めるとりーずん 2020/10/10 14:28

ノンジャンル短編 その1

 
 
 
 俺は待たされることが嫌いだ。
 オクラより嫌いだ。
 
 何もせずに人を待つなんて非効率の境地とも言える行動が取れるのはハチ公か銅像の生まれ変わりに違いなく、そもそもハチ公自体も銅像で、千円持ち歩くために十円玉を百枚集めるより千円札一枚にしたほうが圧倒的に効率がいいこともこれと無関係では無いだろう。だいたい銅が悪い。特に恨みは無い。
 のへっとした顔が部屋から出てくる。俺の式神を名乗るちびっ子は病み上がりのせいかあまり顔色が良くない。いつもはピンとした耳がしなびた小松菜みたいになっている。からあげに良く合いそうだ。
 ちびっ子は俺を見上げるなり立ち止まった。まじまじと俺の顔を見る。その表情が珍しくて、俺も見つめ返す。琥珀色の瞳がぴくりともしない。大人の姿で無いのはおそらくあの戦いでほとんどの力を使い果たしたせいだろう。
 眉毛にかかるくらいの髪は秋を思わせるような淡い朱色。見下ろしていると、ちびっ子はとつぜん鼻の上に皺を寄せた。やはり妖孤を名乗っていたのは嘘のようだ。俺の式神はブタちゃんだ。俺はブタに庇われて命拾いしたということだ。これは陰陽の界隈でも珍しい事例ではないだろうか。陰陽の界隈なんて聞いたこともないけれど。
「死んでなかったんですね」とちびっ子は心底残念そうに言った。
「おかげさまで」と俺は返した。
 ふん、とちびっ子は顔を背ける。萎れていた小松菜がようやく元気を取り戻した。やはりからあげに合いそうだ。ビールも欲しくなってくる。
 お世話になりました。
 俺は『ババ様』とやらに礼を言ってその場を後にする。ピンと立った耳が、少し距離をおいてテコテコと付いてくる。
「まさかとは思いますけど」とちびっ子は口を開く。「起きるまで待ってただとか、そんな着けまといの変質者のゴミみたいなことしてないですよね? もしそうだったら、もうしばらく横になっていたいくらい気色悪いんですけど」
「俺はゲーセンで遊んでたよ。今日はたまたまだ」
「安心しました」
 古風な屋敷を出て、俺は駅の方へと歩く。テコテコ付いてくるブタ神様は平安貴族みたいな白色の衣装をお召しになっている。一般人には姿が見えないらしいので問題は無い。
「どこに行くんです? 夢遊病です?」
「今日はよくしゃべるな」
「私の口臭はまともなので。誰かと違って」
 かこんかこん。下駄の音がコンクリートに響く。
 すれ違う人並みは相変わらず早足だ。先日あれだけの騒ぎがあったというのに、もう日常にどっぷり漬かり始めている。とはいえ一般人にはボヤ騒ぎがあったという程度の認識しかないのかもしれない。
 曰く、宿敵との戦いは終え。
 死に際に放った呪術を俺を庇うようにしてその身に受けたブタ神、もとい妖狐さんは、こうして一命を取りとめた。
 総じて何が言いたいかというと。
 今日は暇である。
「いい散歩コースを見つけたから」と俺は前を向いたまま言う。
「犬の真似をするのは犬に失礼だと思いませんか?」
「狐の真似ならいいのか」
「気色悪い」
 ガチトーンで繰り出される暴言は、決して冗談として捉えられないような丁寧な気遣いを感じられる。誠実に、私は本気で言っています、という意思がひしひしと伝わってくる。
 まったく関係ないけれど、気持ち悪い、より気色悪いの方が数段ダメージが大きい気がした。
 
