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2019年 09月の記事 (3)

しゅれでぃんがー 2019/09/26 23:20

自分の機嫌のとり方 その1

 創作活動をしていると、誰もが直面する問題がある。「感想が来ない」、「なんの反応も無い」というやつである。よほどメンタルが強いか、そもそも他人からの興味に対しての興味が無い、という人間以外はこれを回避することは難しい。どれだけ斜に構えようと、心のどこかでは気にしてしまうものである。


 私も昔はそういう時期があって、作品を投稿したのに感想数は1~3個しかつかない。PVは一応300はあるのに、と、PVに対する感想数の数に悶々としていた。他の投稿作品はPV1000とか感想数二桁とかちらほらあるのに、と。しかし、よく考えればこの思考のおかしい部分が見えてくる。

 例えば週刊誌の連載漫画へのファンレターと比較して考えてみよう。とりあえずジャンプと比べてみよう。といっても、正確な数字は分からないから検索で調べて見た購読者数200万部という数字を使う。それで、感想とはちょっと違うが、人気投票の応募数なんてどうかな。あれもはがきで送ってるわけだから、まあ読者の返信と考えれば同じようなものだろう。むしろ感想の文面を自分で考えなくていい分感想より多いはずだ。たぶん。

 どうするかというと、購読者数を感想はがきの枚数で割ってみるのだ。この前の『ぼくたちは勉強ができない』の人気投票を思い出したからアレを使おう。先生キャラが学生ヒロインたちを差し置いてトップ取ったんだってね。おめでとうございます。

 閑話休題。

 あの人気投票の総投票数はたしか3000票ぐらいだったっけ? 調べて見よう。え、25755票!? うわぁ~、すごいね。予想の八倍多かったわ。まあ一人でジャンプを何冊も買って送っている人もいるだろうけど。とりあえず額面通りの数で計算してみよう。


2000000÷25755=77.6548243
 

 だいたい77人に一人の人が、感想をくれるという計算になる。これもジャンプという全国規模で販売されている雑誌で、かつ漫画雑誌として広く普及しているからというのを加味してもこんなもんである。これを見て分かるのは、「PV100やそこらの作品に感想がつかないのはある意味普通のこと」だということだ。私の例だったら、100人に一人感想をくれればいい方だとして、300PVで感想数3つというのは適正数。理論的になにもおかしくはないことなのだ。



※眠気が限界なので今日はここまで。
 続きは明日書く予定。は未定。にはしないように決定。

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しゅれでぃんがー 2019/09/02 23:14

このすば 紅伝説に見る「フリ」と「オチ」の仕組み(ネタバレ注意)


このすば熱冷めやらず記事のネタを考えていて、ついさっき復習がてら映画を見直してきた。今回は、紅伝説におけるシナリオの構造についてを考察していく。



目次

・「フリ」と「オチ」とはなにか
・紅伝説における「フリ」と「オチ」
・紅伝説の唯一「フリ」が無い部分について
・紅伝説の仕組みに見るギャグ映画の弱点
・まとめ



「フリ」と「オチ」とはなにか

 私は生まれも育ちも大阪で、小さい頃から「吉本超合金」とか「爆笑オンエアバトル」などのお笑い番組を見て育った。そのせいか、わりかしお笑いに関しては知識を蓄えることができた。これは物語作成や分析にも生かすことができる能力なので、今でも重宝している。

「フリ」とはネタの中で最初に置くものであり、ボケのきっかけというか、ボケを成立させるための説得力のようなものである。分かりやすいものといえば、「押すなよ、絶対押すなよ!」と熱湯風呂の前で仲間に連呼するダチョウ倶楽部の上島龍平とかだろうか(もちろん姿はブリーフ一枚)。やるなよ、と言ってやるとか、押すなよ、と言ってボタンを押すとか、勝った! と言って勝ち誇るとか。そういう行動が「フリ」となる。

「オチ」とはネタの最後に置くものであり、フリを活かし笑いに昇華するものである。前述した熱湯風呂であれば入ろうと心の準備をしているところに「早く入れよ」と言いながら蹴飛ばして叩き込むとか、3・2・1で入るからな~と言ってるところを3と言った瞬間に蹴っ飛ばして叩き込むとかだ。フリに対して、オチに関しては若干のバリエーションがある。

