咲崎弧瑠璃 2024/02/08 00:29

師なきリドルストーリー

 §
 夜気夜半、優美な後ろ影を見た。
 黒い金魚のように翻る袖。長い銀髪はシロコに似ていた。だが、頂く光は砕けて黒く、奇妙に儚い。
「シロコ?」
 すらりとした背に大人びた目元、シロコの輪郭が振り返る。静かな視線がこちらを見た。
「……先生」
 未だに彼女を、私はどう呼ぶべきかわからない。
「もう君も先生だよ」
「……ん、そうだね」
 彼女もまた、私をどう呼ぶべきかわからないでいた。


 ⁂
 かつて、子供という身分はなかったという。小さな大人がいるだけだと。
 今、我々は“子供でいられなくなったから大人になった“という。どちらが正しいのだろうか。
 目の前の女性を見て思う。
「まさか君と、こんな場所に来るとはね」
「先生はよく来るの?」
「一人でなら、まれに」
 暗い店内、落ち着いた、大人向けの雰囲気を美女が見回す。バーには慣れないらしい。見た目で言えば、彼女の方がよほど似合っているのに。スーツとドレスの合いの子のような、ソリッドドレスにジャケットを羽織った独特の出立ち。これが、かつて自転車を乗り回していたシロコの姿だろうか。
「ここなら、ゆっくり話せるかなと思って」
「ごめんね、気を遣わせちゃって」
「……それは、気にしなくていいことだよ」
 長くなった指で、水のグラスを揺らす彼女。伏した目が、憂えるような視線を水面に落としている。恐らく、心配することはやめたのだろう。ため息もつかず、水の揺らぎを見つめるだけ。
 ……今の私には、彼女が私の知るシロコと同じようには思えない。よく知れば一致するのか、それすらわからなかった。別の私、それも難しい概念だが、自分に頼まれた生徒は今、同僚として、私の前に座っている。生徒を教師にしてしまった。それが正しいことなのかどうか、未だに答えは出ていない。

「教師になって、どのくらいだっけ」
「40日目」
「細かいね」
「授業計画に、書いてあるから」
 アイスブレイクに、彼女は淡々と答えるだけ。元より無表情気味の彼女の表情は、今、静かに澄んでいた。表層からでも感じられたシロコのパッションは、くたびれた後に歪み、直され、けれど癒えたのかは見通せない。……ああ、本当に難儀だ。私向きじゃない。
「白状すると、君は断るだろうと思ってたんだ」
「……自分でも、なんで引き受けたか分かってないかも」
 なぜ私がそんな提案をしたか、わからないとは言えなかった。
 私が彼と同じ境遇に身を置いた時、彼が残した足跡と、100%同じ趨勢を辿れる自信がある。それは、私自身に関する問題だからだ。私がすべきと信じたことを、私はできる。私は、教師としての判断なら、そうそう間違わない。
 だが、彼女に関する問題は? 彼女がすべきことは何なのか。私はなぜ彼女を教師にしたのだろう。
 ……そうか、私も、緊張していたのか。

──今はどこに住んでるの?
──あの店には行ってみた?
──最近こんなことがあったんだけど。
 ぽつりぽつりと、彼女が自分のことを話し始めるまでに、ミストスタイルのラフロイグは、すっかりシャーベット状になってしまっていた。
「今日、生徒に呆れられちゃった」
「あはは、自分もあったな」
「……申し訳なかった」
 気が張り詰めている。初めてだらけだから、というだけではない。
「……眠れてる?」
「……」
「対処療法だけど、眠剤くらいは飲んだ方がいいよ。私も使ってるし」
「……先生も?」
 おどけて受け流そうとして、やめる。深刻なことではないと、けれど軽いことでもないと言葉を選んで話した。やりづらい。いつもの私を出さないことが、私の今すべきことなのか。
「私は、先生のこと、全然知らなかったんだね」
「カッコつけていたからね」
「知りたかったな」
「……教師は、教えない仕事だからね」
 柳眉が、僅かにひそめられた。意を汲めなかったからじゃない。抗議のまなざしだった。
「……やっぱり、仕事は慣れない?」
「慣れないは慣れないけど……。嫌いじゃない」
「そっか」
 その時初めて、彼女の唇が、緩やかに笑んだ。ん、という彼女に、私も小さく頷く。
 キヴォトスにおける教育者は、教師というよりはメンターだ。話を聞き寄り添う。独断専行の目立つ在りし日の彼女とは、一見遠いようで、存外に適役ではあった。彼女は漂着するように、アビドスに辿り着いたのだから。世界に沿い人に沿われることが何かを知っているはずだった。
 ただ、それは“生徒と会う仕事”でもある。
「私なんかが、教える資格あるのかな」
「それは必ずみんな思うことだよ」
 新米教師の率直な吐露に、思わず頬が緩んだ。そういう話なら覚えがある。ある意味、安堵したとき。
「私はたぶん、その子を殺してる」、と。
 思わず、グラスを取り落としかけた。

