから……この館のあるじは、すごく昔の記憶……幼馴染の初恋の子を亡くしたことを後悔してて。大きくなってからもそのことでずっと苛まれて、ついには家族ともうまくいかなくなっちゃったみたい。多分、夫人が初恋の子に似てるとかもあって……。まあそれだけ後悔するんだから、亡くした事件か事故と関わってるはずなんだけど……その辺は割と消化不良?みたいな」
「あ……、そっかぁ。なるほど、なるほど……。そういうことだったんだ」

 涼やかな声が同意してくれて私は心底ほっとした。
「う……うん、そういうストーリーだと思う」
「へえ……。あ、もうエンディングだけど。じゃあこのエンディングは?」

 さっきもちらりと見たエンディング。なんだかいい感じに見えるが、ほとんどまやかしと言って良いと思う。
 過去の事件はもう起きてしまったことで、取り返しがつかない。館のあるじは気が触れてしまったようだし、夫人は特に言及されていないが行方知れずのようだ。

 穏やかで優しい歌曲。
 後悔も人生もやがて悠久に流れていくと言えなくもないが――。

「ぁはは……まあ、言いづらいけど……。ご都合主義のエンディングかなあ……? なんかいい感じに悲しい話でしたねで終わってるけど、実は何もなってないみたいな」
「そっかー……。そうなんだぁ。森庭さんがそう言うのならそうかも……ちょっと残念」
「……なんかごめん」
「あ、ううん。でもわかったこともあるからよかった。白い影のほうが、この人にとって本当に大事な……、一番大事な思い出だったんだね」
 それが一番苦しい後悔なのかもしれないけれど。

「あれ? あ、でもごめん、沢崎さん。そういえばこのゲームの主人公はどういう人? 館のあるじとは別人で、その記憶をたどってる人みたいだけど……どこのどなた? ゲームの最初の説明とかになかった? 私は見てないかも――」
「ああ、主人公はね」
 沢崎さんがじっと私を見る。

 放送室にはいつの間にか日が差している。窓をあけなくてもセミの声が聞こえてきた。
「“わたし”だよ。あなたを救いにきた」
「あはは、何いってるの」
「ゲームするときはいつもそれくらい真剣だからね。わたしがきたんだから、っていう気持ちでやってる」

 世界は救う必要がある。世界を救うことに意味を見出すのなら、大きくても小さくても、箱庭のように見えても世界はひとつの世界で、救う意味はある。

「もう救われてるんじゃないかな」
「……なるほど。そういう見方もできるのかも。取り越し苦労の反対だね。さすが森庭さん」

 人間の一瞬の十八分の一秒、静止した永遠の真ん中でだけ、救われて生きていられる。


  おわり
 

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夜のひつじ 2019/07/10 12:22

【小説】選択的青少年別性制度

本作は2017年5月のComitia120で頒布したオリジナル小説です。ジャンルはTS。全年齢向け。微リョナ。
イラストは表紙1枚、本文2枚。描いてくださったのはwk.さん

短めではっきりした結末もないものですが楽しんでいただければ。

本来縦書きのものなので横書き用に改行などを追加して読みやすくしています。


選択的青少年別性制度 本文






 高校に入学して三日目。
 羽山順はバスに揺られていた。学校近くから出て、彼の生活範囲を循環している路線。
(学校の拳闘部はダメだな)
 窓の外をなんとなく眺めながら、今日見学した部活のことを思い出す。
 ――なっちゃいない。
 そう思ったところで、ぽんぽんと肩を叩かれた。

「……?」
 座席に座ったまま振り返ると――制服姿の美少女が立っていた。
 彼女は少しはにかんで笑いながらピースサインを順のほうに向けている。
 柔らかそうな長い髪と濃いめのまつげと桜色の唇。背はかなり低いほうだけれどそれは顔の造形とは関係がない。美少女だ。そう表現するほかない。
(……誰?)
 しかし順に心当たりはなかった。

「あっ。わからない……かな」
「…………」
 もともと口下手なのもあって順は何とも答えられなかった。
「えっと。中学の時、同じクラスだった……十夏。木崎十夏だよ」
「……は?」
 順が一音だけ発生して返すと、彼女はびくりと肩を震わせた。
 その小動物的で臆病な仕草を見て思い出した。
「十夏か」
「うん。わかった?」
「……ああ」

