しゅれでぃんがー 2020/01/21 23:10

創作におけるオリジナリティーについて

 このところ、「『鬼滅の刃』が〇〇のパクリ」なんて呟きを見かけ始めた。いずれ出てくるだろうな、と思っていたし、今更かよ、なんて思っていたりもするが。別に『鬼滅の刃』は何かをパクっているわけではないと思う。今回はそれについて考えていこう。


 結論から言ってしまうと、【現代の創作で何かと被らない作り方はもう無理】である。そんなことを言いだしたら、鬼が出てくる作品は全部桃太郎のパクリ、とかいう話になってきてしまう。死人が生き返ったら全部旧約聖書のパクリなのか。科学者がゾンビ作ったらフランケンシュタインのパクリか。動物が人間になって恩返ししたら全部鶴の恩返しやごんぎつねのパクリなのか。そういう話である。現代におけるオリジナリティとは、【今までに作られた物語と一切被らない物語】という意味ではないのである。

 ではどういう意味なのか。それは、【色々な物語の欠片を組み合わせて、誰も見たことが無いように見えるような物語】という意味である。似てるけど、違う。同じではない。そこに、オリジナリティが生まれる。


 『鬼滅の刃』はたしかに『ジョジョの奇妙な冒険』と似ているところはある。でも、呼吸はすれども鬼滅の刃の世界じゃ波紋は無いし、そもそも大正時代。ジョジョの一部と二部は年代は似ていても外国であり、三部なんて現代日本である。炭次郎は空条承太郎ではないし、スタープラチナなんて出さない。山吹色のオーバードライブなんてしないのだ。

 無惨とディオは同じ存在か? キャラ造形だって違うだろう。これでパクリなんて言い出したら、創作業界なんて即日死滅してしまう。パクリパクリと言いたがる人ほど読んだ物語の数が少なく、発想も貧困なのである。


 以前、『プロメア』は『火火の消防隊』をパクった、なんて話も出ていた。でも中身を見ていれば分かるはず。話の方向性がだいぶん違う。消防隊はプロメアみたいに暑苦しい展開じゃないだろう。骨組みは似ているかもしれないが、造形が違う。それが、上手いオリジナリティの作り方なのだ。





 極論を言えば、骨組みは全く一緒にしたって良い。好きな作品を思い切りパクれ。ただし、造形は完全に変えること。それが作話の入門だ。

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