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小説の記事 (74)

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[♀/連載]不浄奇談 [4-2.休憩 高坂三夏]

『不浄奇談』キャラクター紹介


    4-2.休憩 高坂三夏

「だ、だから――もう、こんなのやめにしましょうよお」
 自分の話を終えた途端だった。間髪を容れずに、えりかが再び提案を始めた。
「今すぐ。今すぐ、みんなでトイレに行きましょうよお。絶対、それが一番いいですって。怖くて危ない所だからみんなで行く。それの何がいけないんですか。私、全然わかりません」
 その語調は、ほとんど哀願とも呼べるものだった。その切羽詰まった声音は、えりか自身の『我慢』にもうほとんど余裕がないことを窺わせた。
 本当のところ、えりかの提案に、三夏も同意したかった。この泣き言めいた発言が、許容される世界だったらどんなにか良かっただろうとも思う。でも、演劇部は、現実の学校は、そういう『やさしい世界』ではない。だから、三夏は沈黙を守る。表立って同意する愚は犯さない。
「ふうん、えりかちゃん、そんなに一人で屋上に出たいんだあ」えりかの提案に対して、悠莉が小馬鹿にしたような言い方で突っかかってくる。あくまで、悠莉は『不浄奇談』続行を唱えるつもりのようだった。「言ったよね? 次、やめたいって言ったら、屋上行きだって。ねー、湯田ちゃん、手伝ってー。こいつ、屋上に放り出すから」
「い、いや! そんな……屋上は、屋上はイヤです!」悠莉と湯田に腕を取られそうになったえりかが、悲鳴じみた声を上げた。床に跪いて、身を縮める。そして、弱々しい声で言う。悪いことをしたわけでもないのに、許しを求める。「……わ、わかりましたからあ。も、もう言いませんからあ」
 そうして、戦いは瞬く間に終焉した。三夏は落胆しなかった。こうなることは、わかっていた。『みんなでなかよく』『弱者にやさしく』などという大人達が提唱する理想論なんて、現実にはまるで通らない。演劇部は、現実の中学校は、あくまで先輩ファーストの世界であり、あくまで弱肉強食の力が物を言う世界。泣き言を言って弱みなんて見せたら、それで最後。舐められて、見下されて、オモチャにされるだけなのだ。
「そ、それじゃあ、全部、終わったら!」えりかは諦め悪く続けた。三夏は意外に思う。そこにはもう、周囲の流れに合わせて如才なく振る舞う、日常のえりかの面影はなかった。「全部終わったら、もう、いいですよね。みんなで仲良くトイレ、でいいですよね。わ、私、もう、夜の学校のトイレで一人でできる自信、ないんです」
「だーめ」悠莉は至極楽しげに言う。年下の後輩をいびるような、からかいの意図を多分に含んだ口調で続ける。「みんなー、特別ルールね。今夜は連れション禁止だから。終わっても、ちゃんと一人で行くんだからね。えりかちゃんも一人ね。どうしても無理なら、一人でびくびくしながら我慢し続けて、さっき自分で笑っていた子みたいに自分の設定した着信音で『びっくりおもらし』でもしたら? 最高にかっこ悪くてみっともない、十年語り継がれる演劇部の伝説になれるよお」
「ど、どうして、そういう意地悪な言い方……!」
「……悠莉、その辺にしときなよ」三夏は口を挟んだ。悠莉の不満げな目が、三夏に向けられる。その視線を受け止めて、三夏は負けじと見返す。悠莉に絡まれているえりかを助けたいわけではなかった。単純に保身のためだった。今ここで余計な特別ルールを増やされたら、三夏自身もわりを喰うことになる。「変な新ルール、勝手に作らないでもらえる? 悠莉がルールってわけでもないんだからさ」
「……あーあ」睨み合う姿勢は、長くは続かなかった。悠莉が早々と視線を逸らす。演技がかった仕草で肩をすくめてみせる。「ちぇー、つまんないなあ。せっかく面白かったのにー。三夏もさあ。いっつも硬いことばっか言わずに、たまには一緒に後輩いじりとかしようよ。絶対楽しいんだからさあ」
 悠莉の軽口に、当の『後輩いじり』の対象となっていたえりかが表情を硬くする。
「――これで四人。結構、進んできたね。あと二人?」三夏はどちらの肩も持たない。どちらの不満にも取り合わない。何が起きても自分の世界を崩さず、自分のペースで自分の口にしたいことだけを口にする。それがこの中学校における高坂三夏の『キャラクター』だった。「次は……」
「私の番、か」
 三夏の送った視線を受けて、琴美は覚悟を決めるように瞼を伏せた。ぴったりと揃えた膝の上には、固く握られた拳。その仕草が恐怖から来るものなのか、それとも生理的欲求から来るものなのか、三夏には判別がつかない。
「その前に」黙っていた湯田が口を開く。静かに押し殺した、だけど、どこか秘めた興奮を感じさせる声。「一応、休憩時間ですよね。トイレに行きたい人、いますか?」
 場にいる全員が、押し黙った。お互いに探るような目線を交わす。
 唯一、すでに一度トイレに立っている三夏にだけは、誰も視線を送っては来なかった。三夏は演劇部員の面々を観察する。『行きたい人』という括りで言えば、間違いなく全員が『行きたい』はずだった。でも、誰も手を挙げない。この場にいるほとんど全員が、明らかな怯えや戸惑いを表情に滲ませていた。それも当然だ、と三夏は思う。
