[♀/連載]不浄奇談 [2-2.休憩 真崎えりか]

『不浄奇談』キャラクター紹介


     2-2.休憩 真崎えりか

 続きの言葉が発せられるのを待つ。
 続きの言葉はなかなか発せられず、そのまま、話者の悠莉がまぶたを伏せる。これで終わり、というサインと理解し、真崎えりかが口を開こうとした瞬間――。
 がらんがらんがらん。
「ひっ――」
 階下、それほど遠くない場所から、大音響が鳴り響いた。びくっ、と反射的に身が跳ねる。金属製のものが激しく転がるような、無音に近い日暮れ時の学校で発生するにしては、あまりにも物凄まじい音。音は残響を残し、ゆっくりと虚空へ吸い込まれ、やがて消えた。
 突然のことに何も考えられず、全身を硬直させて、ただ次に続く何かを待つ。
 しかし、音に続きはない。あるのは、じっとりと湿気をはらんだまとわりつくような薄闇と、耳鳴りのするような静寂だけ。
 ごくり、と唾をを呑み込む。唇が、わななく。
「あ、あの。今の、何の音、ですか?」どうにか発することができた自分の声に、えりかは驚いた。みっともないほどに胸の奥の震えが混入した、頼りない声。
「さ、さあ、なんだろ。バケツかなにかが転がった――んじゃない?」
「この棟には、私達以外、誰もいないはずなのに?」
 不安や怯え、好奇心の入り混じった各人の視線が、自然とえりかに集まる。言外に、階段に一番近い位置に座るえりかに『確認しろ』と言っていた。
 気は進まない。しかし、先輩達の指示とあれば断れない。えりかは立ち上がった。そうして、つい先ほどまで背にしていた階下をそっと覗き込む。踊り場の電灯も、廊下の電灯も、まだ点いてはいない。そのせいで判然としないものの、薄く埃の積もった階段と闇の中に浮かぶ光沢のある廊下がうっすらと窺えるばかりで、これと言って目につくものは何もない。
 振り返り、何もないことを示すために首を横に振ってみせる。こぼれる安堵の吐息。えりかから見て一番近い位置にいる三夏と琴美の顔は、しかし、それでも明らかに強張っていた。えりかは少しだけ意外に思う。先輩達も、全然、平気ってわけじゃないんだ――。
「部の誰かが、私達を驚かせようとしてやったとは考えられない?」硬い表情のまま、三夏が推測する。努めて冷静に推測してみせることで、場の空気を、ひいては自分の怯えを鎮めようとしている――。えりかにはそのように見受けられた。「ほら、裏方の子とか。今は別の棟にいるけど、合宿には来てるんだし」
「そ、そうですねえ。それもあるかもしれませんよね……」でも、可能性は低い。心の中ではそう感じつつも、えりかは三夏に同調した。意見そのものというよりも、ただならぬ雰囲気の漂う場と自分の気持ちを一旦鎮めたい、という三夏の思いに同意した形だった。
「えー。そうかなあ」遠慮なく異を唱えたのは、亜由美だった。「裏方の子達、下級生が多いじゃん。性格的にもやりそうにない子ばっかりじゃない? やるかなあ。そんなこと」
「先輩相手でも、亜由美ならやりそう」
「しないよー」
「するって」
 上級生四人の中でも、比較的平気そうにしている亜由美と悠莉の間で罪のないやり取りが続き、脱線していく中、残りのメンバーの間で話は続く。
「裏方の子達がやらないなら、じゃあ、さっきの音は……」
「幽霊――」えりかにとっては唯一の同学年である湯田が、ひどく真剣な面持ちで述べる。「かも、しれませんね」
「幽霊なんていない」三夏がどこか頑なな口調で返す。「お化けとか幽霊とかって、中学生にもなって馬鹿みたい」
「でも、それなら、これは……」
 知らないうちに自分の背後に落ちていた二輪の花を視線で指し示して、えりかは声をひそめる。悠莉の話の最後に、不意に出現した花。種類は異なり、一輪は黄色、一輪は黒色。黄色の花は木に咲く花のようで、枝葉も付随した形をしている。黒い花の方は茎がほとんどなく、花の首に当たる所で切り取られているようだった。
「この中の誰かが置いた以外、考えられないでしょ。悪戯にしても悪質だけど」三夏が苛立たしそうに周囲を見回す。その疑いの目は、とりわけ、いまだ緊張感の薄いやり取りを続けていた亜由美と悠莉に注がれている。「正直に言ってくれる。これはどっちが置いたの?」