 物語に関してもそう。特にエンタメはそれが無いと成立しない。このすばは原作もアニメも必ずこの「フリ」と「オチ」を守っている。異世界転生最強物へのカウンターとして書かれたこの作品だが、エンタメとしてはお約束を忠実に守る模範的な作品なのだ。



紅伝説における「フリ」と「オチ」

 この映画に置ける最初にして最大のフリは「爆裂魔法」である。カズマさんはマグロを爆破しためぐみんに対して「もっと他のつかえる上級魔法を覚えろ!」と怒鳴る。そのフリが回収されるのが一番最後。めぐみんの冒険者カードを受け取っても他の上級魔法を覚えさせず、独白でめぐみんを肯定する。これは笑いのフリではないが、仕組みとしては同じである。喜びも、悲しみも、怒りも、憎しみも、そして笑いも。全てはフリとオチで作り出せるものである。
 ここに掛かっているのが「爆裂魔法の点数」でもある。クエスト失敗した冒頭では0点と断じたが、一番最後のハート爆裂は120点だ。なんとも綺麗にフリを回収したものである。御見事。

 ラノベ一冊の設計図にも言えることだが。一番最初の一頁目にフリを仕込んでおき、クライマックスシーンからエピローグの当たりで回収するのが一番見た目のいい仕組みである。物語を書こう、作ろうと思っている人は、まず手始めにそれを意識すると良いだろう。



閑話休題


 その次のフリが「モテ期」である。これに関しては積み重ねの技法が使われている。モテ期である、というフリに対していくつものモテイベントを描写することで畳みかける仕組みだった。冒頭で「もっとちやほやされてもいいんじゃないだろうか」、からの「カズマさんの子どもが欲しい」。このフリは「手紙が嘘だった」というところで回収される。その後も女オークのところとか、めぐみんとのイベントとか、シルビアとのイベントとかで繰り返しモテ期であることがフリとして強調される。
 そしてそのフリが最大出力で回収されるのが、カズマさんが死ぬ瞬間。あの魂の叫びである。ある種断末魔のようなモテ期宣言は、感動すら呼び起こした。その後に胴上げされるところでもさらにしつこく印象付けてくる。

 「爆裂魔法」と「モテ期」はこの映画における根幹となるフリである。他の全てのイベントはそこに肉付けしていっただけに過ぎない。原作の五巻とこの映画は、この二つのフリから構成されているのだ。



 その次のフリは「パンツ」である。ゆんゆんの子どもが欲しい宣言にカズマさんは鼻息も荒くパンツを脱ぐ。それは結局未遂に終わったが、それ自体が次の展開のフリ。パンツを自分で脱いだカズマさんは、今度は女オークに脱がされる。ゆんゆんの子づくり宣言と女オークの部分は紐でつながっていて、どちらが欠けても破壊力が削がれてしまう。
 話の展開上ゆんゆんに遅れて出発したカズマさんたちが現地でゆんゆんと合流しなければならない、というのが先に決まっていて。その理由をどうするか考えた時に女オークイベントが生まれたのだろうと思う。魔王軍に見つかって里の人が助けに来る、というところまではすんなり考え付くだろうが、その理由をどうするかはとても大事なところである。そこにゆんゆん子づくり宣言自体をフリにしたカズマさん子づくられピンチはあまりにもスマートで感心してしまう。うならざるを得ない。この脚本はすげぇなぁ。

 その魔王軍に見つかったところでも、めぐみんとゆんゆんが喧嘩しているところにダクネスが静かにしろと言った瞬間カズマさんがデカい声でボケるとか、近くで打ったら巻き込まれるって女オークのとこで言ってたのに魔王軍に向けて爆裂魔法撃っちゃうめぐみんとか、細かいフリとオチがちりばめられている。この脚本の人は、フリとオチがよくわかっていると思う。
 この辺は原作だとたしかめぐみんが魔力暴走しそうだから治すために馬車で紅魔の里に行く、という話だったはずなので。映画の尺的にもそんなに時間が割けないからテレポートで一瞬で移動させ、ゆんゆんも人気があるし紅魔の里編だから絡めたいのできっかけをゆんゆんにしよう、という風にしたのだろうと想像しやすい。テレポート使えるやつはウィズにして、ウィズのとこにはバニルがいるから自然にこの二人をこの話に登場させることができ、さらにはカズマさんの知的財産権ネタに絡ませて紅魔の里にも来させちゃえ、となったのだろう。改めて見ても、よくできたシナリオだ。展開に無理がない。