 頭のなかは混乱している。
「あの……、ほら。選択的せいしょーねん別性制度で……。えっと。そのほうがいいって勧められて……、ほら。未来のために」
「……ああ」
 日本国内に住む人は、満十六歳になる年のはじめに、選択的青少年別性制度の説明会に参加しなければならない。
「高校はクラス別になっちゃって。挨拶もできなかったんだけど。いま見つけて。せっかくだから……」
 少年であった頃の木崎十夏の印象は薄い。けれど、整った顔立ちとどこかおどおどした仕草なら覚えている。

「お前が」
「あっ。うん……。ぼくは友達も少なかったし。ちょうどいいのかなと思って……」
 ちょうどいい。そんな理由で生まれ持った性別を変えられるものだろうか? 順にはわからなかった。
 しかし疑問を感じつつ順の目線はしげしげと美少女になった十夏を見てしまう。
(確かに面影はある)
 なんて思いながら――目線はやがて胸元に。
(ぺったんこ……ではない)

「おうち帰るところ?」
「……ああ。いや……。ジムに寄ろうと思って」
「ボクシング続けてるんだ」
 ああとかうんとかいい加減な返事をして、順はやっと十夏から目を逸らした。
 よくわからないが、小動物みたいな可愛い生き物が眉毛をぱしぱしさせながら話しかけてくると妙な気持ちになってしまう。

「ぼ……ぼくもお邪魔していいかな」
「は?」
「あっ。え……えっと。ジムの見学。……だめかな?」
「ダメじゃない」
「じゃあ」
「でも男ばっかりだぞ」
「平気だよ。だってぼくは――」



 日本国内に住む人は、満十六歳になる年のはじめに、選択的青少年別性制度の説明会に参加しなければならない。
 別性を選ぶケースは稀で、おおよそクラスに一人いるかいないかという確率。ただ別姓を選ぶなら、高校入学前の春休みはかなり一般的だった。次に多いのは高校二年の夏休み中で、特に女子の別性選択がピークに達する。理由は色々ある。問題も多い。




 十夏はおとなしく見学を続けていた。こじんまりとしたジムだ。表には一応女性も歓迎というような張り紙もしてあるが、内部は清潔感はあるとはいえどうしようもなく粗い男っぽさがあった。
 ベンチに座って辺りを見回す。全体的にはそれなりに綺麗に清掃されているけれど、コンクリートが剥き出しの壁と電球の照明が寒々しい。
 仰々しく設置されたリングの上には誰もいない。脇では順が黙々とトレーニングを続けている。

(……せっかく勇気出して話しかけたんだから。もっと色んな人と……関わらないと)

「順くん」
「……なんだよ」
 無口で、いつもどこか不機嫌に見える羽山順。
 それが彼の常態であることを思い出して十夏は気を取り直す。誰が相手でも順は態度を変えない。十夏はそこを好ましく思っていた。

「練習相手になろっか。ほら……あはは」
「……は?」
 またそんな答えを返されて本当に心が折れそうになるけれど――十夏は壁際に無造作に置かれていたミットのようなものを拾い上げた。
「これでトレーニングするんでしょ? うつべしうつべし、みたいな」
「素人がやったら怪我するぞ」
「ちょっとだけ。ちょっとだけ……」

 映画のなかのトレーナーがやっていたみたいに両手にミットをはめて素振りしてみる。
 ……ぶかぶかだった。今の十夏の身長は百五十センチほどしかない。高校一年の女子にしても小柄なほうだった。
「ワンツー、ワンツー、みたいな――」
 十夏が曖昧に笑いながら両手のミットを掲げた瞬間、順の目つきが変わった。

(え――)
 戸惑ったのも一瞬、何の予備動作もなく拳が飛んできてバシッと乾いた音を立てた、のを認識した瞬間自分の右手に強い痛みを感じた。
「うわ、すごいね――」
 ミットにパンチを打ってくれたんだとやっと認識し、慌てて構えなおす。

 バシッ、バンパン!

 たった三度打たれただけなのに体が後ろにのけぞりそうになり、やっぱりもう十分だからやめておきますと言いかけたところに――。

 下腹にも拳が飛んできた。
 パンチのコンビネーションの癖なんだろうか、と思ったのもつかの間、防具も何もつけていない制服姿の少女の下腹に拳がめり込む。

 鈍い音。
 速度と体重の乗った拳で柔らかい下腹の肉とその下の内臓が一瞬大きく形を変える。

「えぐっ! かはっ、はぁ、あ……、ぁあ……!」
 弾かれたように胴が前屈みになり、それから膝が崩れ落ちてその場にへたりこむ。
「わ、悪い。つい――」
「っ、あ……ぁ、はっ、あ……、けほっ」

