しゅれでぃんがー 2022/03/13 14:39

【文字――エッセイ】エンディング

 先日、久しぶりにインディーズじゃないゲームをクリアした。日本一ソフトウェアから発売された、『ボイド・テラリウム』というゲームである。書きながらインディーズの反対は何ゲームだろう、なんて疑問が出てきた。調べてみたら出てこない。コンシューマー、ってのはたしか任天堂とかソニーが出してるハードで出してるゲームの意味だった気がするが。現代はパソコンでsteam売りとか、Switchがインディーズゲームを取り込んで生存戦略していたりとコンシューマーゲーム自体があんまり発売されていない気がする。あえて文字で表すならメジャーゲーム、とかだろうか。まあ、それは本題ではないのでこの話はこの辺にしておこう。


 終末の世界で再起動したロボットが主人公。人類最後の生存者である少女をお世話する。話し相手はスーパーAI。昔は人類最先端のAIだったそうだが、今はスクラップ場の片隅で身動きもできず野ざらしにされているらしい。ロボットと少女と元スーパーAIの一人と二体が、時の流れの緩やかな終末を淡々と過ごす姿が描かれる。ゲームサイクルもそれに合わせてあるのか、とても淡々としている。延々とダンジョンに潜っては素材や少女の食料を持ち帰るだけ。少女のお世話もあるが、そっち方面のシステムは飾り程度である。蜜を集める働きバチ、食料を集める働きアリのように。ロボットは少女の為に活動する。

 このゲームのエンディングは二種類ある。両方のエンディングを見た時、私は思い出すゲームがあった。同メーカーが発売した『魔女と百騎兵』というゲームである。このゲームの主人公も、伝説の存在である「百騎兵」を召喚した魔女の使い魔である百騎兵が主人公。魔女の要望を満たし、お使いをこなすことで物語が進行していく。日本一ソフトウェアは、群体から分離した一体を主人公にするシナリオ造形が好きなのだろうか。調べてみたら、ゲーム監督は違う人だったけど物語の大枠の構造が、『魔女と百騎兵』と『ボイド・テラリウム』はよく似ている。ファンタジーとSF、使い魔とお世話ロボットであろうと。主人公の造形や物語の構造は一緒である。

 ただ、『魔女と百騎兵』の物語は『ボイド・テラリウム』ほど洗練されていなかった。無軌道なキャラたちの無軌道なシナリオ。謎にハードな世界観。あげくの果てにクライマックスからエンディングは眼が点になるような流れである。まったく感情移入もできず、シナリオの合理性というか、論理性みたいなものも全くなかったので。なんというか、「ゲームとしては面白いけどシナリオがわけわからん」ゲーム。それが、私にとっての『魔女と百騎兵』というゲームだった。

 このゲーム、エンディングが二種類あり。ハッピーエンドとバッドエンドがあるのだが。私はこのゲームのエンディングが嫌いだった。詳細は伏せるが、魔女たちが全滅するのがハッピーエンドで、魔女たちやら世界がなんやかんやいい感じになって上手い事まとまる(ように見せてるけど何がどうなってるのかは謎)のがバッドエンド、と、【エンド画面に文字で表示される】のだ。まあ、私としてはシナリオ全体に渡って終始傲慢、人を人と思わぬような振る舞いで悪逆を尽くす魔女たちの行いは腹に据えかねる思いがあったので。隠しエンドの方がバッドエンド、と書いてあったことに関しては別に異論はなかった。あんな無茶苦茶なことをしてたやつらが、最後、幸せになってたまるものか。全員苦しんで死ぬからこそハッピーなんだろ、とむしろ拍手喝采である。だが、世間一般ではそうは思わない人の方が多かったらしい。噂では「最高のバッドエンド」とか言われてたこともあったらしい。まあ、ゲームの感想はプレイした人のすきずきだからそれはそれでちゃんとした感想だろう。

 だが、この評価を見かけた時に、ふと、思ったことがあった。物語の結末に、「ハッピー」だの「バッド」だのというレッテルなどあるものだろうか、と。


 良いや悪いという感情や感覚は、それを感じた物の主観で決まるものだ。その感覚は、他人によって左右されるものではない。それはたとえ、その物語を作り出した制作者であっても、だ。製作者がハッピーだ、とかバッドだ、と定義したエンディングであろうと。それを決めるのはそれを読んだ、見た人である。そして、読んだ、見た人が感じた感覚すら、それは個人の感覚であってその人以外の人間の感覚に指図したり干渉したりするものでは無い。良いや悪いという感情や感覚は、あくまでも個人の主観によって決まるものであるからこそ、たとえ製作者であったとしても。エンディングに良し悪しや優劣をつけるのはとても傲慢な行いなのである。


 だからこそ、『ボイド・テラリウム』のエンディングはよかった。どの辺がよかったかというと、二種類のエンディングのラベルがそれぞれEnd[0]とEnd[1]だったからだ。0と1は二進数における「無い」か「ある」かを示す数字だ。それをエンディングのナンバリングに使用するのはとてもお洒落である。もしかしたら数学的、数字的には0と1にそれぞれポジティブだったりネガティブだったりする定義があるのかもしれないが。無知な私にはそこまでは分からない。そして、そういった知識を得たいとも思わないので、この件は分からないままにそのままにしておこう。

 私はこのゲームのエンディングがどちらも好きである。レギオン(群体、集合体という意味)の中の一体を主人公にするということは、最終的にやはり【個人と集合体の価値観、主観の衝突】が最終的なテーマになる。世界の為に個を犠牲にするか、個の為に世界を犠牲にするか。だいたいそういうクライマックスに収束するのが定番だ。私はそう言う話が好きである。で、この対立において大切なのは。【どちらも悪くない】という要素だ。このゲームのラスボスは、描写こそ極端だが別に悪感情があるわけではない。彼もまた、全人類の想いを背負っているのである。主人公はたまたまレギオンから外れ、少女と密接に関わったからこそ少女を特別視する素養があるだけであり。立場としてはレギオンと同等なのである。だから、このゲームの二種類の結末は、どちらも等価だ。優劣は無い。少女が犠牲になるエンディングも、私はゲームをプレイした人間としての個人的な反発感や嫌悪感はあったものの、エンディングの存在としては違和感なく受け入れることができた。私にとっては悪いエンディングだが、これはこのゲームにおける人類にとっては良いエンディングである。良いと悪いは、主観によって決まるのだ。決して、誰かが強○的、強権的に決められるものではなく。決めていいものでもない。それはたとえ、製作者であったとしても。






『ボイド・テラリウム』は2022年6月末に2が発売されるらしい。楽しみだ。願わくば、エンディングの良し悪しのラベルを製作者が付けるゲームで無いことを祈っている。

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