[♀/連載]不浄奇談 [1-1-2.小貫亜由美の話 破]

『不浄奇談』キャラクター紹介



 ――もちろん、この噂はすぐに広まってしまった。多分、クラス内の各地で似たようなやり取りがあったんだろうね。あはは。「約束だよ。誰にも言わないでね」なんて言い続けて、ついにクラスの全員に広まっちゃうっていう。冗談みたいな話。
 もちろん、茜音ちゃんは慌てたけど、もうどうにもならない。自分が話した誰が秘密を漏らしてしまったのかすら、茜音ちゃんには特定できなかったの。だって、複数人に教えちゃったからね。みーんな、自分は知らない、言ってない、の一点張り。
 さて、葵ちゃんは最初、噂が広まっていることに気付いてなかったんだけど、当然、ずっと気付かずに済むってわけにはいかない。ある時は、教室の隅で行われる陰口の中に自分の名前が聞こえて、首を傾げる。またある時は、廊下の曲がり角でのひそひそ話の中に、「おもらし」という単語が頻繁に使われていることに嫌な予感を覚える。そんな具合で、いつしか疑惑は確信に変わった。自分が裏切られたことを理解して、葵ちゃんは驚き、悲しさに涙さえこぼした。だって、葵ちゃんは本当に、茜音ちゃん以外にこの話をしていなかったから。
 しかも、厄介なことに、伝言ゲームみたいに噂には尾鰭がついていた。葵ちゃんが本当におもらししちゃったのは、『小さい方』を『一度だけ』だった。それなのに、何度もおもらししただの、実は『小さい方』ではなく『大きい方』だっただの、今でもおねしょしているだの、出自不明の新説まで続々登場。クラスの範囲を超えて、他のクラスの子にまで広がるに至っては、前後関係すらもめちゃくちゃになって、最後には「この前、葵ちゃん、学校でおもらししたらしいよ」とまで囁かれるように。もう、わけがわからない。
 それだけじゃない。噂が浸透するにつれて、クラスの中にも、今まではなかった葵ちゃんを馬鹿にしてからかうような空気が、徐々にだけど、目に見えて広がってきていたの。
 もう我慢できない――なぁんて言って、葵ちゃんは放課後二人きりになった時に、ついに茜音ちゃんを問い詰めた。今まで一度も見たことのなかった、葵ちゃんが本気で怒った時の表情を茜音ちゃんは初めてそこで目にしたの。
「茜音ちゃん、約束だって言ったのに」葵ちゃんは押し殺した声で言った。「信じてたのに。どうして、こんな、ひどいこと」
 怒りに身を震わせて、目尻に涙を浮かべる葵ちゃんを見て、茜音ちゃんはどうしていいかわからない。当然だよね。責任なんて、もう、どうやったって取れないもん。困ってしまった茜音ちゃん、仕方なく、起こったことをそのまま説明することにした。
 新しくできた友達に、何度も質問されて、秘密を話さなければ自分が仲間外れにされてしまいそうだったこと。
 『誰にも言わない』約束を破って、自分が数人に話してしまったこと。
 その数人は誰にも話していない、と証言していること。
 で――はい、これがまた大炎上。
「他の人が話してないって言うなら、誰が噂を広めたっていうの?」話を聞いた葵ちゃんは激情に任せて、茜音ちゃんに詰め寄る。「本当は全部、嘘なんじゃないの? 茜音ちゃんがみんなに言い触らして回ったんじゃないの?」
 思春期の繊細な時期に、誰にも知られたくなかった噂を広められてしまった葵ちゃんの怒りは一向に収まらない。一生懸命、言い訳したり、頭を下げたり。茜音ちゃんも精一杯努力はしたけど、葵ちゃんは許してくれなかった。
「茜音ちゃんなんて、友達じゃない。もう二度と話しかけないで」
 最後にはそう捨て台詞を残して、取り縋る茜音ちゃんを払いのけて一人で帰ってしまった。
 それから、葵ちゃんは茜音ちゃんを無視するようになったの。謝っても、何を喋りかけても、つーん、として何の反応もしてくれない。他の子が話しかけた時には、普通に受け答えするのに、茜音ちゃんに対してだけそうなのね。茜音ちゃんは悲しくなった。でも、『二、三日すれば、きっと許してくれる』『私達は親友だもん』と楽観的に考えていた。
 だけど、一週間経っても、葵ちゃんによる無視は続いた。悲しくて悲しくて、やり切れなくてね。ある日、葵ちゃんに無視されてすごすごと自分の席に戻った後、一人で声を殺して泣いていたの。
 すると、前に『誰にも言わない』約束を聞きたがった友達がね。声をかけてきたんだ。
「大丈夫? 泣かないで」それから、その友達は言ったの。「茜音ちゃんだけ無視するなんて、ひどいよね。あの子、おもらしのくせに、生意気なんじゃない?」
