神原だいず / 豆腐屋 2024/07/01 19:00

【再掲 / 玲と悠馬⑤】発熱

 その日は、本当に特筆すべき事など何もない平和な一日のように思えた。

 朝は、遅刻するとも早起きともいえない時間に起き、朝ごはんもそこそこに、化粧をして髪型を整える。
 家を出れば、びっくりするほどいい天気でもなければ小雨がぱらつく鬱陶しい天気でもなく、道端の小石に躓くこともなく、バス停に着いた。

 バスは定刻どおりにやってきた。
 乗客はさほど多くなく、かといってガラガラでもなかった。
 学校にも時間通りに着いた。
 一足先に教室についていた友人が、こちらを振り返ってひらひらと手を振る。

 手を振り返しながら彼女のもとへと歩いていく。
「おはよー、みーちゃん」
 あたしの事をみーちゃん(あたしの苗字は三河)と呼ぶ彼女とは、大学からの付き合いだ。
 明日の課題の話や、気になっている化粧品の話など他愛もない話をして、講義が始まるまでの暇をつぶした。

 2限の授業が終わってから、悠馬に食堂の座席を取っておくと連絡する。
 1分後に、悠馬からいつも通り『わかった、ありがとう』と返事が来た。

 食堂は、授業を終えた生徒たちで混み始めていた。
 あちらこちらで笑い声や話し声が飛び交う。
 食堂を入ってすぐ左に曲がり、いつも座っている2人席のゾーンへと向かう。

 今日もいつもの場所が空いていたので、カバンを椅子の背にかけて、席に腰かけた。
 スマホを取り出し、『席取れたよ』と連絡すると
『ありがとう、昼は買ったか?』と返事が来た。
『今日はお弁当作って持ってきた』
『了解。もうすぐ着く。いつもの場所で合ってるよな』
『そう』
『OK』

 私はスマホのホームボタンを押した。
 画面が暗くなり、ただの箱になったスマホを机の上に置く。

 椅子の背にかけたカバンを開けて、お弁当を出した。
 最近、食費を浮かせたいから余裕がある時は、前日の夜にお弁当を作ることにしている。
 今日は食パンが余っていたからスクランブルエッグとハムを挟んでサンドイッチにした。

「玲」
 上から低くて少しかすれた声が降ってきた。悠馬だ。
「やっほ」

 悠馬はふうとため息をついてから、椅子に腰かけた。
 カバンを脇に置き、メガネを外して拭きながら
「悪いな、後期からずっと座席取ってもらって」と言った。
「いいよ、2限は教授が早く帰りたがって講義を10分くらい早めて終わらせるから」
「ありがとう」

 悠馬は、メガネをかちゃりとかけたあと、一瞬私の顔をじっと見た。
「何?」
「いや…なんでも。食べよう」
 二人で、いただきますと手を合わせてそれぞれの昼食に手をつけた。

 カバンの中からコンビニの袋を取り出した悠馬に
「今日、何買ったの」と聞く。
「ツナマヨのおにぎりと、調整豆乳と…」
「いつも思うんだけど豆乳とおにぎりって合うの?」
「合う。あとは…ん?」

 悠馬が袋の中を探っていた手をピタリと止めた。
「どうしたの?」
 悠馬は袋からパンを取り出した。パッケージにはでかでかと「ツナパン」と書かれている。

「…」
「…ツナ大好きだね」
「今、気づいた…」
「かわい、むぐぅ」
 悠馬が私の口にバッと手を当てた。

「むぐむぐ?(なになに?)」
 悠馬がジロリとこちらを睨んだ。
 いつも押し倒してる時は、もう少しとろけた目をしているので全然怖くないのだが、素面での悠馬の睨みは普通に怖い。

「今、ここで、俺に、可愛いって、言うな」
 一言一言絞り出すように悠馬が言った。
 ふむ、人目があるところで可愛いと言われるのは恥ずかしいという事らしい。
 耳が真っ赤だ。ここは一旦従おう。
 こくこくと素直に頷くと、悠馬は満足したように手を離した。

 すかさず、「耳、真っ赤だよ」と言う。
 すると悠馬の頬にぶわっと赤みが差した。
 リンゴみたいになった顔を腕で隠そうとして、彼は肘を思いっきりテーブルにぶつけた。
「いた…」
「何してるの、もう…」
 可愛いなあ。


 そう言おうとしたときだった。

 ボロボロッと目から何かが零れ落ちた。

 慌てて頬を拭う。
 涙か?なんの前触れもなく?突然どうしたのだろう?
 情緒が不安定すぎやしないか。
 まずい、止まらない。どうしよう、何も悲しい事なんかないのに、涙が後から後からあふれて止まらない。