 外ではしとしとと陰気な雨が降り続いている。踊り場の床はこの季節にしてはやけに冷たく、指で触れれば独特の湿り気を帯びている。天井の灯りは、依然、点灯していない。とうの昔に、点灯される時刻は過ぎているはずなのに――そのせいで、辺りは時が経過するごとに暗さを増す一方だった。先ほどまではこの踊り場からでも確認できた階段下の廊下も、密度を濃くした暗闇に遮られ、今やその様子を見通すことは難しくなっている。
 毎日通っている秋ヶ瀬中学校。その校舎内にあって、三夏は学校の『表の顔』とはかけ離れた、謂わば『裏の顔』を目の当たりにしているような気分でいた。
 昼間の学校には闇を払う陽光があって、施設内を照らす白々とした電灯の光もある。数多の言葉を交わしたことのない生徒達、数少ない親交のある生徒達、そして先生達がいる――無数の人間達が作る黒々とした影がそこかしこに落ちてはいても、それでも、多くの生きた人間の息吹がある。最低限の平穏と身の安全は、保たれている。決して安心はできないけれども、身の回りの警戒さえ怠らなければ特別な危険はない。秋ヶ瀬中学校は、三夏にとってそういう場所だった。しかし、今は違った。日中の学校とは異なり、敵となり得るものは人間だけではなかった。ここには人生で経験したことのない、どこに繋がっているのかもわからない、底知れない暗闇があった。いかにもおぞましいモノが潜んでいそうな、不気味に沈黙した、一種の異界が広がっていた。
 外見の不気味さだけには留まらない。現実に奇妙な現象が起き始めてさえいるこの状況下で、誰が安心して一人でトイレになんて行けるだろうか。少なくとも、三夏には今からトイレに向かうことなど、想像がつかなかった。トイレに行った亜由美はいまだ帰って来ていない。湯田の指摘した演劇『不浄奇談』との類似が的を射た仮説だとしたら、トイレに立ったが最後、もうここには帰って来られないかもしれない――。
 ぶるるっ、と三夏は身震いした。その、背筋から這い登ってくる嫌な感覚に、内心、戦慄を覚える。
 その時だった。出し抜けに、悠莉が立ち上がった。
 そして、わざとらしく嘆息しながら、つかつかと歩いて階段へと向かう。皆が目を疑う。三夏も疑った。まさか、と思う。
「はーあ、まったく。みんな、びびっちゃってしょうがないなあ」
 全員の視線を受け止めて、誇らしげに悠莉は笑う。へらへらと、いつも通りに。
「このままじゃ、どうせ誰も行けやしないんでしょ? しょうがないから、私がトイレに行ってきてあげる。ついでに、下の様子も見てきてあげる」
「ま、待って。でも」三夏は思わず口を開いた。こんなことを言うのは、自分の、高坂三夏のキャラには馴染まない。わかっていても、黙ってはいられなかった。「悠莉。本当に、大丈夫なの? 亜由美はまだ帰って来ないし、もし湯田の言う通り、劇と同じだったら……」
「私が帰って来られないかも、って?」はは、と悠莉が声を上げる。「あんたがそれを言う? 真っ先にトイレから無事に帰ってきたあんたが。三夏、4Fの端のトイレに行ったんでしょ? 行った時、なんともなかったんでしょ?」
「それは」三夏は言葉に詰まる。逡巡してから、言う。「もちろん、そう、だけど」
「だったら、大丈夫でしょ。困っちゃうよねー。みんな、フィクションと現実の区別もつかないお子ちゃまなんだからさあ」悠莉は自分の発言に自信を深めたのか、笑みを濃くする、「私がさ。証明してきてあげる。これは現実で、作り物の劇なんかとは全然違うんだってこと。『怖い話』なんて真顔でしてはいるけどさ。実際は、幽霊なんて、心霊現象なんて、この世にはそうそうないんだってこと」
 それだけ言い残して、悠莉は階段に足をかける。皆の視線を背に受けながら、そのまま階下へと降りていく。
 三夏は声をかけなければ、という義務感に駆られる。でも、なんと声をかけていいのか、三夏にはわからなかった。悠莉は振り返らない。悠然と歩を進めていく。
 その後ろ姿が暗闇の中に溶けて、見えなくなってしまっても、三夏は言うべきことを口に出せずにいた。複雑な心境で、悠莉の消えた暗闇にじっと視線を据える。足音は、まだ、聞こえる。悠莉の足音。しかし、足音は次第に遠ざかっていく。今なら間に合う。今なら、まだ――。
 悠莉の背中が暗闇に紛れて見えなくなってしまって、響いていた足音までもがついには聞こえなくなってしまった瞬間。三夏は不意に、取り返しのつかない罪を犯してしまったような想いに捉われた。どうしよう、と思った。
 ――どうしよう。言えなかった。止められなかった。もし、悠莉が帰って来なかったら。もし、大変なことになったら。全部、私の……。
 三夏は心の中で独白する。まさか、とは思う。しかし、不安だった。どうしても、嫌な予感がして抑えきれなかった。表には決して出せない弱音が、泣き言が、心の中で渦を巻く。
 ――で、でも、だって。そんなこと。今更、言えないよ。
 ここまで来てしまったら、もう、絶対に口に出せなくなってしまった秘密。それを、自分の中だけで独白する。

