遠蛮亭 2022/10/13 10:00

22-10-13.中国史-呂布

おはようございます!

本日拙宅売却について買取業者さんと相談があるので作業不能、なのでくろてんの推敲もやってる暇がなく、なのでどうしよーかなと思いましたが昨日の夕方作った翻訳文がありましたので、とりあえずそれでお茶を濁させていただきます。なんでもいいから毎日記事をあげる、というのを絶やしたくない遠蛮でした。

翻訳したのは三国時代の呂布。じつのところ、大して強いというイメージはないです。関羽・張飛・劉備と3対1で戦って圧倒したとかいうのも「三国志演義」の創作ですしね、董卓を殺したという功績で顕揚されているだけで、実際このひと名将と言えるのか? という気がするんですがどうなんでしょうね、一応、有利な状況で張飛には勝ってますが。あと、後漢の来歙はカクヨムさんにあげてからここにあげたかどうかわかんなくなってるんですが、今度確認して上げてなかったら改めてアップします。

………………

呂布(?-198)
 呂布は五原九原の人である。東漢末の群雄の一人であり、著名な将帥であった。呂布は驍勇善戦、当世当たるべからざる武勇をもち、「人中の呂布、馬中の赤兎」の誉称で呼ばれた。しかしながら勇はあっても籌がなく、物事万事に軽率であり、その場その場の利を求め、信義を積むことがなかった。ゆえに終わりを全うできず、失敗して終わる。

武芸超群・董卓を誅殺す
 呂布は人となり驍勇猛武、若くして并州で官途に就き、并州刺史・丁原は騎都尉に任ぜられて河内に屯すと、呂布を主簿に任じ自らの腹心として重用した。

東漢末、漢王室は衰微しその大権は落剝し、天下ふんぷんとして四方に群雄が起った。189年、漢の霊帝が崩じ、士大夫と宦官の間で権力闘争が繰り広げられた結果、士大夫の代表である禁衛軍官・袁紹が皇室外戚の何進に従い宦官排斥の密謀を進めたが、何進の妹何皇后はこれに同意しなかった。二人は相談し、河東に駐屯する董卓を迎えた。董卓は軍を率いて洛陽に進みつつ、まだ現地に到着する前から宦官誅殺の必要性を訴え、太后を脅迫した。当時、丁原は并州刺史として招きに応じ洛陽に赴いており、世上、まず宦官が何進を殺したので、ここにおいて袁紹は兵を率いて閹党を平定した。丁原はこのとき叛乱平定の功により執金吾。このとき董卓はようやく洛陽に入り、丁原殺害を画策した。一つには丁原の存在が邪魔で障害になるためであり、もう一つには丁原の勢力拡充のため相対的に董卓の勢力が薄められるためだった。これにより董卓は人を遣わし、丁原の曲部司馬となっていた呂布に調略をかけ、呂布の利を重んじて義を軽んじる人柄を使嗾して、丁原の油断に乗じこれを殺させた。董卓は丁原の部曲を傘下に編入し、勢力を大幅に増すと、ついに迫って袁紹、曹操らを走らせ、洛陽城を抑えた。

 董卓は呂布を騎都尉に任ずると高い信頼を寄せ、非常にその武勇を愛して親子の情誼を結んだ。呂布は当世比類ない膂力を誇り、号して《飛将軍》。のち、彼は徐々に昇進して中郎将に進み、都亭侯に封ぜられた。

強大な権力を手にした董卓は驕慢にして恐れを知らず、縁故によるひきたてを乱発したので、これに反発した敵がつぎつぎと頭角を現した。ゆえにどこへ行くにも安心できる身ではなく、つねに呂布に身辺を警護させる。董卓は性、凶暴にして躁鬱の気があり、ちょっとしたことで憎悪や恨みを興した。あるとき、呂布が言うとおりに動かないということで董卓は手戟をとってこれを投げつけ、呂布は閃光の身ごなしで遠く避け、なんども宥め賺すと董卓はようやく怒気を消したが、これ以降呂布の心には董卓を忌み警戒する気が首をもたげる。そうとは知らない董卓は呂布を中閣の守りに派遣し、呂布はこの機に董卓の侍女のひとりと密通した。