 あたしから何も言葉が返ってこない事に気づいた悠馬が、顔を上げる。
 そして、こちらを見てぎょっとした顔になった。
「え、ど、え、え、どうした、玲」
 慌てている。
 そりゃそうだろう、なんの前触れもなく目の前で彼女が泣き始めたのだ。
 あたしもものすごく慌てている。

「…えうっ」
 違うの、大丈夫だよ、と言おうとしても涙がボロボロあふれてきて言葉がせき止められてしまう。溺れそうだ、と頭の片隅で思った。
「ひ、えぅ、ぅ、ゆうま、ゆうまぁ…」
 やっとの思いで言葉を紡いでも名前を呼ぶことしかできない。

 どうしよう、止まらない。
 あたしはパニックになりだしていた。
 心配そうにのぞき込む悠馬に弁解したいのに、しゃくりあげてしまって言葉が詰まる。
 あたしが泣き止まないので、悠馬は席を立って隣に膝立ちで座り、背中をさすってくれた。
「大丈夫、大丈夫」

 悠馬の空いている右手を必死に探した。
 何かにつかまっていないと、体の震えが止まらなくて、寒くて、どうしようもなく寂しくなってしまう。

 それを察したのか、悠馬の右手があたしの右手にするりと絡みついた。
 悠馬の熱が指、手の甲、手のひらをじわじわと伝う。
 少しずつ呼吸が落ち着いていくのを感じた。
「どうした、辛いことでもあったのか」
 首を振る。
「…俺、何かしたか」
 もっと首を振る。
「…お前、もしかして」
 悠馬が、顔を覗き込んできた。

 メガネの奥の目は、さっき睨んだ時の鋭さを失ってはいるものの、あたしを射抜くには十分だった。
 目が離せなくなる。

「体調悪いんじゃないのか。さっきも思ったんだけど、顔色悪いぞ」
 だから食堂に来た時、あたしの顔を一瞬じっと見たのか。
「ぅ、う…」
 体調が悪いのではないかと言われると、なんだかそんな気もする。
 事実、体からは一気に力が抜けていき、悠馬の肩にぐたりともたれかからなければ、体が支えられないほどになっていた。

 涙は止まりだしていたが、それと同時に体に悪寒が走り始めている。
 だけど体の内側は熱い。
 息を吸えば、マラソンを走り終えたあとのようにヒューヒューと不気味な音がする。
「うぅー、う、さむい…のに、あつ、あつい…」
「風邪だな」

 悠馬は、半分残っていたおにぎりを口にほおりこみ、机の上を片付け始めた。
「病院行くぞ、保険証持ってるよな」
「…え」
 今日は、木曜日で悠馬は3限も講義があるはずだ。

「こ、こうぎは…」
「3限の講義は出欠確認が無い。レジュメも教授がメーリングリストで生徒全員に一斉に送る。1回くらい飛んでも構わない。それで保険証は?」
「もってる…」
「わかった、行くぞ」
 悠馬は手をこちらに差し出した。
 いつのまにか、あたしのカバンも背負ってくれている。
 あたしは悠馬に連れられて学校に一番近い病院に向かった。


「うーん、検査の結果ではインフルエンザではなさそうです。お薬出しておきますので、安静になさってくださいね」
 病院で熱を測ると、37.9℃だった。
 季節外れでインフルエンザが流行っているらしいので、念のためとインフルエンザの検査もされたが、どうやらただの風邪だったようだ。

 お医者さんと看護師さんに頭を下げ部屋を出る。
 部屋の外にいたショートカットの看護師さんが、「三河さん、あとはお会計だけですので、待合室で座ってお待ちくださいね」と待合室まで案内してくれた。

 待合室では、悠馬が腕を組んでそわそわした様子でソファに座っていた。
 あたしが待合室に来るのを見た瞬間、ほっと息をつき、手招きした。

 悠馬の横に座る。
「…どうだった?」
「インフルじゃないみたい」
「そうか、よかった」
「あの…ありがとうね」
 講義を休んでまでついてきてくれた事に、ありがたさを感じるとともに、申し訳ない気分になった。
 食堂でも突然泣き出したあたしを優しくなだめてくれたし…。

「あの状態で玲一人を病院に行かせたところで、講義を落ち着いて聞いてられるとも思えない。したいようにしただけだから、別にお礼なんか言わなくていい」
 悠馬はカバンから財布を取り出しながらそう言った。
 いつもみたいに照れ隠しで言っているのかと思ったが、顔色一つ変えずに言い放ったあたり、たぶん本心を言っているのだろう。
 本当に優しい人。だけど、なんて不器用な人。

