しゅれでぃんがー 2022/02/28 20:00

【文字――エッセイ】邪悪の在処

 少年法という法律がある。子どもは未成熟なので、罪を犯しても社会復帰しやすいよう配慮しようという法律である。もうちょっと詳しく見てみよう。法務省のホームページ(https://www.moj.go.jp/keiji1/keiji14_00015.html#Q1)にはこう書いてある。

「少年法は、少年の健全な育成を図るため,非行少年に対する処分やその手続などについて定める法律」
(引用)

 見た感じそれらしいことを書いてあるが。やってること自体は、大人と同じ犯罪をしても子どもだから大目に見よう、ということと大差はないように思う。そもそも、少年法時代が戦後日本の復興時代に、生活が成り立たず犯罪を○す青少年たちの社会復帰のために制定された法律、と無知な私は認識しているのだが。その当時の思想で同じ法律を運用していても、現代の青少年は事情が違うから上手くいくわけがないと思うのだが。まあ、少年法の是非については本題とも関係無いので、今回は触れないことにする。


 子どもが他人に迷惑をかけた時、された本人が「子どもがしたことなので」、と許したとする。子どもの親がこれを言ったらもうその時点で頭がおかしいという話ではあるのだが(この言葉は被害を被った方が言う言葉)、子どもは悪意があろうとなかろうと。行った行動自体は悪である。悪気が無いけどやってしまったことが他人に迷惑をかけた時。果たしてこの行為によって、その子どもが邪悪かどうかを区別することができるだろうか。

 悪気があってやったのならそれは邪悪だろう。だが、悪気が無くてやったことでも、やったこと自体が邪悪なら。それは結果として邪悪な行いとなる。服を汚したとか物を壊したとかならまあ示談で済むこともあるだろう。だが、壊したものが高価だったり、人が死んだりした場合。悪気が無くてもその行いは邪悪となる。そういう人間を、周りの人間は邪悪ではない人間と認識するかどうか。罪として立件された場合、その人間には前科が付くので。その前科自体が、邪悪さを醸し出すかもしれない。


 心の中はどうだろうか。いつもにこにこ、人当たりのいい人間。そんな人がいつも心の中で悪態をつき、苛立ちに怒り、他人の死を願っていたとして。その人間は邪悪だろうか。私は邪悪だとは思わない。何故なら、その邪悪さを体の外に出していないからだ。人間の心は誰しも自由であり、その自由は他人に犯されるべきではない。心の中が罵詈雑言で満ち溢れていようと、内に秘めて外に出さないのなら。その人間は善良だろう。

 やるかやらないか、というのはとても大事な事である。殺したいほど憎い相手がいるとする。本当に殺せば犯罪者だ。だが、殺意を内に秘めて殺さず普通にやり取りするのであれば。殺意を抱くも抱かないも、それは当人の自由である。法治国家でも人間には自由が保障されており、「精神の自由」というものがある。「他人に悪意を抱く自由」、「他人に敵意を抱く自由」。そして、それはもちろん「他人に殺意を抱く自由」も、保証されているのである。

 つい最近、東京大学の受験会場で大きな事件があった。受験生がナイフで他の受験生などを切りつけたらしい。行為の理由は、成績不振で東大には入れないと教師に言われたとかなんとか。一応、本人にしてみれば重大な理由なのだろう。だが、どんな理由があれど実際に他人を傷つけた事件でこの青年は「邪悪な犯罪者」である。犯罪者に邪悪じゃない犯罪者はいない。犯罪行為と法治国家で制定されていることものは、だいたいが邪悪な行動によって引き起こされるものだからである。ここに、邪悪の在処が見えてくる。

 邪悪とは人の内面に宿る物ではない。おこなった行動に浮かび上がる物なのだ。心秘めて隠している限り、人間は誰も邪悪にはならない。それは何故かというと。実際に行動に移さない限り、それは精神の自由によって守られた、尊重されるべき自由の一環だからである。


 こうなると、子どもが他人に迷惑をかけた時。少年法の適用年齢内の人間が犯罪行為を行った時。悪意のある無しに関わらず、その人間は邪悪なのかどうか。

 罪を憎んで人を憎まず、という言葉がある。孔子という人が言ったらしい。意味は、「人が犯した罪は憎むべきであるが、その罪を犯した人を憎んではいけない」ということのようだ。罪を○す理由もあるだろうから、その人までも憎んではいけないよ、ということらしい。人を許すこと、寛容さを表す言葉のようである。良いことを言っていると思う。だが、私はこの言葉の意味をこう解釈しよう。

「人が犯した罪は憎むべきであるが、罪を犯さない限り心の中がどれだけ邪悪でもその人間を憎んではいけない。また、どんな理由があろうとも罪を犯した時点でその人間は法によって裁かれるので。裁かれた人間に対しては、法によって償いをしたのだから罪以上に憎しみを持ってはいけない」


 悪意のある無しに関わらず、行動の是非に邪悪は宿る。幼稚園や小学生の子どもの心には、確かに悪意は無いだろう。だが、行ったことが邪悪であれば。それは邪悪な行いであり、邪悪な人間なのである。ならば邪悪は誰が決めるか。それはその人間が生きる社会が決めることであり、法によって定義される。じゃあ、ようするに。邪悪は何処にあるのだろうか?


 少なくとも、心の中に無いことだけは、確かではないだろうか。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

記事を検索