この少し前、司徒・王允は呂布を并州の勇士と称し、互いに深い結納を結んだ。呂布は王允に相対すと董卓が自分を殺そうとしていることを述べて嘆き、教えを請うた。当時王允と朴射の士孫瑞は密謀をめぐらして董卓誅殺を画策、呂布が董卓に恨みを持っているとみるや打算を巡らし、彼に内応を
請うた。呂布ははじめ躊躇い、「わたしと丞相(董卓)は父子の間柄であり、わたしが彼に叛けば世人のそしりを受けはしないだろうか?」と。王允は「あなたが彼を父と思っても、彼はあなたを子と思うだろうか? あなたたちの間に親子の情があろうとは思われないが」呂布はついに王允の乞いに応じた。

 192年4月、献帝の病気快癒を祝って朝臣が美央殿に会し、董卓は朝服に着替えて朝見に備える。防御のため、道路両脇に兵を並べ、左面には歩兵、右面には騎兵を並べ、宿営の帳に起居してそこから宮門に向かった。警備は厳にして森のごとく。同時に呂布に自ら親しい将領を率い従えさせて自らの身辺を警護させたが、このとき呂布は王允の使者に接し、機に乗じて董卓を殺すべしと聞く。呂布は騎都尉・李粛と勇士秦誼、陳衛ら十余人をみな衛士の服に着替えさせて北掖門に埋伏、董卓を待たせ、董卓がやってきたところに李粛が戟をあげて、勇士たちが一斉にかかることを計画した。しかしながら董卓はずる賢く、朝服の上に鎧と面頬をまとって備えた。李粛らは董卓の脇を刺したがトドメには及ばず、董卓は大いに恐れ、駕車から墜落していそぎ呂布を呼んだ。呂布は応じて応え、「逆族董卓、詔によって討つ!」槍をもって進み出、矛を構えて董卓を刺し殺し、部衆に命じてその頚を斬らせた。董卓の死によって国家の大害は除かれ、王允は呂布を称え奮武将軍に任じ、仮節、儀比三司を与え、爵を進めて温侯に封じた。

反復投奔、終に徐州を取る
 呂布が董卓を殺したことで、董卓の武将たちは呂布を畏れ、あるいは恨むようになった。その後まもなく、董卓の武将李寉が長安を攻撃して占拠、呂布はこれに抵抗すること能わず、ついに数百騎を率い董卓の首を鞍上にひっさげて武関を出、南陽に入り、袁術を頼った。しかしながら袁術は呂布の人となり薄情で義に薄く、反復常ないことを嫌い、ゆえに彼の亡命を容れず拒んだ。呂布は南陽を出て今度は河内の張楊に投じた。このとき、李寉は呂布の首に多額の懸賞金をかけたので、張楊の部下は謀って呂布を殺そうとした。呂布はここにもとどまること能わず、終に逃れて袁紹を頼る。

 呂布と袁紹は常山で黒山義軍の首魁・張燕と大いに戦い、この戦いで呂布は城を馳せ墻を飛ぶといわれる名馬《赤兎》と健将・成廉と魏越の働きで堅陣を落とし、敵将を殺し、陣を破って帰る。このようにして戦うこと10余日、張燕を壊滅させたが、呂布は破敵の功を自らの功績と誇り、袁紹からの援軍要請にも応じなかった。また、呂布の麾下の将領たちはみな横暴で恐れ知らずであり、軍法規律を毫たりと守らず、ここに袁紹と呂布の間にも空隙が生じる。呂布は自らこの地も安心できないと悟って、袁紹に請うて洛陽回復に向かった。袁紹はこれに応じ、呂布を司隷校尉に任じて送り出したが、ひそかに配下の将に命じて道中呂布を殺させようとする。呂布はこの陰謀を知ると、巧みに難を避けるべく、人を遣わして自らの陣中に演奏を成し、帳中に怠け者を装い、袁紹が油断したところを悄悄と逃げ出した。夜、袁紹の士卒は武器を取って呂布を殺そうと突入したが、すでに失踪してものけの殻であった。