 ――『本当はトイレに行ってない』、なんて。言えるわけ、ないじゃない……。

 一つ目の、亜由美の話が終わった直後のこと。
 三夏は確かに生理的欲求と虚栄心に背中を押されて、トイレに行くと宣言した。事実、その場を立って、トイレに向かうには向かった。でも、階段を降りて、一人きりで誰もいない廊下に降り立ってしまった途端。
 突然、怖さが戻ってきた。意味深げに静まり返った廊下を見るだけで、全身の肌が粟立った。恐る恐る目的地に向かって廊下を進むそのうちに、亜由美の話の内容が脳裏に蘇ってきた。
 つい最近、学校のトイレで亡くなった同学年の子の話。トイレにいる葵ちゃん。もしも彼女に出会ったら、絶対に無視しなければいけない。もし無視できなければ、その子は――。
 一歩進むごとに、恐怖が膨らんでいく。纏わり付く恐怖に、どんどんと足取りが重くなる。情けないことに、怖がりの三夏はトイレで葵ちゃんと遭遇してしまうことを想像するだけで、おしっこをちびってしまいそうだった。
 そして、音一つない、異様な雰囲気に満ちたトイレの前に辿り着いた時。死霊が待ち受けているかもしれない、その曰く付きの物語の舞台へと踏み出していく気概は、もう、残ってはいなかった。階下の他のトイレに入ろうかと思ってはみたものの、無駄だった。一度挫けて逃げることを覚えてしまった臆病な心は、それがどのトイレであっても、決して首を縦には振らなかった。亜由美の話によると、この学校のトイレはどこのトイレであっても、葵ちゃんと遭遇する危険性をはらんでいるのだ。他の幽霊だって、いないとは限らない。入って用を足す勇気なんて、湧いてくるわけがなかった。
 三夏の身体は、トイレを目の前にして童女のように叫んでいた。トイレ行きたい、トイレ行きたい! おしっこしたいよお! はやくはやく、我慢できなくなっちゃう!
 三夏の心は、トイレを目の前にして童女のように震えていた。トイレやだ、トイレ怖い。怖い所なんて行きたくないよお。一人は心細いよお。早くみんなの所に戻ろうよお。
 尿意の波に追い立てられて逸る身体と、恐怖に囚われて後退りする心。その板挟みにあって、三夏はその場で立ち尽くすしかなかった。冷たい汗が、背を伝う。まるで、立ち止まる三夏を急き立てるように。
 しかし、そうしてじっとしている間にも、恐怖はどんどんと際限なく膨張していった。終いには、トイレ前の廊下に留まっていることさえ、怖くてたまらなくなった。もしも、葵ちゃんが自分の気配に気付いて、トイレの外に出てきてしまったら――。もしも、一人でいるところを、学校を徘徊する他の幽霊に見つかってしまったら――。
 尿意と恐怖で、恐怖が勝った。恐怖に追い立てられた三夏は下腹部の要求を無視して、トイレに背を向けた。来た道を逆に辿る。小走りだった。でも、走れば走るほど、心臓の鼓動が早く大きくなって。早く大きくなった鼓動のせいで余計に怖くなって。不安のあまり呼吸が乱れて。乱れた呼吸のせいで余計に怖くなって。もっともっと早く走らなければいけない強迫観念に駆られて。足音が大きくなればなるほど、自分の足音なのに、後ろから何かが追ってきているような気になってしまって。ただただ怖くて、怖くて、怖くて。
 最後にはほとんど全力疾走だった。気持ちばかりが先行して、脚が何度ももつれた。何度も危うく転んでしまいそうになった。そして、ある瞬間、何も障害物がない廊下で、ついに自分の足に足を引っ掛けられたような形になり、バランスが大きく崩れた。それでも、正体のわからない恐怖から逃げ出したい気持ちが勝って、自分の身を守るのが遅れた。結果、幼児がよくするように、前のめりにほとんど顔面から倒れ込むような形になった。びたーん、とうつ伏せの姿勢で全身を地面に叩きつけられる間抜けな音。顔面を強打する寸前、すんでの所で手を突いたものの――直後、あああああ、と三夏はなさけない声を上げた。もわわわ、と。転んだ衝撃で、パンツの中に温もりが生まれてしまっていた。幼児だけが味わうことが許される、どこか懐かしい、あの甘やかな感触。幽霊に怯えるあまり、一人で逃げて、一人で転んで、その衝撃で一人でおしっこをちびって――三夏は一人、顔を赤らめた。滑稽以外の何物でもなかった。中学二年生の三夏にとって、それはあまりにも屈辱的で、恥ずかしさに満ちた失敗体験だった。
 そして、三夏はみんなの前に戻ってきた。廊下でちびってしまった分を除いては、出発時に下腹部に抱えていた荷物を一滴たりとも下ろすことができないままに――。
