[♀/連載]不浄奇談 [3-2.休憩 尼野悠莉]

『不浄奇談』キャラクター紹介


    3-2.休憩 尼野悠莉

 背にしていた扉から、ドンドンドン、と重い衝撃音がして。
 ひゃあ、と思わず素っ頓狂な声が漏れて。
 しょろ、と何かの迸りを股間に覚える。
 湯田の語尾をかき消すように、突如として背後から鳴り響いた轟音。その物恐ろしい音に気圧されて、一瞬にして皆が黙り込む。
 誰も口を開けない。皆が緊張に満ちた表情で見守る中、音は屋上へと出るための扉から断続的に響き続ける。ドン、ドンドンドン、ドンドン。これは、と尼野悠莉はピンと来た。これはノックだ。屋上にいる誰かが、この踊り場へと続く扉を外側から叩いているのだ。
 まるで金縛りにでもあったかのごとく、誰もが動きを止めていた。悠莉も固唾を呑んで見守る。胸の鼓動が強く打つ。実際に音が鳴っていたのは十秒程度だったにも関わらず、悠莉にはそれがひどく長く感じられた。次第に扉を叩く音は収まっていき、ついには完全に鳴り止んだ。後には、さらさらと降る雨音、ぱちゃぱちゃと雨樋を伝って落ちる水の響きだけが、静まり返った踊り場に残る。
 場のどこかから、ほお、とため息が漏れる。安堵の吐息。それが合図だったかのように、皆がようやく停止していた活動を取り戻す。悠莉は思い出したように、息を吸う。ねっとりとした湿気を含んだ空気。わずかに混ざる黴の臭いが、鼻腔を刺す。
「あっ、ど、どうしよ。私、指、離れ……」声に反応して目をやると、えりかが自分の指とウィジャボード上の十円玉を見比べて、慌てふためいている。「今ので、指、離れちゃいましたよお……!」
 悠莉は自分の指を見る。内心、ほっとする。自分は十円玉から離れていない。見れば、はっきりと腰が引けている三夏の指も、すんでのところで十円玉上に残っている。しかし、それよりも何よりも――まずいことに悠莉は気が付いた。
 明らかに、下着が湿っていたのだ。ひょっとして、私、今の音に驚いた拍子に……。そういえば、と思い返す。さっき、確かにそれらしい感覚があったような……。
 自分の失敗を理解した瞬間、顔が熱くなる。
「湯田ちゃん、ちょっと、これ早く終わらせてよ!」悠莉は焦燥感に駆られて叫んだ。必要以上の大声になってしまっていることを理解しつつも、あらゆる意味で、自由に動きの取れない姿勢のままのんびりとしていられる状況ではなかった。「ちゃんと終わらせないと、ヤバいんでしょ!」
 茫然としていた湯田があわあわしながらやって来て、「お、お兄ちゃーん、『後ろ』はわかったからあ。今日はおしまい。ね。いいから、早く早く。ごめん、ごめんね。好きよお兄ちゃん、わたしも好き好き大好き超愛してる」などとウィジャボード上に宿るという亡き兄の説得を始める。湯田の半ば強引な説得が功を奏したのか、十円玉は鳥居に戻り、どうにか儀式を終えることができた。
 湯田と三夏が揃って息をつく。ようやく自由を取り戻し、悠莉も人心地ついたその瞬間だった。
 ドンドン、ドンドン。また、金属製の扉が騒音を立て始める。えりかが両手で耳を塞ぐ。悠莉も身を硬くした。
 だがしかし、今度は先ほどとは違った。扉を叩く音に遅れて、声がやってきたのだ。
「おーい、開けてよー」場にそぐわない、明るい少女の声。この場の全員がよく知る、聞き覚えのある声が言った。「あたしだよ、あたし! みんな大好き、亜由美ちゃんだぞー」
 はあ? と思う。亜由美。その名前と声、常と変わらぬ話しぶりに、硬直した身体から一気に力が抜けていくのがわかる。
 悠莉だけではない。場に張り詰めていた緊張感が、一気にほどけていく。
