パロディについて考える
パロディとはなんぞや
今さら説明するまでもないことかもしれないけど、それでも解説っぽくしたいって理由で書く。パロディってのは以前からあるものや文化といった既存の何かを使ってネタにするようなやつのことを言うよ。物凄くざっくりした説明で解説らしくもないけどそんなもの。まあ要は元ネタがあるネタ。ネタをリサイクルするのがパロディだね。なんだこの説明。
良いパロディと悪いパロディ
パロディは昔からあるわけで、やろうと思えば誰でも出来る。そんでもってうまくいけばパロディだけで評価に繋がる。でもだからってパロディをすればいいってものではない。そこかしこでパロディを多用すれば味付けが濃い料理みたいなもので、一口目は美味しくても途中で飽きるか食べられなくなる。それに味付け自体が合わなければその時点で食べる人が居なくなる。簡単だけど奥が深い。それがパロディだと思う。
はてさてパロディの善し悪しを決めるのは何なのか。それは以下の三つ。
会話の流れ(展開)
その場面がパロディを挟むに値するかどうか。シリアスなシーンでふざけきったパロディを挟まれてしまうと興醒めする。
元ネタとの共通点
そのパロディをする時に元ネタとどこまで同じ状況になっているか。例えば会社員が会社でする面白い展開があったとしても、それを学校が舞台の作品で真似ても合わない。
ネタ単体としての面白さ
これが一番大事。そのパロディが単体で戦えるだけのポテンシャルを持っていないと、たとえ伝わったところで「だからなに?」と言われてしまう。
つまり悪いパロディとはそのシーンに至るまでの経緯を無視して、それといって共通点のないネタを挟み、元ネタ自体も大して面白くないものをいう。逆に良いパロディは、パロディをそのまま使っても差し支えないシーンで、台詞の改変すらも必要ないようなネタを挟み、元ネタの持つ面白さを再現するようなものなんじゃないかなあ。――と書いてもこれだけじゃなんのこっちゃって話だから、実際に例を考えてみよう。
「時そば」でパロディについて考える
それでは古典落語の定番、「時そば」をパロディにするとしよう。落語を題材にすると急に小難しい話になってきそうなもんだけど、これといって難しいことはないよ。知らない人は検索してね。いっそのこと動画を観た方が面白くて良いかも。それじゃあみんなが「時そば」を元ネタとして知っているという前提で話を進めていくよ。
「時そば」のポイントと落ち
このお話で大事なのは、数を数えている最中に話しかけて勘違いさせること。そしてそれを形だけ真似ようとして失敗する人が落ちになる。パロディとして完全に再現するならどっちも大切だよね。とりあえずパロディにするだけなら前者だけでもいい。
悪い例
A「昨日のテストどうだった?」
B「まあまあかな」
A「予想では何点くらい?」
B「そうだなあ。70、71、72……」
A「早く言え」
B「おい、そこは時間を聞く場面だろ」
A「なんでだよ」
B「うわ、お前時そば知らんのか」
A「知ってるけど……時間聞いても意味ないだろ」
B「13時だから13に戻るかもしれない」
A「……なに言ってんだこいつ」
どうだろう。これが面白いと思う人はいるのだろうか。ただの会話で終わらせてしまえばよかった場面なのに、作者のエゴか笑いを入れたいというサービス精神が足を引っ張ってるよね。ネタの意味を説明させるのも悪手で、これではパロディを入れたいがためにテンポが悪くなってる。「73点かな」「しょぼいな」「お前はどうなんだ」「5点」程度に終わらせた方がテンポもよくだれなくて済む。
良い例
A「今日は何食べる?」
B「え、奢ってくれんの?」
A「実は昨日臨時収入があってさ」
B「へー。まあ奢ってくれんなら奢ってもらう。じゃあ定食で」
A「おう。あ、おばちゃん、定食二つね」
C「あいよ。定食二人分で1300円ね」
A「小銭ばっかで悪いけど……はいこれ」
C「全部百円かい。1、2、3……10……」
A「あれ、今日の試合って放送何時からだったかな……」
C「野球かい? 14時からだよ」
A「そっか、ありがとう」
C「11、12、13……と。はい。きっちり1300円いただくよ」
A「え、あ……ああ、うん。定食よろしくね」
C「……定食じゃなくて蕎麦にしとけば騙せたかもねえ」
A「騙すってなんのこと? ボクワカラナイ」
B「お前ケチなのか太っ腹なのかわかんねえな」
A「ははは……。まあいいさ。どうせ休憩所で拾った金だし」
B「……それもしかして小銭入れに入ってたやつ?」
A「お、よくわかったな」
B「俺のだよ、それ」
A「オー。ニホンゴワカリマセン」
B「返せ」
これも良い例というほど良く出来た内容ではない(時そばを知らないか、そういうパロディだと気付けなければ『騙す』という言葉が急に出てきた理由が分からない。だからもやもやしたまま読み進めることになる)けど、悪い例よりはマシということで許して欲しい。そもそも題材に時そばを選ぶ時点で何かおかしかった。
こちらの例は元ネタと同じ状況(食事の勘定+時間を聞く)を作り出しているおかげで、パロディだと気付きやすくスムーズな流れになっている。ただこれは先述した通りパロディが分かる人に作られたという前提がある。しかし万人受けを意識するならパロディとは分からなくても話を成立させないといけない。一部に手を加えるとすれば、こんなところだろうか。
添削前
A「え、あ……ああ、うん。定食よろしくね」
C「……定食じゃなくて蕎麦にしとけば騙せたかもねえ」
A「騙すってなんのこと? ボクワカラナイ」
B「お前ケチなのか太っ腹なのかわかんねえな」
添削後
A「え、あ……ああ、うん。定食よろしくね」
C「なんだい、なんだか納得いかない顔だね」
A「いや、二人分頼むから100円くらい安くしてくれないかなって……」
B「お前ケチなのか太っ腹なのかわかんねえな」
こうするとパロディだと気付いた人は「ああ、100円安くさせようとしたけど失敗したから不満なんだな」と分かる。逆にパロディだと分からない人でも「奢りだって言ってる割にケチな人だな」と考える。パロディだと分かっても分からなくても成立する。それこそがよく出来た作品であり、良いパロディの使い方だと思う。
自分の好きな作品や話題作を元にしたパロディはそれなりに面白い。ただその面白さがどこに向いているのか。自分にとって面白いのか、誰が見ても面白いのか。そのパロディはそれまでの展開やテンポを台無しにしていないか。その辺りを考えずにパロディを使っているようでは自己満足に過ぎない。本人がそれでいいならいいけど、誰かを楽しませたいという気持ちがあるんだったら、パロディとはもっと真剣に向き合った方がいい。
二ノ次参「――という結論でどうだろうか」
読者 「まあそんなもんでしょ」
二ノ次参「今日はよく書けたと思う。10点満点で何点くらいかな」
読者 「よくて5、6……」
二ノ次参「もう今年も終わりかなあ。今何月だっけ」
読者 「8月。今は令和何年?」
二ノ次参「3年」
読者 「ありがとう。3、4……5点かな」
二ノ次参「ひどい」