猪熊夜離 2022/09/21 02:05

そして少女はオークに…(風音日和/そらのおとしもの)

前編

堕ちた空の女王(イカロス/そらのおとしもの) - 猪熊夜離 - Ci-en(シエン)


本文

 目を覚ました風音日和が最初に見たのは見知らぬ天井だった。ぼんやりとした意識の中、自分の置かれている状況が分からず、しばらくベッドに横たわったまま考えを巡らせた。ここはいったいどこなのだろう? 自分の家でないことは確かだ。日和の家は木がむき出しの天井をしていないし、背中に感じるゴツゴツとした違和感も普段寝ているベッドの感触とは違う。

「私、イカロスさんと一緒に本を読んでいて……」

 それでイカロスのカードが急に光りだしたのだ。その先は残念ながら思い出せない。光に包まれて気を失ってしまったようだ。

 今いる場所はどこかの建物の一室だと思う。軽く首を巡らせてみた範囲では、それほど広くない部屋に小さな机と椅子があるだけで、他に家具らしい家具はない。壁紙も床板も剥き出しの木でできている。外の様子は全く分からないが、窓から光が差し込んでくるので今は昼間のようだ。

 部屋の様子が分かると次に気になったのは誰が自分をここまで運んできたか、だ。歩いてベッドに入った覚えはない。その人が善い人ならよいけど、なにかの見返り目的で日和を自分に家の連れ帰ったとしたら……。

(イカロスさんはどうなってしまったんだろう。近くにはいないみたいだし)

 一緒にあの光を浴びたはずなのに見当たらない。バラバラに連れて来られたのだろうか。

 不安な気持ちが押し寄せてくる。いてもたってもいられずベッドから飛び起きたところで、ちょうど部屋の扉が開き、人が入ってくるのが見えた。

 その人は外国の昔話にでも出てきそうなおばあちゃんだった。白い髪と顔に深く刻まれた皺。いかにもお年寄りといった風貌だが、背筋はピンと伸びていて、その姿勢の良さが見た目以上に若々しく見せている。服装は質素なものだったが、それがまたよく似合っていた。中世ヨーロッパ風ファンタジーの登場人物が来ていそうなダボッとして身体の線を隠すデザイン。

 老婆は手に木のお盆を持っている。その上には湯気を立てるカップが置かれていた。おそらく日和に持ってきてくれたのだろう。

 老婆は日和と目が合うと、少し驚いたような表情を見せた後、目を細めて優しく微笑んだ。そしてゆっくりとこちらに近づいてくる。その表情を見て、少なくとも悪い人には見えないと思った日和は少しだけ緊張を解いた。

「気がついたかい」

 老婆はお盆を机に置くと、日和の背中を支えてくれた。骨ばった手に助けられて身体を起こす。

「あ、ありがとうございます」

「いいんだよ。それよりもあんた名前はなんていうんだい?」

「私は風音日和です」

「カザネ・ヒヨリね。いい名前だ。これでも飲みなさい」

「ありがとうございます」

 老婆が差し出してきた木製のカップを受け取る。使い慣れない感触は日和に自分がゲームの世界に迷い込んだようだとうい感想を与えた。そしてゲームという単語で気を失う直前に見ていた広告を思い出す。

(あのゲームも昔のヨーロッパのような世界観だったけど、まさかね……)

「それにしても、あんなところに倒れてるなんてびっくりしたよ。何かに追われてたのかい?」

「……いえ、特に何も追われていません」

「そうかい? それならいいんだけどさ。それにしてヒヨリみたいな若い娘が一人で旅をしているなんて珍しいねぇ」

 どう説明したものかと日和は思案する。果たして不思議な光に包まれて気がついたら知らない場所、知らない世界で目を覚ましたのだと言っても信じてもらえるだろうか。最悪、この娘は頭がおかしい、厄介はゴメンだよと放り出されてしまわないか。

 そんな日和の心配をよそに老婆は話を続ける。

「ここらは気のいい田舎者しかいないけど、森で倒れてたら魔物の餌になるからね。とりあえず家に連れ帰ってきたのさ」

「魔物がいるんですか?」

 老婆の眉間に怪訝さを示すシワが寄った。

「魔物の存在くらい小さな子供でも知ってることじゃないか」

「そうなんですか……」

 日和は己の無知を誤魔化すためカップの液体を飲んだ。お茶のような風味だが現代の嗜好品に慣れている日和の舌には薄く感じた。

「なにか隠してるのかい。もし困り事があるなら洗いざらいぶちまけてみな。なんの力もない田舎のババアじゃ大したことはできないが、少しくらいは貸せる知恵もあるかもしれないよ」

