遠蛮亭 2022/11/17 17:31

22-11-17.中国史-南宋の孟洪

おつかれさまです!

今日は晦日さんの立ち絵が完成したりゲーム制作もまた進みましたが、身体中痛かったり脳がしびれてしまったりするのでそちらはいったん区切り、久しぶりにカクヨムさんに中国史の訳文をあげましたので同文をこちらにもアップするとします。南宋の名将、といっても岳飛とか文天祥といった名前先行の人物に比べたらマイナーな人物でして、孟洪って人物なんですが。実際のところ岳飛より戦功に関しては上なぐらいです。

孟洪のすごいところをリストアップするなら

1.岳飛が結局勝てなかった金を滅ぼしている(これは状況や金の国力が変動していますから、どちらが上とは言えませんが)
2.最盛期のモンゴル軍を相手にして一度も負けていない。
3.負けてないどころかガタガタの南宋軍を率いて、一部の版図を取り返している。
4.優れた多くの将帥を育成した(とはいえ南宋の衰勢を覆す名将を排出するには至らなかった)。

こんなところでしょうか。中国史上比類がないくらいの武功です。比肩しうると言えば秦の王翳、漢の韓信、唐の李靖と明の戚継光ぐらい。この5人に兵法鼻祖たる孫武と呉起を加えて7傑ということになるんじゃないかと思いますが、岳飛だったり霍去病だったりの声望が実のところ高いのですよね。墨子の功みたいなもので、派手に活躍を喧伝すれば名前は残るのですが功を誇らないと誰にも知られない。岳飛は秦檜に謀殺されましたが案外高宗の寵臣でしたからね、国を挙げて名前は顕揚されたのです。まあそれはさておき、さっさと本文いきます。

………………

孟洪(もう・きょう。1195-1246)
孟洪(正しくはサンズイではなくオウヘン)。南宋後期~末期の名将。高祖父は岳家軍の将領であり、父は名将・超方麾下の勇将孟宗政。若くして名将としての才覚があり、金軍と戦ってしばしば戦功を立てた。1224年、モンゴルとの対金挟撃線で南宋の指揮官として出撃、その用兵巧者ぶりはモンゴルの名だたる勇将たちを驚かせる。金滅びて後、モンゴル(元)が北の脅威となると荊・襄地方を中心に防衛線を展開、この地方における南宋唯一絶対の守護神として雲霞のごとく攻め寄せる元軍を相手に奮戦、むしろ逆に圧倒してあの状況下で奪われた版図を奪回するという離れ業をやってのけたが、1246年、病に没した。彼の死後南宋に名将排出することはなく、一気に頽勢に傾くことになる。易や仏教に造詣が深かったという。

孟洪、字は璞玉。随州棗陽の人である。四世の祖、孟安は岳家軍の中にあって功あり。嘉定十年、金人が襄陽を寇し、団山に駐す。父孟宗政は時に趙方の将であり、兵を以てこれを防ぐ。孟洪はその必ず樊城を窺うを料り、父に献策して羅家渡渡河中を討つべしと論ずる。孟宗政はこれを然りとした。越して翌日、諸群渡しに沿って布陣し、金人はたして至るや河を渡るの半ばで伏兵を発し、その半ばを殲滅する。孟宗政は檄を受けて棗陽の応援に向かい、陣に臨んで父子相失し、孟洪は敵騎中に素袍白馬の者を見つけて曰く「わが父なり。」急ぎ麾下の騎兵隊をもって陣に突撃し、ついに孟宗政を助ける。功を以て勇副尉に進む。

 嘉定十二年、完顔訛可が歩騎二十万を以て分路棗陽を攻め、城下を環の如く囲む。孟洪は城郭に登りこれを射たので、将士皆驚き服した。孟宗政は孟洪に金人の退路を急襲すべしと命じ、孟洪は見事十八の砦を抜き、千余級を斬り、大量の俘虜と軍器を獲て帰った。金人は逃がれ、功績を以て下班祇応。

 嘉定十四年、制置使趙方に拝謁し、一見してこれは奇なりと認められ、引き立てを受け光化尉、転じて進武校尉とされる。十六年、功を持って特に承信郎。父の憂いに中り、制置使は孟洪の復帰を請うたが、孟洪は辞して葬儀と喪の間職に就かず、また辞し、転じて成忠郎。理宗は即位すると特別に忠翊郎を授けた。まもなく峡州兵馬監押兼城巡検、京湖制置使兼提督虎翼突騎軍、また昇進して京西第五副将、仮管神勁左右軍統制。

