ニィロウは不浄を知らず
§
物見遊山で来るには、いささか刺激が強かった。
さすがスメールシティだと思い知った。
さっきまで、あれほど愕然としていたのに。わが国最大の都市が、まさかこんな素朴な街だったなんて。街の中に畑があるとは思わなかった。これでは大した収穫も見込めない。地下市に寄ったら帰ろうとしていた時分だった。
──ズバイルシアターは、一人の少女の独壇場だったのだ。
遠く、どこか小鳥めいた踊り子が、肢体をしなやかに流し踊りを捧げる。近づけばそこには彫琢された美。まだあどけなさ残る美少女の、表情まで見えてきた。無垢な顔立ちが、どこか神懸かり的な雰囲気を醸し出す。奔放に動いているようで洗練された動きは流麗、夕焼けに染まった髪色と青の衣装が宙に流れ、時に金の装飾の音が鳴る。
音楽の中、靴の舞台を踏み軋む音さえ聞こえてくるようだった。角の生えた被り物から豊かに流れるオレンジ髪も、胸元と腰回りだけを隠す衣装も、舞台や音楽さえ渾然一体となりその美しさを際立たせる。何より、凄まじいほどの美少女だ。締まった脚は肉感的で、色白の肌はミルクのよう。眼福、いや、それ以上。来た甲斐があった。
観客が感嘆ともつかないため息を漏らし囁き合う。そうか。ニィロウというのか。
美しい夢のようだった。そこに身を浸せば長く続く甘い時間。振り返れば何もなかったかのように残滓だけが残る一瞬。彼女の香りさえ漂ってくるような世界で、乳白色と青と紅が混ざり、ふと、その紺碧の瞳と目が合った。
音楽がやみ人もまばらに散っていった後、尚立ち尽くす。
今見たのは、現実なのか。
或いは俺はこの時点で、狂気の中にいたのかもしれない。
一歩進みだした。
もはや、夢遊病だった。
一目みたい。あれが実在していた痕跡が欲しい。何かが倒錯していく気がする。鍵もかかっていない楽屋に忍び込んですら、俺は自分を省みることがなかった。早く彼女に触れたいと思うばかりで、この時だけは欲望も純粋だったかもしれない。
けれどいざ楽屋に辿り着いた時。俺は拍子抜けもいいところだった。
いない。
袋一つが置いてあるばかりだ。
やはり、下城区の姫にお目にかかるのは難しいのか。沸騰していた思考が、急に醒めてくる。
……帰るか。
きびすを返そうとしたとき、とはいえどうも未練がある。
袋の中身が気になった。彼女のものと思しきそれは、何かが詰まっている。道具だろうか。或いは、服……?
ゆらぁっと、仄暗い欲望がくゆり始めた。
止められない。
ただ、こんなに無防備に置いてある方がおかしいではないか。盗んでくださいと言わんばかり。紐解き中を探り、ふわりと広がる香りに脳が揺すぶられる。
だが中身を取り出すまで時間は待ってくれなかった。
代わりに飛んできたのは、鈴のような美声が一つ。
「ちょっと、何してるの?」
弾かれたように振り返れば、果たしてそこには明るい紅茶色の踊り子娘。見紛うはずない。ニィロウだ。まだダンス衣装を着たまま。もしかしてこれが普段の格好なのか? いや、今はそんなことを考えている場合ではない。早くこの場を切り抜けなければ。いや、このまま留まって、あるいはこの美少女と……。
「その手に持っているものはなぁに?」
少女が問い詰めるが、綿菓子のようにふわふわとした声では迫力がない。ただ、その音色は耳にあまりに甘かった。染み通っては消えていくような声音。これに耳元で囁かれたら、理性を保てないかもしれない。
沈黙は雄弁で、それをニィロウは自白と受け取った。
ため息をついて頭を振る。
「こういうの良くないんだよ? とにかく、人、呼ばなくちゃ……」
人? そうか、人がここにきて、彼女と俺の間に入り、そして俺は、俺は……!
ようやく事態を理解し、焦燥感が駆け巡る。逃げなければ。でもどこへ。もしくは今すぐ彼女の口を塞ぎ何かするべきか。彼女の肌に触れたりすれば、理性を保てる自信がない。そうなればどれほどの幸福が俺に訪れるか。
ただ、もうまごついている時間もなかった。
袋を引ったくって、一目散に走りだす。
「あっ、ダメっ!」
背後から声が響く。けれどいくら踊り子とはいえ、華奢な少女に男の脚には追いつくまい。流麗な踊りは似合っても泥臭い走りにはあまりに縁遠いはず。
そう思った時だった。
「よっと」
そんな、間の抜けた声と共に。
脇腹に叩き込まれたのは、しなやかでぶっといおみ脚で──!
【 本編プラン 】プラン以上限定 支援額:500円
プランに加入すると、この限定特典に加え、今月の限定特典も閲覧できます
有料プラン退会後、
閲覧できなくなる特典が
あります
バックナンバー購入で閲覧したい方はこちら
バックナンバーとは?
月額:500円