遠蛮亭 2023/09/02 21:08

23-09-02.お絵かき(お狐様、VenusBlood)+中国史翻訳(西漢_衛青)

こんばんわです!

今日はゲーム制作進捗ほとんどありません……。ノベプラさんにくろてん3幕、pixivさんにくろてんリライトをそれぞれ連載はじめて、昼前に「お狐様」のイベント絵を一枚修正、そのあとお昼からは漢籍翻訳をやりまして、夕方からエロ絵を描いて今pixivさんにあげてきたところです。

これが本日修正したイベントイラスト。辰馬くんがあまりにもブサイクになっててこれでは魅力値ゼロだと思ったので線修正だけでなく全部描き直し。初音もけっこう手直ししました。修正できる限り修正する、のつもりでしたがもはや全部修正ですね。すでに大半の手直しが終わってるので修正作業、それほどつらいことはありませんでした。

で、翻訳。「108位中国千古将帥」という本がありまして、これを底本にして翻訳するわけですが、本日は西漢の衛青でした。こんな感じ。

【人生】
 衛青は西漢の名将である。字は仲卿、河東平陽のひと。もとは平陽公主に仕える家奴だったがのち漢の武帝の寵遇を受け、大将軍、長平侯に。武帝の元朔二年(前127)、衛青は軍を率いて大いに匈奴を破り、河套地区を漢の版図に入れた。元狩四年には霍去病と共同で匈奴の主力を撃破する。彼は前後七回にわたって塞外に出撃し、匈奴と隣接する諸郡を安定させ、また西漢開闢以来の匈奴の脅威を取り除いた。大司馬と大将軍を兼ね、元封五年(前106)逝去。

【簡評】
 衛青は生涯に七回塞外にでて匈奴と戦い、敵中に深入りしつつ奇兵と正兵を兼用し、その号令は厳にして士卒と甘苦をともにし、作戦に当たっては先陣を切って奮戦し、将士みなかれのために力を致そうと願った。またその処世は慎ましやかであり、法を奉って職分を越えず。これ一代の将帥たるものの模範であった。

【故事】
 衛青は私生児である。母は平陽公主(漢の武帝の姉)の女僕であり、衛という男との間に一男三女をもうけた。衛某の死後、母は県吏の鄭李と密通し、そして生まれたのが衛青であった。衛青は少年時代、父親からすこぶる疎まれ、終日山で放羊して過ごした。やや長じて鄭家の奴○として使われ、いいように母の身の回りの世話に酷使された。彼は鄭家に対して恨みこそあれど親情などなく、このとき鄭姓を衛姓に戻した。

 ある説によれば衛青には幼時から貴人の相があったという。あるとき、衛青がひとにつき従って甘泉宮に詣でた時、人相見をよくするひとりの囚人が「あなたは今困窮しているが、将来は貴人となるだろう。官につき、王侯に封ぜられるだろう」といった。ただしこれは伝説であって、想像の域を出ない。衛青が幼くして異常の人というべき気質を有していたことを喧伝するためのでっち上げかもしれない。衛青は成長してのち母の主人であった平陽公主にまみえ、公主は衛青の相貌堂々を見て自分の騎奴としたので、外出の都度公主に随行した。衛青はここに至ってようやくある程度の文化知識を学ぶ機会を得、また謹んで上流階級の礼節を学んだ。

 衛青の雄飛のきっかけを作ったのは彼の異母姉・衛子夫である。武帝の健元二年(前139)春、衛子夫は選抜されて美人として宮中に入り、衛青は姉の引き立てで召されて建章宮に上った。これが衛青の人生における最大の転機であったことは疑いない。

 衛子夫は宮中にはいるやほどなく妊娠した。陳皇后は武帝のために一男半女も生むこと能わず、武帝の寵愛は衛子夫に移ったため、陳皇后はひどい嫉妬を衛子夫に向けた。しかし衛子夫は無事に男子を出産し、彼が太子としてたてられた。母は子をもって貴し、彼女の地位は出産によって陳皇后を凌ぐに至る。衛子夫は正式に武帝の寵幸を受けた。陳皇后はもはや彼女を害することができなくなったが、そうなると今度は衛青に矛先を向け、手下に命じて襲わせた。衛青は死を覚悟したが、これを聞き知った朋友・公孫敖にすんでのところで助けられた。公孫敖は衛青奪回と同時に人をやって武帝に報告し、武帝はこれを聞いて大いに怒る。今後襲われることのないようすぐに衛青に建章宮監兼侍中の官を与え、公孫敖および彼とともに衛青を救った仲間たちも尊貴に上った。まもなく武帝は正式に衛子夫を夫人に立て、それに伴って衛青は大中大夫となる。衛青の人生におけるもっとも輝かしい瞬間は七たび長城を越えて塞外に長躯したことで疑いないが、ここに見るように、その始まりは姉の後光によるものだった。