 どうしようか。日和は迷った。優しそうな人だとは思う。だけど本当に信用できるのかはまだ分からない。ここで正直に話して、やっぱり出て行けと言われたらどうしよう。そんなことを考えていると自然と口が重くなる。

 その様子を見ていた老婆が口を開く。

「なんだい、そんなに言いにくい事なのかい? それとも私には話せないようなことか?」

「そ、そういうわけじゃないんですけど……あの実は私、記憶がなくてですね」

 記憶喪失を装えば常識が欠落していても不思議ではない、なにも知らないので一から教えてほしいと頼んで情報収集できると日和は考えた。しかし老婆の反応は芳しくない。

「嘘をお言いでない。どこからどう見てもあんたは健康そのものに見えるよ。だいたい記憶が無いっていうのなら自分の名前だって分からないはずだろうに」

 老婆の言うことはぐうの音も出ない正論というやつだ。

 自分の名前だけは奇跡的に覚えていたことにするか。ご都合主義過ぎて逆に怪しい。今度こそ信用できない人間は家に置いておけないと言われてしまいそうだ。

 それからしばらく、ふたりの間に沈黙が横たわった。見ず知らずの人間とふたりきりで黙ることに日和は居心地の悪さを感じたが、老婆の方はそうでもないらしい。彼女は考えこむように目を瞑っている。

 これ以上待っても日和から話すことはないと思ったか、老婆は新しい質問を用意した。

「もしかして、あんた『違う世界』から来たんじゃないのかい?」

 その言葉に思わず日和の肩が跳ねる。

(どうしてそれを!)

 驚くと同時に確信する。やはりここは自分の知っている世界ではないのだと。

「そうかい、やっぱりそうだったんだね」

 すべて得心したと老婆は頷いた。そして今度は彼女が話し出す番だった。

「私が若い頃に曾祖母から聞いた話さ。たまにだが違う世界から落っこちてくる人がいて、その人たちはマレビトと呼ばれている。そしてその人たちは特別な力を持ってるって話さ」

「私が、その……マレビトですか?」

「状況から察するとね。あたしも話に聞いただけで実物を見たことないから詳しくは知らないんだ。あたしにマレビトの話をしてくれた曾祖母も、とっくの昔に亡くなっちまってる」

「私が元の世界に戻る方法は知りませんか?」

 一縷の望みをかけて聞いてみたものの、返ってきた答えは予想どおりだった。

「残念だけど私も聞いたことがないね」

「そうですか……」

 再び部屋に静寂が訪れる。もう一口だけお茶を飲もうかとカップに口をつけたが、中身は空になっていた。それを見た老婆が空のカップを受け取り机に戻す。

「マレビトは不思議な力を持っているそうだ。その証に身体のどこかに紋様が浮かび上がるとも言ってたね」

 老婆の言葉が気になって日和は自分の身体を確かめた。目立つ手足にないとしたら服で隠れている場所。日和は胸元や腹部に目をやる。

「こんなところに」

 そして自分の下腹部に見たことがない紋様を見つけた。へそより指数本分下。それはまるで日和の子宮の位置を示しているようだった。

「差し支えないなら見てもいいかい」

 場所が場所だけに女同士でも「はい、どうぞ」と言うのは躊躇われた。だが自分だけでは判断できないので仕方ない。羞恥心を抑えて日和は服をめくって見せる。

 老婆は日和の前に屈み込む。そのままじっと少女の身体を観察し始めた。

「まさか生きてるうちに本物と会えるとはね。長生きはするものだよ」

 はぁ~~~と長い息を吐き出しながら老婆は感嘆したように言った。そのまま拝みだしそうな雰囲気だった。

「これはどんな意味を持っているんですか?」

「さぁね、そこまでは知らないよ。ただこの模様があるってことはヒヨリの話が本当で、あんたがマレビトってことなんだろうね」

「じゃあ、これで私は魔法とか使えるようになったりするんでしょうか?」

 異世界転移物でおなじみの魔法。もし使えたら便利だろうなと日和は思った。

「どうだろうね」

 老婆の言葉は歯切れが悪い。適当な希望を口にしてぬか喜びさせるより、言葉は慎重に選ぶタイプなのだなと日和は老婆の性格が分かってきた。

「これから私はどうすればいいですか?」

「マレビトなら教会で保護してもらえるはずさ。だけど田舎の村には常駐してる聖職者もいないからね。今日明日のものにはならないよ。巡回司祭が次に回ってくるのは二ヶ月先さね」