 ただ、唯一ひとつだけ無理がある場面があるのだが、それは後述しよう。



紅伝説の唯一「フリ」が無い部分について

 
 この映画は本当によくできていて、大きなフリである爆裂魔法とモテ期を背骨として、いくつもの小さなフリとオチを筋肉として、一つの塊となっている。しかし、唯一フリが無い要素がある。それは何処かというと、シルビアが復活するところである。カズマさんが死んでオチをつけるためにもあの展開は都合がいいし、必要なものではあるのだが。ただ、一つ。

「何故シルビアが生き返ってさらにベルディアとかの今まで倒した魔王軍幹部と融合したのか」

の理由が無い。ここだけが唯一、本当に唐突である。たぶん、脚本の人もここだけは用意できなかったのかもしれない。だから理由を説明せず、雰囲気でごり押ししたのだろう。だが、ここは見る人が見ればすぐ分かる。ばれてしまう。あ、ここだけ整合性取らせるの無理やったんやな、と。

 後半の展開は確かに熱い。元気玉展開でカズマさんもろともシルビア撃破。めぐみんとゆんゆんの発射の構図がどう見てもグレンラガンでなお熱い。だが、その展開になった理由である「シルビアたちの復活」。この根本的、根幹の部分がふわふわしてしまっているせいで、純粋に楽しめない。ここの土台が骨抜きだから、クライマックスに思考の不純物が混ざってしまい乗り切れないのだ。

 これだけが、この映画唯一の欠点だろう。改変自体はよかったのだから、その足元もきっちり固めておくべきだった。



紅伝説の仕組みに見るギャグ映画の弱点

 このすばは分類としてはギャグである。なのでネタを挟むのはアイデンティティにおいて大切だ。だが、それを重視するがゆえに、ある問題がこの映画には発生している。それは「途中で物語が停滞していると視聴者が露骨に感じる時間帯がある」という点だ。
 次の図を見て欲しい。

 雑な手書きなのはこれが正式な出版用記事ではないので許してほしい。もし本にまとめることがあればちゃんとペイントででっちあげるか、友だちに依頼して作ってもらおう。(もちろん報酬は支払う。現金で)
 このように、クライマックスに向けて徐々に右肩上がりでボルテージを高めていくのが理想的な物語の仕組みだ。一応『天気の子』はこの仕組みではあった。ストーリー物なので。
 しかし、このすばはギャグであり、ある意味ストーリー物ではない。その結果、何が起こったかというと。

 このように、紅魔の里に着いてめぐみんが夜中にゆんゆんの家まで逃げ出すまでは物語が先に進んでいたのだが、ゆんゆんの父親に手紙が嘘だった、と言われた後は物語が停滞してしまっている。里に着いた時点で目的が達成されてしまったので、次の目標が無く宙ぶらりんになってしまったからだ。里の観光中にギャグは挟まれているのだが、目的が無いせいで本当にただの観光になってしまっている。だから、観ている人には「面白いけどここまでの流れに何か意味あるの……?」という疑問を持ってしまう人が出る。私とかね。
 まあ物干しざおは一応説明すべき要素ではあったのだが、説明が必要な要素といえばそれぐらいである。めぐみんの母校で同級生たちの顔見せもあったけど、ある意味あれも無くていい部分である。ゆんゆんとめぐみんの過去の話を入れたかったのかもしれないが、ちょっと脇役に時間割きすぎだと思う。
 このように、二日目の観光からめぐみんの家に帰るまでの部分で物語がほとんど動かずにギャグの羅列と雑な伏線紹介だけになっているせいで、物語が停滞してしまっているのだ。だが、この映画は頑張っていると思う。それでもギャグはくすりとするクオリティを保っていたし、最低限の伏線も挟んでいたからだ。