 息ができない。
 倒れ込んだ十夏はコンクリートの床の冷たい感触を顔で味わいながらなんとか友人の顔を見上げた。
 順は青くなって呆然としている。
 本当に悪いことをしたと思ってはいるんだろう。
 しかしその一方で、彼の瞳が放っている輝きを見て――十夏は二週間前の昼下がり、先輩の女子に首を締められた午後を思い出していた。









 二週間前の朝。十夏は歯を磨くために洗面台に立って、鏡に映った自分を見た。
(背が低い)
 まずそう思ってしまう。頭ひとつ分くらい、顔が映っている位置が下がった。
 パジャマは今までも着ていたものだがサイズが全然合っていない。

「いー……」
 唇を軽く引っ張って歯を見る。歯の大きさは変わったようには思えないけれど多少は小さくなっているんだろうか。
(この見た目、どうなんだろ……)
 母親は可愛らしいと言ってくれたが所詮身内の言葉だ。自分では美醜の判断はあまりできなかった。ただ髪がふわふわで長いのは少しうれしい。

 しかしこれを維持するためにどうすればいいのか見当もつかない。
「十夏? お母さんはもう出るけど。今日は出かけるの?」
「あっ、うん。多分……」
「戸締まりしっかりして。車に気をつけてね」
「はーい……」
 じっと鏡を見ていたところに声をかけられたのでばつが悪かった。

(とにかく出かけて……。もっと人と話したり関わったりしなきゃ)
 それが別性選択を推奨された青少年の義務であるという。
 昨日のうちに母親がネットで注文してくれた衣料品が昼過ぎに届いたので、十夏はとにかく袖を通した。

 一応、仕方なく下着も変えた。シャツとカーディガンと、それからスカート――はまだ早い気がしたので細身のパンツと。出かけるのはすぐそこまでだけど、顔を見られるのが恥ずかしい気もしたのでキャスケットもかぶる。
「あ……靴」
 サイズの合うものがなくて、仕方なく母親の靴を出した。




 十夏が生まれる少し前くらいに、二十二世期からタイムマシンを使ってやってきた猫型ではないロボットが報告した。二○八八年の人類は、二○七○年から太陽活動の縮小による長い冬を耐え忍んでいる。おおよそ二十年のうちに飢餓や疫病などの要因で人口が激減し、打開策を過去に求めていると。

『世界終末時計』というものを知っているだろうか?
 二十世紀の冷戦時にもてはやされた、人類滅亡を零時とした場合に今何時何分なのかという時計である。
 未来からの警告以来、新たに世界終末時計に似たものが設置された。あらゆる気象データは太陽活動の変化が真実であることを裏付け、人類は一致協力して新たな氷河期に備えることになった。
 現在、西暦二○五七年。
 新氷河暦の開始は当初予定されていた二○八八年から二○九三年まで順延されている。現代に生きる人間のたゆまぬ努力と未来からの助言の結果、氷河期到来から決定的な打撃を受けるまでの猶予は長くなっていた。




 十夏は自宅から歩いて三分ほどの家の前に立った。
「はぁ……」
 すれ違った通行人はほんの数人だけだったけれど、随分緊張した。
 呼び鈴を押して、名前を伝える――。

「わー……、本当に女の子になったんだ!」
「はい。それで挨拶に」
「わざわざありがとう」
 招かれて家の中に入る。
 小学生だった頃に何回かお邪魔したことはある。二歳年上の、近所のお姉さん、七尾月子さんの家。
 中学時代は疎遠だったけれど、この四月から通うことになる高校が同じだ。

「へぇー……、可愛いじゃない」
「そ、そうですか」
「うん。とっても。あ、帽子とってみて」
「はい……」
「やっぱり。すごく可愛いよ」
 月子の笑みは華やかだなと十夏は思った。中学一年のときに、たまに学校で見かけた印象と変わっていない。少し憧れるような気持ちがあったのは事実だけど――まあ相手になんてされないだろうとも思っていた。

 当時は中学一年と三年。
 今は高校の新一年生と三年生。

「へぇ、へぇー、へぇー……」
 穏やかだが興味本意さも感じられる頷きを何度も繰り返しながら月子は十夏をしげしげと眺めている。
「あ、ごめんね。お茶でもいれましょうか」
「よかったら、いただきます」
「声も可愛いね~。あはは、新しく妹ができたみたい。紅茶でいい?」
「はひ」

