遠蛮亭 2023/02/11 10:50

23-02-11.「日輪宮」イベント下絵1枚+「百将伝」翻訳着手

おはようございます! ちょっと体調崩して朝の間倒れてましたが。

昨日は大したことをしていません。いや、ゲーム制作外のことでいうと中国の「百将伝」翻訳に着手して100人分の3人(姜子牙、慕容恪、王忠嗣)を訳したとかあるのですが、くろてんとは関係ない(作中の軍略とか、そういう意味では非常に関連してますが)ですからね……。とりあえず1人、ここに上げてみましょうか。

62.慕容恪~静をもって動を制す
慕容恪は字を元恭といい、慕容皝の子である。慕容恪は落ち着きがあって度量が広く、胸には常々城府のこと(国家経略のこと)があった。15歳にして8尺7寸、体貌はきわめて立派であり、雄々しく毅く、粛然と整っていた。口を開けば往々にして国を治めるすべと天下を平らげる業であり、つねづね謀略と計策を出して国家に貢献した。慕容恪は遼東に鎮守すると非常な威力を発揮し、高句麗の兵は決して国境を騒がせることができなかった。

慕容皝は臨終を前にして慕容雋に「今、中原は統一を見ず、まさに功業のたてどき。慕容恪は智勇双全、かならず重任に応えるであろう。」慕容雋は即位すると慕容恪に重きを加え、慕容恪はそれに答えてしばしば戦功を立てたので、太原王。慕容雋の病が重くなると慕容評のことを嘱託された。慕容愇が帝を称すると慕容恪は朝中の大権を総覧した。慕容雋歿後、東晋王朝はみな中原を回復すべしと息巻いたが、桓温は「慕容恪が生きている、かれはまったく(晋にとって)心腹の大患である。」と廷臣たちを説いた。

慕容根が殺された後、朝廷の内外はみな恐れ已まず。しかし慕容恪の挙措は変わらず、神色自若。朝廷に出入りするにも随従は一人しか連れなかった。あるひとが慕容恪に身の安全を注意するよう勧めたが、慕容恪は「あなたたちが危うい時、わたしはさらに鎮定を保持しておかねばならない。いかでか我が魂が恐れて定まらないようなことがあれば、あなたたちはいったい誰を頼りにすればいいだろうか?」ひとびとはこういわれて納得し、引き下がった。

慕容恪はだれに対しても胸襟を開き、快活であり、たやすく人を近づけ、人を任ずるに才覚をもってした。大権を掌握しても決して専権することなく、つねづね朝臣たちと諮問してよく彼らの論を聞いた。そして朝廷から帰って私人となると政治を忘れて心身を養った。慕容恪が洛陽を攻囲すると、前秦は震撼した。苻堅は自ら潼関の守備に就いた。慕容恪の軍が撤退すると苻堅は一気に反撃に出た。慕容恪は兵を帯びるも威厳を尊ばず、恩信の方法は軍心を得るのみと確信していた。彼が重んじるところは大略のみであって将士たちの細枝末節にもこだわらなかった。軍士が法を○すと慕容恪はひそかにその罪を免減してやったので彼らは勇憤して敵を斬り殺し全軍を震撼させた。慕容恪の軍は陣形などばらばらであったが、敵軍いたると百出、防御はなはだ厳重であり、逆襲してこれを打ち破った。

臨終のとき、慕容恪は「わたしが聞くに、温情に応えるには、推薦された人を才能に応じて活かさなければならないと。呉王は文武兼備し、管仲や蕭何の風あり。陛下がもしよく彼を用いられれば、国家は安定に向かうでしょう。もし、さにあらずば、隣国から寇敵に襲われ、都は欲望に沈むことでしょう。」言い終わって、慕容恪は世を去った。

<孫子兵法・謀攻>篇に曰く、「輔周は則ちかならず国を強くす。」将帥が周密に君主を補佐すれば、国は必然、盛強となる。慕容恪存命時、桓温はまさにかれは(東晋にとって)心中の大患であるといい、また<孫子兵法・行軍>篇に曰く「卒、いまだ罰につかざれば、すなわち服さず。」士卒の信頼を得るために軽率な処罰を行う将は多いが、それでは士兵の反抗を避けられない。慕容恪は兵を領して敵を打つにあたり、兵を復させるに恩信をもってして威厳をもってしなかった。

こんな感じで1人1人に関しての記述はそれほど長くありません。これを後日1冊にまとめて出版するかなと思ってます。

で、昨日のお絵描きですが……、こちらは下書きが1枚のみ。

沼島寧々さん和姦イベ①。あまみその御景先輩イベントを手本に。ホント和姦イベントはクロシェットからばっかりお手本にしてます。寧々さんは雫おねーちゃんの旧友、名雪さんは瑞穂さんの友人ということで、関係イベント(3P)とかも考えてますがそのあたりまだ未定。瑞穂さんの場合はフミハウとの今後の友情もあるのでそっちも考えないといけません。

それでは、以上でした!

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