羊おじさん倶楽部 2019/12/08 13:08

好きな小説について紹介させてください(純文学縛り)

シナリオ書いてる人はCi-enで好きな小説紹介していいって

聞いたので、自作品でオマージュってほどでもないけどよく参考にする小説を純文学系の中から紹介します。

著者がにわかなので有名作品ばかり並びます。ご容赦

各画像、引用紹介文はリンク先Amazon.co.jpからの引用です。

掌の小説


唯一の肉親である祖父の火葬を扱った自伝的な「骨拾い」、町へ売られていく娘が母親の情けで恋人のバス運転手と一夜を過す「有難う」など、豊富な詩情と清新でデリケートな感覚、そしてあくまで非情な人生観によって独自な作風を打ち立てた著者の、その詩情のしたたりとも言うべき“掌編小説"122編を収録した。若い日から四十余年にわたって書き続けられた、川端文学の精華である。

文体という言葉の指し示す範囲が、単なる単語の選び方や語順に限らず、描写のカメラワーク、意識の足運びといったものまで引っくるめて、それを構成するのだと思い出します。

あるがままに描写するのではなく、一度意識に取り込まれた情景が詩情に変換され言葉として独立して立ち上がるその比喩手法の発明は、当時新感覚派と呼ばれました。

眼と薔薇とを二つのものとして「私の眼は赤い薔薇を見た。」と書いたとすれば、新進作家は眼と薔薇とを一つにして、「私の眼が赤い薔薇だ。」と書く (Wikipediaより)

綺麗な女性を見たときに、その足の裏の肌の色を想像して架空の純真さを字面の上に構築する描写手法は極めて独特で、紙の上にこんなにも生々しい肉の輪郭が見えるものかと驚きます。

そして何より注目すべきはキャラクターです。掌編ゆえ登場人物は多くても二三人、もちろん各人の性格は深く掘り下げられることはなく、素朴で、言ってしまえば、ある種のテンプレートに沿っている。

同様に人間ドラマを主眼とする掌編ばかりを書くレイモンド・カーヴァーは、不要な描写をこのうえなく削ることで、素朴な人間同士のドラマを現実以上の存在感で紙上に再現します。

川端康成は本題とは関係ない会話の端々や時間の流れの描写のうちにキャラクターの厚みを保証し、掌編の終わるまでには、どうしてか彼ら彼女らのことを身近によく知っているような気持ちにさせられます。

ふとしたことで死に、見知らぬ他人を冷酷に見限り、されど不自由そうにも情に振り回され、人由来の不条理に苦笑するキャラクターは川端康成の文体にのみ存在するある種のイデアです。

姉は男に抱かれながら、こんな風に夫に抱かれて死んでゆく妹を、まざまざと思い浮かべた。そして男のするままになりながら、妹が死んだら妹の夫と結婚するだろうという夢を見た。まことに生き生きしい血の嵐であった。
自分の失ったものを妹の上に求めていた姉は、妹の死によってそれを自分の上に取り戻したのであった。

灰色のダイエットコカコーラ

かつて六十三人もの人間を殺害し、暴力と恐怖の体現者たる“覇王”として群臨した今は亡き偉大な祖父。その直系たる「僕」がこの町を、この世界を支配する―そんな虹色の未来の夢もつかの間、「肉のカタマリ」として未だ何者でもない灰色の現実を迎えてしまったことに「僕」は気づいてしまう…。「僕」の全力の反撃が始まる―!!青春小説のトップランナー・佐藤友哉と『惡の華』の押見修造のタッグが放つ、ゼロ年代の金字塔的青春小説!

ひどい小説です。技術的な上手さからは程遠く、薄っぺらい感性に紡がれる言葉は低俗そのものです。グランジ系のロックバンドがただただ泣き言と暴力性を歌詞に刻むダサさに似ています。

同情や共感を抱いたらおしまいです。気づけばそれは彼らの小説ではなく、あなたの小説になってしまっています。

僕はいわゆる才能と呼ばれる概念とは無縁の人間だと思っている(人間には必ず一つ才能があると無条件に思っているやつが多くて本当にこまる)。学力も体力も平均以下。自意識は人一倍。普通運転免許とワープロ検定四級が切り札。そんな十九歳のフリーター。それが僕。残された大物にいたる道となると、もう犯罪者くらいしか残っていないが、それも無理だろう。ばらばらにした人体にナンバリングして住宅街に放置する勇気も、何人もの○女を屍○して精液のつまった死体を電柱にくくりつける度胸もそなわっていなかった。何もできない。どこにも行けない。そうしたありきたりで生々しい言葉が離れてくれない。いらいらしてきた。机の抽斗からマンゴスチンのチューインガムを取り出して口に放りこむ。嘘くさい甘味が口に広がって吐きそうになった。

国境の南、太陽の西

今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう―たぶん。「ジャズを流す上品なバー」を経営する、絵に描いたように幸せな僕の前にかつて好きだった女性が現われて―。日常に潜む不安をみずみずしく描く話題作。

村上春樹の作品のうちではあまり評価されることのない作品です。事件らしい事件が起こるわけではなく、ただ幼少期の過去から現在にかけての主人公の人生に関わった三人の女性についてのエピソードが語られる。

しかし筆者は、村上春樹の作品のうちではこの作品が最も好きです。理由はよくまとまっているから。

極めてこじんまりと自分の周辺に広がる手を伸ばせば届く程度の世界について描かれているため、他の長編作品に比べてテーマが一貫しており、されど浅いわけではなく、螺旋回廊を降りるときのような、似ているけれど少し違う景色が繰り返し現れるがゆえの目眩があります。

彼の作品は本人も言うように、アフォリズム、デタッチメント、コミットメントと三段階にテーマが変遷しており、この作品はねじまき鳥クロニクルから分離されたものなので、デタッチメントとコミットメントの間。最後のデタッチメント的作品であると解釈できます(本当か?)。

僕は家に戻ってから、自分の部屋の机の前に座って、島本さんに握られたその手を長いあいだじっと見ていた。僕は島本さんが僕の手を取ってくれたことをとても嬉しく思った。その優しい感触はそのあと何日にもわたって僕の心を温めてくれた。でもそれと同時に僕は混乱し、戸惑い、切なくなった。その温かみをいったいどのように扱えばいいのか、どこに持っていけばいいのか、それが僕にはわからなかったのだ。

失ったものについて。その周辺のイメージについて語る行為を、あるいは虚構に求めるものが救いでも慰めでもなく、ただ実際的なこれからの現実を生きていくための、後ろ向きな手段として消極的に肯定するその姿勢が大変好ましい。

言葉にできない孤独が力点で、壮大な冒険劇が作用点だとするなら、現実に最も近い場所を描いたこの作品こそが支点であり、村上春樹という作家を理解するための舞台裏のようなものが見える気がして、学ぶところの多い秀作だと思います。


以上

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