遠蛮亭 2022/09/23 11:59

22-09-23.中国史-郭子儀

おつかれさまです!

9時からゲーム制作をやりたかったのですが、昨夜眠れなかったツケで2時間ばかり眠ってきました。とりあえず制作に関してはタクティカルコンバットやSlgプラグインと競合せず、いろいろと効果を発揮するプラグインを入れて動作検証しました。ステートAの状態(騎乗状態)でしか使えないスキル(騎兵突撃)とか、合体攻撃スキルとか、いくつかのスキルを作っておいてスキル2を覚えたらスキル1を忘れるようにとか、ほかには味方を殴ったり敵を支援したりできるように。今回入れたプラグインは砂川赳さまのものです。他にも使いたいものが多くあるのですが、村人Aさまのプラグインと競合するので全部は入れられません。タクティカルコンバットを入れてカブト割80(攻撃力5倍)をつけないと長船の「呪装機人」としての戦力が発揮できないからですね。通常戦闘でもタクティカルパッシブは解除スイッチ入れてなければ有効なので、打撃力が顕著に上がります。というかパッシブつけないとダメージが15くらいしか出ない現状。

齋姫とか姫巫女たちに関しては魔力と魔防の数値をなん倍かするようにしてらいいかなと思ってます。アルティミシアでは女性が男性の倍強いとして、さらに巫女がその1.5倍、姫巫女が1.5倍、齋姫が1.5倍とすると瑞穂さんは通常の6.75倍…、これはさすがに数字がわけわかんないことになりますから、瑞穂さんで4倍というところでしょうか。瑞穂さんのスキルは気軽に使える神焔以外、すべて時間のかかる隙の大きいものであること、そして長船の能力が神力の一番強力な部分阻害する限定的な封神結界を秘めているので、スキルを「神力」ひとつではなく「神力」「上位神力」に分けて上位神力だけ封印するように作れば原作準拠になるかなと。Slgプラグインはまだわかりませんが、今回必要ないかもしれません。今の状態だと裏ステータスがタクティカルコンバットと競合してステータス表示できないので、それも修正お願いしてます。

ゲーム制作の話はこの程度にして、以下名将伝。本日は中国唐代、中興の名将郭子儀です。

………………

郭子儀(かく・しぎ。697-781)
郭子儀は華州鄭県の人である。父・郭敬之は綏・渭・桂・寿・泗の五州刺史であった。その息子郭子儀は長ずると身の丈六尺余り、体躯逞しく容姿衆に優れ、はじめ武挙で優れた成績を示し補左衛長史に任ぜられる。一生の間に則天武后、中宗、叡宗、玄宗、粛宗、代宗、徳宗の七代に仕え、その間60年余を軍旅に過ごし、その中でも天下の安危を一身に担うこと20余年。郭子儀はしばしば軍事の要職を任され、何度も重大な叛乱戦争平定の指揮をとった。彼は唐朝中期の著名な大将であり、傑出した軍事的才覚の持ち主であった。

 天宝十四年十一月、范陽節度使・安禄山叛く。十五万の叛軍を率いて范陽から大挙南下し、一か月にして河北各郡と河南栄陽、洛陽を落した。翌年正月、安禄山は洛陽に在って大燕皇帝を自称し、唐朝危急存亡。この危急に際して玄宗李隆基は郭子儀を朔方節度使に任じた。郭子儀は兵を率いて東に叛軍を討たんとする。四月、郭子儀は雲中、馬邑の両郡を回復したのち、井?から出て河東節度使・李光弼の部隊と会合、一挙攻勢に出て史思明の守る九門、藁城両県を四十数日で抜く。ここに至り常山軍の九県はことごとく唐朝の手に帰し、安禄山、史思明の叛軍は後方に強大な威嚇勢力を迎えることとなる。