「えー、私ら限定? ひどくない? いや、でも、ほんと、知らないよ。さっきまでなかったよね。どうせ、亜由美でしょ?」面倒な疑いをかけられるのは勘弁とばかりに、悠莉が言う。
 それを聞いて、亜由美はきょとん、とした表情を浮かべた。それから、心底驚いたように声を上げる。
「えっ、ちょ、マジで、悠莉じゃないの? こんなの、あたしも知らないよ? 誰かが置いたとしても、気付きそうなもんだけど、気付かなかったし」亜由美が反論しつつ、他の面々を見回す。「本当に誰も知らないの?  ……でも、だとすると、ヤバくない? てことはさ」
 亜由美は語尾を濁し、探るような視線を周囲に投げた。はっきりと、口にはしない。でも、言いたいことは明確に伝わってくる。
 てことはさ、マジで”いる”んじゃないの、この辺――。
 無言のうちに、全員が周囲を見回す。自分達の他に、誰もいないことを確認する。えりかも同様にする。しかし、何度見ても、何もないし、誰もいない。不気味に静まり返った踊り場が、いかにも背後に何かを隠していそうな佇まいでそこにあるだけだ。メンバーの中には半ば冗談めかして同調している人間もいたが、それでも、その表情は若干ひきつっている。
 数分後、結局、何も手がかりらしいものを見つけられないまま、全員が元の位置に戻る。カメラで映像は撮影しているのだからまた終わってから確認してみよう、と琴美が言い出し、その意見が通った結果だった。
 定位置に戻ってからも、えりかの気は晴れなかった。なんだか薄気味が悪い。それがえりかの歯に衣着せない感想だった。唯一、自分だけが階段を背にしているのが、いっそう心細く感じられる。階下の音の件もそうだけれども、何故、よりにもよって、自分の後ろに変な物が落ちていたりするのか。座った時には、確かになかったはずなのに。
 えりかは、幽霊なんていない、と固く信じ込もうとする。幽霊なんて信じるのは、小学生までだ。自分はもう中学一年生なのだから、信じない。
 だって、いたら、怖い。怖くて、困る。だから、幽霊なんていない。そうでなければならない。だけど、と続きを考えてしまう。だけど、ひょっとしたら、悠莉先輩の話にあった演劇部の霊を引き寄せてしまう体質の人間というのが、本当にこの中に混ざっているんじゃないか――。そして、幽霊と同じ名前の自分が、幽霊の標的になってしまっているんじゃないか。そんな風に思えてくる。
 えりかは、話に出て来たリカちゃんのことを思い返す。二週間の便秘の末、トイレ前の廊下で大恥をかいたリカちゃん。自分と同じ名前を持った、過去にこの中学校に通っていた女の子。
 不安な気持ちに応えるように、周囲には聞こえないぐらいの小さな音で、お腹がきゅるる、と鳴る。誰にも気付かれてはいない。それでも、薄闇の中、えりかの頬は朱に染まった。今現在、自分が置かれている状況を鑑みると、まるで無関係の話とは言い切れない。
 『実は慢性的に便秘気味です……☆』。自分がノート片に記した『誰にも言えない秘密』の文言が脳裏に蘇る。記憶を辿ってみると、えりか自身も、ここ二週間以上、お腹の中に溜まったモノを出せていなかった。そして、二週間越しのそれが今、すでに出口付近まで来ている点まで符合している。嫌な予感が、した。
「で、一応、休憩時間なんだけど。誰か、トイレ、行く?」
 悠莉が心なしか、神妙な顔で呼びかけてくる。
 今のうちにトイレに立っておかなければならない。そう思い立って、えりかは手を挙げようとする。でも、瞬間、背筋にひやっとした冷気が走って、尻込みしてしまう。自分と同じ名前の幽霊。階下のけたたましい音。奇妙な二輪の花。あんなの、自分を怖がらせるためだけにこしらえた、ただの作り話に決まっている。そう信じたいけれど、不吉な符号が頭の片隅にこびりついて、踊り場にいる皆から離れ、自分一人で階下に向かうことにたまらない心細さを感じてしまう。向かわなければならない踊り場の下の階段はほの暗く、夕闇が沈殿したように溜まっている。この先にある誰もいない暗いトイレの個室で、ほぼ陽が落ちた時間帯の今、たった一人、『大きい方』を済ませられるだけの度胸が自分にあるとは思えない。だけど、でも――。
 えりかが逡巡しているうちに、すう、と別の所で手が挙がった。見ると、それは亜由美だった。