 三夏は本当のところ、悠莉のことがそれほど好きではなかった。むしろ、いつも飄々としていて、得体の知れない子だと警戒していた。その上、弱みを見せたら付け込んでくる厄介な奴でもあると理解していた。しかし、だとしても、今は無事を祈らずにいられなかった。
 悠莉はきっと、最後まで、自分の演技に騙されてしまっていた。最後まで、無事にトイレに行って帰ってきた人間が、演劇部の仲間の中にいると信じ込んでいた。そこに安心材料を見出したからこそ、トイレへと向かったのだ。恐らくは安全なはずの、4F端のトイレへと。
 でも、その安心材料は、全て紛い物なのだった。三夏の虚栄心が作り出してしまった紛い物。三夏は思う。思わずにはいられない。自分が生み出してしまった嘘の安心材料で、もしも悠莉までもが姿を消してしまったら――。
 考えるだけで、ぞっとした。想像するだけで、責任の重大さに、出来事の恐ろしさに、おしっこをちびってしまいそうだった。でも、それも今更だった。実のところ、すでに三夏の下着はじっとりと湿っていて、ひどく冷え切っていた。
 廊下で転んだ時に加え、階下のけたたましい音、こっくりさん、奇怪な亜由美の声、轟音と共に叩かれる屋上の扉。どの際も、必死に我慢してはいた。それでも、恐ろしくて恐ろしくてたまらず、事あるごとに三夏は人知れず下着の中にちびってしまっていた。悠莉が怖くないと不満を垂れていたえりかの話ですら、保健室にいたという影がまさに真後ろにでもいるような錯覚に陥って寒気がした瞬間、しょろろ、と下着の中を新たに温かくしてしまっていた。
 三夏はもう動けなかったし、立ち上がることもできなかった。何故ならば、丈の長い制服のスカートで隠した三夏のお尻の下には、すでに小さな小さな水たまりができてしまっているのだった。何度も何度も性懲りもなく、小規模な失敗を繰り返してしまった末にできた、誰にも見せられないおしっこちびりの水たまりだった。
 悠莉とえりかの口論に口を挟んだ際にも、トイレに行こうとする悠莉を止めた際にも、三夏は自分のおしっこの水たまりにお尻を浸けたままだった。なるべく平生の態度を崩さぬよう苦心してはいたものの、自分のおしっこの冷たさをお尻に感じながら、いつも通りの自分を演じるのはひどく骨が折れた。自分の情けなさに、涙が出そうになった。
 しかも、それだけの量を溢してしまっていても、なお、溜まったものはほとんど減ってはいない。一向に我慢を楽にはしてくれない。それどころか、時が経つにつれて、苦しさは増すばかりだった。
 三夏の身体は、トイレの前にいたあの時よりも、ずっと大きな声で叫んでいる。追い詰められた童女のように、声高に、早口で叫んでいる。トイレトイレトイレおしっこおしっこおしっこはやくはやくはやくもれちゃうもれちゃうもれちゃう――。
 だけれども、三夏の心も、トイレの前にいたあの時よりも、ずっと大きな声で泣きじゃくっていた。もうやだもうやだもうやだかえりたいかえりたいかえりたいパパママたすけてこわいよお――。
 頬を、背筋を、汗が伝う。べっとりした、不快な脂汗。
 どんなに行きたくても、行けない。どんなに逃げたくても、もう逃げられない。一人立ち上がって注目を浴びてしまったら、そこでお終いだった。お尻の下の水たまりとお尻から垂れる液体で、おしっこをちびっていたのがバレてしまう。仮にこの瞬間だけ逃げ切れたとしても、今もなお動画は撮影され続けている。後から確認すれば、きっと、自分がちびってしまっていたことが露見してしまうに違いなかった。だから、チャンスは一度きり。『不浄奇談』が終わって、動画撮影も終わって、みんなが一斉に立ち上がる時。その時なら、もっと暗くなっている。みんなが立ち上がる音に紛れられれば、お尻から垂れる液体の音も気付かれない。きっと、バレずに済ませられる。パンツは濡れてしまっていても、どうにかスカートさえ濡らさずに済めば、きっと大丈夫――。辛く苦しい我慢と、周囲を取り巻く状況への恐れに、三夏の顔色は紙のように白くなっていた。それでも、『トイレ』を声高に叫ぶ下腹部を抱えて、じっと我慢を続ける。続けざるをえない。
 悠莉のいなくなった踊り場は、しん、と静まり返っている。誰も何も言わなかった。静寂の中、休憩時間はゆっくりと経過していく。そうして、約束の時間がいよいよやってきた時――。
「時間、だけど」琴美がぽつり、呟いた。「帰って、来ないね……」
 悠莉の姿は、まだ、そこにはないままだった。