「そうなんですか……それまで私はどうしたらいいんでしょう」

「しばらくはここにいればいいさ。遠慮はいらないよ。もし教会の連中が気に食わなかったら、ずっといてもいいからね」

 ありがたい申し出だったが、いつまでも世話になるわけにはいかないだろう。老婆の暮らしぶりは裕福に見えない。負担にはなりたくなかった。それに自分はこの世界について何も知らないのだ。

 元の世界への帰還を最優先に考えるが、いつ叶うか定かでない以上この世界で生きるための常識は知っておきたい。せめて地理や社会情勢など最低限の知識は必要だ。教会なら教育を受けた人が集まっているだろうし、学校のようなものも開いているかもしれない。

「司祭様とお話できるまでの間よろしくお願いします」

 日和は期限を区切って言った。

「よろしくヒヨリ。私はリーザだ」

 老婆が差し出してきた右手を日和は掴む。日本でも親しみ慣れた農作業する老人の手だった。

「それから」とリーザは肩越しに自分の背後へ目線を飛ばした。

 リーザの動きに視線を誘導された日和がドアの方に目を向けると身体は物陰に隠し、ドアの隙間からこちらの様子を窺う少年がいた。

「あれは私の孫でアルフォンス。アル、こっちに来て挨拶しな」

「え? あ、うん!」

 呼ばれて慌てて出てきた少年は、さっきまで隠れていたことを咎められないか不安げな様子だった。その様子を見て、なんだか犬みたいだなと思った日和は思わず笑みを漏らす。

「はじめまして、俺はアルフォンス」

「私はカザネ・ヒヨリです。今日からしばらくお世話になります」

 アルフォンスは緊張して見えた。それも無理はない。見知らぬ人間がいきなり同居することになれば誰だって警戒するだろう。それが異性であればなおさらだ。年頃の男の子として、女の子の前でカッコ悪いところは見せられないと気を張っているのかもしれない。

 そんな孫の態度をリーザはおかしそうに笑い飛ばした。

「村には若い娘が少ないからね。可愛い女の子を前にして一丁前に緊張しているのさ。無愛想に見えても許してやっておくれ。しばらくしたら打ち解けるだろうよ」

 どうやら嫌われているわけではなさそうだ。それなら仲良くなる機会もあるだろうと日和は安心した。

 その後、家の中を軽く案内してもらった後、寝室をあてがわれその日は眠りに就いたのだった。

 

      ○○○

 

 月日は飛ぶように過ぎていった。日和がリーザの家で世話になって二週間が経った。

 村での生活は思っていた以上に馴染めた。リザが仲立ちしてくれたおかげで急な余所者の登場でも村人との間に軋轢は生まれず、もともと空美町が現代日本では牧歌的な田舎の町だったこともありカルチャーギャップは少なくて済んだ。とは言え電気も水道もなく、お風呂は水浴びをする程度という生活には面食らった。たっぷりのお湯に身を沈ませるなんて、この世界では王都の貴族でもない限り一生経験しない贅沢なのだと教えられた。

 村の人々は親切で余所者の日和にも優しく接してくれる。みんな日和の境遇に同情的だった。自分の意志と関係なく無理やり連れて来られて帰れないなんて、奴○と一緒じゃないかと言う人もいた。

 それもこれも自分の見た目が関係していると日和は気づいた。

(みんな私のことを子供だと思ってるんだろうな。私、もう十四歳なんだけどなぁ)

 日本だったら中学生の年齢である。なのに村人は、まるで日和がもっと幼い子供かのように接してきた。

(確かに背は低いし童顔だし胸も薄いし、子供に見られてもおかしくはないかもしれないけど……)

 この世界の成人年齢は十五歳らしいから、もうすぐ私も大人だと言ったら村の人は一様に驚いていた。中には信じられないといった顔をする人までいる始末だ。幼い子供だと知れたら騙されると思ってサバを読んでるんだろうと言われた。

 他の世界から来たことより、マレビトという存在より、まさか年齢を信じさせることの方が大変だとは日和も思わなかった。

 村人に混ざって畑仕事を手伝ったり、料理を作ったり、村の子供たちと一緒に遊んだりと忙しい日々が続いた。身体を動かしている方が余計な心配をしなくて済むし、農作業は元いた世界でも慣れているので苦にはならなかった。

