[♀/連載]不浄奇談 [0.プロローグ 芦田琴美]

『不浄奇談』キャラクター紹介


     0.プロローグ 芦田琴美

 自分でも抑えの効かない苛立ちを抱えて、グチグチと言葉にできない不満を心の中で繰り返しながら、賑やかな校庭を離れる。校庭の喧騒を背中に感じつつ、昇降口で上履きに履き替え、一歩、長い廊下に足を踏み入れる。

 その瞬間、目の前に広がった光景に、私は思わず息を呑んだ。
 電灯の点っていない廊下の暗さは、想像をはるかに超えたものだった。そして、暗闇の中に差し込む、目に痛いほどの紅い紅い夕陽。
 美しい、と感じることもできたとは思う。しかし、私は何よりも、まずその凄惨なまでの赤と黒の世界に『恐ろしさ』を感じた。それはいつも目にする廊下でありながら、まるで違う、どこか奇怪なものとして眼前に立ち現れていた。
 昇降口までは電気が点いていたため、何の準備もなしにいつもの感覚でその空間に飛び込んでしまったのもまずかった。目の前の凄まじい光景に、私は踏み出した足をそれ以上動かすことができなくなってしまう。
「うわ……」突如として湧いてきた底知れない不安を誤魔化すため、乾いた喉を震わせて独り言を呟く。「なんか、凄い……」
 雰囲気に呑まれかけていた私は、日常と変わらず鼓膜を震わせた自分の声に、ほんの少しだけ気分を落ち着かせることができた。
 一度、二度、その場で足踏みをしてみる。進めそうだ。トイレはこの廊下の突き当たりにある。早く済ませて、みんなの所に戻ろう。

 廊下は校庭の喧騒が嘘のように、しん、としていた。普段は意識もしない心臓の鼓動が、強く、早く、打っているのがわかる。できる限り、平常通りに歩こうとしているのに、上手く行かない。自分の足音にすら怯えながら、私は早足で廊下を進む。
 何かに急かされるようにせかせかと進み、ようやくトイレの前まで辿り着いた時――。そこで私を待っていたのは、予期しない光景だった。
 強い西日以外、光源らしい光源のない、古い校舎の、不潔な湿気をはらんだトイレ前の暗がり。そんな誰もが早く通り過ぎたくなる場所に、人影があった。それも、複数の人影が。
 人影――私と同じ制服に身を包んだ少女達が、一斉にこちらを見る。まるで、私が来るのをずっとそこで待っていたかのごとく。
「来たね、五人目」その内の一人が言う。口調は楽しげに弾んでいる。
「タカマキさんも来ちゃったんだ。あ、でも、良かったあ。知ってる子が来てくれて」
 見ると、中には同じクラスの見知った顔もいる。獲物の品定めをするみたいに、彼女達は私の姿を無遠慮に眺めて笑い合っている。
 なんだかよくわからない嫌な予感がして、私は彼女達に曖昧な笑みを返して、その場を切り抜けることにした。そのまま行くべき場所――トイレへと足を向ける。
 しかし、その私の正面、身体がぶつかりそうなぐらいの距離の所に、中の一人が立ちふさがった。
「な、なに?」
 近すぎる距離にたじろいで、私は身を引く。抗議の声を上げる。自然、口調は硬いものになる。
「だめだよ」返事は、端的な禁止。
「何がだめだって?」
「あなたは五人目なんだから。トイレに行っちゃ、だーめ」悪戯っぽく、『だ』と『め』の間を伸ばして言う。
「何を言っているのかわからないよ。五人目って、なんのこと?」
「簡単に言うとね。私達、これから――」
 その女子は実に楽しそうに微笑んで、私の腕をきゅっ、と掴んだ。まるで、もう逃がさないよ、とでも言うように。
「みんなで怖い話、するの。あなたも一緒にね」