 安禄山の後方基地は平戸と范陽の両鎮である。安禄山は洛陽を占領したのち急ぎ西進して帝を称し、ついで後方基地を確保した。河北各郡は洛陽から范陽に至るために必経の地であり、この後ろを扼されるということは退路を断たれるに等しい。そして実際河北の守りは失われ、安禄山はまさにすぐ後方を断たれ困境に立った。これよりのち、顔真卿、顔杲卿が挙兵して安禄山に反抗し、安禄山はすぐさま主将たる史思明に数万の兵を授けて河北回復に向かわせる。この状況下において郭子儀と李光弼は井?から出兵、史思明の後方を攻め、この一戦の戦略は李光弼が指導し、きわめて正確な策で史思明の軍を破った。

 郭子儀、李光弼の両軍は九門、藁城の両県を占領したのち、兵を率いて常山に下る。史思明は人馬を整えてこれを追った。郭子儀は史思明の軍を見遣って「我ら行けば賊もまた行き、我ら止まれば賊もまた止まる」と喝破し、一計を案じて精騎五百を派遣、彼らに挑発させて史思明の軍を誘導させる。史思明はそれと知らず三日三晩これを追い、唐県に至って人馬困窮。砂河で休養しているところに郭子儀らの本隊が襲い掛かり、疲労している史思明軍を強襲して大いに史思明軍を破る。安禄山は史思明が苦境にあると聞くや蔡希徳に増援の騎兵二万、また范陽から牛廷?に歩兵一万を授けて増援に向かわせた。河北地区の叛軍は五万人を超えた。

 郭子儀の率いるところの兵力は叛軍に及ばないと言えども、彼はただひたすらに速戦を求めるのではなく、策を弄して敵の疲労を待った。郭子儀率いる唐軍は沙河より北走し、叛軍に追撃を誘う。史思明は兵力大増して再び顧みることなく、これを追撃。郭子儀は恒陽に到達後、城池を堅牢にし、“賊来たらば守り、賊退けば追う”の戦術を採り、5万におよぶ叛軍が正攻法での戦いを求めるも受けなかった。賊は疲労状態の中撤退することもできず、六月末、郭子儀は史思明率いる幾万の兵馬が疲労耐えがたい状態にあることを見抜くと、大規模な攻勢に出ることを決定した。彼は李光弼の軍と連合して十万余の兵力を確保し、嘉山に五万の叛軍と一大会戦を展開する。郭子儀軍は勝利し、結果叛軍の死者4万余、俘虜1千以上を得た。叛軍の首領・史思明は馬上から打ち落とされ、鎧を壊され槍を折られ、狼狽して営中に逃れて急ぎ残部を収集して博陵へ退去した。郭子儀、李光弼は勝ちに乗じて軍をすすめ、博陵を囲む。

 嘉山の一戦で唐軍の威勢は大いに振るった。河北十余郡では紛々として叛軍の守将たちを殺し、次々唐朝に帰順を願う。安禄山は後方基地を徹底的に遮断され、往来を行き来する使者もみな唐軍に捕獲される。洛陽の叛軍は家族范陽、平廬にあり、退路を断たれて人心倉皇、軍心動揺した。加えてその上、唐の将軍・哥舒翰が堅守する潼関を攻めねば安禄山西に進むを得ず、北に帰るも得ずして地位揺らぐ。彼は非常に恐慌して狗頭軍師、高尚をもって自負する厳荘を招いた。厳荘を罵って曰く「貴公は我らに造反を教唆し、万に一つの失敗もないと言った。今事を起こして幾月が過ぎ、我は?、鄭幾州を得たがいま、この形勢は唐軍の挟撃を受ける状況にある。これのどこが万一の失敗もないというのか」と。ここに叛軍は商議して洛陽を棄て、范陽に退く。