 村の生活にも慣れたころ機会を窺っていたのか、リーザが「そろそろいいか」と言って日和を森に連れ出した。この世界に飛ばされてきたとき倒れていた場所だ。

「こんな村では身体を悪くしても医者になんてかかれないからね。森に生えてる薬草を手分けして採ってきて薬を作っておくのも大事な仕事なんだよ」

 そう言って彼女は森の奥へと進んで行く。日和は黙ってついて行った。しばらくすると開けた場所に出た。そこには森全体を見下ろすかのように立つ巨木があった。

「この木の根元にヒヨリは倒れてたんだよ」

 言われて日和は木の根元に視線を落とす。だが人が倒れていた痕跡も強い光を発するような装置も残されていない。特に不思議なところはない森の一角に過ぎなかった。

「ここで倒れていたヒヨリをアルが発見して家に連れ帰ったんだ。あの子ったら壊れ物でも扱うように、おっかなびっくりヒヨリを抱えてね」

 当日のことを思い出してリーザが愉快そうに笑う。顔に刻まれたシワがより一層くっきり深くなった。きっと彼女の脳裏にはその情景が鮮明に浮かんでいるのだろう。

「アルフォンスくんが私を?」

「ああそうさ。あの子は昔から優しい子でね、困っている人間を見捨てられないんだよ」

 そう言うリーザの声は誇らしげで孫への情が表れていた。自分の家族を誇るように語る老婆の姿はとても微笑ましいものだった。

 日和も彼の優しさには感謝したくなった。見知らぬ場所で行き倒れていた自分を見つけ、家に連れ帰ってくれたアルフォンスの親切がなければ露頭に迷い、土地勘のない場所で森の奥深くまで迷い込んでいたかもしれない。

 それからしばらくの間、リーザとふたりで森の中を散策した。目的としていた薬草はすぐに見つかったので、ついでに食べられる野草や木の実なんかを探して回ったりもした。それらは後で食事の材料になるのだそうだ。

「あたしも過去のマレビトが最後どうなったか全部知ってるわけじゃない」

 リーザはぽつりと呟いた。それは独り言のようでもあり、たったひとりの聴衆に聞かせるための演説のようでもあった。

「だけど人生ってのがままならないものだってことくらいは分かってる。教会に行っても望むとおりにならなかったときのことは考えておきな。うちはヒヨリなら歓迎するからね」

 教会がマレビトを保護してくれると言っても、どんなことをしてくれるかまでは分からない。彼らも元いた世界に返す方法は知らないかもしれない。マレビトが特殊な能力を与えられる話も気になる。まだ日和は自分の能力を知らないが、もし教会やこの世界に有益なものだった場合、果たしてすんなり手放してもらえるだろうか。

 教会で飼い殺しなんてこともないとは言えない。

(もしかしたら元の世界に戻る方法なんてないのかも……)

 そんな考えが頭をよぎって不安になった日和は無意識に服の上からお腹をさすった。そこはちょうど子宮の位置にあたるところだ。あの日以来この位置に紋様が浮かんだままだった。これが自分をこの世界に招き寄せ、縛りつけているのだと思うと嫌な想像が働いてしまう。それを抑え付けようとして、最近この位置に手をやることが多くなっていた。

(私は一体どうなるんだろう……)

 不安に駆られた日和の足が止まった。その背中にそっと手が置かれる。振り向くとリーザが穏やかな笑みを浮かべていた。

「大丈夫さね。なにがあってもあたしらがついてるよ」

 不安を気取られたのだろう。リーザの手が紋様に添えた日和の手に重なった。

「もう日和はあたしたちの家族さ。ずっと家にいていいんだからね」

 その言葉で嬉しくなると同時に日和は自分が求められている役割を察した。きっとリーザは自分とアルフォンスが結婚することを望んでいるんだろう、と。アルフォンスとはまだ出会って二週間しか経っていない。ひとつ屋根の下に暮らし家族同然に付き合ってはいるが、まだ恋心と呼べるほどの気持ちは芽生えていない。それに日和は元の世界に想い人を残してきているのだ。

 たとえ日和の一方的な片想いだとしても、元いた世界に戻れないならこちらで新しい相手を見つけますなどと、簡単に気持ちが切り替えられるものでない。

(桜井くんのことが好きなままアルフォンスくんとなんて、彼に対しても失礼だよね……)