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[♀/連載]不浄奇談 [4-1.真崎えりかの話]

『不浄奇談』キャラクター紹介


     4-1.真崎えりかの話

 言いたくないんですけど。実はその、ちょっと、ほんともう、我慢が苦しくて……。
 私、このままだと、次の話が終わるまで我慢しなくちゃいけませんし。ちょっと、その、それ、難しいかも、しれなくて……。
 もじもじしている? もじもじ、してますよ! だって、我慢してますから!
 わ、笑わないで下さい。だって、仕方ないじゃないですかあ。せ、生理現象、ですよ。そんな風に笑ったりするものじゃないって、小学校でも先生が言っていました。う、だ、だから、笑わないで下さいったらぁ。
 それでもダメ? それじゃあ、手短に済ませます。
 この学校、昔は病院だったらしいです。だから、幽霊とかもいっぱい出るみたいです。
 以上。私の話はおしまいです。これでいいですよね? 
 そうですよ。よく考えたら、名案じゃないですか。こういう感じで、どんどん短く終わらせていけばいいんです。これなら、全然怖くもないですし、『不浄奇談』を中断した呪いも避けられるんじゃないですか?
 別にダメなこと、ないと思います。そもそも、亜由美先輩や悠莉先輩が、最初に長く話をしすぎたんですよ。そのせいで、みんな、長くなきゃいけないみたいになっちゃって。短くていいんです。怖い話なんて。そもそも、この期に及んで、怖い思いなんてもう誰もしたくないわけですし。
 屋上に放り出す? ま、待って! イヤ、それはぜったいにイヤです! わ、わかりました。少しだけ、話を詳細にしますから。許して下さい。
 それじゃあ、ええと――そう。人って、やっぱり、必ず死にますよね。私も、悠莉先輩も、他のみんなも。全然、実感はありませんけど、最後には全員死ぬと思います。人はそういう運命ですから。それじゃあ、人が最期の瞬間を迎える場所ってどこが多いと思います? 自宅とか、道路とか、色々ありますよね。でも、私、やっぱり、病院で最期を迎える人の割合が大きいと思うんです。だって、重い病気や怪我を負った人は、病院で治療を受けることになるわけですから。だから、病院で無念の想いを抱えたまま亡くなった幽霊が、病院跡のこの学校にはたくさん棲み着いているわけです。
 ところで、話はちょっと変わりますけど、学校の中で病院に似た施設ってありますよね。そうです。保健室です。ちょっとしたものですけど薬があって、ベッドがあって、怪我をした子や体調が優れない子がそこで眠る――。
 実はね、出るらしいんですよ。この学校の保健室。やっぱり、学校の中で唯一、元々ここにあった病院に似通った雰囲気の場所だからでしょうか。
 友達から聞いた話なんですけど、体調が悪いとか吐き気がするとかの仮病を使って、保健室のベッドでよく眠っていた子がいたらしいんです。ある日、その子が保健室のベッドでいつも通りにゆっくり眠っていると、誰かが中に入ってきた気配がして目を醒ましました。
 保健室なんですから、普通に考えたら、入ってくるのは保健の先生か、具合の悪くなった生徒ですよね。でも、どうも、様子が妙なんです。彼女はベッドを囲むように張られたカーテン越しに様子を窺っていたんですが、ベージュ色をした厚手のカーテンに映る影は大きく、ずいぶんと背が高かった。生徒のものではなさそう。かと言って、保健の先生のものかと言えば、そうでもない。彼女は保健の先生が立ち働く影を、サボりのたびにカーテン越しに見ていました。だから、見慣れていたんですね。保健の先生はせっかちで、足音も影も、いつもせかせかと早いテンポで動き回っていたそうです。けれど、目の前の影は違う。まるで足を引きずってでもいるように、ゆっくりと歩いているのです。小柄な保健の先生と比べると、影はずいぶんと大柄でもあったようです。
 彼女はなんだか気味が悪くなってきました。ついでに――まあ、本当はそれで目が醒めたのかもしれませんが――ひどく、トイレにも行きたい。
 でも、困ったことに、影はいつまでも保健室内をゆっくりゆっくり歩き回っています。まるで、何かを探しているかのよう。一分や二分ならまだ我慢もできましたが、十分も、二十分も、そうしているのです。彼女は我慢の限界でした。気味が悪いのを堪え、影と対面する覚悟でカーテンの外に出る決意をしました。
 カーテンを掴み、勢い良くカーテンを開く。カシャ、という音がして視界が開ける。そこには――水を打ったように静かな保健室が広がっていました。
 そうです。誰もいなかったのです。確かに黒い影が、ついさっきまで、はっきりとカーテンには映っていたのに。
 彼女は恐ろしくなって、すぐにその場を去ろうと思いました。そうして、ベッドから起き上がろうとした瞬間です。突然、枕元に置いてあった携帯電話が着信音を鳴らしました。ひどく気が張り詰めていて、我慢の限界に達していた彼女は――これはちょっと笑っちゃうような話ですが――自分の設定した、自分の携帯の着信音に驚き飛び跳ねて、あっ、と思った時にはもう遅い。我慢していたものを、ベッドの上で始めてしまったそうです。止めようと思っても、本格的に始まってしまったおしっこは、なかなか止まるものじゃないですよね。彼女は全部、そのままやってしまいました。ふふ、おもらしした格好で廊下に出ることもできず、彼女は気味の悪い保健室でずっと保健の先生が戻ってくるのを、今か今かと待ち続けるしかなかったらしいです。
 彼女の失敗は年齢不相応の失敗『おねしょ』として片付けられて、彼女が見た影の話は単純に彼女が見た怖い夢と解釈されました。中学生にもなって、怖い夢を見て『おねしょ』してしまった幼稚な女の子。そんな風に扱われてしまうのは、誰だって心外ですよね。彼女もそう思って抗議しましたが、保健室の影の話を信じてくれる大人は誰もいません。不幸中の幸いだったのは、彼女のベッド上での失態が保健の先生と彼女の信頼できる何人かの友人以外、誰にも知られずに済んだことです。
 それ以来、彼女はもう二度と保健室でサボろうとはしませんでした。それどころか、気味悪がって、保健室そのものに寄り付きもしなくなったとのことです。足を引きずる、奇妙な影。この学校では、同じような目撃談が少なくないそうです。まだ何の被害も発生していませんから、先生達は夢だの幻だの言って見ないふりをしていますけど、やはり本当に何かいるのではないでしょうか。
 ……というわけで、以上。私の話はおしまいです。
 え、短かった? 全然怖くなかった? むしろ、ちょっと和んだ? し、仕方ないじゃないですか。そもそも、先輩達がここまで作り込んできているとは思っていませんでしたし、それに怖い話なんかよりも、私達が置かれているこの状況の方がずっと……。
 はい、言いません。言わずに置きます。とにかく、早く終わりにしましょう早く。そうしないと、せ、先輩達だって、この子の二の舞にならないとは限らないんですからね!