 はじめ、孟宗政は唐、鄧、蔡の三州から壮士二万を集め、號して「忠順軍」とし江海にこれを統べさせたが、衆が不安がったので制置使は孟洪を以てこれに代えさせた。孟洪はその軍を三つに分かって統制し、衆は落ち着く。紹定元年、孟洪は制置使に言上して平堰を棗陽に造る。それは城から軍の西まで十八里、八畳河を経て漸水の側に至り、水を跨ぐこと甚だ多く、通天槽八十三丈を建て、灌田十万頃、十荘を立てて三つに分かち、軍民の分屯に使わしめる。この歳十五万石を獲た。また忠順軍に馬を自宅で養うよう命じ、栗粟を官給したので、馬はますます盛んに繁殖した。二年、さらに昇進して京西第五正将、棗陽軍総轄とされ、本軍は駐屯する忠順三軍。翌年、京西兵馬都監となるも、母の憂いに丁る。さらに翌年、復帰して京西兵馬鈐轄、棗陽軍駐箚に京西兵馬都監で三軍を統べる。

 紹定六年、元の大将ナヤン・ベンチャン(スブタイのこと洪)が金主完顔守緒を追い、蔡州に逼る。孟洪は檄により鄂を守りつつ、金の唐、鄧行省武仙を討つ。武仙は武天錫、鄧守移刺洪とともにを為し、金のために尽力して守緒を蜀に迎えるを欲し、光化を犯して鋒剽甚だしかった。武天錫は鄧の農夫で、乱に乗じて二十万を集めて辺境に患いを為したが、孟洪はその塁に逼り、一鼓のもとにこれを抜く。帳下の壮士張子良が武天錫を斬ってその首を献じた。この戦役で首級五千、俘虜四百余、戸十二万二十を得て、江陵府副都統制と金帯を授かる。

 制置使は檄を以て孟洪に辺事を尋ね、孟洪曰く「金人もし呂堰に向かうなら、すなわち八千人で足りぬこと無し。しかるにすべからく木査、騰雲、呂堰らの砦みな渡るに節制を受けるべし」すでにして劉全、雷去危の両将が金人と夏家橋で戦い、小捷。同じころ、金人は呂堰を犯し、孟洪は喜び手を打って「吾が計を得たり。」命を極めて諸軍呂堰に追撃し、大河に逼って進み、山険に逼って退き、塞四つを抜いて、金人の棄てた輜重無算、甲士五十二、斬首三千、牛馬に駱駝万計、帰服する民三万二千余を獲る。移刺洪はその部曲の馬天章に書を奉じて降るを請い、それによって得られた県は五、鎮は二十二、官吏百二十二、軍馬千五百、歩軍四万、戸三万五千三家、口十二万五千五百五十三戸口に及ぶ。孟洪は入城し、移刺洪は階下に伏して死を請う。孟洪はその衣冠をただし、賓礼をもって見えた。

 はじめ、武仙は順陽に屯し、宋軍を悩ますところなれど、退いて馬洪に屯す。金の順陽令李英は県をもって降り、申州安撫張林州をもって降る。孟洪曰く「帰属の人、よろしくその郷土につかわしてこれを耕させよ。その人民をとらえてしかるに立つの利は少壮軍に籍を為すのみ。俾は自ら耕して自ら守る。才能ある者には土地を分かち、職使をもって任ぜよ。おのおのその徒をもって招くは勢いそれを殺すなり。」制置使これを是とす。七月己酉、武仙の愛将・劉儀が壮士二百を連れて降り、孟洪は武仙の虚実を問う。劉儀曰く「武仙は九砦に拠し、その大なるは石穴山。もって馬洪、沙窩、洪山の三砦その前に蔽し、三砦破れずば石穴未だ囲む易からざるなり。もし先に離金砦を破り、ついで王子山砦をまた抜けば、洪山、沙窩孤立し、三師擒らえるを為すなり。」孟洪は翌日離金に兵を向かわせ、廬秀の黒旗師を執るべく入砦したと言わす。金人宋軍を疑わず、すなわち分拠して鉱山の坑道に案内し、宋軍はそこで太呼して火を放ち、掩殺甚だし。この夜、壮士楊青らに王子山砦を衝かせ、護帳の軍は酔って眠る。王建が帳の中に飛び込んでその金将の首を取り、その佩嚢に入れた。外が明るくなって首を見れば、金の小元帥であった。