 だが断れば家の中の空気が悪くなることは避けられない。もし教会の保護があてにならず、アルフォンスとの結婚を断って針のむしろ状態になるなら、村を出て新しい生活を始めることも考えねばならなかった。そんな日和の気持ちを知ってか知らずか、リーザの手つきはまるで我が子を慈しむ母親のようだった。そんな彼女の手を振り払うことは今の日和にはできなかった。

 

 

      ○○○

 

 

 この世界での態度を決めかねていた日和に事件が起きたのはリーザと森に出かけてから、さらに二週間ほど経ったころだった。

 このころになると日和は昔から村の一員だったように人の輪に溶け込んでいた。司祭がやって来るまで残り一カ月。相変わらず一家は日和に好意的でアルフォンスが彼女に向ける視線も日に日に糖度を増す。それを無視することは難しくなっていた。

 困ったことに一家だけでなく村全体が日和とアルフォンスの仲を『そういうもの』と見做すようになっている。日和は畑仕事で村人と顔を合わせるたび、彼らに外堀を埋められていく気がした。一家も村人も悪い人たちじゃない分だけ強く言い返せない。

 日和は村人の視線から逃れるため率先して森での薬草採取を請け負うようになった。

 そんな折、ある出来事が起こった。

 せっかく森まで来たのだからと日和は泉で水浴びすることにした。幸いにして季節は夏で汗ばむような陽気が続いている。水浴びするにはうってつけだ。もちろんタオルなどないので裸で入るしかない。最初は衝立もない湖に裸で浸かる行為は恥ずかしさもあったが、何度も繰り返すうちにすっかり慣れてしまった。

 いつものように全裸になって服を木の枝に掛ける。裸になると下腹部の紋様が嫌でも目に入った。

(本当にこれ何なんだろう)

 異世界転移なんて現実離れしたことが起こるくらいだ。神様からの授かりものだと割り切って考えるのが一番なのだろうけど、如何せんこの紋様の形に見覚えがあるだけに素直に喜べなかった。

(なんだか子宮の形に似てるような……)

 そう思い至った瞬間、顔が真っ赤になった。

 ただでさえ紋様の表れた場所は子宮の位置を連想させるのに形まで似てるなんて。これは果たして偶然だろうか。

 日和は慌てて頭を振って邪念を追い払ったものの、一度意識してしまったせいかどうしても気になって仕方がなくなった。水に浸かってる間も紋様がある場所を重点的に撫でてしまう。そんなことをすれば当然変な気分になってしまうわけで――。

「……んっ」

 身体が反応して思わず声が漏れる。慌てて口を塞ぐも時すでに遅し、静かな湖畔にその声はよく響いた。思いがけず自分の口から漏れたエッチな声に日和は後ろめたさを感じた。誰かが来る前に退散しようと急いで服があるほうで歩き始めたとき、水音とは違う乾いた気が折れるような音を聞いた。

「誰?」

 日和が音のしたほうを向くと、真っ赤な顔をしたアルフォンスと目が合った。彼は目を泳がせながら言い訳の言葉を探しているように見えた。

「あ、あの……」

 気まずい沈黙が流れる。互いに次の言葉が出てこない。先に口を開いたのはアルフォンスのほうだった。

「ごめん! だけど見えてないから。あんまり。ちょっとしか。本当に少しだけだから」

 そう言うとアルフォンスは踵を返して走り去ってしまった。残された日和はしばらく呆然と立ち尽くしていた。やがて脳が再起動すると、羞恥心が怒涛のように押し寄せてきてその場にへたり込んでしまった。

(見られた! 桜井くん以外の男の子に!)

 異性に裸を見られたドキドキで日和の体温は急上昇する。首元まで水に沈めても真っ赤になった肌はなかなか熱が引いてくれなかった。

(私の大事なところ、見られてたよね? どこまで見えたんだろう。まさか全部……)

 そう考えると顔から火が出そうだった。きっと今の自分の顔は耳まで真っ赤になっているだろう。

(これからどんな顔して会えばいいんだろ)

 しばらく悶々としていたが、結局答えは出ないまま夜になってしまった。水に長く浸かりすぎて冷えた身体を擦りながら日和は家に帰る。先に戻っていたアルフォンスとはお互い顔を合わせないよう避けていたが、夕飯の時はさすがに逃げ回るわけにいかなかった。