 茜音ちゃんはびっくりして、思わず顔を上げた。その友達の言い方が、険がある、って言うの? そういう言い方だったのね。
 それ以降、茜音ちゃんは、その友達と話をすることが多くなった。葵ちゃんは相手にしてくれなくなっちゃったからね。その友達は、葵ちゃんのことが元々気に入らなかったのか葵ちゃんの話題になるといつも「おもらしのくせに生意気」「おもらしのくせに生意気」としつこく陰口を叩いた。そんな時、茜音ちゃんは困ってしまって、いつも「そうかなあ、そうでもないと思うけど」とか言って愛想笑いを浮かべるしかなかった。無視されてはいても、茜音ちゃんは葵ちゃんのことがまだ大好きだったから、自分から進んで悪口を言いたくはなかったのね。
 無視が始まってから、二週間ほどが経過した頃。給食を一緒に食べている時にね、その友達が突然「葵ちゃんのまねー」と言い出して、「葵、おしっこ、おしっこ漏れちゃうよお、ああ、ああん、じょわわわ、じょわああああ」なんてくねくねした後、がに股で気持ちよさそうにおもらしする滑稽な小芝居をしたの。茜音ちゃん、牛乳を飲んでいる途中で虚を衝かれたんだろうね。ぶはっ、って吹き出しちゃって。その後も、「あっはははは、なにそれ、ひっどーい」なんてしばらく笑い続けちゃったりして。
 あっ、と我に返って、葵ちゃんの方を見ると、葵ちゃんは明らかに聞こえていたはずなのに何も言わない。背中を向けて、こっちを見もしない。でも、その背中がね、ちょっとだけ震えてるの。
 茜音ちゃん、これで気付いたんだ。葵ちゃんは今、無理して、自分のことを無視しているんだって。馬鹿にされて、笑われて、口惜しくて仕方ない。でも、無視することに決めたから、文句を言うこともできないんだって。
 この時、茜音ちゃんの中で何かが狂っちゃったんだろうね。もしかしたら、久しぶりに葵ちゃんの反応が得られて、嬉しかったのかもしれない。なんでそう思うのかって? だってえ、そうでもなきゃ、あんなことしないもん。あはは、実は茜音ちゃん、それから卒業式前日ぐらいまで、延々とね。事あるごとに、一番の親友だったはずの葵ちゃんをからかい続けたの。
 無視するなら、ずうっと無視してればいいんだ。そう、茜音ちゃんは考えていたんだろうね。だったら、私は葵ちゃんのおもらしのこと、いっぱいからかい続けてあげる。葵ちゃんが恥ずかしくてたまらなくなって、私を相手にしてくれる時まで、ずうっと。
 でも、どんなにからかい続けても、葵ちゃんは茜音ちゃんを頑なに無視し続けた。茜音ちゃんにおもらしの過去を囃し立てられて、クラスのみんなに笑われさえしても、意地になってたんだろうね。葵ちゃんは絶対に、茜音ちゃんを相手にしなかった。見えない空気のように扱い続けた。
 そんなグチャグチャな状況の中、いよいよ迎えたのが卒業式の前日。
 茜音ちゃんは焦った。葵ちゃんとはもうずっと一言だって話せていなかったし、そのせいで、葵ちゃんが自分と同じ近所の中学校に行くかどうかもわからない。もしかしたら、親友の葵ちゃんに無視されたまま、お別れになっちゃうかもしれないって。
 馬鹿だよね。茜音ちゃんって、そういうところは絶望的にセンスがないの。自分がやったことの意味が、全然、見えてないんだ。だって、もうここまで来たら、親友どころか友達ですらないのにね。葵ちゃんにとっては、ただの許し難い敵、なのにね。
 茜音ちゃんは、馬鹿な頭を絞って考えた。でも、馬鹿だからって、馬鹿なことばかりを思いつくとは限らない。この時もね、ある意味で天才的な、とんでもないことを思いついちゃったんだ。
 茜音ちゃんは、いつも葵ちゃんを一緒にからかっていた友達にこのことを話して、協力を求めたの。友達は弾けるような笑い声を上げて、「あはははっ、いいね、それ。最っ高」と同意してくれた。「それだけしたら、きっと葵ちゃんも茜音ちゃんのこと、もう無視していられないよ」
 誉められて、茜音ちゃんは自信をつけた。馬鹿だからね。仕方ない仕方ない。
 卒業式当日、茜音ちゃんと、その友達は張り切って動き始めた――って言っても、ただ、あらかじめ済ませるべき自分達の『仕事』を済ませて、葵ちゃんの行動をずっと見張っていただけなんだけどね。見張って、一体、何をしようとしていたかって言うと……。
 あはっ、ほらあ、演劇の本番でもそうだけど、卒業式とか、運動会とか、何かの発表会の直前とかってね。こう、みんなに注目されることになるから、気持ちがピン、と張るじゃない。緊張、するじゃない。そういう時ってさ、落ち着かなくなって無性に――ふふ、そうだよね。特に「今から本番!」って時に限ってさあ。不思議と、行きたくなる、よねえ?