「な、なあんだ。そういうこと? 亜由美なのお?」悠莉は目の前に迫っていた恐怖から解放された喜び半分、おちびりに至るほどに震え上がらされてしまった口惜しさ半分に悪態をつく。「お前、もう……わざわざ遠回りして屋上から戻ってくるとかさあ。驚かすにしても、バカすぎでしょ。それはさすがに反則だって」
「なはははは」亜由美の笑い声が、扉の向こうからやってくる。「いいからいいから、雨降り出しちゃったしさあ。お願い。開けて開けて」
「いやまあ、言われなくても開けるけどさあ」
 屋上の錠はサムターン式。外側からは無理だが、内側からなら摘みを捻るだけで容易に開くことができる構造になっている。悠莉は金属製の扉の向こうにいる亜由美に促されるまま、錠を外そうと摘みに指をかけた。
「――待って」
 瞬間、背後からの鋭い制止の声が飛んできた。悠莉は動きを止めた。振り返ると、琴美がこちらを見つめていた。
 険しい表情だった。悠莉はわずかに気圧された。でも、強いて、笑おうとする。ここで笑えるからこそ今後もハッタリが効くのだ、と自分に言い聞かせながら。
「なにさ、そんな怖い顔して」悠莉は挑戦を受けるようにして、琴美のことを見返す。「だって、これ、亜由美でしょ。もう、そういうの、いいからさ。開けるよ?」
「やめて。開けないで」
 あくまでも、頑なな声。声量は抑え気味だが、剣呑な雰囲気は変わらない。まるで、睨みつけるような厳しい瞳。
 悠莉は喉の辺りがきゅう、と締め付けられる感覚を覚えた。その感覚が何を示しているのか理解できないまま、悠莉は口を開く。上手く動かない喉からは、自ずと険のある声が出る。
「なんで? て言うか、なにその目。馬鹿にしてんの?」
 余裕を持たなければ笑われてしまう。笑われるのはたまらない。だから、常に余裕を持って、笑う側でいなければいけないのに――濡れた下着が肌に貼りついている。下着を通り越した雫がつつー、と太腿を伝う不快な感触がする。
 悠莉は笑えなかった。自分がすっかり余裕をなくしてしまっていることを、はっきりと悟る。
 心音が早鐘のように打っている。背筋が奇妙に冷たい。太腿を伝う雫がぽとり、と床へと落ちた瞬間、はたと気づく。自分は情けないことに、おしっこちびりの女の子らしい幼稚な、それでいて切実な怯えに囚われてしまっているのだと。だから、強いて脅かすかのごとき態度を取る琴美に、異様なまでに反感を抱いているのだと。自覚していなかった自らの姿を知り、そのか弱い○女のごとき姿を頭の中に想い描いた瞬間、悠莉は自分自身がひどくちっぽけな存在になったように感じた。『他の子には負けない』という自負心の強い悠莉が自分の存在をこうまで頼りなく感じるのは、この学校に入学して以来、初めてのことだった。
「ちょっとー。何の話してんのさあ。早く開けてよー、濡れちゃうよー」亜由美の声が、急かしてくる。
「考えてもみて、悠莉」悠莉の屈託を察しているのかいないのか。琴美は外から聞こえる声を無視して、尖った声のまま告げる。表情はわずかに引きつっている。「どうして、亜由美が屋上なんかにいるの?」
「どうしてって」何を言われているのか理解できず、悠莉は口ごもる。「そりゃ、私達を驚かせようとして……」
「だから、どうやって?」琴美が言葉を被せてくる。「ここを通らないと、屋上には出られないんだよ?」
「……」
 冷え切った手でうなじを撫でられたような感覚。場が、しん、と静まり返る。