 丙辰、馬洪に出師、樊文彬を遣わしてその前門を攻めさせ、成明らに西路を截撃させ、一軍を以て訖石烈を囲み、一軍を以て小総帥砦を囲ませた。火は天を衝き、殺戮山を為す。逃れ得たものもまた成明の伏兵によって捕えられた。壮士老少二千三百が帰順。軍を還し、沙窩の西に至って、金人に遇い大捷。この日、三戦して三捷。まもなく、丁順らが黙候里砦を破る。孟洪は劉儀を召して「この砦すでに破れ、板橋、石穴かならず震撼、汝能く吾のために誰を招くや洪」劉儀答えて「晋徳と花腿王顕、金の安撫安威の旧友なり。招けば必ず来る。」廼ち晋徳に遣い行く。劉儀は請うて婦人三百人を偽って逃がし、懐柔して軍にもって入ろうとするよう差し向けようと。孟洪はこれに従う。安威は晋徳を見るや叙情好歓甚だしく、晋徳を介して懐かしく花腿王顕を見、花腿王顕は即日書を致して降った。晋徳はまた孟洪に請うて劉儀を遣わして武仙に去就をうかがえという。花腿王顕の軍は約五千、なお甲冑をほどかず。孟洪は令して宴席を作り、入陣、長い間周りを見て、すなわち去る。かくのごとくかざりなく撫循し、牛を潰し酒を興じて宴を張り、皆酔い飽食して歌舞する。孟洪はまさに上の洪山の絶頂に居る武仙を料り窺い、樊文彬に令して翌朝洪山を奪わせ、その下に軍を駐させ、前鋒に伏兵を埋伏させ、後ろには帰路を遮断させた。すでにして武仙の衆は山を登り、半ばに及んで樊文彬の旗が靡いているのに気付く。そこで伏兵発し、武仙の衆挙措を失い、折り重なって崖に堕ち、山は朱く染まる。その将兀沙惹を殺し、擒者七百三十人、他は鎧甲を棄てて山に逃げた。薄昏、孟洪が進軍して小水河に至ると、劉儀が還り、武仙に降るつもりが無いことを告げ、謀を以て商州の険要に依って守るが、しかるに老人稚児は北に去るを願わずと。孟洪曰く「進軍を緩めるべからず。」夜十刻、樊文彬を召して方略を授け、翌日石穴九砦を攻める。丙辰、寝床で食事をとると出発し、晨のうちに石穴に至る。時に雪積りいまだ晴れず。樊文彬これを患うも、孟洪は「この雪は呉元済を擒らえるの時の雪なり」馬に策を当てまっすぐ石穴に至り、兵を分かって進攻し、しかしてもって樊文彬は行き来して孟洪の側に給事する。寅から巳に至るまで力戦し、九砦一時にすべて破れる。武仙は奔り、宋軍は鮎魚砦まで追求した。武仙は遠くから宋軍を見て、服を替えて逃げる。また銀葫蘆山で戦い、軍また破る。武仙とともに逃げるもの五、六騎。これを追うも隠れて見えず。その降る衆七万人、甲兵は無算。軍を襄陽に帰し、転じて脩武郎、鄂江江陵府副都統制。

