遠蛮亭 2022/11/30 18:12

名将伝-中国史-劉鄩(五代)

おつかれさまです!

ゲーム制作を必死こいてやらないと駄目なんですが、すこしだれた(アイテムとかモンスターのデータにばっかり向き合ったので、疲れた)のでちょっとだけ別のことを。というわけで中国語翻訳です。《新五代史》から劉鄩。末帝がアホで戦え戦え言わなければ生涯無敗もありえた名将ですね。本当のところを言うと「十歩百変」劉詞のほうをやりたかったんです。面白いから。でも名将として定義する場合劉詞は「完璧な作戦力にもかかわらず天に見放されているとしか思えない魔の悪さで尽く策を外す」という人物なので今回は劉鄩で正解かもしれません。ともかくもこれでリフレッシュして、今からまたゲーム制作やりますが。
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劉鄩(りゅう・じん。中国・五代・汴梁)

劉鄩は密州安丘の人である。若くして青州の王敬武につかえた。敬武が死にその息子王師範が起つと棣州刺史張蟾が叛き、師範は指揮使・盧洪を遣わして張蟾を撃たせようとしたが、盧洪もまた背いて自立。師範は辞を低くして盧洪を召し寄せ、盧洪がやってくるや郊外にこれを迎え、劉鄩に命じてこれを斬らせた。つかわされ、劉鄩は張蟾を攻撃、これを破り、師範の上表で登州刺史、行軍司馬。

梁の太祖(朱全忠)が西に鳳翔を攻めた時、師範は梁の虚に乗じて攻撃、ひそかに人を分けて寮の諸州県を襲わせた。しかしながら謀の多くは漏れて事はならず。ただひとり劉鄩だけはもとより兵法をこのみ、変幻自在の機略あり。このとき、梁はすでに朱瑾を破り、兗州・惲州をことごとく手に入れ、葛従周を兗州節度使とした。葛従周は城外、劉鄩は城内で両軍対峙し、劉鄩は城楼から焼けた油を流して攻城の梁軍を苦しめ、虚実を探って出入りさせなかった。劉鄩は水も漏らさぬ防御から一転して500人で水路梁軍を攻撃、これを破ると同時、葛従周の母を捕らえ、礼を尽くして拝礼し甚だ慰撫と恩愛を加える。

 太祖は鳳翔で昭宗を弑すと東に帰還.朱友寧を遣わして王師範を攻撃する。葛従周は劉鄩を攻めた。劉鄩が葛従周の母を城郭上に安置すると母は葛従周を呼んで絶叫。「劉将軍は私を遇すること甚だく厚く、孝行なること汝に劣らぬ。人臣なればそれぞれに主あり、汝察すべし!」怒鳴られて葛従周は攻撃の手を緩めた。劉鄩はそこで婦人および疾病持ちで敵と戦えない民を集め、ひとり彼らとおなじ辛苦を味わい、彼らに衣食を分け与え、堅守をつづけた。外からの援軍いたらず、人心すこぶる離れる。副使・王彦温城壁を越えて逃げ、守備弊の多くも逃亡した。劉鄩は王彦温に人を遣わし表向きは「副使・多くをもって出る勿れ、みな持っていく勿れ」と弱気を見せたが、城内に向けては「副使のおかげで出るを得る、否者(否定者)も朋友なり」と言った。城中の民はみなとまどい、逃亡すら止んだ。梁兵これを聞くに至り、果たして王彦温は降者を疑い、城下でこれを斬る。これにより城内の防備は堅牢になった。

 王師範はすでに屈し、葛従周は劉鄩に書信を持たらして禍福を諭す。劉鄩は応えて曰く「わが主すでに降る、すなわち城をもって梁に還らん」師範がやぶれ、梁に下ったことで劉鄩もまた下った。葛従周は劉鄩に装備をもたらし、ともに梁に帰還。劉鄩いわく「降将梁に誅されずして恩を受く。幸いなり! あえて乗馬して衣をまとうか?」といって平服のまま乗馬して梁に向かった。太祖は冠帯を賜り、杯を与えて酒を飲んだ。劉鄩は差し出された酒をほとんど飲まずに辞したが、太祖は「兗州の広さはいかほどか?」と問い、もとどおり官は都押衙。このとき太祖はすでに四鎮を領し、将吏みな古くからの功臣。劉鄩は降将でありながら一足飛びに彼らの上位に置かれたが、諸将は劉鄩を見るに及び軍礼をもって接し、劉鄩の方も泰然自若として委縮する風がなかった。太祖はこれを奇と舌ものである。

