[♀/連載]不浄奇談 [3-2-2.休憩 湯田真冬]

『不浄奇談』キャラクター紹介


    3-2-2.休憩 湯田真冬

 スマートフォンの発する明かりに照らされながら、表示される画面を無言で見つめる。ふとあることに気付き、まさかと思い、それが確かな事実であると悟った時、湯田真冬ははっと息を詰める。浅く、慎重に、息を吐き出す。
 あぁ、と真冬は低い声で呟いた。
 これは、凄い。これは、きっと――。

「休憩時間、おしまい。それじゃ、次、えりかちゃんの番ね」
「私の番って――いや、あの、ちょっと、待ってください!」
 尼野悠莉が話を始めるように促した直後だった。
 次の話者である真崎えりかが、強い拒絶反応を示した。流れに逆らうことなく、柳のごとくに状況に合わせる――普段の柔軟な姿勢は現在のえりかには見られなかった。悲鳴にも似た声で、まくし立てる。
「今、そんな、怖い話なんてしている場合ですか? 何ですかさっきの! 屋上には誰もいないはずなのに、あんな凄い音……。これ、絶対に何か起きてますよ! やばいですって! 亜由美先輩だって結局戻って来ないし、さっきの、亜由美先輩の声だって。あれ、一体、なんだったんですか」
「確かに……。ちょっと、普通じゃないかも」自身も困惑した様子で、三夏が半ば同意を示す。
 自分のすぐ近くで始まった議論に、湯田真冬は心中で頷く。二人の言う通りだ。どんどんと事態は奇妙な方向に進み始めている。常にない挙動をした『お兄ちゃんのウィジャボード』。その直後に起きた不可思議な現象。いずれも、尋常のものとは思えない。加えて、皮膚感覚もどこかおかしい。にじり寄る何者かの気配からか、確実に近づく我慢の限界からか。気温の高い時期であるはずなのに、背筋が異様にぞくぞくする。その寒気とも興奮とも判別できない感覚に、真冬は胸苦しい想いを抱く。遠い昔に幾度となく味わった、じりじりとした心許ない感覚。
「私、提案があるんです!」真冬の考えをよそに、えりかは話を続けている。声には調子外れの鋭さがある。「一旦、この怖い話の会をやめて、みんなでトイレに行きませんか。やっぱり、我慢したままじゃ、ちゃんとした結論も出ないと思うんです。トイレを済ませて落ち着いてから、この先を続けるかどうかを考えた方が……」
「待って」琴美が言いにくそうに口を挟む。「『不浄奇談』は途中でやめると呪われる、らしいから。変な現象が実際に起き始めているこの状況だと、むしろ、『ルール破り』をする方が危険かも」
「でも……」えりかが唇を噛む。無意識的な動作か、不安げにお腹を片手でさする。その顔は血色が悪く、肌の表面にはうっすらと脂汗が浮かんでいる。「だって、このままじゃ……」
 急かされているのに、動きが取れないままならなさ。すぐにでも行きたい、行かなければならない場所があるのに、足踏みするようにして床の上でお尻を揺らすことしかできない切なさ。今、真冬には、えりかの気持ちがわかった。まさにこの瞬間、真冬も同じものに責め苛まれていたので、手に取るように理解できた。
 ずいぶんと昔、毎日のように経験した感覚だった。幼少時、『お兄ちゃん』に怖い話を聞かされていた頃、真冬はこの感覚を嫌というほど味わった。夜の闇に怯えながら、生理的欲求にお尻を蹴飛ばされながらも、行きたい所にはどうしても行けず、ただただじっとこみ上げてくるものを耐え忍ぶ他ない――あの時の不安に満ちた世界が突如、当時と寸分違わぬ姿で真冬の眼前に蘇っていた。あの頃から今まで、長いこと直面することのなかった、自らの原風景とも呼べるもの。その中に、真冬はいた。
 真冬は自分の中に、確かな恐怖を感じ取っていた。しかし、同時にどこか心懐かしい、ずっと戻りたかった故郷に帰ったような心境でもあった。もしかしたら、と真冬は頭の隅で考える。もしかしたら、わたしはずっとこれを求めていたのかもしれない。『怖い話』や『こっくりさん』を悪用して、集団の中に居場所を作ったり、友達をおもちゃにするようなことではなく、わたしが求めていたのはこれだったのかもしれない。あの頃と同じように、心の底から怯えることができて、切なく辛い忍耐を無理強いしてくれる、本当の、恐ろしい何か。真冬自身が成長するに従ってなりを潜めてしまった、真冬を通せんぼしてくれるおぞましい黒い影。
 真冬は無言で膝をこすり合わせる。元々、『不浄奇談』のルール上、話者を務めたばかりの自分はまだトイレに立つことはできない。でも、もしも、ルールによる制約がなかったとしても――自分は変わらず、床に座り込んでもじもじしていることしかできなかったに違いない。真冬はそんな情けない自分の挙動を、愛おしい気持ちで眺める。試しに、やあい、と心の中で自身の震える四肢に投げかける。やあい、いくじなし。
 とくん。未発達な胸の中で、心臓が上擦った音を立てた。
 いくじなし。一人でトイレにも行けない幼稚園児。このまま、ずうっと行けないまんま、もじもじしてればいいんだ。おしっこ漏らして大恥かいちゃえ!