 元兵は宣撫王洪を遣わしてともに蔡州を攻めんと約し、制置使は孟洪に諮る。孟洪は二万人で行くことを請い、命により孟洪の諸将尽く護るを為す。金兵は二万騎で眞陽の横山から南に懸ったが、孟洪が鼓を鳴らして前進するところ金人は戦い敗れ、退き走り、これを追って高横陂に至って斬首千二百級。ベンチャンはミャンブティ、モヘグチュ、アシの三人を遣わして孟洪らを迎えた。孟洪は彼らと狩猟し、獲物の地を啜り、馳せて帳に入る。ベンチャンは喜び、孟洪と兄弟の契りを交わし、馬乳を酌してこれを飲んだ。金兵万人東門より出撃するも、孟洪によってその退路を遮られ、汝河に覆い入れられる。その擒らえるところの偏裨八十と七人、さらに蔡州からの降人を獲る。城中飢えに中ると聞いて、孟洪は「已にして窘めるなり。まさに尽く死すまで守り、囲みを突かれてもって防ぐか。」孟洪とベンチャンは互いに約し、南北の軍が相犯さないことを決めた。堰水を決し、瀑布に竹の垣根を建てる。ベンチャンは万戸侯張柔の師精兵五千でもって入城し、金人は鈎兵二卒でもってこれに対す。張柔が流れ矢に中って落馬しかけると、孟洪は麾下の先鋒を遣わしてこれを救い、張柔ともって挟撃に出る。撥発官宋榮はかしこまらず、まさにこれを斬り、衆下馬しとりまいて礼拝を請うも、なおこれ戦う。黎明、孟洪は進んで石橋に逼り、鈎兵をもって郭山を生け捕り、戦いやや却く。金人突至するや、孟洪は馬に飛び乗り入陣し、郭山を斬りもってその衆を侒え、軍気また張って殊更死戦する。進んで柴潭の立柵に逼り、捕えた金人百二人、斬首三百余級。翌日、諸将に命じて柴潭楼を奪わす。金人は争って楼を守ろうとして、諸軍魚を串刺しにしたように列をなし上る。金人はまた飾り立てた美婦人をもって相いに蠱毒し、麾下の張禧らこれを殺してついに柴潭楼を抜く。捕らわれの将五百三十七人、蔡人は潭の固めを恃みと為し、外には即ち汝河を恃み、潭の高さから河において五、六丈の、城上から金字號楼と称す巨弩を伏せた。相伝えるところによれば下に龍あり、人敢えて近づかず、将士疑い畏れる。孟洪は麾下を召して酒を飲むや、再び近づいて曰く「柴潭は天が造ったものにあらず地が設けたものにもあらず、楼に弩を伏せ能く遠くを射ることができるかもしれぬが近くを射る能わず。彼の恃む所は所詮この水のみ。決してこれを注がせ、立ち枯れるを待つべし。」みな曰く「洪堅くして未だ鑿する易からず。」孟洪曰く「いわゆる賢者は両洪の首を築くに一旦止む。その間隙を狙い両翼に鑿すべし。」潭ははたして決壊し、薪蘆もって実り、ついに渡河して攻城に移る。その両将を擒えてこれを斬り、殿前右副都點検温端を擒らえて城下に磔とし、進んで土門に逼る。金人は老稚を殺した油で駆動する大砲、號して「人油砲」を繰り出し、人々はその酸鼻に耐えられず、孟洪は道士を遣わして説きこれを停止させた。

 端平元年正月辛丑、城上に黒気厭厭、日の光なく、降ったもの曰く「城中の糧が絶えて三か月、駱駝のコブを破り形を留めないまでに煮えた粥を喰らって皆を鼓し、かつ聴くに以て老若相食み、諸軍日に畜骨と芹泥をもってこれを喰らう。また往々にして敗残全滅の軍、拘えられてその肉食まれる。故に降るを欲する者衆なり。」孟洪は令を下して諸軍に銜を含ませ、雲梯を城下に布した。己酉、孟洪の統帥する師は南門に向かい、金字楼に至って、雲梯を並べ、諸将に令してまさに鼓を聞いて乃ち進む。馬義が先駆けとなり、趙榮これに継ぐ。万衆競って登り、城上は大戦となる。丞相・烏古論栲洪が降り、その元帥兀達林および偏将二百人が死んだ。西門開き、ベンチャンを招き入れ、江海が参政張天綱をとらえて以て帰参する。孟洪は守緒の所在を問うてまわり、張天綱曰く「城危うきときに宝玉を取って小室に置き、草を以て環と為し、號泣して首をつり、曰く『我、火に便じて死す』と言い硝煙の中未だ絶えず。」孟洪とベンチャンは守緒の遺骨を分かち、金の諡宝、玉帯、金銀印牌各種を獲て還った。軍を襄陽に還し、特に武功郎、主管侍衛馬軍行司公事を授かる。さらに抜擢されて建康府都統制兼侍衛馬軍行司職事。