 一分と待たずに到着した電車に乗り込み、二駅。
 降りた駅前はワイシャツ姿が多くてなんだか後ろめたい。
 
「どこに行くんです? お得意の徘徊癖です?」
「引きこもる方が百倍得意だが」
「生産性のかけらもないですもんね」
 踏み切りを渡って、古い橋を渡って、ガードレールに守られた歩道をゆく。開発が進んだベッドタウンはそのほとんどが住宅地だ。数少ない友人もこの近くに住んでいる。
「どこに行くんです? 自殺の下見です?」
「ここら辺は人が多いから難しいだろうなあ」
「私、こっちに行きたくありません」
 ちっこい式神の言葉に俺は振り返った。
 琥珀色の瞳がわずかに揺れる。普段なら絶対に見せないような動揺が伺えた。おそらく今どこへ向かっているのか勘付いているのだろう。
「行こう」
「嫌です」
 俺は構わずに前を向く。俺を追うカコカコ音が少し遠慮がちになった。
 レトロのレの字すら押し流そうとする現代の波に晒されて、残骸のようにぽつんと残ったほったて小屋がひとつ。はたてや、と書かれた看板。中は駄菓子屋。特に用は無い。
 俺は駄菓子屋を背にした道路の反対側、高い建物と建物の間に向かう。薄暗い路地。覗き込めばその道はまっすぐ抜けていて、向こう側でも車が行き交っている。
「嫌です」と、歩道に立てられた赤いポストの前でちびっ子は立ち止まる。
「どうして」
「嫌です」
「俺たちの思い出の場所だろう?」
「何も知らないくせに」
 俺はちびっ子に歩み寄る。その小さな体が半歩引いた。
 まるで怯えるように胸元で繋いだ両手。その片方に俺は手を伸ばした。掴んだ手は本当に小さくて、ちびっ子はもともとまん丸な目をさらに丸くした。
「なっ、なっ」
 俺は容赦なく歩みを進める。引っ張る腕から小さな抵抗を感じた。
「きっ、気色悪い! です! 行きたくないと言ったんですよ!? 気色悪い! くさい! 死ね! 馬鹿! アホ! うんこおとこ!!」
「おーおー」
 一気に語彙力のなくなった罵倒を背に、俺は路地を進んでいく。
 俺とこいつが出会ったのはこの場所。先日のあの戦いを終え、こいつの神通力が戻るまではしばらくは起きないだろうと聞いて、俺は柄にも無く調べ物を始めた。最後の親玉を倒してしまったとあっては他にやることも見つからなかっただけだ。
 
 なんて。ちょっと言い訳がましいか。
 視界の端にすら入れたくないほどに俺を毛嫌いしていたこいつが、なぜあの時、命を賭してまで俺を守ろうとしたのか。そして向かってくる強大な呪術を背に、俺に見せた不可解な表情の理由は。彼女を治療に預けたあと、何もわからないまま自宅に戻って、パソコンの電源を入れては消して、また入れては消して、結局のところ仕方なくスニーカーに足を通した。
 
