Wedge White 2022/11/15 19:56

先生と私

先生と私



 病院は静かな場所である。
 どうやら、一般的に人はそう感じているらしい。
 それはある意味では正しいことなのかもしれないが、私は幼い頃からそうは思わなかった。
 静かであるのが当然であり、小さな子どもが泣きじゃくったりすると、その声が目立つのは一般的な外来病院の話だ。
 私が生まれてすぐに入ったこの入院病棟には静けさなんてものはなかった。
 ある日は、早朝からたくさんのナースがドクターを伴ってやってきた。
 私の隣のベッドの患者が急変して、ICUへと連れて行かれのだ。結局、彼は戻ってくることはなかった。
 ICUから別の病室に行ったのかもしれないが、それが楽観視であることを私はなんとなく理解していた。
 またある日には、子どもが泣きじゃくり、暴れまわった。それは一般でもあることなのかもしれない。
 だが、その子は自分で点滴の針を抜き、血しぶきはカーテンにまで飛び散って、大騒ぎになった。それにいち早く気付いた私はナースコールを押して、すぐにナースたちを呼び寄せたぐらい。
 しかし、私の知る騒がしい日常は、私が小学校5年になるべき年齢になる頃には終わりを告げていた。
 私は完全個室に入ることになったのだ。
 親が頑張って高級な部屋に入れてくれたから。なんてめでたいことではない。
 個室にしたのは、常に私が見張っていなければならないほどに危険な状態だから。
 それまでは掴まり歩きなら、自力で歩行もできていたというのに、その頃にはもう車いすですら移動がままならないほどに全身が衰えきっていた。
 いつ心臓が止まってもおかしくはない。そんな状況で私は、ある一人のドクターに出会った。
 今まで何度も担当医は変わっていた。
 歳を取るほどに、私は前例のない奇病にかかっているらしいことがわかっていき、もう並の医者はさじを投げてしまった。
 そんな私の担当医となった新しいドクターは、医大を出てすぐだという新米ドクター。
 私はきっと、新人が貧乏くじを引かされたのだと思った。そして、私が死ねばきっと責任を取って首を切られるのではないか、と。
 しかし、私の予想はまるっきり外れていたことが、初顔合わせの日にわかった。