 考えてみれば、確かにそうだった。自分達は屋上へと上がることのできる、唯一の道のど真ん中に居座っているのだ。自分達の目を盗んで、屋上に上がることなんてできるはずがない。でも、と悠莉は抗弁する。ありえないことが起きていることを認めたくないがために、問題を矮小化したいがために、抗弁する。
「いや、待ってよ。そう、非常階段! 非常階段があるでしょ。あれを使えば、屋上まで出ることだって……」
「あー、無理です。非常階段では、屋上までは上がれません」予期しない地点から、返答が返ってきた。湯田だった。「わたし、ああいうひと気のない場所は好きなんで、知っているんです。非常階段は屋上に上がる途中に鍵付きの扉があって、厳重に封鎖されていますから。鍵がないと絶対通れません。前に先生に聞いてみたら、鍵は警備会社か何かに預けられてるって話で……亜由美先輩では難しいかと……」
 悠莉は考えるより先に口を開き、反論しようとする。しかし、湯田の話に理解が追いついた途端、何も言葉を発せなくなってしまった。琴美や湯田の言うことの方が、明らかに筋が通っている。
 錠を解除するため、すでに指が触れていた屋上へと続く扉の摘み。冷え切ったその金属部品から、恐る恐る手を離す。
「それじゃあ、今、外にいるのは――」
 一瞬の沈黙が降りる。さらさらと降り続ける雨の音が、薄気味悪さを伴って背中の中枢辺りを震わせる。
 直後、がんっ、とこれまで以上に物凄い音で扉が叩かれる。まるで、悠莉の下した決断への不満をぶちまけるような一撃。続いて、数人が半狂乱になって、めちゃくちゃに叩き続けない限り実現できないほどの勢いで、扉が乱打される。
 巻き起こった凄まじい音と衝撃の嵐に圧倒されて、悠莉は耳を塞ぐ。恐怖のあまり、今にもまた開いてしまいそうなおしっこの穴を固く締める。そのうち、心の中にいつもの呪文が蘇ってくる。
 他の子には負けない。びびっちゃだめ。笑われるのは嫌だ。そうだ。
 笑うんだ。
 悠莉は顔を上げた。皆、いまだ続く音に怯え切って、思い思いの姿勢で身を縮め、耳を塞ぎ、顔を伏せていた。幼子のような、完全に恐怖に屈した姿。
 悠莉は無理に笑った。笑うことができた。負けていない、と。このわけのわからない音の荒れ狂う修羅場で、顔を上げることができているのは、ただ一人自分だけ。自分が一番、恐怖に耐えることができている。自分が一番、この場で心の余裕を保つことができている。
 先ほど突っかかってきた琴美も、いつも澄ましているむかつく三夏も、掴み所のない湯田も、個人的な事情で今一番凹ませてやりたいえりかも、誰も今この状況で笑える人間なんていない。
 過去が脳裏をよぎる。笑われることなく、笑い続けて来た人生。勝ち続けて来た人生。嫌がらせもやった。せこい裏工作もやった。いじめだってやった。演劇部でも、意図的に顧問の男性教師に近づくことで、一年生の頃から良い役をもらって、常に中心に近い場所を守り続けてきた。最近は顧問の視線がえりかに移りつつあるのが最大の不満の種だけれど、でも、必ず勝つ――。
 悠莉の中で損なわれつつあった自己像が、急速に再構築されていく。頼りない幼子から、いつもの飄々とした尼野悠莉へ――。
 長く続いた音が次第に消え、皆が顔を上げ始めた時には、いまだ湿り気を帯びた下着を除き、悠莉は元通りの姿を取り戻していた。
 怖々と周囲を見回す彼女達を軽く見下ろして、悠莉は言った。うっすらと皮肉な笑みを浮かべて。
「とりあえず、静かになったね。……それで、どうする? 休憩時間だけど。誰か、トイレ、行く?」
 手を挙げる者は、誰もいなかった。

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