「思うの。私、殺した子に教えてるって」
「……別の世界の子と、その子を同じに見るのは……」
「ううん、いいの。事実だから」
 彼女は、淡々と続け、それから黙った。高度限界ギリギリで現れた彼女の、あの時の、あの目。自分の使命と思って自分を殺す、透徹した目だ。彼女は教職を、贖罪と思っているのではないか。言葉に詰まる私の前で、彼女は続ける。
「今日、アビドスの子たちと会った」
「そう。……話したの?」
「逃げようとしたんだけど、捕まっちゃって。この服、動きにくいし」
「でも、話せたんだ」
「うん」
 ほのかに微笑したまま、目を伏せる。宗教画のような笑みだった。
「話した。私とも。みんなとも。優しかった。全部、私が滅ぼしたのに」
 諦念の果てに生まれる、独特の笑み。芸術家の追い求める極限の微笑を浮かべて、かつての少女が、笑っていた。
「記憶もないまま受け入れてくれたみんなが、そこにいるの。蝶つがいだった、あの子たちが。いなくなって、私が離れて、壊れて、壊した後に、そこにいるの。最初からそこにいてくれたら、どんなに良かっただろうね」
 指先で氷を撫でる。撫でて、回す。それがゆっくり静止へ落ちて、同じだけ時間が流れた時、彼女は呟く。
「そのあと、あの子たちから、逃げたの」
「うん」
「そして、先生に会った」
「……」
 彼女は、瞑想的な微笑を続けていた。
「びっくりした。先生が、また現れたんだって。そんなこと、ありっこないのに」
 微笑んだまま、顎を光が伝った。
 そのまま、二滴、三滴。
 唇を噛むと、もう彼女は私の目を見ることはできなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、先生…………っ!」
 はじめ静かに涙を流した彼女は、唇を震わせ、嗚咽をこらえきれないとわかると、目を覆い、手首で何度も何度も涙を拭っても、ついぞ涙を止めることは出来なかった。
「ごめ、ん、分かって、る、先生と、あの先生は違う、って、でも……」
 人に他人を重ねる暴力性、その人をその人と思えない非道徳。彼女は隘路に入り込みつつある。その先にあるのは倫理だった。なんというべきなのか。ただ、彼女の手を握り、しっかり握って、そうすることしか出来ない。そんなこと、彼女は一つも望んでいないのに。
「大丈夫だから、私もみんなも、……試されているのは、こっちの方なんだから」
「私、負い切れない、こんな、こんな、自分、負い切れない……」
 ……口で言うべき言葉はわかっていた。
 そもそも、責任というのは元より負い切れないのだと。頼まれた荷物は壊してしまうかもしれない。事故で約束の時間を破るかもしれないし、明日世界が終わるかもしれない。現実は多様で、予見不可能で、かつ我々の背負う責任は一つとは限らない。
 それでも責任を負えると思っているのは、最初から、暗黙の免責条項を忍ばせているからだ。極論、遅刻も殺人も全く同じ意味で取り消せない。罪が刻み込まれるのは石板であり、消しゴムのあるメモ帳ではない。本質的な責任は、世間の思う責任とは全く意味が違う。でも、そんなこと、彼女になんの慰めになるというのか。
「責任を負うべきは君だけじゃないんだから。どの道誰かが……」
「そんなの関係ないっ!」
 私は教誨師ではない。同じ死すべきものでありながら、死に怯え罪を告解する死刑囚を諭す力はない。そして、もはや彼女に対しては教師でもない。私は彼女の同業者であり、教師の教師ではないのだ。このキヴォトスにおいて、唯一“先生”として接しえない存在が彼女だった。
 私は、“先生”ではなくなったのだ。