 同じテーブルについてもアルフォンスの顔をまともに見れなかった。明日からどうやって彼と接すればいいのか分からなくて頭がぐるぐる回る。きっとアルフォンスも気まずいだろう。いっそ彼が忘れてくれればいいのだが、それは都合よすぎる期待だ。

 ふたりの様子をアルフォンスの両親は心配そうに見ていた。一方、リーザは孫と日和が互いを異性として意識する姿に笑顔が止まらなかった。ふたりの間に何が起きたかまでは知らないが、単なる同居人より一歩進んだことは間違いなかった。

 夕食後、逃げるように部屋に駆け込もうとする日和を追いかけ、アルフォンスが声をかけてきた。彼は申し訳無さそうに視線をさまよわせている。

「あのさ、ヒヨリ」

「なにかな……?」

「その……見たのは本当に一瞬だったんだ」

「うん」

「でもやっぱりその、ちゃんと謝らないとって思って」

「いいよ別に」

「いやそういうわけにはいかないだろ」

 正直なところ日和は、恥ずかしい瞬間を話題に出したくなかったし、忘れたふりをしてくれたらなとも感じた。まだ一ヶ月は一緒に暮らさねばならないのだ。お互い、なかったことにしたほうが波風立たないと感じるのは、日本人的な感性なのかもしれない。

 それでも自分が悪いことをしたなら謝罪すべきというアルフォンスの信念も理解できた。良くも悪くも真面目すぎる正確なのだろう。日和は少しでも彼の罪悪感が消えるなら謝罪を受けようと思った。

「大丈夫だから。お互い気にするのはやめよう」

 そう告げるとようやくアルフォンスの顔に笑みが浮かんだ。つられて日和にも笑顔が浮かぶ。ぎこちないながらも和解できたようだ。それが分かると自然と肩の力が抜けた。

 それから日和は部屋で着替えるとベッドに潜り込んだ。今日は色々あって疲れたのでさっさと寝てしまうに限る。そう思うのだが目を閉じると泉での出来事が頭をよぎった。

 忘れようと考えれば考えるほど鮮明に記憶が蘇ってくる。

(どうしてあんなことになっちゃったんだろう。これからはもっと周りに気をつけないと)

 今さら悔やんでも仕方がないことだ。明日になればまたいつもの日常が戻ってくるはずだから、今日のことはなるべく早く忘れることにしよう。そう思っても日和の心は晴れず寝付けない。

(少し夜風にでも当たろうかな)

 寝床から這い出した日和は少し外を歩こうと廊下に出た。だがアルフォンスの部屋から明かりが漏れているのを見て足が止まった。耳を凝らすと薄く開いたドアから「ヒヨリ、ヒヨリ……」と自分の名を呼ぶ彼の声まで聞こえてくる。

「はぁ……っ、ヒヨリ……、好きだ……好き……」

 ドアの向こうから聞こえてきた告白に日和は思わず息を飲んだ。今までただの一度も聞いたことのない熱っぽい声色に心臓が早鐘を打つ。そんな風に情熱的な声で名前を呼ばれたことはなかった。彼の熱気が伝わってきて日和の身体も暑くなる。頭の中が沸騰したようにくらくらした。

 気づけばふらふらと吸い寄せられるように部屋の前まで来ていた。ドアの隙間から中を覗き込む。昼間、泉でアルフォンスが自分の裸を見ていたのとは逆に、今度は日和が彼のしていることを覗く番だった。

 ベッドに座り俯いているアルフォンスの顔は見えない。ただ右手だけが忙しなく動いているのが分かった。その手の動きに合わせてベッドがギシギシと音を立てている。彼が日和の名前を呼ぶ声はますます切羽詰まったものになり、右手の動きも時間を追うごとにテンポアップした。

 まるで何かに取り憑かれたかのように一心不乱に手を動かす姿は異様だった。こんな姿のアルフォンスを見たのは初めてだ。やがて右手の動きが最高潮に達するとひときわ大きくビクンッと震えた。泣くのを我慢してる子供のような切ない顔で彼はなにかを握りしめる。

 そして、ゆっくりと右手を開くと、その手に付着したものをじっと眺めた。アルフォンスの手は白濁液まみれになっていた。

(あれって男の人の……?)

 中学生ともなれば保健体育の授業くらい受けている。実物を見るのは初めてだが、それがなんであるか日和にも分かった。男の人が赤ちゃんを作るために出すもの。教科書には確か精子という名前がついてたっけ。

(ああやって自分で擦って出すんだ)

 初めて見た男性器から日和は目が離せない。一連の動作を終えたアルフォンスの表情はどこか物憂げで、それでいて満足気でもあった。そんな彼の顔を見ていると日和の下腹部が熱を持った。

(なにこれ!)

