しゅれでぃんがー 2022/08/13 22:57

【文字――草案】きょうだいの呼び方

 私には姉が二人いる。どれぐらいの年の差かというと、私が小学校に入ったぐらいで、一番上の姉が高学年ぐらいの離れ方である。


 きょうだいの呼び方というのはなかなか難しい問題で、私も昔は悩んだものだ。姉からすれば私は弟。しかも年下だ。だから、単純に下の名前を呼び捨てにすればいい。それで済むし、角も立たない。だが、年下である私はそうはいかない。呼び捨てにするわけにはいかないのだ。これを書きながらふと、何故弟が姉を呼び捨てにするのが不味いのかという純粋な疑問を思いついたが。なんだろう。なんとなくかな。今更呼び捨てで呼ぼうという気も無いけれど。


 私は物心つく頃から、下の名前+ちゃん付けで姉たちのことを読んでいた。姉が二人いるから「お姉ちゃん」では両方いる時に呼びわけができない。それゆえの苦肉の策だった。思春期ではちゃん付けで呼ぶのが恥ずかしい気がして、人前では姉のことを呼ぶのを避けていた気がする。今では何も気にせずちゃん付けで呼ぶが。


 何故ちゃん付けで呼び出したかと言うと、たぶん母や祖母がそう呼んでいたからだと思う。姉二人とも下の名前が二文字なので、ちゃん付けで呼んでも文字数が五文字。だから呼びやすかったというのもある。きょうだいの呼び方というのは、成人するまでに何千回何万回と呼ぶのだから、短ければ短いほど良い。それゆえ、この呼び方が理に適っていたのだろう。





 私自身がこういう経験を持っているから、創作物を読んでいる時に強い違和感を感じることがある。よくあるが、キャラクターが姉や兄のことを「〇〇お兄ちゃん(お姉ちゃん)」、と呼び掛けている描写だ。私はこれを見た瞬間に、読んでいて完全に没入感が消え失せる。ああ、これはダメだな、と。完全に覚める。


 何故かというと。千回万回と呼ぶ呼び名。それなのにお兄ちゃん、お姉ちゃん、兄さん姉さん。呼び名の後ろに付ける言葉だけで、4~6文字もついている。こんなの長すぎていちいち呼んでられないだろう。これを描いているライター、この作品を作った人間は。たぶんきょうだいがいないんだろうな。それか、きょうだいの呼び方に対して深く考えていないんだろうな。なんてことがこの数文字で透けてしまうのだ。


 これにボイスが付いてたりしたらもう目も当てられない。ただでさえボイスというのは、聞くのにプレイや読書を止めないといけないのに。そこに輪をかけてこんなリアリティの無い呼び方を実装されてたら萎えて仕方ない。私はこういう細かい部分がとても気になる人間なので。こういうところで、プレイを断念したり読書を打ち切ることがわりとよくある。ひんぱんに。


 地味によくあるのは、きょうだいが一人しかいないのに下の名前+お兄ちゃん(お姉ちゃん)呼びしていること。一人しかいないなら下の名前を付け加える必然性が無いので、一気にリアリティが無くなる。そういう呼び方をする人もいる、というのはもちろんあり得る話だが。実際にきょうだいがいる人間は、そのごまかしに騙されることはない。不自然であることは、ゆるがない。




 それを思い返すと、『ゼロの使い魔』は本当によくできていたんだなと感心する。ヒロインのルイズが、姉二人を呼ぶ時。真ん中の姉のことは「ちいねえさま」と呼んでいた。一番上の姉はどう呼んでいたっけ。ねえさまだった気がする。あの作品は、そんな些細な部分もきちんと整えられていた。一時期、こてこての大衆用にチューンナップされたキャラ配置と展開に反発していた時期もあったが。今になって、あの作品の偉大さを無限に発見して驚愕し、尊敬している。絵を描く人が、鳥山明の絵に対して抱く感情と似ているのだろうか。





 スポーツ漫画でも呼び方に関する気づきがある。いつも読んでいるサッカー漫画では、栗林というキャラはクリと試合中呼ばれるし、出口というキャラはデグと呼ばれていた。主人公のキャラはアシトと呼ばれている。サッカーというのは瞬間瞬間の呼びかけに速度が求められる。いや、スポーツなら全部そうか。そうなると、必然的に。呼びかける時の文字数というのは、やはり2~3文字に収束していくのである。





 リアリティは細部に宿る。細部をおろそかにする創作は、薄っぺらさが透けて見える。きょうだいの呼び方もそう。短い文字数であるほどに。きょうだいの過ごした時間が、ぶ厚く映る。

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