 照れながら返事をして、とにかくリビングのソファに座った。
「別性を選ぶ人って初めて見たかも。やっぱり役所の人に色々言われるの?」
「……はい。色々……。未来のデータとかもだされて」
「そっかー。大変だったね。でも偉いねー」
「そんな、全然」

 新氷河期の到来から人類が受ける打撃を減らし、繰り延べするためには――ひとりひとりの努力が肝心になる。
 ひとりの力は小さくても集まれば大きなうねりを生み出し、猶予が延長される可能性は高まる。

 選択的別性制度もそのひとつだ。明らかに男になったほうがいい女や、女になったほうがいい男が人類の中には存在するらしい。未来人は生まれ持った性別から転性したほうが良い人物を選び出し、現在に報告し、生体と脳のデータの移植まで提供する。


「ただ心がけを変えて頑張れ、っていうだけだとあまり効果がないらしくて」
「うん?」
「いっそ全部入れ替えちゃったほうが、新たな……歴史のうねり?が起こりやすくなるんだって。言われました」
「そうなんだぁ……」
 平静に納得されてしまって、あれ今ので伝わったのかな、というか自分ばっかり喋ってるみたいで恥ずかしくなってきたな、と十夏が焦ったところに紅茶とお菓子が運ばれてくる。

 いい香りだ。
 そして高校三年生にもなったら、もう十分大人なんだとも思う。誰かの家にお邪魔して、親を介さずにこんな風にもてなされたのは初めてだった。
「だから……その、せっかくそういうことに決めたんだから、役に立たなきゃいけないと思ってて」
「うん」
「何かあったら……、えと。相談?とか。してください」
 微妙に思い詰めたような十夏の言い方に月子は少しだけ眉をひそめた。

「相談……相談かぁ……」
「あっ、はい。いきなり言われても困りますよね。ただそうしたほうがいいって……周りの人ともっと関わりなさいって言われました。そうでないと――」
「そうでないと?」

 返されて、十夏は役所で受けた説明を思い出す。
 未来から提供されたデータによると、別性を選ばなかった木崎十夏は何の意味もなく誰にも影響を及ぼさず子孫も残さない人生を歩んで――。

「……なんでもないです」
 ソファに座った姿勢のまま前のめりになって、背筋は緊張した猫みたいにぴんと伸びてしまっている。十夏はそんな自分の状態に気付いて嘆息した。

「ぼくって、友達も少なくて……、あれ? こんなこと言いたいわけじゃなくて。ただ……」
「うん。大丈夫。わかってるよ」
 年上の女性らしい気遣いで月子は十夏の背を撫でた。
 あたたかくて優しくて安心してしまう。
 そして同性になった今ではその気遣いを下心なく、憧れの人に接する気持ちだけで受け取れるのは嬉しかった。

 一方で――わかってなんかないだろうなと思う。
 説明会で見せられた映像とデータが脳裏をちらつく。"あの現実"は、少年だった心を打ち砕くには十分なものだった。

「と、とにかく……一緒の学校に通うことになるし。月子さんのこと、一番に思いついて……。あの。よろしくお願いします……」
「はい、よろしくね。あー、もう私も三年かー……」
 優しくて穏やかで気安い口調で言って、月子はソファに深くもたれかかる。

 それを見て、十夏もやっと肩の力を抜いた。出された紅茶とお菓子に手をつける。
「……おいし」
「あはは、そう?」
「は、はい……。え? あれ? お菓子おいしい……甘い」
「味覚も変わったのかもね」

 言われてそうかもしれないと思う。
 そういえば昨日は甘いものを食べなかった。だから気づかなかった。
 さくさくのクッキーをひと噛みするごとに頭のなかがぴりぴりと痺れ、甘味で舌が蕩けそうになる。
 そしてチョコが食べたいと強く思った。

「相談……相談ねえ」
「んく……っ、なにかありますか?」
 クッキー二枚を平らげてしまったところで月子がぼんやりとした声をあげた。
「なくはないけど……すごく個人的なことで」
「個人的なことでも。それが積み重なって……みたいなことはもらった冊子にも書いてありました。だからどんなことでも――」
 十夏はごく純粋な気持ちで言い募った。

 別性選択が推奨される人物には二つの条件がある。まずひとつは生まれもった性での歴史への影響が薄いこと。ふたつめは、にも関わらず周囲には歴史に強い影響を残した人物がいることだ。