 祠(ほこら)。鳥居はない。
 
 ちょうど路地の向こう側との中間点。建物に食い込むような形でそれは残っていた。もう長いこと手入れをしていないのだろう。大部分が錆やコケに覆われている。
「そこの駄菓子屋のおばさんがな」と俺は口を開く。
「……なんです?」とちびっ子が口を尖らせた。
「古い帳面みたいなもんを見せてくれたんだよ。日記だった。かなり古い日記だ。どうやら駄菓子屋の家系は物好きが多かったらしくてな、この近辺で起こったことを必要ないことまで細々と記録していたらしいんだ」
「……!」
 握った小さな手が嫌がって、俺は逃がすまいとさらに強く掴む。
「お前、出会った時に一回だけ『主様』って言ったよな」
「……、油虫の間違いじゃないですか」
「俺は前の主の生まれ変わり。その俺がこの路地の前を通ったから、そのときにお前も目が覚めたんだって言ってただろう?」
「生まれ変わりは何かの間違いですね。私の主様は本当に素晴らしくて優しい方でしたがあなたは毛じらみみたいなものなので」
「毛じらみ。まあいいけど。それで、古い書体なんかも調べながらその日記を読んだ。結局面倒になって近くの書道教室を訪ねたけどな。くだらないことが山ほど書いてある中に、たまに狐の女の子の話が書いてあった。駄菓子屋のおばさんはお前のことを知らないと言っていたけど、その家系を遡ると“視える”人が多かったんだろうな。なんでも、いつも鳥居の近くに立っている、狐の耳をした少女が……」
「その話」とちびっ子がさえぎった。「最後まで聞かなきゃだめです?」
「狐の耳をした女の子がいたらしい」と構わず続ける。「座っていたり、立っていたり、ぼーっと空を眺めていたり。その日その日によって文面は違ったけど、その子は必ず鳥居の近くでじっとしてたんだって。あんまりにもその光景が日常的過ぎたんだろうな、しまいには毎回一行だけしか書かれなくなってた。その日の天気みたいに、その日の女の子の様子が簡単に書かれてたよ。……それで、いくつか書き手が変わってて、一番最近の書き手は駄菓子屋のおばさんの、実のお母さんだった。俺でも読めるような日記帳だったよ」
 私にはその姿がほとんど見えない。と日記帳には綴られていた。
 おそらく代を重ねるごとにそういった力が薄れていったのだろう。いま店番をしているおばさんは母から女の子の話を聞かされていたけれど、まったく信じていなかったという。
「そして平穏すぎる日記に事件が起きた」と、俺はそこで一度言葉を切った。
 