 この一大好局を作り上げたのは郭子儀と李光弼の連合作戦の結果であった。もっともそれは郭子儀が敵の疲労を誘う戦術を採った故であり、本来郭子儀、李光弼の両軍をあわせれば10万余人あって5万の敵の頽勢を圧倒したのは当然の帰結である。しかもこれは郭子儀が戦術の上道を採り謹慎とした態度を取り、偽って逃走して見せ、敵軍を疲労の極地に追い込んでから出戦し、嘉山の戦いで敵の退路を断ち、戦闘の形勢を整えての一大殲滅戦を行い、その上での勝利であった。このとき、唐王は郭子儀と李光弼の提出する潼関堅守の策を採取し、北に范陽を攻めさせ、安禄山、史思明の勢力を黄河以南から滅ぼさんと命ずる。ただこのとき唐の帝は驕傲にして凡庸なる昏君、唐玄宗であり、戦局を精確に把握せず現場の声に耳を傾けず、哥舒翰率いて堅守する潼関守備軍に出戦しての反攻戦略を脅迫、哥舒翰はこの不自然な策に無理強いされる形で唐軍を率い出戦、安禄山軍の前に覆滅された。叛軍はすぐさま西に潼関を抜き、長安に攻め入り、玄宗は倉皇として成都に逃げ走る。唐王朝の東、西の両京は均しく叛軍に占領され、戦局は急速に悪化の一途をたどった。

 天宝末年7月、太子李亨が霊武にて登極、年号を至徳とし、粛宗に即位した。郭子儀は命を奉じて朔方軍5万を率いて駕前に赴き、1年間の準備期間をおいて唐軍を終結、朔方軍を増強する。叛軍はこの時期内紛が続出し、安禄山は息子の安慶緒に殺され、史思明は范陽にこもったきり安慶緒と足並みを揃えず。これらの状況を踏まえ、粛宗は一大反攻戦略を決策、まず両京の回復を目的とする。至徳2年4月、粛宗は息子の李保を天下兵馬元帥に、郭子儀を副元帥に任じ、洛陽および長安の回復任務を授ける。李保には寸毫の軍事的才覚もなく、実際に軍を率い責任を担うのは郭子儀の役目であった。

 5月、郭子儀は軍を率いて鳳翔から東に進み、長安略取の準備を整える中で城西、清渠を守る安守忠、李帰仁の軍隊と遭遇する。両軍対峙すること七日、安守忠と李帰仁は偽装退却で郭子儀を誘い、郭子儀はそれを罠と見抜けず追撃した。安守忠、李帰仁は即時騎兵九千をもって長蛇の陣を布き、郭子儀がその中腹を衝いたところを首尾の両翼が挟撃、城側は歩兵をも投入して唐軍を撃ち、結果として唐軍は大敗を喫す。郭子儀は潰走する軍を整然と収集してまとめ、それによってかろうじて面目をほどこした。

 清渠の戦いの敗戦以来、郭子儀の指揮は不当である、精騎に対する経験が欠乏している、これは長安回復の機が熟していない証左であるという声が軍中に流れていったん退却する。9月12日、唐軍は3、4か月をかけて兵力を補充した後、再び李保を総大将、郭子儀を副将とした15万の大軍を編成し、再び長安攻略に打って出た。9月27日、唐軍はまたも長安西面にて安守忠、李帰仁と張通儒率いる10万の軍勢と対陣する。

 郭子儀は清渠の戦いにおいて叛軍の精騎部隊の突撃によって壊乱させられたことを訓戒とし、軍を縦深の形に構え防備を固める。また自ら中軍を率い、李嗣業に前軍、王恩礼に後軍を任せ、同時に側翼の防護を強化した。交戦開始ののち、叛軍の李帰仁が真っ先に唐軍に挑戦、李嗣業すぐさま前軍をもって出撃し、李帰仁を撃退する。しかし叛軍はすぐさま部隊を再編すると、兵力を集中して李嗣業の前軍に吶喊、唐軍を撃滅する。李嗣業は勝ちにおごり武器を奪い物資を奪う叛軍に乗じ、隊伍を整頓し陣形を調整して再び猛攻、李嗣業が士卒に先んじ槍を振るって奮戦することで、戦場の形勢を好転させた。