 鼓動が収まらない。顔が熱い。身体の奥が疼くような感覚があった。

(こんなの知らない)

 身体の異変に戸惑いつつ、なんとか気を落ち着かせようとするがうまくいかない。呼吸の仕方さえ分からなくなりそうだった。自分の身体なのに制御できない恐怖が襲う。気を落ち着けようと深く呼吸すると、生臭いとも獣臭いとも形容できそうな嗅いだことのない臭いが鼻を突く。

 その臭いを嗅いでいると日和は自身の下腹部に甘い痺れが走るのを感じた。ちょうど紋様のある辺りが治りかけの傷口のように、じくじくとした。自分の身体に何が起きているのか怖くなって下腹部を触る。意を決して服をまくり上げ確かめようとしたが、そこでアルフォンスの視線がこちらに向いた気がした。

 気づかれたと思いとっさに身を隠した。幸いにしてすぐに彼の視線は逸らされた。恐る恐る顔を覗かせて様子を窺うも、もうアルフォンスの様子はいつもと変わらない。汚れた手を近くに置いたボロ布で拭っている。

(ここにいたら気づかれるかも)

 そう思った日和は慌てて自分の部屋に戻った。ドアを閉めて鍵を掛けるとそのまま床にへたり込む。

 生々しい光景を見てしまったせいで日和の心臓はバクバク鳴りっぱなしだ。さっき目撃した映像が目に焼き付いて離れない。それどころか繰り返し思い出すことでどんどん鮮明になっていく。

 そんな状態で眠れるはずもなく悶々とした一夜を過ごすことになった。

 翌朝、寝不足気味のまま朝を迎えた日和はぼんやりした頭で朝食の準備を手伝った。いつもならてきぱき動けるはずなのに、今朝に限って動きが緩慢だった。その様子を見て心配したアルフォンスの母アルマに声を掛けられた。

「大丈夫? 具合が悪いなら無理しないほうがいいわよ」

「大丈夫です」

 心配をかけまいと日和は努めて明るい声を出す。だが寝不足から来る弱々しさは隠せなかった。昨夜はずっと興奮しっぱなしだったのだから無理もない。

 それでも何とか作業をこなしているとリーザが起きてきた。

「なんだか顔色がよくないね」

 リーザの言葉に祖母の後から食堂に入ってきたアルフォンスも心配そうにこちらを見る。なんだか居たたまれない気持ちになって日和は目を逸らせた。

「体調悪いのかい?」

「いえ、平気です」

「そうかい?」

 リーザはまだ納得していないようだったがそれ以上追及はしてこなかった。

「あの子と喧嘩したならガツンと言っていいのよ。どうせアルが悪いんだから。女の子の扱いが何も分かってないから失礼なことでも言ったんでしょ」

 アルマはカラカラ笑いながら言う。昨夜の夕食から続く微妙な空気を払拭しようとするかのように。

 日和は朝食を手早く片付け、いつものように仕事を始めることにした。今日は村はずれの畑まで収穫に行くことになっている。家から距離があるので早めに出たいと言い訳して逃げるように立ち去ったことを失礼だと感じたろうか。しかし今はとにかくアルフォンスと顔を合わせてられない気分だった。

 いつまでも逃げてばかりいられない、それは分かっているのだが……。

 応えられない相手からの一方的な行為が重荷になることを初めて知った。いっそこのまま逃げてしまおうかなんてできるはずもないことを考えてしまう。日和は畑に向かう足取りも重くなった。

 俯き加減で歩いていた日和の耳に村人の叫び声が届いたのは、もう少しで畑につくというときだった。

「オークだ! オークが出たぞ!」

 その叫びを聞いた瞬間、日和の身体が強張った。オークという魔物についてはリーザから話を聞いていた。人間よりも遥かに強く凶暴な生き物で、訓練された兵士でも討伐には多大な犠牲を払うという。そしてなにより若い娘がオークを恐れるのは、彼らが多種族の雌をさらって慰み者にするからだ。

「強いオークほど身体が大きい。そして身体が大きいということは、男のアレも大きいということさ。人間とは比べものにならないくらいにね。人間の女なんてオークに朝から晩まで抱かれたら」