 陳留太守・張邈は董卓の乱に際して曹操とともに起義した間柄であり、流寓の呂布を迎え、同時に兗州牧を譲った。呂布は濮陽を占拠し、郡県を自らの影響下に置く。ただ鄄城、東阿、范県のみが堅守して呂布を拒む。曹操はこれを聞いて驚き恐れ、急ぎ軍を返して呂布を撃つ。両軍は対峙すること100日を超えたが、結局曹操の大勝に終わり、呂布は東に逃げ走って劉備に身を投じた。

 このころ、劉備と袁術は淮河上に軍を並べて対陣し、一挙あれば大戦不可避。袁術は呂布の本性を知って呂布に書信を送り、ともに劉備を殺すべしと誓わせた。劉備は袁術と互いに生きるか死ぬかの恨みを抱いていた。袁術側からまず食料20万石が送り込まれ、つづく軍事活動の間の兵糧も断たせることがない見通しが立った。この状況に呂布は至宝を得るにしくと信じ、ついに水陸の兵を率いて進み、下邳を直撃、劉備の武将許耽を寝返らせ、呂布は手引きを受けて下邳に侵入、張飛が迎撃したが呂布の前に大敗した。時を同じくして呂布は劉備の老母と息子を捕らえ、これにより劉備は呂布に投降、呂布は袁術からの食料を引き続き受け取りながら劉備と講和し、勝手に劉備を豫州刺史に任命し、自らは徐州牧を自称した。

軒門射戟、去就常なし
 袁術は呂布を敵に回すことを畏れ、自らの息子と呂布の娘をめあわせようとした。呂布はこの申し出を受け、袁術は大将・紀霊に兵30000を率いさせて劉備攻撃のために派遣した。呂布麾下の武将たちは呂布に袁術の手を借りて劉備を殺すべしと勧めたが、呂布はそれを棄却した。「袁術が劉備を打ち破れば、北方の将領たちがこの地を包囲するであろう。われらとしては劉備を救わないという選択肢はない!」紀霊は呂布を説き伏せにやってきたが、呂布は敢えて彼らを進ませなかった。

 呂布は小沛の西南一里の距離に砦を築き、人を遣わして紀霊、劉備を宴会に招いた。宴も酣、呂布は紀霊に対し「劉備はわが弟のようなものだ、彼が攻められ苦しんでいるのを救うために私はきた。わたしはこのよろしくない戦いの確執からあなたたちを解き放ち、この紛争に和平を調停しようと思う」いいおわるや、一把の戟を持ち出し、営門に立たせると今度は湾弓に矢をつがえる。ぐるり周囲を見渡して、曰く「私の射る矢が戟の頭の小枝を、一発必中で射当てたなら、諸君らは囲みを解き、兵を已めて帰るべし。もしあたらずんば、思う存分殺し合うがよい!」諸将は息を飲み目を凝らし、呂布の一矢を見守る。まさに矢は戟の小枝に当たり、諸衆みな大いに呂布の弓術を讃えた。翌日、袁術、劉備軍双方は兵を已めて去る。

 しかしながらこのとき、劉備はすでに兵万余を擁しており、呂布はこれを放置することに不安に駆られた。よって自ら出兵して劉備を攻撃し、劉備は敵せずして曹操のもとに奔る。

 197年、袁術が寿春で皇帝を僭称。政敵たちへの圧力を軽減させ、同時に有益な力を持った領袖を抱き込む。5月、袁術は韓胤を派遣して呂布に皇帝僭称について説明し、子供たちの婚姻を進めようとした。