 §
 生徒を守りきれなかった。
 生徒のままで、いさせることが出来なかった。
 私は引き継ぎに失敗したのだろうか。
 とにもかくにも、私はキャンセル不可能な物語に踏み込んでいた。

「先生、その……。さっきは取り乱してごめん。もう、大丈夫だから」
 私の自室、ベッドに腰掛けて彼女は、幾分落ち着いた声で言った。
「最後まで付き合わせるのも大事だと思うよ」
 私の言葉に答えようと一度口を開き、それから黙る。静かに胸が、一度、大きく膨らみ、沈んだ。

 ……彼女を連れ出すのには苦労した。このまま彼女を奇異の目に晒すわけにはいかないが、さりとて座らせておくにも連れ立つにも難しい。結局は、彼女自身がふらふらと出てしまうのを、無理やりタクシーに押し込んだのだった。
「私、どうしちゃったんだろうね」
「少なくとも、疲れてるのは確かだよ」
「……そうだね」
 カップを渡され、啜り、息もなく湯気を見つめる彼女。長い髪がソファに流れ、静かな光沢を放っている。その背中は何も言わない。
 青いマフラーに白いシャツ、黒いスーツに黒いドレス。その二つの間を、どうにも私は繋げられずにいる。彼女をシロコと思えない。そもそも、同じ人間と思わなければいけないのか。アイデンティティに固着するつもりはない。ただ、今の彼女はいかにも消化不良だった。それは、彼女も同じだろう。

 時間の沈積するような沈黙を、破ったのは彼女の方だった。
「先生は……、なんで私を、先生にしようと思ったの?」
「……もう、生徒じゃいられなくなったから」
「したことの、責任を負えってこと?」
「責任を、負い切れないと思ったからだよ」
 表情が率直に疑問符を浮かべる。どこかシロコの素朴さに似ていた。
「……なんと言えばいいかな」
 言葉に困る。逆説的な話だ。“子供がしたことだから”で済ませられないから、彼女はもう子供ではいられないのだ。ただ、なんと言えばいいか。
「……壊した花瓶は戻せない。責任なんか取りようがない。でも、だからといって逃げ出していい理由にはならない」
「運命で花瓶が割れることは決まっていたかもしれないのに?」
「人間に運命はわからないから。……自分は誰かと訊かれたら、どう答える? 名前も肩書も全部言った後に」
「こんなことをして、こんな風に生きてきたって、言うかな。……すべて滅ぼしましたって」
「……とにかく、自分がしたことをなかったことにしたら、自分が誰であるかさえ言えなくなってしまうんだよ」
「……よくわからないかも」
 疲れた様子だった。今の彼女に言うべきことではないのかもしれない。私自身、どう言ったらいいかわからない。

 ただ、彼女は疲れ切り、疲れることにも疲れている。話を続けたのは彼女だった。
「先生は、負い切れない責任があるの?」
「私は、私がやるべきことをしているだけだから」
「してしまった後の私とは、違うということだね」
「……悪意ある物言いをするなら」
 私は責任という擬制を受け入れたからこそ、同じ“先生”であり続けられた。別に、私の本質が強固だったから、別の世界の私と一致していたわけではない。フィクションを受け入れ、同じイメージを始発点に置いたからこそ、その後の趨勢が一緒だっただけだ。
「したことをなかったことにできないなら、私はどうしたらいいのかな」
「……わからない」
「そうだろうね」
 妙に詰るような言葉遣いだった。私を彼と重ねているのか、責任から逃れたいのか。単に自分自身にいら立っているのか。だが、どれも間違いではないから厄介だった。
「滅ぼすっていう言葉が、抽象的すぎて、守ってくれていた気がしたの。でも最近分かった。殺すってこと、生きていた命をなかったことにすること、手の中で、それを……」
「いい、思い出さなくていいから、今は、とにかく……」
「とにかく、何?」
 気ままな哲学談義では済ませられない。もう彼女だけの物語でもなくなりつつある。絶えず問われている気がする。なぜ教師にしたのかと。責任は何だと。彼女の呵責は私への呵責でもあった。だが、それ以上のものを抱えていて、言葉が、精神が、あまりに足りない。
「今、苦しむために生きてる気がするの。本当に」
「彼は……苦しむために生まれてきたんじゃないって」
「だったら苦しむために生きてる今も、間違ってるんじゃないの? なんで、責め苦を背負って……」
「落ち着いて、大丈夫だから、聞いてるから」
「落ち着いてなんかいられると思う……!?」
 ここに来て会話は叫び合いの様相を呈しつつあった。明らかに感情的になっている。だが、平静に聞き流すわけにもいかない。まじめに聞けば聞くほど聞き捨てならない。背骨で応えるしかない。だが、どうやって。
「教えてよ先生、ねえ、教えて……」
 自分の塗装が剝がされていくのを感じる。もう教師ではない。赦してというこの顔。見てはいけないものを私は見てしまったのかもしれない。