 ――夕暮れ時、同じ中学校に通う演劇部の仲間五人とやって来たのは、屋上へと続く小さな踊り場。
 確かにぴったりだ、と芦田琴美(あしだことみ)は思う。天井に備え付けられている電灯は、時間帯の問題だろうか。まだ点灯していない。そのため、窓に嵌まった曇りガラスを通して差し込む、紅い紅い夕陽だけが唯一の光源となっている。その光量は鮮烈な見た目に反して弱く、周囲に溜まった黄昏時の闇を払うにはいかにも心許ない。
 今、練習している『不浄奇談』の舞台である踊り場のイメージに、ほぼ合致する。赤と黒の世界。薄闇の吹き溜まり。何かが”潜んでいそう”な、誰も寄り付かない場所。劇中の表現が、脳裏に蘇る。
「はい、目的地に到着ー」部の仲間である小貫亜由美(おぬきあゆみ)が、どこかで聞いたことのある台詞を言う。「楽しい楽しい『怖い話』の舞台にようこそ! ここ、いいでしょ? 雰囲気あるでしょ?」
「はは」と尼野悠莉(あまのゆうり)が意味ありげに笑う。そして、こほん、と咳払いを一つ。演技がかった口調に切り替えて続ける。「えー? 楽しい楽しい『怖い話』って、なんか矛盾してない?」
 琴美自身も気付いていたし、その場にいる全員が察しているであろうことも琴美にはわかった。亜由美の第一声は、今、練習中である『不浄奇談』の劇中の台詞そのものだったのだ。『不浄奇談』の主な舞台である階段の踊り場にキャラクター達が到着した時、亜由美が演じているミナトハラがまず場にそぐわない陽気な口調で告げるのだ。まるで、舞台下の観客たちに対しても告げているかのように。『楽しい楽しい『怖い話』の舞台にようこそ!』と。悠莉の発した言葉も、その次に続く劇中の台詞だ。
「矛盾? してないしてない」亜由美の演技は続く。劇中人物であるミナトハラの口調は、いつだって明るい。亜由美によく合っている、と琴美は思う。「怖い話は、イコール楽しい話でしょ」
「ふう」高坂三夏(こうさかみか)がついていけない、とばかりに嘆息する。順番通りに行けば、次の台詞は三夏の番なのだ。急かす亜由美の視線を受けて、三夏が声を発する。発した声質でわかる。これも台詞だ。「それじゃあ、ここでざっと円を描く感じで座ったらいいのかな」
「私は手前にしよっと」真崎(まざき)えりか。特に嫌そうな気配も見せずに、決められた台詞を決められたように言う。彼女は周りに流されるタイプだ。「あ、そうだ。これ、録画するんでしたっけ?」
「うん。だって、何か映るかもしれないでしょ?」
「うえー。これ、本当に映ったらどうするんですかあ?」
「さあ。お祓いとか? 必要かなあ」
 元気で明るい悪戯好き。亜由美にミナトハラ役はよく合っている。それは認める。でも、劇中人物と違うのは、場の空気が読めない独特の鈍感さと、物事の加減のわからない無神経さ。いつまで役を演じているつもりなのか。そして、いつまで、周囲が合わせてあげないといけないのか。琴美は早くも嫌になってきた。そろそろ、自分も登場しなければならない。