 しかし、もっとこれをスマートにするとすれば。二日目の観光の部分で「シルビアと他の幹部たちが復活する理由」に説得力を持たせるイベントを組み込むことができていれば、最後の流れにも説得力が生まれて自然になっていたと思う。



 最後の展開での理由付けを諦めてしまったこと、二日目の観光の場面をただのギャグタイムで終わらせてしまったこと。この二点がこの映画の弱点であった。
 
 

まとめ

 ちょっともったいない部分はあったが、それも些細なことである。私はこの映画を変わらず120点だと思っているし、本当によくできていると感心している。この記事を読んでくれた方は、特に「爆裂魔法」と「モテ期」の使い方を参考にして自分の作品のフリとオチに生かしてみるといいだろう。

 最初でフって最後でオトす。これがエンタメの基本にして原点である。

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しゅれでぃんがー 2019/09/01 12:43

素晴らしき映画! 『この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説』感想(ネタバレ注意)


なんと一昨日このすばの映画が公開されていた! ので、観に行ってきた。結論から言うと最高、「120点」だ! これほどとは予想していなかったし、私の予想を外してすらきた。今回はこの映画のどこが素晴らしいのかについてを書いていくぞ!



目次

・映画でしかできない演出
・笑いのお約束を忠実に守っている
・シルビアのキャラクター
・「明言しない」ことの意味
・まとめ

フォロワープラン

・『天気の子』と『紅伝説』の違い


映画でしかできない演出

 この映画はしょっぱなからキレのある動きで演出してくれる。カズマさんがゆんゆんに発情してパンツを脱ぐところである。その後、アクアが無言でズボンをはかせるところも笑いを誘う。これぐらいならアニメでもいいかもしれないが、そこから次の場面で軽々とそのクオリティを越えて見せつけてくる。

 女オークたちの襲撃でカズマさんはそれはもうすごい目に遭うのだが、あの物量と躍動感、そして組み伏せられた時の画面の絵面は映画で無ければ迫力が出ない。テレビのモニターの大きさでは映し切れないところもあるだろう。これこそ映画のだいご味と言える。作品後半の魔王軍幹部シルビアとの戦いの部分もよく動いていたし、魔法の演出はどれも派手だった。映画であることを生かしている。私は上映中「これこれ、これだよ映画用の素材ってのは!」と、笑いながら大興奮であった。



笑いのお約束を忠実に守っている

 この作品自体のお約束として、「カズマさんはクズ」であり、「めぐみんは中二病」であり、「アクアは我が身可愛さで他人の迷惑に関心が無い」女神であり、ダクネスは「自分がめちゃくちゃにされることが最優先」である。この映画はそれらのキャラクター性を完璧に守っており、ぶれない。ゆんゆんに迫られてテンション上がってパンツ脱ぐところなんてさすがカズマさん! と感動する。めぐみんと部屋に閉じ込められた時はさんざん勘ぐった結果流れるように布団に入るし、次の日は退路を事前に塞ぐという徹底ぶり。カズマさんがカズマさんであることを、この映画はこれでもかと見せてくれる。

 そして、それを笑いに昇華する最大の仕掛けが「最後はカズマさんが死んで決着をつける」、というところである。因果応報、諸行無常。驕り高ぶりし者は、最後は亡ぶべし。さんざん好き勝手やって古代兵器復活の片棒まで担いだ(というか原因)カズマさんが、天罰を受けるのはある種当然のことである。その代償は何なのか、というと、カズマさんの命で贖う。この構図が素晴らしいのである。生き返るとはいえ、死ぬと相当痛いらしい。あんな魔法で貫かれたらそりゃ痛いだろう。調子に乗って痛い目にあう、罰を受ける。ギャグにはそれが大切だ。『銀魂』の作者さんは単行本で、「良い目にあったキャラには同じだけのひどい目にあってもらう」というのを心がけていると書いていた。良い目にあったキャラがなんのお咎めも無いと読者のひがみを生むからだそうだ。私はそれに大賛成である。