「――――祠の取り壊しが決まった」
 
 繋いだ手がびくりとする。俺は気にせず顔を上げる。
 苔むした祠は今もそこに、静かにたたずんでいる。
「女の子の姿をうっすらとしか見えなかったその人にも、女の子の激しい怒りは見て取れたらしい。その子は下見にきた業者に抵抗を続けた。強風を起こしたり、夜には狐火を起こして噂にしたり。普通の人間に姿は見えないけど、実害を出さない方法でなんとか追い返そうとした。……でもそれも長くは続かなかった。ついに“その手”の業者が現れた」
 俺は彼女を見下ろす。
 唇をかみ締める少女の、立派な尻尾が少し膨らんで見えた。
「日記にはその手の人達、としか書いてなかった。たぶん陰陽道や鬼神に通じてる奴だったんだろう。そいつらと女の子は話し合った。傍から見ていたら一方的な会話に見えたらしい。女の子はただただ必死に懇願していたと書かれてた。それだけで、この祠をどれだけ大切に想っているかが伝わってくるほどに。話し合いは決着した。祠は守られた。……けれど」
 俺は辺りを見渡す。
 祠以外には建物の外装と、車の行き交う音しか聴こえてこない。
「鳥居は、壊された」
 いつしか手を握る力は、彼女の方が上回っているようだった。
「それはもう、悲痛な泣き声だったと書かれていた。どれだけ可哀相か、どれだけ胸が痛くなるか。そんなことも書かれてた」
「私、泣いてません!!」
「別にお前とは言ってない」
「……っ!」
 一直線に開ける青空。電線と、格子と、窓。
 このあたりに雪が降ることは珍しい。が、大雨の日があれば、雷の日も台風の日もあったに違いない。
 俺は待たされるのが嫌いだ。
 それはこんな陽気の日でも変わらない。何もせずに人を待つ時間なんて、一秒だって我慢ならない。この性格は生まれてから一度も変わらない。たぶんこれからも。
「思うんだが」と俺は口を開く。「この鳥居ってのがこの女の子にとってどんな意味があったんだろうな。本人の神通力に関わることかな。もしそんな力の大部分を失うようなことがあったら、まともに戦うことなんか出来ないと思う。……もう一つ思うのは、俺ってヤツは見た目によらず用意周到なんだよな」
「いきなり、なんですか」
「何事も形から入るタイプでな。あらゆる事態に対応できるように準備しておかないと気がすまないんだ。一つのゲームをしばらくやらなくなる時だって、必ずセーブデータと一緒にどこまで進んだのか、どういうストーリーで、次はどこに向かえばいいのか、っていうメモを残しておくんだ。そうしておかないと気が済まないんだ。それで思ったんだよ。俺の先祖は一体何をやってたんだろうって」
「何の話ですか」
「生まれ変わりだってんなら、そいつも俺と似たタイプじゃないかと思ったんだ。転生したとしても、記憶が引き継がれるような仕掛けがあってもおかしくない。でも俺はお前の名前すら知らない。お前が頑なに教えようとしないからな」
「気色悪い人に教える名前はありません」
「でもそれはおかしいんだ」と俺はちびっ子を見下ろす。「陰陽道の知識なんて普通に生きていてまともに得られるもんじゃない。戦いとなったらすぐにでも命に関わることなのに、そのメモすら残してないのはどうかんがえてもおかしい。それで思ったんだよな。その生まれ変わる前の俺とやらは、メモ自体は残したんじゃないかって」
 メモは残していた。
 決して失わない形で後世まで残すことができるような仕掛けで。
 そして、その時代には、ソレが失われることなんて想像もできなかった。
「……鳥居が壊れて何かを失ったのは、その女の子じゃなかった。としたら」
 俺を見上げる琥珀色の瞳が揺れた。俺はその場に屈んで目線を合わせ、もう片方の手も強引に掴む。
「お前、俺の記憶が戻らないことを知ってたな?」
「しっ、知りません! 何のことですか!?」
「こっち見ろ」
「嫌です!」
「…………何日だ?」
「なんですかあっ?」
「何日、いや、何年待ってた?」
「……っ!」
 ちびっ子は顔をくしゃっとさせて、視線を逸らした。その反応で確信した。
 俺がこの路地の前を通った時に目覚めただと? 大ほら吹きだ。
 こいつはずっと俺を待ってたんだ。何年も、何十年も何百年も。下手したら、それ以上。
 一体何を想った。何を考えた。何を見て、何を聞いた。それほどの長い時を待ち続けて、なのに鳥居を壊されて、自分の存在を忘れてしまった相手をひとり、ただ待つのはどんな気持ちだった?
「何を約束した! お前と別れる前の俺は何を言った!?」
「知らない! です!」
「大切なことだろ!」
 どんな関係だった。
 何を話して、二人でどこへ行った。
 俺を庇って立ちはだかった時の、あの納得しきったような笑顔はなんだ。
 俺はお前の、一体何だったんだ。
「話せ。今からでも遅くない」
「嫌ですっ! 離して下さい!」
「こっちこそ嫌だね!」
「あなたはっ、あなたはあの人じゃありません!!」
「こんの……っ」
 無理やり肩を抱き寄せる。腕の中で暴れる少女の、そのあごを持ち上げる。
 こっちを見ろ。と、言いかけて。
 その小さな唇が震えて。
 何かに怯えたような瞳が俺の目を見て、次に俺の口元を見て。そうして。
 ぎゅっと顔を逸らした彼女を見て、俺は言葉を失った。
 
 
 
 ああ。
 俺の先祖とやらは、自分の式神に手を出すようなクソ野郎だ。
 
 
 
「そうか」
 無理やり繋いだ手は、爪を立てられると思っていた。
 肩を抱いた時、突き飛ばされると思っていた。
「そうか」
 お前は今まで。出会ってからこの数ヶ月。
 どんな目で俺を見ていたんだろうか。
 どんな想いで俺に憎まれ口を叩いていたんだろうか。
「あっ」
 緩めた腕をもう一度強める。
 俯こうとする頭を、その頬を両手で無理やり起こす。
 琥珀色の瞳が弱々しく瞬いた。他に贖罪の方法なんて思いつかなかった。何かを察したように、その両手が俺の服をぎゅっと掴んだ。蚊の鳴くような悲鳴が俺を嫌がっていた。何も言えずに、ただ薄く開く唇を。
 俺は俺で埋めた。
 幼い喉が鳴く。聞き覚えの無い声だった。
 頬に触れる右手を後頭部に回す。逃げようとする唇をもう一度捉える。小さな肩が大きく跳ねて、そして、ゆっくりと、ゆっくりと弛緩していった。
 他に方法なんて思い付かなかった。彼女の溝の埋めようがわからなかった。
 俺は彼女を忘れてしまった。
 