 太常寺簿守楊祖、看班祇候林拓朝廷に入朝、諜報に謂う元の兵河南府に争い来ると。歩哨すでに盟津、陝府、潼関、河南でみな増屯設伏するに及び、また聴くに淮刻日進師して困窮し、衆畏れ前なしと。孟洪曰く「淮東の師は淮、泗を遡って洪に及ぶ由、十日に達さずして達すこと非ず。吾精鋭選抜の騎馬で疾馳し、十日にして竣事なかるべく、師を逮捕して東京に至らん。吾すでに帰りたれば。」ここにおいて昼夜兼行、二人を使いに出して陵下に至り、御表を奉り宣べ、礼を成して帰る。制置使は奏して孟洪を留め襄陽兼鎭北軍都統制となした。鎭北軍の者、孟洪の招くところ中原精鋭百戦の士一万五千。これを分屯して襄北、樊城、新野、唐、鄧の間に配す。俄かに令がくだって枢密院に赴き議を申し上げ、帯と御器械を授かる。二年、主管侍衛馬軍司公事を授かり、時に暫時黄州に駐箚、朝廷は辞して上(皇帝)曰く「卿は名将の子、忠勤礼国、金を蔡州に破り滅ぼし、功績昭著なり。」対するに孟洪曰く「これも宗廟の威霊と陛下の聖徳、そして三軍の将士の労であります。臣の力などなにほどのものでありましょうや洪」帝に問いを返し、曰く「陛下に願いますは民に寛大であられ、人材を蓄え、以て機会を待たれますことを。」帝は更に言葉を重ねるが、孟洪は答えて「臣は所詮甲冑の士、戦いを謂いはいたしますが、それ以外を語る言葉を持ちませぬ。」賜物を賜与されること甚だ厚し。兼ねて知光州、さらにまた兼ねて知黄州。

 端平三年、孟洪黄州に至り、垣を増築し井戸をさらって深くする。軍宝の検査が訪れ、辺境の民で来帰するもの日に栓を数え、家屋三万間を為してこれに住まわせ、厚く殷賑を加え金を貸した。また兵民の雑居を慮り、高阜に斉安、鎭淮の二砦を築いてもって諸軍をここに済ませる。章家山、毋家山の両堡に先鋒を為し、虎翼営、飛虎営を置いた。兼主管内安撫司公事、節制黄薪光および信陽の四郡軍馬。

 元兵、薪州を攻め、孟洪は兵を遣わして囲みを解き、また襄陽を攻められると鄧の守りを張亀壽に、荊門の守りを朱楊祖に、郢の守りを喬士安にそれぞれ郡を委ね去る。復州の施子仁が死ぬと江陵が危急を告げる。詔により沿江、淮西から援軍が遣わされ、衆に孟洪を越えるというものなし。すなわち先遣隊の張順が江を渡り、孟洪が全軍を以てこれに継ぐ。元兵は兵を二つに分かち、一つを復州攻めに、もう一つは枝江の監利県から筏を編んで長江を窺う。孟洪は変事に旌旗と服の色を変え、循環往来、夜篝火を並べて江を照らし、数十里の所に接近しているのを確認すると、外弟の趙武らを遣わしてともに戦い、節度自ら往き、砦二十四を破り、民二万を解放した。嘉熙元年、県男に封ぜられ、高州刺史に抜擢され、忠州団練使兼知江陵府、京西湖北安撫副使。まもなく、鄂州諸軍都統制とされる。

 元の大将ティムゲが漢陽の境に侵攻し、大将クオン・ブケが淮甸に侵攻すると、薪州守張可大、舒州の李士達ともに軍を委ねられながら去る。光州の董堯臣は州をもって降った。三郡の人馬糧機械を合わせても黄州守王鑑、江師万文勝は戦って利あらず、孟洪が入城するや黄州の軍民喜んで曰く「わが父来れり。」城楼に駐留し、指で戦守の策を書き、その城すべて兵の気概を持たせ、逗留者四十九人ことごとく斬って徇えた。上は御筆をもって将士に戦功の賞を約し、特に孟洪には金洪を賜与し、孟洪はそれに白金五十両を益して以て諸将に賜った。将士は数か月にわたって苦戦し、病傷者相継いだが、孟洪が医師を遣わして診療させると士卒皆感涙した。

 二年春、寧遠軍承宣使を授かり、帯と御機械を賜与され、鄂州江陵府諸軍都統制とされる。孟洪は三軍の賞典未だ頒されずを見て、辞を表す。詔に曰く「功あって賞さずば、人は朕をなんと謂うか洪 三軍の勲労、その来趣や上。封爵の序、将帥より始める、卿ここに至って辞すまいや洪」まもなく枢密副都承旨、京西湖北路安撫制置副使兼督視行府参謀官とされ、さらにまもなく制置使兼知岳州とされる。すなわち江陵節制司の檄を以て襄、郢の回復に乗り出し、まず張俊が郢州を復し、賀順が荊門軍を復す。十二月壬子、劉全が冢頭に戦い、樊城に闘い、郎神山に戦って、しばしば勝ちを以て聞く。三年春正月、曹文鏞が信陽軍を復し、劉全が樊城を復し、ついに襄陽の回復成る。枢密都承旨、制置使兼知鄂州を授けられた。劉全を譚深に遣わして光化軍を復させ、息州、蔡州を降し、孟洪はこれ逆らうを以て兵と為すと命じ、壮士百余を得た。籍を忠衛軍と為す。