叛軍は正面突撃では先がないとみて、騎兵隊を出陣させ迂回して唐軍の東に回らせ、右翼からの奇襲を企図する。郭子儀はこの戦況を見てすぐさまウイグル鉄勒部の領袖、僕固懐恩に四千のウイグル騎兵で迎撃させる。このウイグル騎兵こそ郭子儀が叛軍の騎兵に対抗すべく特に粛宗に建議してウイグルの懐仁可汗より借り受けた部隊であり、数は少ないとはいえその戦闘力はきわめてすぐれたものがあった。事実、叛軍の騎兵はたちまちのうちに消滅させられる。しかるのち、郭子儀はまた彼らに命令を下して叛軍の後方に迂回突撃を仕掛けさせ、同時に前軍と中軍を指揮して猛攻勢を発動、唐軍は両面からの挟撃を受けながらも、ついに叛軍を潰走させるに至る。半日の激戦で唐軍が殲した敵の数は6万余人にのぼる。叛軍は残余の兵を収集して長安城に籠った。このとき本来であれば唐軍は勝ちに乗じて敵の退路を截つべきであったが、元帥・李保の疲労ゆえ兵を収めることとなり、郭子儀らの主張する追撃は棄却された。結果として安守忠、李帰仁、張通儒の三人は夜陰に乗じて長安を放棄し、東に撤退する。

三日ののち、郭子儀は兵を率いて東進を継続する。唐軍の行動は遅延に過ぎ、叛軍はその間に新しい部隊を増新する時間を得た。洛陽を確保する安慶緒は厳荘に洛陽防衛の主力を授け、西上させ長安からの退歩軍と会合し、合力して唐軍を阻めと命じた。このとき、叛軍の総兵力は15万に達している。

10月15日、郭子儀は新店にあって叛軍の主力と遭遇。叛軍は山を背に陣を連ねた。郭子儀はまず正面攻勢を仕掛け、またウイグル騎兵たちによる側面強襲を仕掛ける。正面攻勢は利なくして終わるも、僕固懐恩率いるウイグル騎兵は南山に至って叛軍の側翼に猛烈な沖撃を加えた。叛軍はウイグル騎兵に恐懼し、矢を見てはこれウイグル騎兵の矢なりとおびえ、たちまち壊乱する。郭子儀はこの機に乗じて大軍による猛攻を仕掛け、正面と側面からの挟撃を形成し、大いに叛軍を破る。厳荘ら叛軍の将らは残余の兵をまとめて東へとのがれた。10月16日夜、安慶緒は主力の惨敗を聞き大いに驚き慌て、騎兵300騎と歩兵1000人を率いて洛陽を逃れ、?城に逃れる。18日、唐軍は東都洛陽に入り、これを回復。郭子儀は両京回復の大功により代国公に封ぜられた。粛宗は詔を下して「我が国家と言えども、それを再造したのは実に卿の働きである」と讃嘆した。郭子儀の名声、大いに振るう。

その実、郭子儀の両京回復における作戦指揮は十全十美とはいえなかったが、彼は叛軍の精騎隊の精悍に対して巧妙な陣立てを組み、両面挟撃戦術を採り、ウイグル騎兵の勇猛果敢を十二分に発揮させて敵騎を破り、敵軍の側翼を衝き、それらがすべて的に当たった。しかるに、彼は自己の力量に拠らず、ウイグルの力を借りるという道を取った。それは上策ではありえない。しかし凡庸なる昏君粛宗は大喜びで「克城の日、土地、士庶は唐に帰れ、金帛、子女は皆ウイグルに帰せよ」と無恥の条件を飲み、のちに千年の後患を残した。また、長安、洛陽攻略戦において唐軍は10幾万の兵力を一極に集中させ、他の路を完全に無視したので、いまだよく叛軍を全滅させるには至らなかった。

乾元元年9月、郭子儀と李光弼は詔を報じて九路節度軍を率い、20万の兵を統べて、安慶緒討伐に出た。粛宗の失誤は郭子儀と李光弼、どちらもが元勲であってどちらを上位に置くということをせず、結果として元帥職を置かなかったことにある。宦官の魚朝恩が観察容宣慰処置使となったが、実質彼が軍中における最高権力者となった。

