しゅれでぃんがー 2023/01/08 19:26

【文字――小噺】学校教育の話

 ネタはあるが書く余裕が無い、ということが増えてきたので。低い精神力をやりくりして瞬発力でカタをつける企画を作ることにした。この企画はエッセイのネタにする用のネタを、とりあえず形にしておいて記録がてら草案にしておこうというのが目的。とはいえ、ただメモしておくのも味気ないので人目がつく場所に置いておくことにする。


 第一回目なので前置きが長くなったが、さっそく始めていく。今回は一回目なので、最低限面白くなるであろう自信があるネタを出さないと今後読者が定着しないだろうから。個人的に自信がある、【教育】についてで何か書くことにする。









 読者諸君は、人間が何故学校に行くか考えたことがあるだろうか? 日本という国で当てはめてみると、生まれてすぐ幼稚園か保育所。小学校。中学校。高等学校。大学。大学院に進む人もいる。時間にしてじつに25年ぐらい、人間は学校という機関に通う。義務教育で考えれば中学までなので、15年。法律上義務教育ではないが、最近学費が無償化されたらしい高等学校も含めれば18年。少年少女たちは学校に通う。これに関しては、理由というよりも半ば強○という面もある。法律で決まっているからだし、日本では高等学校を卒業してないとまともな就職ができない。根深い学歴社会という障害がある。だから、みんな学校に通う。


 しかし、学校という機関は不思議な世界だ。生徒たちはみんな席に座り、50分授業の10分休憩を6時間。大学になると90分授業。ほとんど全員が、席を立たずに黒板に向かって授業を受ける。まあ、今の時代はホワイトボードの学校も増えた。が、高等学校までは公立はだいたい黒板だ。なんでかっていうと、黒板からホワイトボードにリフォームする予算と時間が無いからだろう。チョークは建築現場でも使うが、黒板消しが廃れないのは案外こういう理由があるからかもしれない。学校以外で使うところがあるのだろうか。


 話が逸れた。何故日本人が黒板に座って授業が受けられるのか。それは、子どもの頃からそう訓練しているからである。小学校の先生が。幼稚園に通ってる人は幼稚園の先生が。子どもたちに、授業中は座るもの、静かにするもの。先生の話を聞くものだということを、長い年月をかけて教え込む。そのおかげで、小学校中学年以降のやんちゃな子ども盛りの者たちでも、ちゃんと授業中に座るのである。


 じゃあなぜ、授業中に座ることを教えるのか。それは、日本人に【決まりを守ること】を骨の髄まで染み込ませるためである。学校という機関の究極的存在意義はそれだ。列には並びましょう。横はいりはいけません。人の話は黙って聞きましょう。先生の言うことに口答えしてはいけません。授業中は立ってはいけません。決められたもの以外の私物の持ち込みはいけません。決まりをかぞえれば枚挙にいとまがない。それらはすべて、日本で生きる人間の一人として。日本人として守るべき決まりを、子どもの時代から刷り込んでいる。





 学校という存在の究極的存在意義の話をした。何故そんなものが存在するのか。それは、国としての形を維持するためである。国というのは、国としての決まりを住んでいる人間の総人口の9割ぐらいが、それを守らないと維持できない。大多数、ではダメだ。ほぼ全員がそれを守らないといけない。そして、それを守らなかったり逸脱する者たちに対して排他的でなければいけない。異物を排除することで、国は国としての形を守っている。


 それが良いとか悪いとかいう話をするつもりはない。ただ、国とはそういうものであり、国が運営する教育機関というのはそういう使命を課せられている。





 では本題。教育機関の本当の存在意義とはなんだろうか。よく聞く話では、よりよい人生を送るため。人生を豊かにするため。そのために学問を勉強する。一般常識を学ぶことで、生きていくことに不自由しないためという話もある。それらは、正しい側面もあるが。じつは、本質とは遠い場所にある。


 教育機関の存在意義。それは、【母体となる集団の構成員を製造する工場】である。卒業した後、その人間はその母体が運営する社会に帰属する構成員の一人となる。ゆえに、いきなりそこに入っても問題が起こらないように。最初からその集団に所属する人間たちの形に、精神の形を鋳造するのだ。


 じゃあ、日本における学校とはなにか。それはもちろん、【産まれてきた人間たちを日本国民という形の精神構造に鋳造する工場】である。卒業後、国を維持するパーツの一つとして。不自由なく生きていける形に、人間を国民として作り上げる。国における教育機関とは、そういうものなのである。


 教育とは司法立法などとは独立した機関ではないか。国に侵されない神聖な機関ではないか。そんなことあるわけがない。教育も国の一部である。それが何故かというと、学校教員とは公務員であり、学校とは文部科学省が管轄する国の機関の一つだからである。学校の授業とは文部科学省が作成する教育指導要領に則って授業を執り行う。ということは、学校で教える授業内容というのは、言ってしまえば国が決めているのである。日本国民として、覚えておくべき基本的な基礎教養。それが、教育指導要領であり、それに則って授業をするということは。学校は国の下部組織であるということに他ならない。と、私は思っている。





 教育が完全に全てから独立し、自由になることは不可能だ。金を出してくれる機関の意図や趣向からは逃れることができない。それは、私立学校でもその仕組みを垣間見ることができる。


 キリスト教系の高等学校があるとする。宗教が母体にある学校というのは、ほぼ確実にある特殊な時間が教育カリキュラムに組み込まれている。キリスト教なら、礼拝だ。朝のHR(ホームルーム)の時間とかに、祈りをささげる時間みたいなのが絶対にある。日曜礼拝だって単位に含まれてる場合がある。キリスト教がお金を出してるから、キリスト教の習慣や教義が指導内容に組み込まれている。仏教系大学とかもそういうのがあるのだろうか。とにかく、このように。お金を出してくれる存在から、教育は独立することができない。





 それが嫌なら、辞めて塾をするしかない。個人塾だ。そこでなら、自分が教育指導要領である。自分の好きに授業が作れるし、教える内容を選べる。が、お金もかかるしそれに賛同してくれる生徒と保護者がいるかどうかも不明瞭。現実的ではない。


 ゆえに、現代の学校に教員として入っていく若者というのは。その現実に気づき、精神を壊して辞めるか。それに染まっていき、自分もその部品の一つとしてサラリーをもらう日々に安住するか。そのどっちかとなる。君が代を歌いたくなくて暴れたりストをする教職員の話をニュースで見たりするが。お前らが給料をもらってるのは何処の機関だと思ってる。お前らはサラリーマンなんだよ。組織に所属してるなら組織の意向に従うのは当たり前だろ、と、私は冷めた目で見ていた。








 嫌なら、辞めるしかない。だから私は、五年ほどやったけどその方針に参画することができずに辞めた。

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