 とくん、とくん、と心音が感じられる。自分自身にひどい言葉を浴びせられて、高ぶり早まる、心の鼓動が。
「とりあえず、さ」悠莉がそっけない口調で言った。真冬は茫洋とした意識の中、彼女の意見を聞くともなく聞く。「さっきの声が幻聴か何かとすると、亜由美は帰って来なかった……要するに逃げたってことになるよね」
 そうだろうか。本当に亜由美先輩は逃げてしまって、ただ帰ってきていないだけなのだろうか。真冬にはそうとは言い切れないように感じられた。
「ってことはさ」悠莉が続ける。「亜由美の『秘密』はもう見ちゃってもいいんじゃない?」
 悠莉の発言は、真冬の耳にはひどく場違いなものとして響いた。集中できていなかったこともあって、一瞬、何のことを言われているかわからなかったほどだ。
 視線を転じる。『不浄奇談』開始当初、他ならぬ亜由美自身が集めた皆の秘密を記した紙片。それは場の中央辺りに置かれている。氏名が書かれた面が表を向いていて、裏面にはそれぞれの『誰にも言えない秘密』が記載されている、ことになっている。
「亜由美の秘密、見てみようよ」
 ヘラヘラとした笑みを崩さず、悠莉は他のメンバーを促す。それでも、気が進まないのか、特に誰も動こうとはしない。真冬も行動に移さない。
 悠莉がふん、と鼻を鳴らす音がした。
 悠莉自身が腰を上げる。そうして、小貫亜由美の名前が記載されている紙片を裏返す。
 天井に備え付けられた灯りは、いまだ点灯される気配がない。もう、今夜は点灯されることはないのかもしれない。深まる暗闇の中、皆で顔を寄せ合って、紙片の表面の文字を見つめる。書かれている文字を真っ先に確認した悠莉は、言葉を何も発さなかった。同様に亜由美の秘密を目にした全員が、黙り込んだ。真冬も言うべき何事も思い浮かばなかった。そこにはこうあった。
『茜音ちゃんと葵ちゃんを殺しちゃったこと』
 予想外の内容に、どう受け取っていいのかわからなかった。
 真冬は記憶をたぐる。茜音ちゃんと葵ちゃんというのは、亜由美先輩自身が語った『怖い話』の主な登場人物だったと記憶している。この秘密を真に受けるのならば、二人を殺したのは実は亜由美先輩自身だった、ということになる。でも、それは一体どういう――。
「いや、ぜんぜん意味がわからないんだけど。なにこれ」悠莉がつまらなさそうに吐き捨てる。「これ、やっぱり、適当に書いといて逃げたんでしょ。絶対」
「でも、適当にしても、意味がわからなすぎない?」三夏が至極当然の疑問を口にする。
「そんなこと、もうどうでもいいです」えりかが苛立ちを隠し切れずに言った。やけに抑揚を欠いた声だった。「とにかく、早く『不浄奇談』なんてやめて、みんなでトイレに……」
「待って。もしかしたら」琴美が低い声で言った。「もしかしたら、これ、本気で言ってるのかも」
 琴美の何かを察したような態度に、全員が琴美の方に目を向ける。皆の無言の求めに応じて、再び琴美が口を開く。
「最初の、亜由美の話ってさ。ちょっと変じゃなかった? まるで、自分がその場で見ていたみたいな……そういう言い方をしているところが、いくつかあった。例えばさ、亜由美、自分の話の中で言ってたよね? 『あたし、今、思い出しても、笑いが――』みたいなこと。しかも、その後、『おおっと、失言。あたしなんて登場してなかったね』とかさ。やけにわざとらしかったから、印象に残っているんだけど」
「言ってた、けど」三夏が続きを促す。「でも、それってつまり……?」
「要するに。自分とは言わずに、亜由美自身、あの話のどこかに登場していた……ってことなんじゃないの?」
「あぁ……」
 真冬はぴんときた。確かによく登場するわりには、最後まで名前のなかった『茜音ちゃんのお友達』がいたように記憶していた。その人物は話の中で、茜音ちゃんと葵ちゃん、二人の関係を決定的な破局へと追い込んだ元凶となっていた。そして、言われてみれば、そのキャラクターの性格は明るい一方、粘着質で底意地が悪い――亜由美先輩によく似たものだったかもしれない。