郭子儀は兵を帯びて杏園を渡り、衛州を囲む。安慶緒は7万の軍を3路に分けて、衛州の増援に向かわせた。郭子儀は陣を厳にしてこれを待ち受け、3000名の弓の名手を土台の上に布いて彼らに曰く「敵軍至らば我は装って撤す。敵兵必然これを追う。その時汝らは一斉に起ってこれを射殺せ」交戦の時至り、郭子儀は偽って敗走、叛軍は果然としてこれを追い、土台に至る。埋伏の士兵一斉に起って矢を放ち、まさに矢の降る事雨のごとく、敵兵の大半が死す。郭子儀は転進して反撃、殺して回り、安慶緒は危機を感じて?城に撤退、人を遣わして史思明に助けを求める。史思明は范陽から30万の大軍を率いて来援しながらも敢えて正面からぶつからず、人馬1万の先遣隊を?陽に送り出し、勝鬨を上げた。

乾元2年2月、唐軍は?城を重々に包囲し、城墻をふさぎ?河からの水灌城を切って落とした。城中に遍満する水流。冬から翌年の春までの間、安慶緒は堅守して城門から出ることがなかったが、城内糧尽き肉も野菜もなく、樹皮を削ってそれを喰うありさま。ネズミの肉に銭4千の値がつけられたこともあった。唐軍は城殞ちることを確信し、叛軍の中にも投降の気風が満ちた。しかし唐軍には統一的統率者がおらず、宦官・魚朝恩は軍事に不慣れ、ゆえに進退の機微を逃し、城を囲む日々が空しく過ぎて成功ならず。史思明はその機に乗じて?城に逼り、各路の兵馬を印新、?城から50里の限りにおいて四面の営を置き、それぞれに軍鼓300個を配備し、互いに鼓を鳴らして呼応、それぞれの営から500騎の精騎が出撃して、毎日唐軍を襲い、唐軍が出撃すると巧みに鋭鋒を避けて本営に退く。これが連日に続けられ、唐軍は日に日に損失を重ねる。史思明はまた一軍を派遣して唐の運糧車を襲い、これによって唐軍の食糧欠乏、軍心動揺するに至った。

3月、唐軍の屯兵60万は安陽河北において史思明自ら率いる5万の精兵に戦いを挑む。唐軍にとってこれは遊兵を狩るていどのことであって、簡単に揉み潰せるはずであった。しかしながら史思明は機略縦横、大軍を前にして奮撃し、いよいよ交戦激しくなるや凶風たち起こり砂は飛び石走り、天は昏く地も暗く、相手を尺る事あたわず。天変地異を前に彼我双方大乱となり、唐軍は南に向かって潰走、叛軍は北に奔る。唐軍の損失はことさらひどく、各路の兵馬は皆荒涼として本鎮への撤退を願った。

宦官・魚朝恩は平素より郭子儀の功労を忌み妬んでいたので、?城の失利に乗じて皇帝に郭子儀の誣告を上奏した。7月、昏君粛宗は郭子儀を召し返し、突如として李光弼に指揮権を委ねる。衆将泣き暮れ、みな道が絶えるまで哭きながら郭子儀を見送った。郭子儀は将士一人一人を励まし、馬上の人となって去る。

上元2年、李光弼が河陽の守りを失うと、郭子儀は新たに再び起用され、河東に出兵、いくつかの大きな勝利を得る。しかし新たに新帝代宗が即位するとその疑いを受けるところとなり、またもや兵権を解除され、閑職を与えられて飼い殺しとされた。宝応3年、吐蕃が20万の大軍をもって長安に攻め入ると、代宗は陝州に逃れ、ここでまた郭子儀が起用されて関内副元帥とされる。彼は4千余の勇猛剽悍なる散兵を収集してこれを指揮し、疑兵の計を用いて偽りの声勢を張り、吐蕃軍を退けて長安を回復した。これより、彼は代宗の非常な信頼と重用を受けるようになる。