 武帝の元光六年(前129)、匈奴が兵を興して南下、その先鋒が上谷を襲う。このとき武帝は衛青を車騎将軍に任じ、匈奴を迎撃させた。ここから衛青の戎馬(=軍人生活)に捧げた人生が始まる。

 この年、衛青と太僕、軽軍将軍の公孫賀、大中太夫、騎将軍の公孫敖、衛尉、驍騎将軍の李広はそれぞれ1万の兵を領し、それぞれ別路上谷を目指して雲中、代郡、雁門から出発した。衛青は竜城にあって初戦に捷ちを告げ、敵を殺すこと数百。しかしほかの三路のうち二路は敗北(公孫敖が死者7000人を出し、李広は生け捕りに遭った)し、一路(公孫賀)は功なくして還り、 四万の鉄騎は2万3000までへらされてしまった。

 衛青の最初の出征はこうして失敗に終わったが、個人的にはこれは幸運であった。漢軍が損失惨憺たるありさまのなか、衛青だけがほとんど損害を受けることなく勝利を飾って突出した成果を上げたのだから。衛青には第一等の爵位——関内侯が授けられた。同時に、これまでの衛青は皇の国戚としての官であるという侮りを受けたが、自らの武功をもって彼はその功業をひとびとに認めさせた。

 いちどは追い払われた匈奴だが、その報復は迅速かつ残忍に行われた。元朔二年(前127)秋、匈奴は再び侵入すると遼西の太守を殺し、漁陽の民二千余を虜囚とした。武帝は匈奴がもっとも恐れる飛将軍・李広を右北平に鎮守させたが、李広を畏れる匈奴はこれを避けて雁門関に入り、漢の北辺を脅かした。武帝は再度衛青を出征させ、同時に李息を代郡から出兵させた。衛青は騎兵3万を率いて長躯進軍し、速やかに前線に到達すると身を士卒に先んじて奮戦、これを見た将士はことさら死戦し、斬獲数千をあげて匈奴を大いに破り、敗走させる。

 衛青の二度目の戦いは大勝利で終わる。この一年は衛氏の家族にとって記念的な意義をもつ年になった。衛子夫は武帝との間の太子劉据の陰をもって皇后となり、衛青は外戚としての地位をさらに確固たるものにした。

 元朔二年(前127)、匈奴の酋長たちは大兵力を結集、再度上谷、漁陽を攻める。武帝は「実を避けて虚を撃つ」に決し、みたび衛青を派遣。衛青は大軍をもって匈奴の盤踞する河南を攻めた。この戦いは西漢と匈奴の最初の大戦役といわれる。衛青は4万を率いて雲中を出発、迂回側撃戦術を採用して匈奴の後方にまわり、高闕を占領して河南の匈奴王、白羊王と楼煩王、および単于王の連携を断ち切る。しかるのちに衛青はまた精兵で南下し、朧西に至って白羊王、桜煩王を包囲撃滅。形勢不利と見た白羊、桜煩の両王は倉皇として逃走する。漢軍はここで河套地域を制圧、水豊かで土地の越えた肥沃なこの一帯はまた険要の地でもあり、武帝は衛青に命じて朔方城を建てさせ、朔方郡と五原郡を置いた。内地の民10万余が移住してここに住まい、衛青は彼らを労働力に秦の蒙恬が築いた辺塞を修復、川沿いの防御を強化する。このようにただ匈奴騎兵を長安から威嚇するのみならず、一歩踏み込んで匈奴の前線基地に反撃を加えた。功により長平侯。

 衛青の三度の勝利にもかかわらず、殺した敵の数は多くない。しかしこの戦勝は大きな意義があった。ひとつには匈奴の作戦方式の探査であり、もうひとつが河南の奪取及び朔方城の修建である。朔方城は西方にある匈奴に打撃を与える前線基地となった。こうして衛青はこの先の漢朝の勝利、その系譜の基を築いていく。