「それじゃあ」悠莉が神妙な面持ちで言う。「話の中のあの二人は、亜由美のせいで死んだってこと?」
「本人がいない以上、想像でしかないけど」琴美は眼鏡の弦を弄びながら話を結ぶ。「あの二人、特に葵ちゃんの方は、前に亡くなった私達と同学年の子だよね? だったら、亜由美が原因になっていても、筋は通るんじゃない」
「そういえば、さ」三夏がふと気付いたように、自分のスマートフォンを取り出しながら言う。「誰か亜由美本人に連絡はしたの?」
「私、したよ」悠莉が返事をする。「でも、反応なかったね。携帯は持って行ってるはずなんだけど、ずっと未読のまま……」
 そこまで告げて、悠莉が目を見張る気配がした。自分の携帯端末の画面表示を眺めて、見慣れない箇所を見つけたのだと真冬にはすぐにわかった。三夏も同じことに勘付いたのだろう、自分のスマートフォンを手に押し黙っている。
 わずかな沈黙の後、悠莉は端末の画面を皆に向けた。静かに続ける。
「……ねえ、これ、繋がってないんだけど。みんなのは、どうなってる?」
「わたしのは繋がりません」真冬は何も見ずにすぐに応えた。先ほどある種の予感があって端末を開いた際、すでに圏外表示になっていることを確認済みだった。「インターネットも繋がりません。たぶん……誰のも繋がらないんじゃないですか?」
「……ほんとだ」
「こっちもダメ」
「どうして? ついさっきまで、普通に……」
「『戻れない』。『道がない』」思考を口に出しただけの真冬の声が、虚ろに響く。皆が真冬を見た。真冬は皆の注視を意識することなく、そのまま思考の続きを言葉にする。「『お兄ちゃん』も言っていた。亜由美先輩は戻れないんだ、って。亜由美先輩が本当にこの学校で死んだ人と深い関係があって、その人に恨まれていたんだとしたら。亜由美先輩、本当に戻って来られない状況になっているのかも」
「湯田ちゃん?」えりかが怪訝げな声を上げる。
「あ、大丈夫です。心配してくれなくても。でも、凄い、ですよね……」真冬は呟く。自分の声が震えているのを、真冬は自覚する。ある種の感慨を込めて、真冬は続ける。「わたしも、初めて見ました。色々と怪談遊びにも手を出してきましたし、話には聞いたことはあります。だけど、初めて見たんです。そういうことが本当に起こっている時、『携帯電話は繋がらなくなる』。でも、あぁ、本当に、こんなことがあるんですね。これは、凄いですよ。これは、もう、きっと――」
「も、もう、いいから! こんなの、やめましょう」えりかが苦しそうな声を上げた。「もうやめにして、全員でトイレに行って、合宿のみんなと合流しましょうよ!」
「よくよく考えれば」真冬はえりかの発言を意図的に無視した。馬鹿げたことを、と思っていたのだ。終わりにするなんてとんでもない。こんなに身体の芯から震えるほど素敵な夜なのに、どうして帰ったりしなければいけないのか。「この状況、『不浄奇談』のストーリーと同じなんですよね……。そう思いませんか? あの話、舞台はずうっとここと同じような階段の踊り場で、一度もまともな場面転換がないじゃないですか。主な登場人物はずうっと舞台の上にいて、休憩時間にトイレに行って舞台から去った人からいなくなっていく……」
 真冬は自分の顔色は果たして蒼白になっているだろうか、と考える。それとも、興奮のあまり、紅潮しているだろうか。どちらでも、ありそうな話に思えた。あの頃と同じ不安は、恐怖は、ひどい高揚感に満ちていた。深い慰めに満ちていた。