 広徳2年、郭子儀は部下の大将率いる僕固懐恩の朔方軍と河東にあり、唐朝の謝礼を受けた。その7日後、郭子儀は朔方節度使を奉命して詔を受け出征する。朔方の兵はみな郭子儀の古くからの部下であり、郭子儀来たれりと聞くと僕固懐恩から離れて郭子儀を歓迎した。僕固懐恩は300の親兵を率いて霊武に逃れ、ウイグル、吐蕃の人馬10万を誘引し、連合軍は?州を過ぎて奉天に逼った。代宗は郭子儀を派遣、郭子儀が兵を率いて防御に出陣すると、ウイグル、吐蕃の衆は畏れ戦わずして退いた。

 永泰元年(765)9月、僕固懐恩は再びウイグル、吐蕃、吐谷渾、タングートらの諸部族30万余で唐に侵攻。唐朝はまたも国都長安を脅かされる。郭子儀はすぐさま代宗に建議して出陣し、要地を扼守。自ら兵馬1万を率いて?陽を堅守し、長安を保全した。

 10月、郭子儀はひたすらに涇陽を堅守、吐蕃、ウイグル連合軍10万余に団々囲まれ、形勢は非常に危急。10倍の強敵と相対して郭子儀は泰然自若、毫たりとも慌てず。彼はまず衆将に防備を密にするよう厳に命じ、堅守して闘わず、また密偵を放って密に敵軍の動向を監視させる。

 まもなく、郭子儀は敵の間隙を見抜いた。元来、ウイグルと吐蕃の出兵は唐の叛将・僕固懐恩の誘引によるものだったが、これが鳴沙にて急病、没。吐蕃はこの機に乗じてウイグル軍を統括しようとする。ウイグル軍を率いる主将、懐仁可汗の弟たる薬葛羅はこれに対して吐蕃の併呑工作に防備を固め、兵営を涇陽城北から城の西に屯を移す。郭子儀はかつて安史の乱の両京回復においてウイグル軍と肩を並べて戦った経験からウイグルの将士の威望をよく知り、いったん城から逃れてウイグル軍に反攻の一撃を与えんと衆将に説いた。同時に親兵、李光?を城から出してウイグルの幕舎に派遣する。

 李光?はウイグルの主将薬葛羅にまみえたのち、郭子儀の言葉を薬葛羅に伝えて敵対する理由なし、と伝える。薬葛羅はその腹中懐疑にまみれ、「郭令公の言葉は確実に信じられるのか? 貴公は我らを欺こうとはしていないか? 僕固懐恩は汝らの背信を我らに告訴し、郭令公に詰問せんとしたが既に死したり。いかでか確実に和睦を求めるなら、郭令公みずから我らの幕舎に来て談ぜよ。」と返した。

 李光?は城に帰って郭子儀に薬葛羅の言葉を伝えた。郭子儀はすぐさま衆将を招集して対策を商議する。郭子儀曰く、「現在敵は我らの10倍、死力を尽くしたとて勝ちを得ることは難しい。しからば我はウイグルの将士と親密な関係を結ぶため、我自ら彼らの幕舎に向かい、彼らと談話しようと思う。これのみが戦わずしてウイグル軍を退ける方策であろう」と。多くの将士は郭子儀の意見に同意し、500人の精騎を選抜して郭子儀に随行させ、大将の安全を保全せんとする。しかし郭子儀は「和睦の使者に兵はいらぬ、人多かれば彼らの懐疑を増し、会懐の大事を壊す」と言ってそれを断った。

 会議ののち、郭子儀は数名の従者を従え、戦馬にまたがってウイグルの幕舎に出発する。郭子儀の三男、郭晞は大慌てで奔り、郭子儀の馬前に跪き地に慟哭して曰く、「ウイグルの軍はこれ一様に虎狼のごとき敵人、父上は堂々たる大唐の元帥であられ、これが敵中に入って擒われ俘虜となれば、その身を喪う羽目になり軍は瓦解いたします」と。郭子儀これに答え「現在敵は強く我らは弱く、形勢は危急。いかでか交戦すれば我ら親子ともに死することは必定、滅亡の憂き目にあうであろう。我今前進するは誠をもって相対し、談判を成功させんため。これあに四海の黎民に洪福をもたらさんがためである! ただ国家社稷を保全するために我の命で足りるのだ。平和のために親子の関係などどれほどのものというのか?」しかし郭晞は聞かず、苦々として阻まんとする。郭子儀は大いに怒り、「道を開けよ!」と一喝するや鞭を一振りし、打擲するや部下に命じて捕縛させると、自らは馬を走らせ西門から城を出た。