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[♀/連載]不浄奇談 [3-2-2.休憩 湯田真冬]

『不浄奇談』キャラクター紹介


    3-2-2.休憩 湯田真冬

 スマートフォンの発する明かりに照らされながら、表示される画面を無言で見つめる。ふとあることに気付き、まさかと思い、それが確かな事実であると悟った時、湯田真冬ははっと息を詰める。浅く、慎重に、息を吐き出す。
 あぁ、と真冬は低い声で呟いた。
 これは、凄い。これは、きっと――。

「休憩時間、おしまい。それじゃ、次、えりかちゃんの番ね」
「私の番って――いや、あの、ちょっと、待ってください!」
 尼野悠莉が話を始めるように促した直後だった。
 次の話者である真崎えりかが、強い拒絶反応を示した。流れに逆らうことなく、柳のごとくに状況に合わせる――普段の柔軟な姿勢は現在のえりかには見られなかった。悲鳴にも似た声で、まくし立てる。
「今、そんな、怖い話なんてしている場合ですか? 何ですかさっきの! 屋上には誰もいないはずなのに、あんな凄い音……。これ、絶対に何か起きてますよ! やばいですって! 亜由美先輩だって結局戻って来ないし、さっきの、亜由美先輩の声だって。あれ、一体、なんだったんですか」
「確かに……。ちょっと、普通じゃないかも」自身も困惑した様子で、三夏が半ば同意を示す。
 自分のすぐ近くで始まった議論に、湯田真冬は心中で頷く。二人の言う通りだ。どんどんと事態は奇妙な方向に進み始めている。常にない挙動をした『お兄ちゃんのウィジャボード』。その直後に起きた不可思議な現象。いずれも、尋常のものとは思えない。加えて、皮膚感覚もどこかおかしい。にじり寄る何者かの気配からか、確実に近づく我慢の限界からか。気温の高い時期であるはずなのに、背筋が異様にぞくぞくする。その寒気とも興奮とも判別できない感覚に、真冬は胸苦しい想いを抱く。遠い昔に幾度となく味わった、じりじりとした心許ない感覚。
「私、提案があるんです!」真冬の考えをよそに、えりかは話を続けている。声には調子外れの鋭さがある。「一旦、この怖い話の会をやめて、みんなでトイレに行きませんか。やっぱり、我慢したままじゃ、ちゃんとした結論も出ないと思うんです。トイレを済ませて落ち着いてから、この先を続けるかどうかを考えた方が……」
「待って」琴美が言いにくそうに口を挟む。「『不浄奇談』は途中でやめると呪われる、らしいから。変な現象が実際に起き始めているこの状況だと、むしろ、『ルール破り』をする方が危険かも」
「でも……」えりかが唇を噛む。無意識的な動作か、不安げにお腹を片手でさする。その顔は血色が悪く、肌の表面にはうっすらと脂汗が浮かんでいる。「だって、このままじゃ……」
 急かされているのに、動きが取れないままならなさ。すぐにでも行きたい、行かなければならない場所があるのに、足踏みするようにして床の上でお尻を揺らすことしかできない切なさ。今、真冬には、えりかの気持ちがわかった。まさにこの瞬間、真冬も同じものに責め苛まれていたので、手に取るように理解できた。
 ずいぶんと昔、毎日のように経験した感覚だった。幼少時、『お兄ちゃん』に怖い話を聞かされていた頃、真冬はこの感覚を嫌というほど味わった。夜の闇に怯えながら、生理的欲求にお尻を蹴飛ばされながらも、行きたい所にはどうしても行けず、ただただじっとこみ上げてくるものを耐え忍ぶ他ない――あの時の不安に満ちた世界が突如、当時と寸分違わぬ姿で真冬の眼前に蘇っていた。あの頃から今まで、長いこと直面することのなかった、自らの原風景とも呼べるもの。その中に、真冬はいた。
 真冬は自分の中に、確かな恐怖を感じ取っていた。しかし、同時にどこか心懐かしい、ずっと戻りたかった故郷に帰ったような心境でもあった。もしかしたら、と真冬は頭の隅で考える。もしかしたら、わたしはずっとこれを求めていたのかもしれない。『怖い話』や『こっくりさん』を悪用して、集団の中に居場所を作ったり、友達をおもちゃにするようなことではなく、わたしが求めていたのはこれだったのかもしれない。あの頃と同じように、心の底から怯えることができて、切なく辛い忍耐を無理強いしてくれる、本当の、恐ろしい何か。真冬自身が成長するに従ってなりを潜めてしまった、真冬を通せんぼしてくれるおぞましい黒い影。
 真冬は無言で膝をこすり合わせる。元々、『不浄奇談』のルール上、話者を務めたばかりの自分はまだトイレに立つことはできない。でも、もしも、ルールによる制約がなかったとしても――自分は変わらず、床に座り込んでもじもじしていることしかできなかったに違いない。真冬はそんな情けない自分の挙動を、愛おしい気持ちで眺める。試しに、やあい、と心の中で自身の震える四肢に投げかける。やあい、いくじなし。
 とくん。未発達な胸の中で、心臓が上擦った音を立てた。
 いくじなし。一人でトイレにも行けない幼稚園児。このまま、ずうっと行けないまんま、もじもじしてればいいんだ。おしっこ漏らして大恥かいちゃえ!
 とくん、とくん、と心音が感じられる。自分自身にひどい言葉を浴びせられて、高ぶり早まる、心の鼓動が。
「とりあえず、さ」悠莉がそっけない口調で言った。真冬は茫洋とした意識の中、彼女の意見を聞くともなく聞く。「さっきの声が幻聴か何かとすると、亜由美は帰って来なかった……要するに逃げたってことになるよね」
 そうだろうか。本当に亜由美先輩は逃げてしまって、ただ帰ってきていないだけなのだろうか。真冬にはそうとは言い切れないように感じられた。