「私、恋人がいるんだけど」
「は――」
 手に持っていたティースプーンを取り落としそうになった。

 恋人。
 確かに。居てもおかしくはない。
 高校三年生で、美人で、長い黒髪も綺麗で笑みは穏やかで華やかで性格も良い月子さんなら。

(別性を選ばなきゃ、こんなことすら多分知らないままだったんだ……)
 予想できたはずなのに予想しなかった事実を聞いて、十夏はつまりぼくはバカなんだなと結論づけた。

「恋人がね、最近困ったことを言ってくるの」
「ど、どういう……困ったことを」
「私の首を締めたいって」
 からーんと今度こそティースプーンがフローリングに落ちた。持っていたのがカップじゃなくて良かった。

「くび? しめる……?」
「ごめんね。びっくりさせたかな。変だよね。でも……今の十夏くん――十夏ちゃんになら話してもいいかなと思って」
 相談して欲しいと確かに言った。
 個人的なことでも良いと言った。

「性癖……みたいなものなのかな。ちょっと偏ってるのかも」
「そ――そうですね」
 頷いてしまってから、十夏はひとつ前のセリフを思い出す。
 今の十夏になら話してもいいかもしれないこと。
 恋人の特殊な性癖のこと。

 ふたつを並列させれば見えてくるのは、十夏の別性選択は、月子のなかでは性癖として処理されているらしいことだった。
 違うのに、と抗議したくなる。十夏の場合は性癖ではなく、推奨されて、ただ純粋に人類の未来を――役に立ちたいと思って。何かできることがあればと思って。

「ど、どうして首を締めたいって思うんでしょうか」
「さあ。それは本人に聞かないとわからないし……。そのほうが興奮する?とかじゃない」
「――――」

 あっさり言われてしまって二の句が継げなくなる。
 いきなりとんでもない男女の、大人の世界だった。
 少女になったばかりの十夏が戸惑い半分で聞かされる類のことではない。
 想像してしまう。
 体格の良い男が月子の上に馬乗りになってのしかかって、ドラマで見るみたいに首に手をかけて――。

「相談っていうと、それくらいかなぁ」
「う……は、はい。ぼくも……ちょっと、考えてみます……」
 とぎれとぎれにお茶を濁す答えを言うことしかできなかった。
「あ、そうだ」
「……?」
「どうせなら自分でしてみればわかるかも」
「……え? 自分で、って――」

 月子は立ち上がり、まず十夏が落としたティースプーンを楚々とした仕草で拾い上げてローテーブルの上のソーサーに戻した。
 それから十夏に向き合うように正面にしゃがむ。

「やってみていい? 首。締めさせて」
「な――」

 月子の手が十夏の肩にかかる。
 冗談だろう、と思ってまだ動けずにいる十夏を、月子は一瞬冷たい視線で見た。
 ぞくっと背筋に悪寒が走る。
 肩にかかった手に力がこもり、十夏は思い切り引き寄せられた。その拍子にソファから落ちてフローリングにしりもちをついてしまう。

(抵抗――)
 できなかった。
 そもそも体格がひとまわり違う。男女の差ほどではないし、月子はスリムなほうではある。だが十五センチほどの身長差は圧倒的だった。

「可愛いね」
 耳元でささやかれる。
 月子は十夏を後ろから抱きしめる形で拘束しながら、ゆっくりと喉に手をかけた。
「やめてくださ――」
 あわてて月子の腕に手をかけて押し戻そうとする。
 だけど無駄だった。
 すぐに月子の片腕が両手とも抱きすくめて動けなくした。



(力……、全然入らない……)
 熱い吐息が耳元にかかる。
 背には月子の胸の膨らみを感じてはいる。
 だけどその柔らかさよりも恐怖のほうがずっと大きかった。

 体温がどんどん上がっている気がする。喉に食い込んだ指は離れてくれない。意識が遠くなっていって、それと同時にドクドクという血流の音だけを大きく感じる。

「あは……、ほんと、かわいい」
 視界は白み、自分と背中に接している体温だけになって、でも耳にかかる吐息は熱い――じゃなくて、多分耳を食べられている。口に含まれている。
 感じる圧迫と痛み。

「のど仏、なくなってるね」
 ひゅ、という自分の喘鳴が冗談みたいに聞こえる。
 どうしたらいいのかわからない。どうしてこんなことになったのかもわからない。
 細い指がますます食い込んでくる。

 耳の形にそって髪の毛が張り付いているのを感じる理由は、そこを舐め上げられているからだ。
 遠のく意識。
 でも耳孔に誰かの粘膜が直接触れるのは初めての経験で、耳の中で直接鳴っている水音をひどく卑猥に感じた。