 匈奴の酋長たちは河南での敗北から、関心を朔方に切り替えた。この数年内しばしば出兵するが、しかしすべて漢軍に撃退され、敗走する。

 元朔5年(前124)春、衛青は3万を率いて高闕を出兵、同時に李息、張次公らの軍を統べ、総兵力10数万で匈奴を撃つ。これが衛青四度目の匈奴出征であり、彼の個人的名声を高める意味では最高潮に達する戦役だった。この作戦における標的は匈奴の左賢王。匈奴社会の階級区分は単于を頂点として、左右の賢王、左右の谷蠡王、左右の大将、左右の大都尉、左右の大当戸、左右の骨都侯と続く。歴史上右は西方を指し、用兵の指向性からも西を目指す衛青は右賢王とその麾下の勢力に標的を定めた。

 右賢王は漢軍を軽視し、漢兵は遠く離れたところにあって自分の領土まで到達することは不可能であると認識、警戒を放棄した。衛青は急行すること600~700里、右賢王の幕舎に夜襲をかけ、営を包囲する。そのとき右賢王は帳の中にあって美女と美酒に溺れていたが、状況よろしからずと見て愛妾を連れ、精兵100騎で囲みを突破し逃げ去った。衛青は右賢王の副将10余人を捕え、男女1万5000人と牧畜数万を得て帰る。

 武帝はおおいに悦び、衛青が班師まだ至らずのところに、塞上まで迎えの使者をよこした。ここに衛青を大将軍に封じ、諸将の統率者として上位に置いて名義上、大漢帝国の軍中における第一人者に任じた。衛青の三人の息子も武帝の引き立てを受け、列侯に封ぜられる。衛青という人物はひじょうに謙虚であり、これを再三固辞したが、まさに皇帝と諸将に推されて栄誉に浴した。さらに武帝は衛青の作戦に随行した公孫敖らにも褒賞を与えた。衛青はまごころから暇を返上し、皇帝の面前で甘苦をともにした将士のもとに帰ることを請うた。これこそが衛青の名将たるゆえんであると言われる。

 数回の激突を経て、なお匈奴の猖獗は続く。元朔6年(前123)春、衛青は大将軍となってのち最初の出征に出て、斬首1万9000余という非凡な成績をあげる。この戦役で霍去病が歴史の表舞台に正式に登場し、彼は精騎800で参戦、敵兵2000を殲滅するという輝かしい戦果をあげる。これより以降、霍去病の輝さに衛青の戦果はややかすむかに見える。衛青は一連の作戦中、蘇建が軍を失った問題を処理した。
 蘇建と趙信は3000余の兵で単于の大軍に遭遇、苦戦すること一晩、兵は死に将は尽きた。趙信はもと胡人で匈奴の誘引を受けて単于のもとに走ったが、蘇建は全軍覆滅して単身漢の軍営に逃げ帰った。この蘇建の処遇をどうするかで軍中の意見は割れ、衛青は自らに裁量の権があるといえども武将をみだりに殺すべきではないといい、蘇建を囚車に乗せて長安の武帝のもとに護送した。武帝は蘇建を許し、贖金を納付させて平民に落とした。

 衛青が第一線で活躍した最後の戦いは漠北の戦いである。
 武帝の元狩4年(前119)、漢王朝は匈奴と雌雄を決する気が熟したと判断し、武帝は全国の財力と物力を結集して衛青と霍去病にそれぞれ5万の騎兵を与え、それぞれ漠北に進軍させて匈奴の主力を殲滅するよう命じた。

 この戦役において、衛青と霍去病の身分はすでに対等である。出征にあたっての布陣からしても、武帝はあきらかに霍去病に肩入れし、衛青に主役を譲るよう暗に迫った。のち、情報の失誤が露見すると武帝は戦略を調整、衛青に主役を渡して霍去病を困難から遠ざけようとしている。

 衛青は前将軍・李広、左将軍・公孫贅、右将軍・趙食其、後将軍・曹襄ら四将をしたがえて定襄から出兵、李広と趙食其に命じて二人の軍を合併させ、右翼から進ませて敵を包囲させると同時に、自らは公孫敖、曹襄を従えて敵の正面、単于の駐屯地を直撃する。