「ってことはさ」悠莉が続ける。「亜由美の『秘密』はもう見ちゃってもいいんじゃない?」
 悠莉の発言は、真冬の耳にはひどく場違いなものとして響いた。集中できていなかったこともあって、一瞬、何のことを言われているかわからなかったほどだ。
 視線を転じる。『不浄奇談』開始当初、他ならぬ亜由美自身が集めた皆の秘密を記した紙片。それは場の中央辺りに置かれている。氏名が書かれた面が表を向いていて、裏面にはそれぞれの『誰にも言えない秘密』が記載されている、ことになっている。
「亜由美の秘密、見てみようよ」
 ヘラヘラとした笑みを崩さず、悠莉は他のメンバーを促す。それでも、気が進まないのか、特に誰も動こうとはしない。真冬も行動に移さない。
 悠莉がふん、と鼻を鳴らす音がした。
 悠莉自身が腰を上げる。そうして、小貫亜由美の名前が記載されている紙片を裏返す。
 天井に備え付けられた灯りは、いまだ点灯される気配がない。もう、今夜は点灯されることはないのかもしれない。深まる暗闇の中、皆で顔を寄せ合って、紙片の表面の文字を見つめる。書かれている文字を真っ先に確認した悠莉は、言葉を何も発さなかった。同様に亜由美の秘密を目にした全員が、黙り込んだ。真冬も言うべき何事も思い浮かばなかった。そこにはこうあった。
『茜音ちゃんと葵ちゃんを殺しちゃったこと』
 予想外の内容に、どう受け取っていいのかわからなかった。
 真冬は記憶をたぐる。茜音ちゃんと葵ちゃんというのは、亜由美先輩自身が語った『怖い話』の主な登場人物だったと記憶している。この秘密を真に受けるのならば、二人を殺したのは実は亜由美先輩自身だった、ということになる。でも、それは一体どういう――。
「いや、ぜんぜん意味がわからないんだけど。なにこれ」悠莉がつまらなさそうに吐き捨てる。「これ、やっぱり、適当に書いといて逃げたんでしょ。絶対」
「でも、適当にしても、意味がわからなすぎない?」三夏が至極当然の疑問を口にする。
「そんなこと、もうどうでもいいです」えりかが苛立ちを隠し切れずに言った。やけに抑揚を欠いた声だった。「とにかく、早く『不浄奇談』なんてやめて、みんなでトイレに……」
「待って。もしかしたら」琴美が低い声で言った。「もしかしたら、これ、本気で言ってるのかも」
 琴美の何かを察したような態度に、全員が琴美の方に目を向ける。皆の無言の求めに応じて、再び琴美が口を開く。
「最初の、亜由美の話ってさ。ちょっと変じゃなかった? まるで、自分がその場で見ていたみたいな……そういう言い方をしているところが、いくつかあった。例えばさ、亜由美、自分の話の中で言ってたよね? 『あたし、今、思い出しても、笑いが――』みたいなこと。しかも、その後、『おおっと、失言。あたしなんて登場してなかったね』とかさ。やけにわざとらしかったから、印象に残っているんだけど」
「言ってた、けど」三夏が続きを促す。「でも、それってつまり……?」
「要するに。自分とは言わずに、亜由美自身、あの話のどこかに登場していた……ってことなんじゃないの?」
「あぁ……」
 真冬はぴんときた。確かによく登場するわりには、最後まで名前のなかった『茜音ちゃんのお友達』がいたように記憶していた。その人物は話の中で、茜音ちゃんと葵ちゃん、二人の関係を決定的な破局へと追い込んだ元凶となっていた。そして、言われてみれば、そのキャラクターの性格は明るい一方、粘着質で底意地が悪い――亜由美先輩によく似たものだったかもしれない。
「それじゃあ」悠莉が神妙な面持ちで言う。「話の中のあの二人は、亜由美のせいで死んだってこと?」
「本人がいない以上、想像でしかないけど」琴美は眼鏡の弦を弄びながら話を結ぶ。「あの二人、特に葵ちゃんの方は、前に亡くなった私達と同学年の子だよね? だったら、亜由美が原因になっていても、筋は通るんじゃない」
「そういえば、さ」三夏がふと気付いたように、自分のスマートフォンを取り出しながら言う。「誰か亜由美本人に連絡はしたの?」
「私、したよ」悠莉が返事をする。「でも、反応なかったね。携帯は持って行ってるはずなんだけど、ずっと未読のまま……」
 そこまで告げて、悠莉が目を見張る気配がした。自分の携帯端末の画面表示を眺めて、見慣れない箇所を見つけたのだと真冬にはすぐにわかった。三夏も同じことに勘付いたのだろう、自分のスマートフォンを手に押し黙っている。
 わずかな沈黙の後、悠莉は端末の画面を皆に向けた。静かに続ける。
「……ねえ、これ、繋がってないんだけど。みんなのは、どうなってる?」
「わたしのは繋がりません」真冬は何も見ずにすぐに応えた。先ほどある種の予感があって端末を開いた際、すでに圏外表示になっていることを確認済みだった。「インターネットも繋がりません。たぶん……誰のも繋がらないんじゃないですか?」
「……ほんとだ」
「こっちもダメ」
「どうして? ついさっきまで、普通に……」
「『戻れない』。『道がない』」思考を口に出しただけの真冬の声が、虚ろに響く。皆が真冬を見た。真冬は皆の注視を意識することなく、そのまま思考の続きを言葉にする。「『お兄ちゃん』も言っていた。亜由美先輩は戻れないんだ、って。亜由美先輩が本当にこの学校で死んだ人と深い関係があって、その人に恨まれていたんだとしたら。亜由美先輩、本当に戻って来られない状況になっているのかも」
「湯田ちゃん?」えりかが怪訝げな声を上げる。