太祖即位後、累進して右龍武統軍。劉知俊が叛き長安を落とすと太祖は劉鄩に牛存節をつけてこれを討たせ、劉知俊は鳳翔に奔る。太祖が長安を永平軍と改めると竜人は節度使を拝命、末帝即位すると鎮南軍節度使とされ、開封尹。

魏・相には楊師厚が両鎮を鎮護していたが、かれが死ぬと魏兵の反乱を畏れた末帝は劉鄩に兵を与えて魏県に向かわせた。魏兵は果たして乱を起こし、まず駕徳倫が晋に下った。劉鄩は兵たちに向かい、晋兵ことごとく魏に赴く、太原襲うべしと。ここに人々を結束させ、旌旗をとって、驢馬に乗って城上を往来し、しかしてその間に決死隊が黄澤関から太原を攻撃した。晋兵は梁の旗が積み重なり、往来しているのを見たが彼らが去る姿を確認することができず、当然、追撃もできなかった。劉鄩は逆撃のため楽平に出たがたまたま雨に会い、勝てずして進師を班師させる。いそぎ臨清に赴き、魏に粟を積み、晋の周徳威が攻め寄せてくるのを莘県に迎撃、甬道と黄河沿いに野戦築城して待ち構えた。

 これよりさき、末帝は書を致して劉鄩の責を鳴らし、「欄外のことはすべて将軍の付託、にもかかわらず、河朔の諸州一日にして覆滅す。今倉廩のたくわえはつき、兵の鍛錬は不十分。将軍、国と思いをおなじゅうするならばよろしく良思を致せ!」劉鄩は応えて曰く「晋兵甚だ鋭なり。いまはまだ撃つべからず。よろしく気を待つべし」末帝はまた書簡を往復させて劉鄩に必勝の策を問うたが、劉鄩は「わたくしに奇策はございません。願わくば米十斛を賜わらんことを。米が即ち敵を尽く打ち破るでしょう」末帝は怒り、劉鄩をなじって「将軍の畜米は病気対策か飢饉対策ではないか、敵を破ることなどできるのか?」といって使者を遣わし、彼らに劉鄩を監視させた。劉鄩は諸将を召し、はかって曰く「主上は禁中奥深くにおられ、白面児と謀っておられる。これでは決して勝てない。いま、敵は盛んであり、軽挙妄動すべきではない。諸君の考えはいかに?」諸将はみな戦いを欲し、劉鄩は諸将全員を軍門に座らせると人をやって彼ら全員に黄河の水を1杯飲ませた。諸将がこのことの意味を諮りかね、あるいは飲みあるいは辞すと「一杯の杯を飲むか辞すか、それを測ることすら難しい。これが滔々と流れる黄河そのものであったなら、その流れを測ることができようか?」諸将みな慄然として失色したという。

このとき、荘宗は魏にあってしばしば勁兵で劉鄩を圧伏、劉鄩は誘いに乗ららかったが、また末帝がしきりに戦いを催促するのでやむなく出戦した。荘宗は諸将を集め軍議して「劉鄩は六韜を学び、用兵の転変を好む。弱を示してもって我を誘い、強をもって我を叩くつもりであろう。今その危難迫る、必ず速戦して劉鄩の策を破るべし」として太原に帰ると揚言し、符存審に命じて魏を護らせ、西に帰ると見せかけて貝州にみずから埋伏した。劉鄩は果たして末帝に報告して曰く、「晋王西に帰り、魏に備えなし、撃つべし」すなわち兵万余をもって魏の東を攻めるも、荘宗は貝州から反転、戻って劉鄩を挟撃した。劉鄩は現れた晋軍に驚き「晋王ここにありか!?」とわずかに兵を下げ、元城にいたる。荘宗と符存審は前後から劉鄩を挟撃し、劉鄩は陣形を円陣にして晋軍を防いだ。兵を合した後、劉鄩は大敗して南に奔り、黎陽から黄河を渡り滑州に入ってここを護る。反省した末帝は劉鄩を義成軍節度使となし、翌年、河朔の晋人全員を下した劉鄩は毫州団練使。

 兗州の張進萬が叛くと劉鄩は兗州安憮制置使を拝す。進萬の死後、泰寧軍節度使。朱友謙が叛き、同州を落とすと末帝は劉鄩を河東道招討使とし、陝州に入らせた。劉鄩は書をもって朱友謙を招いたが、朱友謙は応えず、数か月の事実が過ぎた。尹皓、段凝の二人はもとより劉鄩と仲が悪く、そのためにこれをそしり、劉鄩と朱友謙のが手を結んで族を養っているとでっちあげた。劉鄩は朱友謙を破り、軍権を返上して洛陽に戻ったが、鴆毒を賜わり殺される。享年64歳、のち中書令を追贈された。

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以上でした、それでは!

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