 そう、常人離れした鉄の意志で、茜音ちゃんを無視し続けて来た葵ちゃんもそこは同じ。やっぱり、卒業式という人生の門出を前にして、行きたくなっちゃうんだよね。
 で、目的地に行こうとすると、何故だか後ろからついてくるわけ。無視しなきゃいけない、許せるはずもない、約束破りの子とその友達が。目的地に辿り着いて、個室に入ろうとすると目の前で通せんぼするわけ。無視しなきゃいけない、許せるはずもない、約束破りの子が。
 葵ちゃんは無視を続けて、もちろん、別のトイレに向かう。トイレなんていくらでもあるもんね。でも、そいつらは必ず後をついて来て、同じ行動を繰り返す……。
 こんな風にされちゃうと、葵ちゃんも、焦っちゃうよね。追いかけっこしているうちに式の本番は近づいてくるし、だって、式は長いから、式の前に行っておかなきゃ……くすくす、ねえ? 後で困っちゃうもんねえ。
 いよいよ時間が近い、となった時にね。葵ちゃんは危機感を覚えて、茜音ちゃん――ではなくて、その横にいる友達に言ったの。「変なことしないで」って。
「変なことなんてしてないよ」その友達は澄ました顔で返す。「ただ、ちょっとふざけて、後ろをついて行っているだけじゃん」 
「葵はトイレに行きたいの。通せんぼしないで」葵ちゃんも唇を震わせて、必死になって言う。
「通せんぼなんてしてないよ。私はしてない。私はね」友達はにやにやして言い返す。
 葵ちゃん、これには何も言い返せなくなっちゃった。だって、直接に通せんぼしてくるのは、毎回、茜音ちゃんの方だったから。ここまで空気みたいに無視し続けた以上、茜音ちゃんのことを今更相手にするわけにはいかなかったから。
「いいから。あっち行ってよ!」
 葵ちゃんは癇癪を起こして、次のトイレへ。でも、また通せんぼ。もう、時間がない。後がなくなった葵ちゃんは、ついに強硬手段に出ることにしたの。無視しなきゃいけない相手を前にして、実力行使。無理矢理、押し通ろうとしたんだ。でも、茜音ちゃんも、ここまで来たら引き下がれない。必死に葵ちゃんの服を引っ張るとかして、個室に入らせないようにする。葵ちゃん、なんとか個室にまでは入れたんだけど、一緒に中に入ってきた茜音ちゃんが鍵を閉めさせてはくれないし、全力で服を脱ぐのを妨害しようとする。ああいう式の時って、ただでさえ慣れないフォーマルな服装をしているからね。寒い日だったから、葵ちゃん、スカートの下はタイツも着込んでいたりしたし。邪魔されちゃ、たまらないよね。
「あー、もう時間! 葵ちゃん、ほら、卒業式行かないと!」
 そして、友達のわざとらしい声。ついに時間が来ちゃったのね。早く行かないといけない。遅れて式場に入っていくなんて恥ずかしい真似をしたら、先生にも、見に来るお母さんにも叱られちゃう。
 ……結局ね、葵ちゃん、行きたいトイレに行けないまま、本番の式に出ることになっちゃったの。
 長い卒業式がね、本当にゆっくりゆっくり進むの。みんなも経験あるよね。授業中とかでもそうだよね。ただでさえ、どことなく退屈で間延びした時間が、我慢なんてしていると特にさあ。時間の進みが、驚くほどにゆっくりになる。あ、みんなにとっては、『今この時』もそうかな? あはは。
 卒業式って、本当は感動したり、別れを惜しんだりする場面なんだろうけどね。葵ちゃんにそんな余裕、あるわけはない。最初はまだ精神的なものだけだからいいとしても、徐々にね。ふふ、本格的に来ちゃうから。身体的な、どうしようもない、うずうずする感じが。今みんなも感じ始めているかもしれない、早く出してよぉ、出したいよぉっていう切羽詰まった感じが。
 式が進行するにつれて、葵ちゃんは徐々に平静さを失っていった。伸びていた背筋は丸くなって、お尻はもじもじ。何度も足を踏み替えたり、身に着けた瀟洒? なワンピースの裾を人目を気にしながらぎゅ、と握ったりね。