 そっと悠馬の肩にもたれかかった。
「…うん。でも、お礼言いたかったの。うれしかった…」
「変わったやつだな」
 そのセリフ、そっくりそのままお返しするよ。今のは照れ隠しで言ったんでしょう。

「三河さーん」
 受付の人が名前を呼んでいる。お会計を済ませないと。
 立ち上がろうとして悠馬に手で制された。
「いい、払う」
「え、でも悪いよ…」
「いいから」
 悠馬が耳元に口を近づけてきた。何か耳打ちしたいらしい。

「…今度、2人きりの時思いっきり甘やかしてくれたらいい。ベッドの上で。お願い」

 声帯に引っかかるようにして紡がれるかすれた言葉に、一瞬目の前が明滅する。
 その間に悠馬は受付のほうへスタスタと歩いて行ってしまった。

「…ふうー…」 
 ボスッとソファの背に体を預ける。
 あの人の色気は、体調不良の人間には刺激が強すぎるようだ。
 大体、あの人の照れるポイントがわからない。
 こんなに一緒にいるのに、予想もしてなかった事を平気でぽろっと言ったりするから、たまったもんじゃない。
 熱が上がりそうだ。
 受付で会計を済ませる悠馬の後ろ姿をぼんやりと見ながらそんな事を思った。


 あのあと、家まで送ってくれた悠馬はご親切におかゆを作ってくれた。
 食欲が無い時用にリンゴのすりおろしまで冷蔵庫に入っていたのを見た時はさすがに「お母さん…」とつぶやいてしまった。

 帰る寸前、悠馬は珍しくこれでもかとキスを落とした。
 額、まぶた、頬、耳、首筋、手首、最後に唇に。
「どうしたの、めずらしい…風邪うつっちゃうよ」
「明日は来ないだろ、学校」
「…うん、熱が下がっても念のため行かないかな」

 悠馬は足元をずっと見ている。
 たっぷり3秒は沈黙があった後にぼそりと悠馬が何かをつぶやいた。
「…ぃ、ら…」
「ん?」

 きゅっと眉を寄せて、悠馬はあたしの服のすそを掴んだ。
 そのまま抱き寄せられる。
「寂しいから…」
 この男、病院の時に耳打ちしてあんな事言ったのも、キスを落としまくったのも明日会えなくて寂しいからか…!

 熱のせいで思考力が落ちてる。
 今すぐ押し倒したい勢いで可愛いんですけどこの人、なんなの。
 玄関先だから耐えなきゃ…。
 何よりこれ以上近くにいると本当に悠馬に風邪がうつってしまいそうだ。

「なんで、そんなに、かわいいの…?」
 抱きしめ返しながらなんとか理性で欲を押し殺してそれだけ言う。
「かわいくない…寂しい。寂しい…」
 悠馬はうわごとのように寂しい、寂しいと繰り返している。
 これは早く治して大学に行ってあげないといけない。
 にしてもなんなんだ?ウサギか?お前は寂しがりやのウサギさんなのか?可愛いな?

 悠馬の頬にキスを返す。
「…早く治すよ。それで」
 えい、もうこれはあたしからのささやかな仕返しだ。
 耳元でぼそっとつぶやく。
「ベッドでいっぱい甘やかしてあげるから…」

 悠馬が膝から崩れ落ちる。
 耳に手を添え、ペタリと床に座り込んでしまった。
 蜂蜜をたらしたかのようにとろけてうるんでいる目がこちらを見上げている。
 わぁ、その目たまんないな。今すぐに食べてしまいたい。

「何?想像したの?」
 つとめて冷ややかな声を出そうとする。
 想像して興奮してるのはあたしだって一緒だけど、それを悟られるのはなんだか癪だ。 
 悠馬の顎に手を添え、くいっとこちらを向かせる。
「う…ぅ」
「お願いだよ、悠馬…これ以上、熱が上がりそうな事しないで。あたし、何するかわかんないから」

 その後に悠馬が言いそうなセリフが何となく頭に浮かんだから、バッと手のひらで悠馬の口を押えた。

「だめ、今日はもう、だめ。煽らないで、これ以上。ほんとに、だめ。」
 悠馬はこくりとうなずいた。
 あたしはそっと悠馬の口から手を離す。
 悠馬はゆっくりと立ち上がった。

「わかった。今日は帰る。…早く元気になって」
 ぽんぽんと頭を撫でられた。
「うん、ありがとう」
 悠馬が帰ったあと、私は布団に倒れ込んだ。

 早く元気になろう。
 そして、彼をどんな風にベッドの上でどろどろにとろかしてやろう…
 それをずっと考えているうちに、意識は深い深い底へ落ちていった。

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