 はじめ、詔により孟洪は京、襄を修復し、郢を得てしかるのちかならず軍費を贈って以て通ずべしといい、荊門を得たのちもって奇兵を出すべしと。この由をもって方略を指授し、兵発深く入り、至る所捷ちを聞く。孟洪は略を奏して曰く「襄陽を取るは難しからずしてこれを護るは難しく、将士不勇にあらねど、車馬機械不精にあらねど、実在する事力の不給を辞すものであります。襄、樊は朝廷の根本、今日百戦してこれを得ても、まさに経理を加えねば、元気護る如く、甲兵十万をもってしても非ず、それを分守するに不足であります。その兵を課して敵来る後、これを保つに全勝を執若するや洪 上兵は謀を伐つと申し、ここは争わずして取るべきでありましょう。」すなわち先鋒軍を置き、もって襄、郢の帰順した人を隷属さす。

 庚寅、諜報により元兵大挙して江に臨む。孟洪は策を講じて敵は必ず施、鈐を通って湘湖に出ると読んで、粟十万石を以て軍餉とし、兵二千で陝州に屯し、千人を帰州に置く。忠衛軍の旧将晋徳を光化から還らせ、孟洪進んでこれを用う。孟洪は弟の孟瑛に精兵五千を与えて松滋に駐留させて洪州を応援させ、晋徳に命じて帰州の隘口万戸谷に造兵させる。元兵より江を窺い、孟洪は密かに劉全を遣わして敵を拒み、伍思智に千人を授けて施州に屯させる。元の大将タハイは万州湖難、施、洪州を震撼させたが、孟洪は兄孟璟を湖北安撫使、知峡州となし、急ぎ策謀を以て防備に備えた。孟洪自身は請うて督府にあり、軍を師して西上、孟璟は調略した金鐸の一軍を帰州の大亜砦で迎撃した。劉全は巴東県の清平村で捷つ。孟洪の弟孟璋には選抜した精鋭二千を与えて洪州に駐留させ施、鈐路を守らす。四年、子爵に封ぜられた。

 孟洪は條文を上に上奏し三層防備の策を説く。まず制置使および移関外都統の一軍を洪州に置き、洪の万以下江に面して責務を負う、これ第一層、鼎、洪を第二層となし、辰、洪、靖、桂州を以て第三層となす。峡州、松滋にはすべからく万人を屯して水師を隷させ、帰州には三千人を屯させ、鼎、洪、辰、洪、靖州におのおの五千人、洪、桂州に各千人、しかして江西を保つべしと。また楊鼎、張謙を辰、洪、靖の三州に遣わし行かせ、同地を守る卒に蛮民を熟知するよう諭告し、思、播、施、鈐に請求して支柱と為し、もって来上を図る。

たまたま諜報が元兵襄樊において攻めるを知る。信陽では衆を集め軍民に種を配り、船に材木を積んで鄧から順陽に向かう。そこで張漢英がから出撃し、任義が信陽から出で、焦進が襄陽から出て、分路その勢をめる。王堅がひそかに元の造船所に近づいて材木を焼き、また師を過ごすために必須の糧を蔡州から失わせるべく、張徳と劉整が分路蔡州に入り、積み上げられた食糧に火をかけた。この功により孟洪は寧武軍節度使、四川宣撫使兼知洪州とされた。麻城県、巴河、安楽磯、管公点ら淮河の民三百五十九名、みな沿辺で戦いを経た士となり、號して「寧武軍」。孟璋がこれを領す。孟洪は進められて漢東軍侯兼京湖安撫制置使。

フファイリ・バートルが壮士百人を師し、老稚百十五人を従え、馬二百六十匹をもって降る。孟洪は「飛鶻軍」と號し、フファイリの名を改めて艾忠孝となし、飛鶻軍の統括に充てて官につけた。四川制置使・陳隆之と彭大河は仲が悪く、朝廷においても交わりを持たなかった。孟洪曰く「国事はかくのごとく困難であり、智を合し謀を并せ、それでもなお払い勝つに懼れあり。しかして両司方は勇ながら私闘し、これでは廉破と蘭相如の風ありとはいえませんぞ。」馳せ書してこれを責める。陳隆之、彭大河は得心して大いに恥じるところがあった。