 少しくすぐったくて、けれど圧倒的に痛くて苦しくて、そしてなぜかとても悲しかった。もう本当にここで死んでしまったりするんだろうか、と思ったところで――意識が途切れる前のほんの数秒、耳から生じて体の奥から白く湧き上がる快感。

「あ……、あ……」




「あ……」
 ――目が覚めた。
 いつの間にか十夏はボクシングジムの更衣室のベンチの上に寝かされていた。気を失っている間に見た夢は、記憶が再生したものだ。

「ぅ……。あ……、はぁ、はぁ……」
 全身にはびっしょり汗をかいている。体を動かそうとすると下腹に鈍い痛みが広がる。

「気が付いたか」
「う、うん……」
「悪かった。本当に。痛むか?」
「そりゃ……、いた……っ、痛いよ……」

 なんとか半身を起こしてベンチに腰掛ける。痛みのせいでうずくまるのに近い姿勢になってしまうけれど。
「……すまん」
 言いながら、気配が近づいてきて――十夏は体をびくりと震わせてしまっていた。

 怖かった。暴力の気配や、男性の汗の匂いを感じることが。
「ち、近寄らないで」
「すまん」
 順は謝ってはいるが十夏の言葉を聞き入れてはくれなかった。隣に座って十夏の背を撫でてくる。
 怖気が走る。記憶も蘇る。

 だけど今はそれを拒否することもできない。男を強く拒否すること自体が怖かった。とにかく落ち着くために口だけを動かす。
「他の子にこ、こんな……殴ったらダメだよ」
「当然だろ」
 当然ならどうしてぼくを殴ったんだと思う。
「とにかく……悪かったよ」
 言いながら順は更に体を寄せてくる。
 また怖気を感じたところで――今度は彼の手が十夏の胸に伸びた。

「えっ、ちょっ……、な、なんで」
「…………」
「やめ……なんで胸にさわって――、や、やめてよ」
「いや……」
「こ……、声出すよ」
 精一杯それだけ言って、手が引いた隙に立ち上がる。
 それから逃げるように更衣室を出た。







 週明けの学校。
 昼休み。
 十夏は母親にもたされたお弁当を机の上に出してからため息をついた。
 女子の制服もスカートもだいぶ着慣れたと思う。
 別に変には見えないと思う。

 ただ――友達ができる気配は一向に無かった。
 別性を選択したことを知る人はほんの僅かで、同じクラスにはいない。だけどどこかびくびくしながら過ごしてしまう。暴力をふるわれた二つの事件が十夏の胸に濃い影を落としている。

「木崎さん」
「……?」
 唐突に話しかけられて顔をあげると、同じクラスの女子だった。

「私たちとお弁当食べない?」
「え――いいの?」
「いいよいいよ、歓迎」
 誘ってくれたのは、普通そうなグループの女子だ。
 彼女の後ろでは三人ほどが興味深そうに十夏たちのやりとりを見ている。

「あの子たちも一緒に。同じ中学で――。よかったら」
「あ、うん。ぜ、ぜひ」
 やった、誘われた。友達を作るチャンス――と思ったところで教室の入り口に見知った顔が現れる。

「十夏ちゃん、こっちこっち」
「え……。つ、月子さん」
 クラスメイトがざわつく。一年生の教室に三年生が現れたからだ。しかも美人。
「ごめんね、ちょっと借りていくね」
 手を引っ張られ、十夏はお弁当を持ったまま教室の外に連れ出されてしまっていた。当然、声をかけてくれたクラスメイトは置き去りにして。



 月子に連れられて十夏は生徒会室に案内された。
 生徒会のメンバーは生徒会室で昼食を摂ることも多い、なんて説明を聞きながら――。
「へえ。キミが木崎さん?」
「はじめまして。木崎十夏です……」
 月子は生徒会の副会長。彼女に紹介されて話しかけてきたのは、生徒会長の桐島絢香。朝礼のときに目にした覚えはある。もちろん三年生。すらりとした美人。でも気の強そうな印象。

「十夏ちゃんにも、もしよかったら生徒会に入ってもらいたいなって思って」
 月子は笑顔で優しげに言うけれど、十夏はじわじわとした恐怖と消せないわだかまりを感じていた。
 首を締められた一件の後、月子はまるであんなことが無かったかのように明るく穏やかに接してくる。なんなら一緒に登校しようかという誘いを断って、入学以来わざわざバスに乗る時間をずらすよう気をつけてまでいるのに。