「あ、大丈夫です。心配してくれなくても。でも、凄い、ですよね……」真冬は呟く。自分の声が震えているのを、真冬は自覚する。ある種の感慨を込めて、真冬は続ける。「わたしも、初めて見ました。色々と怪談遊びにも手を出してきましたし、話には聞いたことはあります。だけど、初めて見たんです。そういうことが本当に起こっている時、『携帯電話は繋がらなくなる』。でも、あぁ、本当に、こんなことがあるんですね。これは、凄いですよ。これは、もう、きっと――」
「も、もう、いいから! こんなの、やめましょう」えりかが苦しそうな声を上げた。「もうやめにして、全員でトイレに行って、合宿のみんなと合流しましょうよ!」
「よくよく考えれば」真冬はえりかの発言を意図的に無視した。馬鹿げたことを、と思っていたのだ。終わりにするなんてとんでもない。こんなに身体の芯から震えるほど素敵な夜なのに、どうして帰ったりしなければいけないのか。「この状況、『不浄奇談』のストーリーと同じなんですよね……。そう思いませんか? あの話、舞台はずうっとここと同じような階段の踊り場で、一度もまともな場面転換がないじゃないですか。主な登場人物はずうっと舞台の上にいて、休憩時間にトイレに行って舞台から去った人からいなくなっていく……」
 真冬は自分の顔色は果たして蒼白になっているだろうか、と考える。それとも、興奮のあまり、紅潮しているだろうか。どちらでも、ありそうな話に思えた。あの頃と同じ不安は、恐怖は、ひどい高揚感に満ちていた。深い慰めに満ちていた。
「一人一人、我慢しきれなくなって、トイレに立った人からいなくなる……。でも、あの演出、わたし好きなんです。いなくなった人達も、舞台上にはちゃんといるじゃないですか。全身灰色の服を来て、灰色のメイクをして、青系のライトを当てたりして。物語上は誰にも見えていないみたいだし、身動きもしないし、何一つとして台詞を発することもない。もう二度と、誰にも話しかけられることもない。でも、舞台上に、いることはいる。そんな『灰色になった』人達を前にして、まだ灰色になっていない他の登場人物達は、いなくなったことになっているその人達の話をああでもないこうでもないとしているんです。どこに行ったんだろう、逃げちゃったのかな、なーんて。でも、本当は、『灰色』になってすぐそこにいる。あれが本当に『いる』のか、学校に棲まう悪霊に囚われてしまったことを示す演出なのかはわかりません。でも、まさに、今」
 もっと、もっと、怖くなればいい。
 もっと、もっと、したくなればいい。
 真冬はその場にいる全員に対して、そう願った。自分自身に対してはより一層強く、そう願った。
 怖くて恐ろしくて、トイレになんて行けなくなればいい。
 それなのに、どうしてもしたくてしたくて、たまらなくなればいい。
「まさに今、この状況みたいじゃないですか」
 不安に心臓がきゅっとする。縮んで、乱れて、心が踊る。
 怯えに膀胱がきゅっとする。縮んで、出そうになって、脳が華やぐ。
 これは、凄い。帰ったりするなんてとんでもない。これは、きっと――生まれて初めて体験する、『本物』なんだ。
 雨がしとしとと降り続いている。誰も助けの来ない、誰とも連絡の取れない、怪談に満ちた夜の校舎。真冬は自分を怯えさせてくれる、追い詰めてくれる、『本物』の気配に深い悦びを感じていた。
 わずかな沈黙の後。悠莉が声を発した。
「……いや、あのさあ。盛り上がってるところ悪いけど。これは現実だから。劇とは違う」真冬を鼻で笑うような気配を無理に滲ませて、言葉を継ぐ。「うん、全然、劇とは違うでしょ。だって、あれはトイレに行ってから帰ってくる人間は一人もいない。でも、うちにはいたよね。そうでしょ、ねえ三夏。三夏はさっきトイレに行って、無事に帰って来たわけでしょ」
「……そうね。トイレに行って、帰って来た」三夏が静かに頷く。
「ほら、やっぱり、劇とは違う」悠莉は唇を吊り上げて、目を細める。少し引き攣ったようにも見えるが、それは立派な微笑みだった。「……ていうかさ。みんな、びびりすぎだよ。想像力、逞しすぎ。ただ、亜由美が逃げただけだってば。携帯が偶然、圏外になっただけだってば。幽霊とかいないよ。呪いとかないって」
 しん、とする。誰も悠莉の言葉に応えない。彼女のきわめて現実的発言を言外に否定するような沈黙だった。それでも、悠莉は声を張る。強引に話をまとめようとする。
「あー、もう、なに静かになってんのみんな。とにかく! 私らは東川先輩に言われてるんだから、少なくとも、最後までやらなきゃでしょうが。えりかちゃん、もう、とっとと始めちゃってよ。えりかちゃんの話、楽しみにしてるんだからさあ」
「で、でも、私は……」
「じゃあ、次からやめたいって言った奴の秘密も開くことにしようか。あー、思いついた。そういう奴は、一人で屋上に放り出すっていうのも楽しくない?」
「そ、そんなの!」えりかの顔色が変わった。屋上へと続く金属製の扉に、正視できないおぞましいものでも見るような目を向ける。「だって、屋上は……」
「そ。正体不明の、こわーい音とこわーい声の聞こえてくる場所」片手を顔の高さに上げて、悠莉はわきわきと動かしてみせる。「ふふ、あの向こうに何がいるのか自分の目で確認してきたければ、ここで『怖い話』をやめてもいいんだよ? えりかちゃん」
 えりかは黙って、身じろぎした。三夏も琴美も何か言いたげにしながらも、結局、口を挟むことはなかった。真冬はこの夜の継続さえ叶えば異論はない。えりかはいよいよ助けがないことを悟って、顔を伏せ、目をつむる。
 幾度か深呼吸をしてから、えりかは顔を上げた。
 その瞳は、潤んでいた。その頬には、朱が差していた。

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