「一人一人、我慢しきれなくなって、トイレに立った人からいなくなる……。でも、あの演出、わたし好きなんです。いなくなった人達も、舞台上にはちゃんといるじゃないですか。全身灰色の服を来て、灰色のメイクをして、青系のライトを当てたりして。物語上は誰にも見えていないみたいだし、身動きもしないし、何一つとして台詞を発することもない。もう二度と、誰にも話しかけられることもない。でも、舞台上に、いることはいる。そんな『灰色になった』人達を前にして、まだ灰色になっていない他の登場人物達は、いなくなったことになっているその人達の話をああでもないこうでもないとしているんです。どこに行ったんだろう、逃げちゃったのかな、なーんて。でも、本当は、『灰色』になってすぐそこにいる。あれが本当に『いる』のか、学校に棲まう悪霊に囚われてしまったことを示す演出なのかはわかりません。でも、まさに、今」
 もっと、もっと、怖くなればいい。
 もっと、もっと、したくなればいい。
 真冬はその場にいる全員に対して、そう願った。自分自身に対してはより一層強く、そう願った。
 怖くて恐ろしくて、トイレになんて行けなくなればいい。
 それなのに、どうしてもしたくてしたくて、たまらなくなればいい。
「まさに今、この状況みたいじゃないですか」
 不安に心臓がきゅっとする。縮んで、乱れて、心が踊る。
 怯えに膀胱がきゅっとする。縮んで、出そうになって、脳が華やぐ。
 これは、凄い。帰ったりするなんてとんでもない。これは、きっと――生まれて初めて体験する、『本物』なんだ。
 雨がしとしとと降り続いている。誰も助けの来ない、誰とも連絡の取れない、怪談に満ちた夜の校舎。真冬は自分を怯えさせてくれる、追い詰めてくれる、『本物』の気配に深い悦びを感じていた。
 わずかな沈黙の後。悠莉が声を発した。
「……いや、あのさあ。盛り上がってるところ悪いけど。これは現実だから。劇とは違う」真冬を鼻で笑うような気配を無理に滲ませて、言葉を継ぐ。「うん、全然、劇とは違うでしょ。だって、あれはトイレに行ってから帰ってくる人間は一人もいない。でも、うちにはいたよね。そうでしょ、ねえ三夏。三夏はさっきトイレに行って、無事に帰って来たわけでしょ」
「……そうね。トイレに行って、帰って来た」三夏が静かに頷く。
「ほら、やっぱり、劇とは違う」悠莉は唇を吊り上げて、目を細める。少し引き攣ったようにも見えるが、それは立派な微笑みだった。「……ていうかさ。みんな、びびりすぎだよ。想像力、逞しすぎ。ただ、亜由美が逃げただけだってば。携帯が偶然、圏外になっただけだってば。幽霊とかいないよ。呪いとかないって」
 しん、とする。誰も悠莉の言葉に応えない。彼女のきわめて現実的発言を言外に否定するような沈黙だった。それでも、悠莉は声を張る。強引に話をまとめようとする。
「あー、もう、なに静かになってんのみんな。とにかく! 私らは東川先輩に言われてるんだから、少なくとも、最後までやらなきゃでしょうが。えりかちゃん、もう、とっとと始めちゃってよ。えりかちゃんの話、楽しみにしてるんだからさあ」
「で、でも、私は……」
「じゃあ、次からやめたいって言った奴の秘密も開くことにしようか。あー、思いついた。そういう奴は、一人で屋上に放り出すっていうのも楽しくない?」
「そ、そんなの!」えりかの顔色が変わった。屋上へと続く金属製の扉に、正視できないおぞましいものでも見るような目を向ける。「だって、屋上は……」
「そ。正体不明の、こわーい音とこわーい声の聞こえてくる場所」片手を顔の高さに上げて、悠莉はわきわきと動かしてみせる。「ふふ、あの向こうに何がいるのか自分の目で確認してきたければ、ここで『怖い話』をやめてもいいんだよ? えりかちゃん」
 えりかは黙って、身じろぎした。三夏も琴美も何か言いたげにしながらも、結局、口を挟むことはなかった。真冬はこの夜の継続さえ叶えば異論はない。えりかはいよいよ助けがないことを悟って、顔を伏せ、目をつむる。
 幾度か深呼吸をしてから、えりかは顔を上げた。
 その瞳は、潤んでいた。その頬には、朱が差していた。

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