 ちまたで流行っている最強物では、たいがいの主人公が良い目にはあうが天罰は下されない。その力に感心されてもてはやされる。それは気持ちいい場面なのかもしれないが、笑えはしない。私はエンタメを書くのであれば、やはり笑いを理解して仕組みを大事にしたいと思う。



シルビアのキャラクター

 魔王軍幹部、シルビアは苦労人である。頭のおかしい集団である紅魔族の里での作戦行動を魔王から命じられ、いつも紅魔族にボロカスにやられておちょくられている。それでも部下たちは自分を信じてけなげにもついてきてくれる。でも仕事ばかりで出会いが無く、好かれるのは部下のモンスターたちばかり。真面目に頑張っているのに、良い事なんて一つもない。なんとも、とても可哀想な幹部である。
 しかし、古代兵器と融合することで未来への足掛かりができた。ここから私の人生は始まる! と希望が湧いてきた。こんなけなげなシルビアのキャラクターが、敵ながら、というか敵だからこそ好きになる。

 シルビアは戦闘中、「友情、努力、勝利」的なことを言う。まんまヒーロー側の精神である。対するカズマさんの戦法は「色管理」。シルビアをひっかけてだまし討ちする。これのどこが正義なのか。この対比が素晴らしいのだ。結局シルビアもカズマさんの奸計に嵌りやられてしまうが、同時にカズマさんも塵一つだけ残してぶっ殺される。だからこそカズマさんへの不信や反感も抑えられるし、この場面が笑えるのだ。これがカズマさんがかすり傷ぐらいで済まされてしまった場合、シルビアへの憐憫とカズマさんへのヘイトがたまりにたまって、最悪の場合アンチが発生するような構造になっていただろう。シルビアのキャラクターとカズマさんのキャラクター、そしてこのオチだからこそ。この映画は上手く着地できたのである。



「明言しない」ことの意味

 この映画で、なんとめぐみんはカズマさんに告白しなかった。
 これはすごいことである。映画のシナリオ担当さんは相当すごいことをやってくれた。これがなぜすごいかというと、以前の記事にも書いたけれど、「どたばたラブコメディの仕組みを壊さない終わらせ方」だからだ。
 彼女ができると、色方面のネタをやると必ず彼女に叱られるという場面を作らざるを得ない。毎回彼女が出しゃばってきて、クズなことをやりきれないし行ききれなくなるのだ。どれだけ女性キャラをだそうが絶対に彼女がしゃしゃってくる。眼の上のたんこぶ、みたいなものだ。そこにはもう「ラブ」コメディという仕組みは無く、ただのラブがそがれたコメディが残されるだけである。

 しかし、この映画は「言葉にしなかった」。最後、爆裂魔法からの一連の流れでカズマさんのめぐみんからの評価は確実に高感度を振り切っただろう。しかし、「口にはしなかった」。これが本当に、本当に本当に本当に大事なのだ。言わないことで、関係性は確定しない。だから、彼女じゃないからまだラブコメができるのである! カズマさんがこれから新しい女性キャラがでてきたり、いっそのこと紅魔の里のめぐみんとゆんゆんの友達に手を出したとしても、またみんなから制裁されてオチをつけることができる。めぐみんが告白しなかったことで、その仕組みはまだアニメーション版のこのすばでは守られているのである。

 私は映画の上映中、ずっと「いつ告白するのかな……」と内心びくびくしていた。一番最後のやり取りなんて、「このおんぶの時に耳元でささやくのかな……」と、本当に怖かった。でも、めぐみんが言わなくて、そのままエンドロールに入った時。私の心は本当に晴れやかで、心の中のしゅれでぃんがーたちが総立ちスタンディングオベーションだった。シナリオ監督、よくやってくれた! 素晴らしい! ブラボー!

 本当に、面白かった。観に行ってよかった。



まとめ

 私はキングオブプリズムの劇場先行公開の最終章は15回観に行った。シャインのショーからセプテントリオンのショーの流れが最高だったからだ。そして、それに匹敵する魅力を紅伝説からも感じている。

 今日、友達を誘ったので今から観に行こうと思う。そしてたぶん、平日の仕事終わりにもふらりと観に行くだろう。それぐらいお勧めだ。



みんなも紅伝説観に行こうぜ!



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