 沛の相(知事)陳珪は袁術、呂布の聯合して徐州と揚州がつながることを憂慮し、これは国家の害として呂布に勧め、婚姻を阻止しようとした。呂布はこの時かつて自分が難に堕ちた時、袁術が自分を容れなかったことの恨みを思い、心変わりして娘を婚姻話から降ろさせ、袁家との関係を断絶した。韓胤をとらえて許都の曹操のもとに送り、曹操は韓胤を殺した。

 この当時、献帝は流亡して呂布に駕を迎えられたが、呂布の部隊は食料が欠乏しており朝廷の駕を迎えるにあたっても無法であった。献帝は呂布を平東将軍に任じ、平詢侯に封じたが、しかし使者は呂布に詔を渡すことがなく、のち、曹操が派遣した奉車都尉・王則が、呂布のもとを辞した使者から詔書と印綬を迎えることになる。使者は早々に一通の書信を渡し、その中には呂布をして公孫讃、袁術らを討つべしと。当時陳珪とその息子陳登は曹操の前を辞して呂布のもとに赴き、呂布は終始かれらに応答しなかったが、今、詔書を見て大いに機嫌をよくした。陳登を派遣して献帝に恩を謝し、感激の意を表すと同時、曹操にも綬帯を送って友好を示す。

 陳登は曹操のもとに帰ると呂布が勇あれど智慧なく、去就が軽々であると告げ、曹操に建議してこれを倒し従えるべしと説く。曹操は「呂布の野心はさながら狼、飼いならすことは決して不可能。それはあなたでも、私であってもだ!」言って陳珪を2000石(太守)に任じ、陳登を広陵太守に任じた。別れに当たって曹操は父子の手を握り、「東方の事情は当分、あなたに任せる!」そういって陳登の部衆に密偵をつけ、呂布陣営の切り崩しを委任した。

 袁術は呂布が韓胤を曹操に差し出し、曹操が韓胤を殺したと知るや激怒した。大将・張勲、橋蕤、韓遷、楊奉らを聯合させ、七路に道を分かって同時に呂布を攻めさせる。衆寡敵せず、この当時士卒3000人、軍馬400しか手元になかった呂布に対して敵は数万、当たるべからざるを畏れた呂布は陳珪に「あなたがこの状況を招いたのだ、あなたがこの状況を解決すべきであろう。違うだろうか?」陳珪はあわてず騒がす「韓遷、楊奉らと袁術のごときは烏合の衆、かれらには謀略なく、こちらが籌をもって当たれば戦わずして自ら敗れるでしょう」すなわち、呂布は陳珪から策を授かり、韓遷、楊奉に手紙を送る。「二将軍は自ら親しく車駕を護って東から来るもの、われは董卓を殺したるもの。われらみな漢室のために大功あり、功名を竹帛に垂るものなり。いま袁術は逆臣にして誅殺を受けるべし。なんぞ彼と結んで我を攻めるか? われら同心協力して袁術を討つべし、それでこそ天下に功を立てるというもの!」呂布はまず一撃したあと、軍資輜重を韓遷、楊奉に帰した。二人は大いに喜び、下邳で軍を合して大いに張勲を破り、橋蕤を生け捕る。そのままの勢いで呂布と楊奉、韓遷は寿春に軍をすすめ、水陸併進して向かうところ捕虜を取り、鐘離を直撃、おおいに勝ちを得て帰る。

呂布の性格は武断なれど軽率、変化常なく、熱しやすく冷めやすい。これに対し、武将の高順は常々いさめ続けていたが、呂布の性根が変わることはなかった。まもなく呂布は曹操に反逆し、また袁術につく。