「……ん、ふ」
 
 鼻に掛かるような泣き声に、俺は彼女の唇を解放した。
 琥珀色の瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。鼻先が赤くて、唇は激情に震えていた。
「ひどい……、です……」
 零れる量を、生み出される想いがはるかに上回っているようだった。
「その顔で……、その声で……っ、ひどいですぅ……!」
 ひどいです。
 捻じ切れるような声でもう一度言う。そして彼女は両手で顔を覆った。
「うあぁあああああ、ううっ、ふう、うああ、ああっ」
 手から、袖から、留めきれない彼女の想いが溢れ、零れていく。ぽつぽつと地面を濡らしていく。俺はその小さな肩に両手を置いたまま、うな垂れる。
 
 それは、そうだ。
 
 彼女にとって、愛しいのは主様だけだ。
 俺は、その見知らぬ誰かと顔も声も、きっと匂いすらも、まったく同じだけの、別人。
 呼び方も触れ方も、キスの仕方だって、きっと全部違う。違うのに、彼女の力を持ってしても拒めないほどに、俺は残酷なほどに、生まれ変わりなのだろう。
「あああっ、あう、ああ、ふ、ぁあぁあああっ」
 ぽたり。ぽた。
 落ちる雫は透明に煌く。あまりに純粋な光。地面に弾けた拍子に、ふわりと何かが漂ったように見えた。俺は光を追って祠に目を向ける。
 一瞬。祠が二重に見えた。
 ブレたような景色は音も無く重なり、そして一つになった。
 
 …………?
 
「…………か、えで?」
 
 視界の端で、少女が顔を上げた。俺は呆けたままそちらを向いた。
 かえで。
 かえでだ。
 俺は彼女の生い立ちを知らない。彼女との本当の出会いを知らない。
 何一つ知らないのに、何もわからないのに。
 そこにいる少女は、もう、どうしようもなく、かえでだった。
「かえで」
 あごから何かがぽたりと落ちた。いつの間にか泣いていた。
 別に悲しくは無かった。でも止めようが無かった。
「かえで?」
 驚いたように俺を見つめる、少女の顔が、ぐしゃっとつぶれた。
 ああ、そうだ。
 そうか。
「ごめん、かえで」
 気を抜けば嗚咽しそうになって、俺は息を止めた。とても止められなかった。
 鼻の奥が辛くて、唇が震えて、涙はもうどうしようもなかった。
「名前だけ、なんだ。名前しか、思い出せないんだ」
 かえではぐしゃぐしゃになりながら、ただ首を振る。
 ぶんぶんと、俺の言葉を否定する。
「ごめん。ごめんな。他に何も、思い、出せないんだ。ごめんな。本当に。それだけなんだ。かえで。何もして、やれない。何も、言ってやれないんだ」
 かえではまた首を振る。その姿が痛ましくて、寂しくて。
 でも、俺にはどうすることもできなくて。
「ある、じ、さま、あ、主様……っ!」
 かえでが飛び込んでくる。
 胸に顔を埋める彼女の、その後ろの景色が滲んで、俺は音にならない息を吐いた。
「ふ、うっ、よんで、呼んで、くだ、さい……、もっと呼んで下さい……っ!」
「かえで、かえで」
「ちゃんと、あう、もっと、聞こえるように言ってください……!」
「かえで……!」
 俺はその小さな肩を抱く。
 そうした方がいいと思ったわけじゃなかった。そうしないことには、俺もかえでも、姿すら保てずに消えてしまいそうな気がしたから。
「主様ぁ……」
「かえで。かえで」
 何年、待たせていたのだろう。
 どれだけ、その名すら呼ばれない季節を、過ごしてきたのだろう。
 
 俺は、かえでと泣き続ける。
 彼女の耐え続けた、その何億分の一にすらきっと届かない、ほんの一瞬を。
 
 俺は、彼女と泣き続ける。
 
 
 
 

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