蜀政の弊害を改め、諸郡県の団体に条目を列挙させて、曰く管轄を計らず、曰く論功不明であり、曰く軍糧減り、曰く官吏貪暴、曰く上下互いに欺く。また曰く「険要を選ばすして砦柵を立て、則ち兵の民を護るに難、流離を集めずして安楽に種を耕し、則ち民を以て兵を養うの難なり。」管吏の功労の上下を設けてもって賞罰を課し、奉行をつかさどらせて諸々を可能とさせる。黎の守閻師古が言うに大理国は黎、雅を通って入貢を請い、孟洪は大理からの報せに洪、広を自ずから通り、川蜀の道を取るのはよろしからずとしてこれを退けた。兼洪路制置大使兼屯田大使。軍に宿の儲けもなく、孟洪は大いに屯田を興し、軍を動かして堰を築き、農民を募集して種を給与し、洪帰から漢口まで、屯田二十、荘百七十、併せて十八万二千二百八十頃を為し、上屯田の始末の所減とひもで巻いて保管した食料の数について、詔を降して奨諭していただいた。靖州徭の林賽児が乱を為し、王洪がこれを平らぐ。

 淳祐二年、孟洪は京、襄の死節死事の臣の要請を受けて入朝し、岳陽に祠を建てる。歳時に祭りに至り、祠に名を賜って閔忠廟。淮東兵を受け、枢密俾として孟洪は応援し、李得に精兵四千を与えて遣わし、息子の孟之経を監軍となす。間諜の報せで京兆府のヤカダテイが騎兵三千を以て商州の鶻嶺関を取り、房州の竹山から出る。王令を遣わして江陵に屯させ、ついで郢州に進晋させる。劉全が沙市に屯し、焦進が千人を引っ提げて江陵から襄陽の荊門に出、劉全は檄して十日分の糧を齎し、南洪を通って襄に入り、諸軍と合する。

 元兵三川に至り、孟洪は令を下し戌主兵官として応出、寸土の失地も許さず。開州の梁棟の糧が乏しくなると請うて司に還り、曰く「この城は棄てるなり。」と言って梁棟を洪州に遷す。使いの高達の首を斬って随える。この由は諸将の間で令を凛としこれを謹ませた。元兵瀘に至り、孟洪は重分に司の兵を分かって応援させ、張祥を洪州につかわし屯させた。功により檢校少保、爵を進められて漢東郡公。孟洪曰く「洪の険阻は辰ほどではなく、靖の険阻は洪ほどではない。三州皆措置に当るなら靖が尤も急であろう。今三州では一寸の米粒も兵に出るところなく、これ京湖の憂いの一である。江の防御は洪帰から壽昌に及び、二千里に渡って、公安から峡州まで難所およそ十余カ所あるも、隆水冬には涸れ氷り、節制して防備に当るべくねも、兵は備えを忌むもの多く、これ京湖の憂いの二。今尺屋に幸いにも数人を数え、既に守り河原の難、また守るは険隘、これ京湖の憂いの三。陸抗の言葉に謂う『荊州は国の藩表、それに如くは虞に有り、ただ一郡を失うに非ず、まさに傾国の争い。もし増兵八万にして併せて防御するに非ずば、韓信、白起といえども復す能わず、巧みに展くところなし。』と。今日の時勢大略はそれに似る、利害至重なり。」余洪は四川の宣諭ながら行政の区を過ぎて孟洪に賛同し、孟洪は以て重慶にわずかながらの粟と餉の屯田米十万石を搬入し、晋徳を師とする六千の兵を遣わして蜀を援けさせ、孟之経を策応司都統制とする。四年、知江陵府を兼ねる。孟洪は左右に云って曰く「政府はまだ我らの窮状を知らぬ。もし朝廷が兵を以て我に合さば、君臣怒涛をなすというに、なにゆえ伝わらざるや洪 洪、往かばすなわち上に我が虚を報せ、行かざればすなわち誰も実際の捍患を知ることなし。いかんすべきや。」識者はこれを是とした。