 漢の降将・趙信は単于・伊稚斜に策を献じて「漢軍は無道にして害をなし、まさに砂漠を越えんとしておりますが、漢人は熱砂にあえぎ馬は乏しく、われらは逸を以て労を待つべし、さすれば敵どもを俘虜とすることが叶いましょう」単于はすべての物資を漠北に移動させ、漢兵を待った。

 衛青の条件は困難だった。まず先んじて匈奴の主力を捕捉しなくてはならないが、戦闘力に優れた部隊はすべて霍去病に連れていかれており、残った兵力も4人の偏将に分かち与えなければならない。さらに趙食其と李広の部隊は戦場に間に合わず、さらに天の時と地の利は匈奴の側にあって「逸を以て労を待」たれている。千里を離れて匈奴の主力を撃つに予定の戦場へ正確に到達することは不可能に近く、衛青はいまだかつてない困難な局面に直面した。

 逆境に激発した衛青はむしろ静かに沈潜し、厳に陣を敷いて匈奴の軍を待った。衛青は危機に臨んで怖れるところなく、彼の命令に部隊は手甲と兵車を用いて柵営を築き、堅固な防衛線を形成した。歩兵をもって弓手とするのは防戦の基礎であり、また騎兵を方陣の前衛に並べ、さらに両翼に予備の騎兵を置く。もって完成した陣をもって戦闘開始し、衛青はまず騎兵5000をもって匈奴の陣に冲撃、匈奴は1万でこれを迎撃する。時間の経過とともに匈奴は逐次援軍を投入、漢軍は敵が包囲の「袋」に入ったとみるや軍の収縮を開始し、匈奴の出入りする袋の入り口を両翼から包囲して叩く。戦闘は黄昏まで続き、このとき突如大風が吹いて砂礫舞い散る。局面は一気に混乱に陥ったが、衛青は鋭敏にここぞ反撃の機と感じ取った。両翼の騎兵隊に突撃を命じ、包囲を完成させる。単于は匈奴に不利と見ておそれ、逃亡を図り、数百騎で囲みを突いて西北の方角に走る。衛青はこれを追うこと200里、匈奴はただ腰兵糧のみで壊散、全軍退却し、逃げ切れない味方に火をつけ焼き殺して逃げた。衛青は匈奴の拠点をことごとく粉砕し、殲滅する。

この一戦で衛青があげた首級は1万9000余だが、より重要なことは匈奴の主力に重創を負わせたことである。これ以降、漢と匈奴の実力比、その天秤は漢王朝へと傾く。

 漠北の戦いよりのち、衛青は大司馬となって霍去病の上位に置かれる。しかしこれ以後衛青が実戦の場に出されることはなかった。

 のち、衛青は寡婦となっていた平陽公主を娶る。武帝の親任はより重きを加え、はなはだ寵信を受けた。ただし衛青はひととなり謙恭仁和、生活ぶり恬淡として派手さがなく、派手好みの武帝の寵愛は日々霍去病のほうへと移る。大将軍門下から霍去病門下へと奔る将軍も非常に多かった。衛青の門前はしだいに零落していったが彼は誰を恨むこともなく、これも人の情の常と甘んじて平静に日々を送った。

 衛青は恬淡とした人柄と赫赫たる戦功で重用されたのであって、のち衛皇后が廃され武帝の彼に対する寵愛が失われたあとも彼の公人としての立場に何らの影響もなかった。

 武帝の元封5年(前106)、大司馬大将軍衛青逝去。諡は烈侯。武帝の命により武帝の陵墓・茂陵の東、廬山に墳墓と像を建てられ、その赫赫たる戦功に彩られた一生を象られた。

以上ここまで。衛青って非常に恭仁なひとで甥っ子の霍去病に比べてはるかに聖人様なのですが、武帝のアホは霍去病の方が派手で好き。やっぱり地味な人って魅力に欠けるのかなぁとか思うのです。霍去病とかどう考えてもチンピラだし、間違いなくヤリチンのクズですよ? いやまあその辺どうでもいいんですが。

そして夕方からのお絵描き。

VenusBlood-ABYSS-、聖女セレナ・オペコット。嫁にいただいたのはVBHのルセリなんですが、ルセリを描くのはすこし憚られるところがあるのです。なのでVBのイラスト描くときはもっぱらセレナ。

以上でした! ここまで閲読いただき、ありがとうございます!

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