 近くの席では、妨害に精を出せるよう、あらかじめ自分達の『仕事』を済ませておいた茜音ちゃんとその友達が、すらっと格好良く背筋を伸ばしつつ、葵ちゃんの困り果てた様子を横目で眺めているの。
 胸のすうっとするような――おっと、間違った。胸の悪くなるような、えぐ味のある光景でしょ? あはは。
 式は進んで、卒業証書授与の時。あの一人一人名前を呼ばれて、舞台に上がって証書を受け取るやつね。
 あれをやる時には、もう、葵ちゃんの顔は真っ赤を通り越して、真っ青になっていた。パイプ椅子に載せたお尻を突き出して、極端な前傾姿勢、もちろん両手はスカートの前をがっちり押さえちゃったりしてね。もう、人目を憚る余裕もない。いっぱいいっぱいなのね。
 でも、葵ちゃんの個人的な危機のことなんて、卒業式は考慮してくれない。順番が来れば、名前が呼ばれちゃう。名前が呼ばれちゃったら、葵ちゃんは立ち上がるしかない。立ち上がっても、両手を前から離すこともできず、もじもじ、くねくね。たまにとんとんとん、と無意味なその場足踏み。
 事情を知っている茜音ちゃんもその友達も、卒業式向けの澄ました顔をしながら、お腹の中では大笑い。『いい気味!』茜音ちゃんは思うの。親友だったことなんて、もう忘れたかのように。『いい気味! 私を無視するから罰が当たったんだ! 葵ちゃんなんて、みんなの前で大恥かいちゃえ!』
 葵ちゃんの立ち姿は、客観的に見ても明らかに不自然で、生徒や先生、父兄の中にも気付いている人はいるはずなんだけど、不思議だよね。式の進行の妨げになっちゃいけない、みたいな。そういう意識が働くのかな。葵ちゃんには不運なことに、誰も何も言わずに、式はしめやかに進行しちゃう。ほんと不思議。卒業式って、人の心って、不思議。
 葵ちゃんはもう本当に限界に達していて、ほとんどまともに立っていることすら難しいぐらい。でも、茜音ちゃん達に負けたくない。その一心で、なんとか自分の卒業証書を受け取ろうと舞台にまでは上がったけど――ふふふ、そこまで。みんなも知っているだろうけど、そういうのって、生理現象だからね。そんな意地とかプライドとか、精神的なものだけじゃあ何ともならないんだ。
 もうね、瞬く間に、じょわあああああ――って。ばしゃばしゃばしゃ、って。卒業式の、まさにその舞台の上で、幼稚園児みたいなおもらしショー。ざわめく観衆の目の前で、どんどん取り返しのつかない事態が進行していく。最終的には、着ていた洒落た服もタイツも靴もぜーんぶおしっこまみれのびしょびしょで、青かった葵ちゃんの顔は恥ずかしさで耳まで真っ赤っ赤。
 あっはははは。最っ高だよね。一つ大人の階段を上るはずの卒業式で、階段から滑り落ちて、二段も三段も子供方向に転がり落ちちゃう、卒業式おもらし! 葵ちゃんは結局、卒業証書すら自分の手で受け取ることもできず、慌ててやってきた先生達に連れられてみじめに退場! 最っ高にみっともなかった! あたし、今、思い出しても、笑いが――おおっと、失言。あたしなんて登場してなかったね。ケアレスミスだった。えへ。
 そういうわけで、葵ちゃんの卒業式は大失敗で幕を下ろしたの。茜音ちゃんとその友達は、もちろん、立派に卒業。乾いてぱりっとしたままのフォーマルな出で立ちを見せびらかすように、保健室送りになった葵ちゃんのお見舞いに訪れて、落ち込む葵ちゃんにたっぷりと慰めの言葉(笑)をかけてあげたわけ。
 その時ね。葵ちゃんは、ついに茜音ちゃんを無視することをやめた。もう、我慢しきれなかったんだろうね。おしっこも我慢しきれなかったんだけどね。あはは。
「もう、二度と顔なんて見たくない」そう、葵ちゃんは言ったの。「茜音ちゃんのこと、一生許さない」

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