「それじゃあ、満を持して」よくわからない謎の溜めを作って、亜由美がキメ顔で言う。「あたし、行ってきます。――トイレに」
「トイレに、じゃねーよ。何の言い方。別に満を持してもないし。二人目だし」
 悠莉のツッコミ風の指摘に、場に薄い笑いが広がる。えりかだけが笑えなかった。
 本当は自分が行きたかったのだ。次の話の順番は、真冬、そして次がえりかになる。その次は琴美と三夏。自分の話の直前と、直後はトイレに立つことはできないルールだから、今を逃すと琴美の話の直後までトイレには行けなくなってしまう。
 我慢できる? と自分のお腹に問う。お腹がきゅるるる、と子犬みたいなかよわい声で鳴く。無理かも、と言っているように聞こえる。
「そんじゃ、気合入れて行ってくるー」
 亜由美が身を軽くのけ反らせ、中年男性がよくやる仕草で腰を伸ばす。階下へと、一歩目を踏み出す。止めるなら、今しかない。
「あっ、あのっ」えりかは慌てて、制止の声を上げた。みんなの視線が一斉に集まる。望まぬ注目に、えりかはへどもどしてしまう。年上の先輩の前で、こんなことは言いにくい。だけど、言わないと。「や、私も、そのぉ、実は行きたいんですけどぉ……」
「えー」亜由美が露骨に不満そうな声を上げる。「これって、二人以上、手を挙げた場合のルールはどうなってるんだっけ?」
「早い者勝ち、だった気がするけど」
 琴美が答える。えりかは内心、顔をしかめる。いつも眼鏡をかけている琴美先輩は、いつも眼鏡をかけているだけあって、頭が良い。記憶力も良い。こういう時には発言力がある。頼りにもなる。でも、たまに感じる。この先輩は冷たいところがある、と。下級生で、後輩で、それなりに仲良くはしているのだから――こういう時、助けてくれたって、いいのに。
「そっかー」亜由美があっけらかんと言う。「それじゃあ、あたしの勝ちってことで。OK?」
「あ、ああ、えっと」えりかは口ごもった。でも、言わなきゃ。言わなきゃ。「でも、あの、いやいやいや、ちょっと」
「えー、なになに」亜由美が独特の薄ら笑いを浮かべる。人が困っているのを見て喜ぶような、底意地の悪い粘着質な微笑み。「あっれえ? ひょっとしてえ。えりかちゃん、まさかぁ、中学生になってまで我慢できないとかぁ?」
「……! いえ、そんな。そんなことはぁ、ないんですけどぉ」
「それじゃあ、いいよね」
「あ、でも……」
「我慢、できないの?」
「我慢はっ……でき、ます」
「だよね。だったら、あたし、先輩。えりかちゃんは後輩。年長者を敬うべきだし、演劇部は基本先輩ファースト。でしょ?」
「それは、そうです、けど」
 亜由美に押し切られそうになって、お腹がぐるぐるぐる、と抗議するように鳴る。ここで引いたら、ダメ。我慢できなくなっちゃう。そう訴えているように感じる。お腹の中に隠したグロテスクな形状をした便塊が、ぐいぐいと出口の辺りを押している気配がする。でも、でも――。

「はい、行ってきまーす」
 階段を下りていく亜由美の後ろ姿を見送りながら、えりかは漠然と思う。要領が良いってどういうことなんだろう、と。
 要領が良い、とやっかみ半分に他人から言われることも多い。でも、どうなんだろう。要領が良いって、結局、どういうことなんだろう。
 自分に関して言えば、何事も適当に受け流すのが上手いだけだ。厄介ごとを避けるのが得意なだけ。争いごとを遠ざける――そういう、演技が得意なだけ。
「えりかちゃん、トイレ、行きたかったんでしょ? 大丈夫ぅ?」いつもと同じ調子に戻った悠莉が、ヘラヘラしながら覗き込んでくる。
 えりかは顔を上げた。そして、にっこりと笑う。いつもやっているように、自分の内心をおくびにも出さずに。
「はい、全然大丈夫です。それほどでもないので。悠莉先輩の話、ちょっと怖かったんで、暗くならないうちに済ませておきたいかなあ、って思っただけだったんです」
 自分自身が用意した脚本を自分自身で演じる最中、要求を押し殺されたお腹が、きゅるるる、と切なげに鳴いた。
 演技はどんどん上手くなる。でも、自分の希望を通すのは、いつまで経っても上手くはならない。

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