(どうしてこんな……普通に接してくるんだろう)
「十夏ちゃん。十夏くん。どっちなんだろうね」
「…………」
 桐島絢香の皮肉げに面白がるような口調を聞いて、十夏は自分の出性が伝わってしまっていることを理解した。皮肉げに笑う絢香と、その隣でニコニコと穏やかな笑みを浮かべている月子。月子経由で伝わったに違いない。

 いやな予感がする。
 なんて程度の悪寒で済んでいたのはここまでだった。
「この前話したっけ? 私の恋人ってね、絢香のことなの」
「え――」
 思い出す。相談されたこと。
 首を締めたがる、恋人。てっきり屈強な男だと思っていたけれど――。
 同性の恋人。十夏はぽかんと口を開けてしまっていた。

「なにバカみたいに口開けてんの?」
「あ……、す、すみません」
「女同士で付き合ってたって、アンタよりは正常じゃない?」
「な、」
 何も言い返せずに口ごもった十夏に絢香は一歩近づく。
 相変わらず皮肉げに笑っている。その後ろに控えて、月子も穏やかな笑みを浮かべたままだ。

「オトコ女。オンナ男? どっちがいい?」
「そんな……、そんな言い方しないでください。ぼくは別に、その……」
「気持ち悪い」
 パンッと音がした。
 視界が大きく揺れて、目線はいつの間にか絢香のほうではなく、そこから九十度逸れた生徒会室の窓のほうを向いてしまっていた。

 頬が熱い。

「え……?」
 熱い頬を押さえながら十夏は顔の向きを元に戻す。
(……ぶたれた? どうして――)
 絢香は笑みを浮かべたままだった。そして――その瞳の奥には、今まで何度か見た欲望の色がけぶっている。首を締められたとき。お腹を殴られたとき。月子や順が浮かべていたのとまったく同じ色。

「ぷ……、ふふ、良い玩具見つけたわ」
「おもちゃ――どういうことですか。どうしていきなり、」
 パンッ。
 また視界が揺れる。
 脳みそがシェイクされて一瞬気が遠くなりかけて、さっきは手加減されていたんだと知って――それから今度は頬と鼻の奥が同時に熱くなった。

 気がつけば床にしりもちをついてしまっていた。ぽた、と床に血が落ちる。鼻血だ。
「大丈夫? 鼻の根本を手で押さえて……。そうそう。とりあえず座ろっか?」
 絢香の代わりに月子が前に出てきて、優しく介抱してくれる。十夏を椅子に座らせ、ハンカチで血を拭き取った。
 月子は優しく接してくれてはいる。でも――。

(い、異常だ。こんなの……。ぶたれたのに、月子さんは何も言わないままで)
「ねえ、アンタ」
「……っ」
「今日のこと言える相手、居ないでしょ」
「え――」
「役所にでも駆け込む? 元に戻してくださいーって。無理だと思うよ。わたしは優秀だから」
「で、でも……こんな暴力がゆるされるわけ……」
「歴史に良い影響が出てるなら許されるんじゃない?」
 おかしそうに笑いながら絢香は十夏の隣の椅子を引いて座った。そして――手を伸ばしてくる。

 触れる。胸元。
「ちゃんと胸もあるんだ? へぇ……」
「や、やめてくださいっ」
「ぶたれたいの?」
「……っ」
 助けを求めるように月子を見る。だけど――彼女は穏やかに笑っているだけだった。瞳の奥にはあの色を宿らせて。

「あ……そういえば十夏ちゃんに聞きたいことがあったんだけど」
 月子は鼻血を拭き取ったハンカチを広げると、汚れた面を内側にして綺麗に折りたたんだ。
「生理、きた?」
「――――」
 絶句する。
「この顔。まだなんでしょ」
 嘲笑しながら絢香は手をゆっくりと移動させる。十夏の胸元から下腹へ。

「痛っ……」
「うん? なに? 怪我でもしてるの」
「やめ、痛、ん……!」
 手が十夏の制服の裾をまくりあげる。
「……これ」
「み、見ないで」
 数日前に殴られたそこには痣ができていた。椅子に座ったままうずくまるようにして下腹を隠そうとする十夏だったが、絢香の手は容赦なくその部分を強く押した。

「あ……!」
「私にも見せて。うわー……ひどい。女の子の体なのに。痕になっちゃうかも。可哀想……」
「誰にやられたの? 男だよね」
「……っ」
 興味深げに絢香と月子はその痣を眺め、手でゆっくりと撫でさする。
「ま、やっぱりね。みんな考えることはいっしょなんだよ」
 一通り撫でてから絢香は手を離した。