「おはよう、一葉(いちは)ちゃん。私が今日から君を担当することになった来栖です」
 現れたドクターは、私――中学3年生になるべき年齢の私と、そう変わらない見た目をしていた。
「え、えっと……おはようござい、ます」
「あははっ、やっぱりその反応!どうせ、オドオドした新米が来るって思ってたんでしょ?いやぁ、そうはいかないんだなぁ、これが!新人医師、来栖柚葉は、アメリカの医大を18歳にして卒業した超絶天才少女だったのだ!」
「あっ、18なんだ」
「君みたいな14のガキんちょと一緒にすんなよな!」
 そう言う来栖さんは、明らかに同年代と比べても小柄な私よりも小さい。12歳とか言ってくれた方が信じられるような容姿だ。
 ただまあ、羨ましいことに胸は結構あることがわかったから、確かに年上なんだろうな、とは思う。
「さて、私のことは好きに呼んでくれていいけど、どうする?柚ちゃんとでも呼んでくれる?」
「来栖先生で」
「OK、柚葉先生って呼んで」
「……それ、一回私に聞いた意味ありました?」
「ないね。ただまあ、雑談の一環だよ」
「はぁ」
 めまいがするのは、病気のためではないと思う。朝からもう疲れた。
「一葉と柚葉。うん、私たちは葉っぱコンビだ。なんだか縁起がいい感じがしないかな?」
「柚葉先生は奇麗な名前だと思います。私はまあ、すっごい皮肉な名前と思いますけど」
「うん?どういう意味かな?」
「一葉、一つの葉ですよ?もう14年、本とかばっかり読んで生きてるんです。重病患者が窓の外から木を見て、あの最後の一枚の葉っぱが落ちたら私も死ぬんだ……なんて言う古典的な展開があることは知ってます。まるっきりそれみたいじゃないですか」
「はぁ、なるほどねぇ。私はそういうのは興味ないから」
「……そですか」
 フランクな人だとは思ったけど、天才というのもまた事実なんだろう。きっと幼い頃から勉強ばっかりで、ドラマやマンガなんて知らないんだろうな。いつ終わるかもしれない命、勉強なんてしなくていいから、好きなものを見なさいと言われた私とは対照的だ。
「それで一葉ちゃん。君のいるこの階がどういった意味を果たしているのかは知っているかな?」
「いわゆるホスピスですよね。緩和医療とか言うんでしたっけ。主に末期がん患者が最後のひとときを少しでも幸せに過ごせるよう、頑張ってくれているところ」
「そうだね。でも、君は末期がんじゃない。既存の病名に当てはめることのない謎の病を発症している。どこもかしこも悪いが、不思議と今までは生きてこられた」
「まだ14年ですけどね。先生よりも幼いです」
「でも14年だ。私は自慢じゃないが、風邪一つひいたことがない。それで18年生きれるのは当然だろうが、君は明らかに重病人なのに14年生きていられている。生命力の強靭さがうかがえるじゃないか」
「……で、なんの話ですか?」
 この人の話は真剣に受け止めすぎない方がいいとわかった。
「私は君を治そうと思っているんだけど、どうかな?医療とは患者に求められたものを与えるものだ。どれだけ私が必死になっても、君に治るつもりがなければどうにもならない。だから、君に治りたいのかと問いたい。こんな牢獄みたいな場所を出て、自分の足で外を。好きな場所を歩いてみたくはないかと。そう問いかけたくて、私はこんなしょっぼい病院に来たんだ」
「……ここ、日本でも有数の病院ですよね」
「そうだね。たかが極東の小さな小さな島国における“有数”だ。私はアメリカを知っているんだよ?」
 柚葉先生は、笑っていた。しょぼい病院で今まで過ごしてきた私に。
「正直に言いますよ」
「うん」
「もう、ずっと苦しむぐらいなら死にたいとか、そんな入院初心者みたいな願望は通り越しました。今の私は“無”ですよ。全くの無。何も願望なんてないんです。自分が生きている意味も、自分が生きていたいのかすら、わからない。ただ今日も生きていられているみたいだから、その命の流れに従っている。ただそれだけです」
 私は、腕を持ち上げた。重い。自分の細い腕を持ち上げることすら難しいほど、私の筋肉は失われている。ほとんど動いていないから当然だけど。
「なんとなく、柚葉先生が最後の先生になる気がします。先生が私を治してくれるというのなら、私はあなたに治してほしい。でも、それが叶わなくても恨みません。私はずっと0なんです。0が完全に消えてnullになっても、もしかしたら家族は恨むかもしれませんが、私自身の気持ちとしては恨もうというつもりはない。だから、私の一切をあなたに任せます」
 柚葉先生に持ち上げた腕を向ける。彼女は、私の手をしっかりと握ってくれた。
「ありがとう。君が“まだ”0でよかった。マイナスに行ってしまっていては、どうしようもなかったからね」
「柚葉先生、知ってますか?」
「うん?」
「マイナスなんて数字は現実にはないんですよ。私に何をかけても、何で割っても、何を引いても。0です。でも、生きている限りはnullじゃない。ずっと0なんです」
「ふふっ、先生に数学を教えてくれるなんて、君もまた天才教師みたいだね?」
「そうですよ。私は病院14年生。先生1年目の先生よりずっと先輩なんですから」
「あははっ、こりゃ一本取られたかな。君とは想像よりもずっと楽しい日々を過ごせそうでよかった。――じゃあ、早速全てを始めよう。私は過去のデータなんて信じない、私自身が取ったデータだけを信じる。君には辛い思いをさせてしまうけども……」
「私から何を引いても?」
「0だったね。――なるほど、一葉という名前は確かに皮肉かもしれないな」
 私には、一も残っていないのだから。
 でも、何も残っていないということは、もうこれ以上、何も奪われないということでもある。