 詔により京湖の兵五千が安豊に移され、寿春を援ける。孟洪は劉全を遣わしてまさに往かせる。ついで命有って分兵三千を斉安に備え、孟洪曰く「黄州と寿昌は三江口を隔てて一水があるのみ、すでに全兵水を渡り、なんで予め兵を遣わす必要があろうか洪 まず一日さらに一日を費やして、無益にして損有れば、万一上が遊びなさるに警鐘を要する。我が軍は既に疲れており、この計を得ざるなり。」劉全従わず。端平五年、御筆を以て職事の脩挙を授かり、転行両官、令を許すを回復する。孟洪は江陵に在り、白に登って詠嘆して曰く、「江陵は三海をたのみとし、自然低湿の地にある。変あっては桑田の者たちは敵の鞭一鳴りしただけでさっさと城外に逃げるだろう。ここは城から東を以て、古嶺先鋒から三洪に至らせれば、隔てるところに限りはない。」廼ち内隘十一か所を修復し、また別に城から数十里の所に十の隘路を築く。沮、洪の水が城西から江に流れるよう旧来の方法を取るも、東がこの障害となる。湾曲して城北から漢口に入らせ、しかして三海一つに通る。従うにその高下、櫃から畜泄をなすこと三百里に及び、大河果てしなし。土木工事には職工百七十万が動員されたが、民はその徭役に駆り出されることはなく、上は造形美術であるとこれを讃えた。

 孟洪は身を江陵に鎭し、兄孟璟は武昌に師す。故事に謂う、兄弟同処一路の者になかりせば、田に帰るを請うて許されず。詔によって五千の援兵が淮に送られ、孟洪は張漢英の師につかわす。枢密の兵が移動して広西に赴き、孟洪は執政の書を執って曰く「大理から洪の間数千里には部落数千、今まさに選ばれしものが数郡に分布し、生夷を分かち治めて険要の形勢に依りるのみ。よろしく措置しながら屯兵を関に創り、積糧とまぐさをこの地に聚めて、声勢すでに張り、国威自ら振う。この風聞を調す計出ず、空しく錢糧を費やす。ことに益なし。嗚呼」聴かれることなし。元の大将ダイナが江陵に至り、孟洪は楊全を遣わし荊門に伏せさせて戦う。孟洪は先んじて間諜から情報を知り、枢密に達し、檄を飛ばして両淮で備えをなすも、両淮知らざるなり。のち、はたして報せの如く。孟洪は奏して「襄、蜀は離散して士、帰るところなく、蜀士は公安に聚まり、襄士は郢渚に聚まっております。臣が公安と南陽に両書院を創りて、もって田廬の隷となることを否定したのは、いささか教養を教え込むためでありました。」帝に提題を請うとを賜与された。

 はじめ、孟洪が招かれて襄陽の鎭北軍に駐留すると李虎、王旻らが乱を起こし、鎭北また潰え、降るものが後を絶たなかったのでそこで厚くこれを招いた。行省范用吉は密かに降るものたちと通款をなし、もって報告を受けてはこれを質と為した。孟洪が朝廷でそれを申上げても朝廷は従わなかったので、孟洪は「三十年中原の人心を収攬したものが、今志を得ずして伸びざるとは!」ついに病を発し、休退を請う。檢校少師、寧武軍節度使を以て致仕。江陵府にて没。時に九月戊午、月は朔日。大隕石が境内に堕ち、雷鳴の如く音轟いたと思うや、薨ず。台風が発生して家屋の横木が折れた。訃報に接し、帝は震えて哀悼の意を示し、銀絹それぞれ一千を贈り、特に少師を贈り、のち更に太師を追贈、吉国公に封じ、諡は忠襄。廟号は威愛。

 孟洪は忠君礼国の念、金石を貫くべし。在軍中参佐部が論事を枉げると、人に謂い人これを異とした。孟洪は折衷の事について片語をもってのぞくことをしなかったので、衆士みな満足した。人を謁して客と遊び、老校退卒しても敬意を恩威と慰撫を以て接して敬意を表された。名と位は重しと雖も、これ鼓と旗を立て、将吏に臨んで色凛然、敢えてその死に泣かざるものなし。位を退くとすぐに焼香して地を掃き清め、背なしの椅子に背筋を伸ばして座り、蕭然として事の他に自分を置いた。貨殖に遠く、物事に深い味わいを好んだ。その学識は易学に顕著で、六十四卦を各々四句で繋げ、名付けて警心易賛。また仏教にも堪能で、自ら號して「無庵居士」といった。

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以上でした、それでは!

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