「みんな考えること……って、何ですか」
「私たちは務めを果たして楽しく遊び、また務めを果たす。――これからも昼休みは遊び相手になってくれるなら教えてあげてもいいよ」
 美しく皮肉げな笑みを見てただ戸惑っている十夏に、今度は月子が告げた。
「ねえ、私も痕つけていい?」
「え」
 するすると十夏のスカートがまくりあげられる。それから白い内股に月子はそっと唇をつけた。ごく自然に。

「……っ」
 吸われた、と思った瞬間にちくりとした痛みが生まれた。その後に感じるのはこもった吐息の熱さ。湿った唇と、見上げてくる瞳の粘膜。昏い色。







 十夏は校舎の廊下をうつむいて歩いていく。終わりかけの昼休みとその喧騒を遠くに感じた。結局食事はほとんど喉を通らなかった。
 昼休みが終わるまでただ歩いているだけのつもりだったけれど、視界の端に映った人陰にふと気がついてしまって顔を上げた。
 すると――陰の主が目で礼をしてから歩み寄ってくる。

「十夏」
「…………」
「悪かった。この間は」
「だいじょうぶ。……もういいよ」
 ばつの悪そうな表情を浮かべた羽山順の顔を見上げて、彼のほうが身長が二十センチ以上高いことを改めて意識する。

「あの。順くんは……」
「なんだよ」
 訊きながら何かに気づく。
「ボクシング頑張ってるんだよね」
「まあな」
「そっか。えらいね。目標とかあるの?」

 順ははっきりとは答えなかった。そのかわりにゆっくりと歩きだす。十夏も歩調を合わせる。何人かの生徒とすれ違ってから改めて口を開く。

「あのとき……どうして殴ったの」
「……悪かった。自分でもわからない」
「いいよ。だけど……。あ、あのことは内緒にしておくから、ぼくのことも内緒にしておいてくれるかな」
「内緒?」
「別性のこと。気持ち悪がられるかもしれないから」
「……ああ」

 十夏は自分の下腹をなんとなく手で押さえる。
 順はそれを横目で見た。
 校舎から渡り廊下に出る。順は一応、当初の自らの予定通り、校舎のわきにある水飲み場に向かった。
 十夏がついてきているのはもちろん意識しながら。

 水飲み場には他の人影は無かった。先が逆さになっている蛇口をひねる。
「ぼくも」
 十夏もつぶやいて体を屈め、ぎこちなく髪をかきあげた。
 その仕草をまた横目で見ていた順と十夏の目が合う。
「どうしたの?」
「いや……」
 順は顔を上げ、袖口で口元を拭いた。

 それから――まだ腰を屈めて水を飲んでいる十夏を後ろから見た。
 その無防備で小ぶりな腰つきと、華奢な膝の裏を見ているうちに衝動が訪れる。
 考える暇もなく順は十夏の肩を掴んだ。

「うん? なに――」
 振り向かれる前に手に力を込め、中途半端な姿勢だった十夏を無理やり引き倒す。順がイメージした通り、十夏は地面に倒れ伏した。イメージと少し違うのは、十夏が驚くでも抗議するでもなくただぼんやりと見上げてくることだ。

「……順くん」
「悪い、俺は――、俺が」
 今は驚いているのは順のほうだった。今更自分のやってしまったことに説明をつけようとして思考が空転する。

 一方で、十夏は――気づきかけていた何かに気づいた。息をひとつ小さく吐いて、倒れた姿勢からゆっくり半身を起こす。肘に泥がつく。
「あのね。ひどいことしてもいいから、他の人にはぼくのこと言わないで」
「あ……ああ」
「そんな顔しないで。迷惑かけてるのはぼくのほうだと思うから」

 どうせ何も生み出さない性なら自分で殺せばよかった。他人任せにしたから罪悪感とか快楽を与えるかわりに殺してもらわなければいけなくなった。
「ごめん、肩貸して」
 素直に応じてくれた異性の肩に抱きついて、抱きしめた。




(了)






コメント

本作の紙版はBOOTHに卸していたのですが、ずいぶん前に売り切れて入荷していませんでした。先日部屋を整理していたら4部だけ余っているのを見つけたので、BOOTHに送って現在入荷作業中です。
残り4部だけですが、もしタイミングがあえばご購入ください。
入荷作業が終了して買えるようになったら一応Twitterでも告知する予定です。

※7月11日追記
 BOOTHに入荷されております。
※7月12日追記
 完売しました。

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