 老婆の淡々とした説明を日和は赤面して聞いていたが、今はオークの襲来という現実に血の気を失い青ざめている。

 日和は畑の方から逃げてくる人の群れ――その背後に見える醜悪な形をした魔物の集団を目にした瞬間、来た道を駆け戻っていた。途中で何度も躓いて転びそうになったが、それでも足を止めずに走り続けた。逃げなくては。転んでる暇はない。足を動かし続けろ。

 己を叱咤して迫る脅威から少しでも遠ざかろうとした。息が上がり心臓が破裂しそうになる頃、ようやく家が見えてきた。一家の顔がチラついた。さっきまでは顔を合わせたくないと思っていたのに、今は会いたくて仕方ない。彼らなら今回も自分を守ってくれそうな気がした。

 あと少し、もう少しだけ走り続けろ。

 そう自分に言い聞かせて走る速度を上げる。だが次の瞬間、背後から巨大な影が覆い被さってきたかと思うと、大きな衝撃とともに地面に叩きつけられた。衝撃で呼吸が止まり目の前が真っ暗になる。意識が途切れそうになるのを必死に堪えながら目を開けると、目の前にあったのはあの醜い顔だった。

「――ヒッ!」

 オークの背丈は日和の倍ほどもあった。三メートルはありそうだ。しかも横幅もかなり広いので体重は五倍以上あるだろう。そんな巨体が自分を見下ろしている。それだけで恐怖のあまり失禁してしまいそうなほど怖かった。

 逃げようにも恐ろしい魔物を間近で見た恐怖で腰が抜け動けない。ガタガタ震えながら見上げることしかできない日和に向かって、オークはその丸太のような腕を伸ばしてきた。

 ギュッと目を瞑った彼女は胴体に窮屈さを覚えたかと思うと、地面から軽々と持ち上げられてしまう。

「ぐぇ……っ」

 内臓を押し潰されるような苦しさに思わず声が漏れる。どうやらオークに片手で掴まれているようだ。

「……や……め……っ」

 なんとか声を絞り出したものの力が入らない。息苦しさで視界が霞むなか、オークの手から逃れようと身をよじるが徒労に終わった。むしろ暴れるほどに酸素が不足していく気がする。

(ここで死んでしまうの……)

 まだ死にたくはないと思った。訳も分からず飛ばされた異世界で、元の世界に戻れず死んでしまうなんて嫌だ。もっとやりたいことがたくさんあったはずなのに。いま亡くなったら後悔ばかりが残る。

(誰か……)

 日和は助けを求め辺りを見回す。その視線が先ほどまで食卓を囲んでいた一家を見つけた。

「助けてください!」

 日和は声の限り叫んだ。自分を家族同然と呼び一家に迎え入れてくれたリーザなら、この窮地でも手を貸してくれるはずと思った。

 だが彼女たちはこちらに背を向け逃げようとする。

「どうして!」

 つい恨みがましい言葉が口をついて出る。どうして助けてくれないの。家族同然と言ってくれたのに。

「ヒヨリ!」

 自分の名前を呼ぶ声がした方を日和は見る。アルフォンスだった。彼は父親や村の男たちから羽交い締めにされ、引きずるように連れて行かれながら日和の名前を呼び続けた。その顔は悲痛に満ちていた。

「離せよ。ヒヨリを助けなきゃ」

「馬鹿なことお言いでないよ、この子は。自分の身を優先しな」

 アルマが息子に平手打ちでもしそうな勢いで激怒した。

「だってまだヒヨリが。みんなヒヨリはもうウチの子だって、家族の一員だって言ってたじゃないか」

「それはアルがあの娘に惚れてるように見えたから嫁に丁度いいと思っただけさ。助けてやった恩もあるし、少し優しくしてやれば断れないと思ったんだ。だけど、しょせんは他人なんだよ」

 孫を諭すリーザの声は、日和が聞いたこともないほど冷淡なものだった。

「女なんか生きてればまた探せばいいだろ。死んだらなんにもならないんだ。我が儘言わず、あたしらと一緒に逃げるんだよ」

 母と祖母の説得にもアルフォンスは納得しなかった。父親たちに抵抗してその場に残ろうとする。

 だがそれもすぐに見えなくなった。アルフォンスたちを迎えに一台の馬車がやって来た。まだオークに捕まってない村人は馬車に乗り込むと全速力で村を捨て逃げていく。

 絶望に打ちひしがれた日和は抵抗する気力を失った。だらりと力なく垂れ下がった手足を見てオークが勝利を確信したように笑う。

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