「さて、一葉ちゃん。今日は出かけようか」
「えっ……?」
 それから数日、私はいくつもの検査を受けた。
 辛いだろうとは言われたけど、特に苦痛はなかった。正直、もう痛覚などもかなり鈍っていたから、何本針を刺されても、いくら血を抜かれても。私は苦しくもなんともない。
 しかし、突然柚葉先生はそんなことを言った。
「えっと、私は絶対安静ですよね?外出なんて許可が出るはずが……」
「私が出したんだよ。君の主治医がね」
「…………でも、許可は降りませんよね」
「今の時間帯は誰もいないとわかっているんだ。一緒に出かけよう、一葉ちゃん」
「めちゃくちゃな先生」
「天才は既存の規範になど縛られないのだよ」
「バレたらどうするんですか?先生、クビになるかもですよ」
「その時はその時だよ」
「私、もう先生以外の先生は嫌なんですけど」
「私がヘマをすると思うかな?」
「割りとしそうです」
「たははっ、言うねぇ」
「口ぐらいしかまともに動きませんから。それぐらいはしっかりと回していかないと」
「うんうん、その意気だ。一葉ちゃんは本当に生命力に満ち溢れている」
 柚葉先生は満足そうに笑って、私を車いすに乗せた。
 そして、ずんずん押していく。
 久しぶりに病室の外に出た。
 廊下を通過して、エレベーターへ。
 途中、売店のある5階でエレベーターは止まったが、誰かに気付かれることもなく、私は1階にまで下りてしまった。
「コンビニスイーツとハンバーガー、どっちがいい?」
「どっちも無理ですよ、私」
「選ぶ楽しみぐらい味わえるだろう?」
「じゃあ、どっちも」
 私は柚葉先生相手になら、わがままになれた。
 なぜかといえば、私なんかよりもずっと、先生の方がわがままだからだ。
「いいだろう。今日は私のおごりだ!」
 そして、私は先生と一緒にまずはコンビニに行った。
 生まれて初めての本物のコンビニで、私は美味しそうなロールケーキと、フルーツタルトを選んだ。
 先生はからあげと、アメリカンドッグを頼んでいた。
 それから、ハンバーガーショップへ。
 期間限定だというクリームチーズバーガーを頼んだ。先生はホットドッグを頼んでいた。
「ドッグ被りですね」
「好きなんだ。棒状の肉が」
「卑猥」
「ふふっ、一葉ちゃん、そういう知識もあるんだね」
「今時、ネットにそういうのいくらでも転がってますよ」
「エロガキめ」
「いいでしょう?」
「まあね」
 そして、私たちは何事もなく病室に戻れた。
 不気味なほどに上手くいってしまったけど、私は気づいた。
 もう後は死を待つだけの患者となった私のことを、他の入院患者はもちろん、多くの病院職員たちも知らない。知っているのは同じ階の人だけ。
 だから、時間帯を見計らって同じ階の人にさえ見つからなければ、病院を抜け出すことぐらい訳はないのだった。
「さて。一葉ちゃん。君は物を噛むのも難しいんだったね」
「はい。だから固形物は食べられません。消化機能ぐらいはまだあるみたいですけど、ずっと点滴ですしね」
「今日は食べよう。せっかく、君が食べたいものを買ったんだ」
「えっ……?」
 そう言うと、柚葉先生は、私が選んだクリームチーズバーガーを取り出した。そして。
「あむっ……んっ、んむっ、んっ、んっ……!」
「………………」
 私の目の前で美味しそうに食べ始めた。なんなんだこの人。
「んっ、くひ、あけてっ」
「えっ……?」
 しかし、すぐに私に変なことを要求する。そして。
「んちゅるうううっ!ちゅれるじゅうううっ!じゅるるううっ!ずるううっ、ちゅっ、ちゅぅううっ!」
「んんーっ!?」
 先生は、私の唇に自分のそれを密着させた。
 そして、舌を私の口の中へと押し込んでくる。
 それと同時に、しっかりと咀嚼してペースト状になったハンバーガーが私の口の中へ、喉の奥へ。流し込まれていった。
「じゅぷるちゅううううっ!ちゅっ、じゅぅっ、じゅるるちゅうううっ!」
「んっ、んんっ……!んっ、んんーっ……」
 やがてそれは終わる。彼女の口の中のものを全て、私の中に流し込んで。
「せん、せいっ……?」
「今は柚葉って呼んでくれてもいいよ、一葉ちゃん」
「……ファーストキスですけど」
「私もだよ、一葉」
「好きでもない人と」
「これから好きになってくれたらいい」
「……大嫌いです。柚葉」
「ふふっ、そっか」
「今は大嫌い。でも、今までは大好きでしたし、これからも大好きです。……バカ」

 これが私の大好きな、天才バカ先生との出会いの話。
 私が人生で最初に。そして最後に。恋した人の話。

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