 亜由美の視線が、次の人物の台詞を待つ。次の台詞は『ちょっと待って』。台詞を発する人物は琴美の演じるタカマキ。最後の登場人物にして、巻き込まれた主人公の一人。
 琴美はため息をついた。
「……もういいよ。やめにしよ」気は進まないが、琴美は自らの手で流れを切ることにした。不満げな亜由美の顔が、ちらっと見える。「舞台の練習を、そのまま通しでやるために来たわけでもないでしょ?」
 一瞬、間が空いた。皆が役から自分自身に戻るわずかないとま。
 ほっとしたような雰囲気も、かすかに感じる。
「はは、ほんとほんと。琴美の言う通り」役の解けた悠莉がへらへらする。琴美の知る限り、彼女は役を演じている時以外は、いつでもへらへらしている。良識のある女子生徒・セナ役。皆はよく合っていると言う。けれど、琴美はそれほど役に合っているとは思えない。「長いよ亜由美。長ければ長いほど、最初に乗っかったわたしが悪いみたいになっちゃうじゃん」
「ええ? みんなもノリノリでやってくれているのかと思って」
「三夏とかため息ついてたじゃん……。ていうか、どこまでやる気だったん?」
「行けるところまで行こうかと」
「マジかこいつ。それじゃ、湯田ちゃん、何もしゃべれなくなっちゃうよ」
 名前を挙げられて、「あ、いやあ、あはは。わたしは別にぃ」などとぐにゃぐにゃするのは、湯田真冬(ゆたまふゆ)。この場にいる六人の演劇部メンバーの中で、唯一、役を演じることのない裏方だ。学年も一つ下で、特に仲が良いわけでもない琴美から見ると、変わった名前をしているおとなしい子、という認識。
「雑談はいいわ。そろそろ始めましょう」とりとめもなく続いてしまいそうな会話を、三夏が冷ややかな声で制する。「さらっとやって、さらっと終わりたいし」
 皆が黙る。琴美は心の中で賞賛する。さすがは我が部が誇るクールビューティー。美人で頭が良くて自分だけは他の連中とは違うみたいな澄ました顔をしていて――ちょっと、むかつく。本当は怖くて早く終わりにしたいだけなんじゃないの、と皮肉の一つも言ってやりたくなる。
「それじゃあ、ええと……始めるう?」
 亜由美が少し言いにくそうに言った。
 始める。亜由美の発した言葉に、しばしの沈黙が降りる。ごくり、と誰かが喉を鳴らす音が聞こえた。お互いの視線が交錯し、誰からともなく頷く。
 琴美は感じる。皆が皆、どことなく、落ち着かない雰囲気であることを。皆が皆、今からある種の禁忌に触れることに対して、漠然たる不安を抱えていることを。軽口を叩く亜由美も、考えの読めないへらへら笑いの悠莉も、かっこつけで冷静な態度を崩さない三夏も、調子良く流れに任せるだけのえりかも、隅で所在なさげにしている湯田も、自分自身をも含めて。みんな、いつもと同じようでありながらも、どこかそわそわと、浮き足立っているように見える。でも、それもこれも、当然のことだとも思う。
「始めよう」
 だって、今から、この薄気味悪い場所で、自分達は『怖い話』の会をするつもりなのだから。しかも、『不浄奇談』の劇中と同じように、本当は外に出すべき溜まったモノを内側に封じ込めたままの状態で――。