孤城を困守し、白門に命を喪う
 198年、呂布は高順と張遼を派遣して劉備を攻め、劉備は曹操に救援を求める。曹操は夏侯惇を派遣したが、夏侯惇は高順の前に敗北を喫してしまい、また劉備の家族が捕虜に取られてしまう。曹操は自ら呂布を討つと決し、下邳城下に進む。呂布はしばしば軍を率いて出戦するも毎戦利なく、退いて城邑を守りあえて戦わず。曹操は呂布に手紙を書いて利害得失を説き、投降を勧めた。呂布は本来謀略を持たない一介の莽夫であり、ゆえに曹操の言葉に心動かされた。ただ、彼の謀士・陳宮はかつて曹操のもとで罪を得たため、害されることを畏れ、呂布に「曹操は遠来、糧は限られ軍を長く保つこと能わず。将軍あなたは歩騎を率いて場外に出、私が城内を護り、内外呼応すれば、曹操が将軍を攻撃したなら私がその後背を衝き、曹操が城を攻めるなら将軍、城を救うべし。堅守すること数か月足らずで曹操の糧は尽き、我ら一挙曹操を破るべし!」呂布は確然として悟り、投降を忘れた。

 呂布は陳宮、高順を派遣して城を護らせ、自らは城を出て曹操の糧道を襲う計画を立てる。しかし呂布の妻子はこれに硬く反対し、彼女らは陳宮と不和をなした。呂布はいったん、城を出たが陳宮、高順の守城が一心ならざることを見て徐州の城地が惜しくなった。山河が惜しく、美女が惜しくなり、城に戻って袁術に救援を求める。

 袁術は呂布に婚姻話を破談にされたことで恨みを含んでいたため、求められた救援を拒絶した。のち、王偕、許汜暁が利害をもって袁術を説き、ようやく兵馬を整えて呂布の救援をなしたが、呂布は袁術からの大軍がやってこないことにかつての婚姻を後悔した。女装して鎧の上に巾幗をまとい、馬に跨り、夜陰に乗じて袁術のもとに向かうべく城から脱出したが、曹操軍の兵は包囲厳重、ひとひとり城を出ればたちまち万の矢が発せられた。このため呂布はなすすべなく城内に下がる。

 曹操は塹壕を掘って下邳を囲んだ。下邳はなかなか落ちなかったが、将士の心はたちまち倦み疲れた。曹操はしきりに挑戦してはすぐに撃退されたが、荀攸、郭嘉の進言で攻囲堅持をつづけた。ひと月ほどが経過して、呂布はこの困難な状況に弱気を興し、投降を考えたが、陳登が止めた。呂布と曹操の戦いは心理戦の様相を呈し、どちらが強い意志で守り抜くか、あるいは攻め続けるか、勝者はそこに収斂された。時間が伸びるにつれて、すべての人の心はさらに退廃に流れた。呂布の軍中には侯成、宋憲、魏続らがいたが、彼らは陳宮を捕らえて投降してしまう。呂布は変を聞いて部下とともに白門楼に登上、曹操軍は一挙攻撃の勢いを増したが、呂布を横死させるに忍びず、また呂布の左右も主君の首を取って降るに忍びず、あえて触れることをせず。しかれど時勢はすでに覆すこと能わず、ついに呂布は楼を下りて投降する。

 呂布は曹操にまみえると「いまこそまさに天下定まれり」と言った。曹操が訝ると「天下にもっとも聡明な明公(曹操)がもっとも手を焼いたこの呂布が、いま明公に膝を屈す。今後は私が騎兵を率い、名公が歩兵を率いれば、天下を定めるに憂いなし!」首を巡らし、今度は劉備に「弟玄徳、貴公は今貴賓の席にあるが、かつて私が袁術との仲介をなしたことを忘れはすまい? 縄目がきつい、貴公が弟なら、苦境の兄を助けてはくれまいか?」曹操はこれを聞き、嘲り笑った。「虎を縛るのだ、きつすぎるということはない」とはいえ人材を愛する曹操が逡巡し、許しそうになったとき、劉備が口を開いて言った。「明公、あなたは呂布が丁建陽(丁原)に為したことを忘れましたか? 董太師にしたことも?」曹操はこれをきいて欣然とうなずいた。呂布は目を怒らせて劉備をにらみ「この大耳野郎が! いちばん信用ならないのは貴様だ!」と叫んだ。その後まもなく、呂布は首を絞められ殺される。

………………
以上でした、それでは!

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

記事を検索