 出城ののち、郭子儀は放漫な速度で馬を走らせ、幾名かの従者に命令して大声を上げて道をゆく。「郭令公来たり、郭令公来たれり……」と。薬葛羅はこれを聞き、この真偽を疑い、唐軍の詐謀かと惧れ、すぐさま陣立てを開いて形勢を整え、蛮弓を構えさせ、陣立てを厳にしてこれを待った。郭子儀はこれを一見して明白にウイグルが自分を疑っていることを知る。しかれども毅然として兜を外し、鎧甲を脱ぎ捨て、刀槍を放り、馬策を外し、粛々としてウイグルの陣に入った。

 薬葛羅およびその主酋長たちは唐将が幾名の従者だけを従えて、甲冑も衝けず徒手空拳でやってきたのを見て、下心あってやってきたという疑念を棄てた。彼らは仔細に弁識し、果たして郭子儀の信義を知る。郭子儀がウイグルの陣前に至ると、ウイグルの大小酋長らおよび薬葛羅率いる領袖たちは一斉に下馬し、倒地して郭子儀を拝し歓迎の意思を表す。郭子儀もまた身をひるがえして馬を降りると、薬葛羅を助け起こし、各位の酋長たちも起こし拱手して挨拶を交わした。

 寒喧の時が過ぎると、郭子儀は緊々の地で薬葛羅の手により保護され、ウイグルの侵犯を責めて「貴公らウイグルの軍隊は唐朝江山の戦いで大功あり、朝廷もあなた方の力に感謝しているのである。しかるになぜ貴公らは旧約に背き、大軍を動員して唐朝の京師を囲んだか? 僕固懐恩が朝廷に背いたのは自らの母親を遺棄するも同然、貴公らがこれに同調したのは前功を棄て新たに怨仇を結ぶに等しく、唐に背反して叛臣を幇助する愚蠢なる行動といえよう! 我は今天に身を挺してここに来て、このいささかなる道理を説明している。貴公らはいつでも我を殺せる状況ではあるが、ただしその場合、我が将士は貴公らと決死の戦いを繰り広げるであろう。」薬葛羅はこれを聞いて慙愧の念に囚われ、また害を懼れ、郭子儀に語りて曰く「郭令公よ許されよ、我らは騙されていたのだ。僕固懐恩は天可汗(中華皇帝)の駕すでに崩じ、令公もまたすでに死し、中原に主なく、我ら今こそ兵を起こすべしと。今天可汗長安にあり、令公もまた兵を統べてここにある。僕固懐恩は不義によって天に殺されたところ、我らはまた大将軍に従いその敵を討たん!」

 郭子儀は薬葛羅に再び唐を攻めないという同意をとりつけ、十分な成果を上げ、なおこの機に乗じて薬葛羅に説き「吐蕃は背信して義を棄て、中原の内乱に乗じ、朝廷の甥舅の親であることを顧みず、しばしば兵を興して辺境を○す。内地に侵入し、いたるところ焼き殺し剽掠す。貴公は何ぞ機に乗じずして反戈の一撃を加えんか? はたしてかくのごとく、貴公は吐蕃を撃敗しその財物を奪うべし。これをもって唐朝との友好を継続させれば、一挙両得、その美両全なり。これ天の与える貴公らへの良機であろうぞ!」と。薬葛羅はこれを訊いて同意を表明し、「我らは僕固懐恩に騙されここまで至り、今令公にまみえて罪ありと知る。我ら令公のために力を振るい、吐蕃を攻打しその功をもって罪を雪がん。」