 『不浄奇談』は演劇部に伝わる作品の一つである、らしい。少なくとも、琴美はそう聞いている。ジャンルとしてはある種のホラー作品で、脚本の出所ははっきりしていない。昔、演劇部の顧問をしていた先生が書いたという噂もあるし、演劇部OBの一人が系列高校在学中に書いたものであるとの説もある。
 琴美が通う中学校の演劇部は歴史が古く、代々伝わる作品がいくつもある。『不浄奇談』はその中の一つだ。
 内容は――ある中学校に通う五人の生徒が、夏休みに開催された『学校お泊まり会』の夜に最近流行しているという怪談遊びをする、というものである。『我慢怪談』『不浄怪談』などと作中で呼称される怪談遊びの特筆すべき点の一つは、そのメンバーの選定方法。あるトイレ前の廊下で待ち伏せて、トイレに入ろうとしたものを強○的に参加メンバーとするのだ。メンバーとなったものは、少なくとも、怪談遊びが始まって一人目の話が終わるまではトイレに立ってはならない。また、話と話の合間にはトイレに立って良いが、必ず一人ずつ向かわなければならない。
 要は、怪談遊びでありながら、一種の肝試しの要素も含まれているのだ。トイレは怪談の種と肝試しの舞台を兼ね備えた装置として使われている。
 そのような設定であるため、この作品に登場する五人の生徒は、程度はどうあれ、終始『我慢』していることになる。もちろん、演じる人間が本当に『我慢』している必要はないし、そんなことをしていてはまともに演技できない。あくまでも、『我慢』している演技が必要なだけだ。
 だから、この作品を上演することに決まっても、一部のキャスト以外は大きな拒否感を示すことはなかった。しかし、劇が完成に向かいつつある頃、どこから聞きつけたのか、演劇部OBの一人である東川が部室にやってきて言ったのだ。
 『演技』がなっていない。今度、学校でやる合宿でこの怪談遊びを一度、実際に必ずやってみて演技の参考にしろ、と。そして、やってみた証拠として撮影した映像を後で見せるように、と。
 正直、鬱陶しい、と琴美は思った。系列高校の演劇部との交流が多いせいか、演劇部は無闇にOBの発言力が大きい。顧問もあっさり説得されてしまい、怪談遊びをメインキャスト全員と裏方からの代表一人で本当に実施する運びとなってしまった。琴美はやたらと上から目線で口出ししてくるOB達に、内心、辟易していた。しかし、正面切って、高校生やもっと上の先輩達とやり合う思い切りも持てない。
 結果として、琴美を含む演劇部員の内心に関わらず、この場が設けられることとなった。琴美は踊り場に満ちたどことなく異様な雰囲気に呑まれそうになりながらも、息を軽く吸い込む。
 止める。そして、覚悟を決める。めんどくさいし、正直言うとかなり怖い。でも、ここまで来て逃げ出そうものなら、仲間達からは意地悪くからかわれ、東川先輩からは厳しく叱責される未来が目に見えている。琴美はこの場にいる演劇部の一癖も二癖もある面々に、さほど心を許してはいなかった。心を許していない相手に対して、弱みは極力見せたくない。やるしかない。ここまで来てしまった以上、言われた通りにやって、証拠の映像を送るしかない。
「順番は誰から?」三夏が口を開いた。車座になった六人の中で、三夏は琴美の正面に当たる箇所に座っている。
「お話通り、役通りでいいんじゃないのお?」
 悠莉の提案に、真冬がおずおずと声を上げる。
「いや、でも、それだとわたしは役がないんで……」
「あ、そっか。忘れてたわ」
「いうか、カメラ、ちゃんとセットした? ちゃんと撮れてる?」
「撮れてる撮れてる。ちゃんと映ってる……っぽい」
「え? 『っぽい』って何」
「普段、動画撮影とかスマホしか使わないし。正直、操作方法に確証が持てない」
「いやいやいや、ちょっと。ねえ、湯田ちゃん、裏方だし、こういうの得意でしょ。ちょっと見てみて」
「あ、はい」
「ていうか、スマホで良くない?」
「スマホは長時間の撮影はきついんだって」
「あ、そうなの?」
 油断すると、すぐに会話がテトリスのように歪な形で積み重なって、あらぬ方向へと流れていく。琴美は内心の苛立ちをため息として吐き出す。いよいよ流れを是正しようと口を開いた時、三夏が切り出した。その声は、ため息混じりだった。
「……順番なんか正直どうでもいいけど、まあ、東川先輩からも、本気でやれって言われてるから。一旦は役のことは忘れて、私達本人として普通に遊ぶのがいいんじゃない?」
「それじゃあ、じゃんけんで」琴美はここぞとばかりに話を進めにかかる。こんなことで、無駄に時間を浪費したくない。ただでさえ、自分達は余計なモノを体内に溜め込んだままでいる。「負けた人からってことで。あとはそこから時計回り。これでどう?」
「えー、やだ。くじ引きにしようよお」亜由美がどうでもよいことにこだわってくる。「て言うか、実はここに用意してあるのですよ。くじ引き用の道具が」
 亜由美が脇に置いた自分の鞄から、大きめの茶封筒を取り出した。琴美は不承不承、頷いた。すでに用意してあるのであれば、他の方法を選ぶ理由もない。反対意見は特に誰からも出なかった。
 くじを引いた結果、亜由美から始まり、悠莉、真冬、えりか、琴美、三夏の順番で話をしていくことに決まった。
「あはは。……それじゃあ、亜由美、どうぞ。やるからには、本気でね」
 何がおかしいのか、悠莉が意味の掴み難い笑顔のまま促した。きっと、意味などないのだろう。琴美は思う。この子は、最初からこういう顔なのだ。
 促された亜由美が、覚悟を決めたようにすう、と息を吸う。
 そうして、吸った息を一言目にして吐き出した瞬間から、新たな『不浄奇談』が始まった――。

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