 赦されない、癒せない咎人を前にしては、糾弾者になるか共犯者になるかしかない。
 困ったことに私は、その両者だった。
 
「大丈夫、私が一緒に、いるから、これ以上自分を傷つけないで……」
 なんでこんなに薄っぺらい言葉しか出てこないのか。恐れているからだ。自分が引きずり込まれる感覚を覚える。教えてやるという一方的関係ではない。自分自身が泥濘に落ち、藻掻き、苦しまなければならない感覚。彼女の苦しみを苦しむ重さ。教壇の上から慰めてやることはできない。私はもう、彼女の人生に両足を突っ込んでしまった。それが怖いのだ。私自身が彼女の咎を負わないといけないのか? そんなことは。恐れとおののきの中で、けれど、逃げることはできない。
 ジワジワと焦燥と諦念が湧き上がってくる。彼女が叫んでいる。銀髪の美女は吠えるように細い声を絞り出し、けれどすべてが自身に刺さって、胸を押さえうずくまった。それでも彼女は自分も止められない。そして叫ぶのだ。
「償う人もいない、償う方法もないし、償っても償ったことにならない! どうしたらいいの?! ねえ、どうしたら……!」
「──わっかんねえよッ!」
 思わず口を押える。男の声に、彼女がハッと目を見開いた。それから拗ねたように目を逸らすと、こちらを睨み、それから涙をあふれさせた。自身の口を押える男は、取り繕う言葉を知らない。罪悪感を引っ掻き回され、耐えられなかったのか。

「そう、でも……、先生だって……ッ!」
 半ば殺意のこもった目でこちらを射抜き、私にしがみついた。さすがに膂力では比べ物にならない。それでも睨みつける私の首を絞めようとして、それから、ぐったりと私の上にしなだれかかった。

「……あなたでも、そういうことを言うんだね」
 答えられなかった。私は彼女の処遇を間違ったのか。責任を負わないで済む、一人の生徒にとどめておくべきだったのか。けれど彼女が自分をそうは思っていない。どうすればよかったのかと言われればそうするしかなかったとしか言いようがない。……そうか。あの時のシロコも、同じだったのか。
 
 ──もう、その後は、どうしようもなかった。何もしなかった。
 何もできず、話しもせず、動きも出来ず。動けば動かなければならない。あるのは、時が止まってほしいという憔悴した願いだけ。
 その後数時間を私たちは、無言のうちに過ごしていた。時間に章立てはない。淡々と過ぎて行って、苦みのある不協和音に差し掛かったまま、楽譜はフェルマータで止まっていた。

 ベッドに腰掛けたまま、手をつないで窓外を眺めていたのを覚えている。ロマンチックな理由ではない。手を離せなかったのだ。何をするかわからなかった。

 一瞬、ふっと黒いヘイローが消えた。それから瞬くと、顔を上げる。
「仕事、行かなきゃ……」
 夜が明ける。白々と闇が溶かされていく。何一つ解決していない。何も彼女は満たされていない。解決しようがない。ほぼ百パーセント、彼女は一生これを背負い続ける。
「今日は、ミレニアムで掃除がある」
「……それは、立ち会わなくてもいいんじゃないの?」
「先生だから」
 彼女は、笑いもせず言った。

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