 郭子儀の談判は成功し、双方合力して吐蕃の計劇を討つことを決す。しかるのち、郭子儀と薬葛羅は酒を酌み交わし、ともに請願して「大唐の天子万歳! ウイグルの可汗万歳! 両国の将相万歳! 唐回両軍、合して吐蕃を撃ち、違約者あらば戦塵に死し、九族滅びるであろう!」と。

吐蕃軍はウイグルが転じて唐軍と盟を結んだことを知り、大勢危急を感じて連夜撤兵、西に奔る。郭子儀はすぐに朔方の兵馬使白雲光率いる精鋭と薬葛羅を会合させ追撃。自らはまた大軍を率いて後に続く。連合軍は霊台西原赤山峰まで追い、大いに吐蕃軍を破って斬首5万余、俘虜万余、吐蕃軍に奪われていた工匠、婦女4000人、牛羊駱駝馬万余を獲得する。吐蕃の残党は狼狽して逃走し、その路上唐の人馬の蹄鉄を聞いて風声鶴唳、怯えて退いた。この一戦で郭子儀の名声はさらに朝野に轟いた。単騎兵を退かせる、は千古に伝わる高名な逸話である。

大歴元年(767)、吐蕃が連年内地を侵す。郭子儀はまた副元帥として河中、?州の承担備御の任を授かる。大軍を大歴14年(779)5月、徳宗李?が即位、郭子儀は朝廷に召し返され、山陵使、主管代宗安葬事宜に任ぜられ、尚父の號を賜り大尉、中書令の位に進んで副元帥、所兼節度使の職から免ぜられた。建元2年(781)、郭子儀逝去。享年85歳であった。

郭子儀の一生は軍旅の一生であった。まず安史の乱を平定し、ついで吐蕃、ウイグルの叛軍を抵御して京師を確保し、戦功はきわめて高く、威は四方を震わせ、敵は郭子儀出征と聞けば常に風声鶴唳、逃げ出した。彼は軍を治めるに寛厚であり、深く人心を得、将士は彼を見ること父母のごとく、戦場ではみな死力を尽くした。彼は人材の発見と育成にも才能を発揮し、のちに彼に見いだされた数十人の人材が将相の位にのぼった。

郭子儀は一心に朝廷につかえ、忠義は無双。安史の乱ののち、なお節度使が兵権を握ることを許した朝廷に反対したが、朝廷の命令とあっては強硬に反対しなかった。郭子儀は功高くとも驕慢にならず、重兵の兵権を掌握しても異心を抱くことがなく、賞罰で懲されても毫たりと怨み言を言うことがなかった。

大歴2年(767)12月、郭子儀の父の塚に窃盗犯が入った。人々はみな宦官・魚朝恩の仕業であると知り、朝廷は郭子儀の怒りを懼れ叛乱を恐れて恐懼した。郭子儀は入朝したとき代宗とこの事件について談義したが、郭子儀は「わたくしは兵を率いて征戦すること多年、部下の将士は多くが野外に屍をさらしております。わが家のことは天が我を譴責したこと、わたくしの不徳の致すところであります」と言って朝廷を安心させた。

家にあって、郭子儀は子女たちに厳格な生活を要求した。郭子儀の6番目の息子、郭暖は昇平公主を妻に迎えたが、あるとき「お前は父親が今上の皇帝だといって偉そうなことを言うが、わたしの父はお前の父を恐れる必要などないのだぞ」と言った。昇平公主は非常に怒り狂って父に郭暖の言葉を直訴する。郭子儀は家に帰った時この話を聞いて大いに怒り、郭暖を叩き起こして入朝し代宗に謝罪した。代宗は郭子儀に対して「貴公が我が恩人であることは事実ではないか? “痴らず聾かず、家に翁のためになさず。”わが娘らは自分を誇るが、我らが今あるは貴公のおかげであろう?」と寛容を示したが、郭子儀は帰宅後、郭暖を杖刑40打の刑罰に処した。

史書に言う郭子儀の評価がある。「功は天下を蓋うも主これを疑わず、位人身を極るも衆これを妬まず」と。

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以上でした、それでは!

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