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雑談の記事 (3)

行雲流水/灼熱の砲撃 2021/12/26 10:05

NTRや堕ちた後に興味が薄い理由を考えてみた

どうも、ケツマンコの描写に熱意を注ぐ行雲流水です。
今日は私自身が「NTR」や堕ちた後の性奴○に興味がない理由を考えてみました。

NTRものにおいては大抵の場合、「あの人よりも大きい」「こんなの耐えられない」などの現在のパートナーよりも比較して大きいペニスやセックスのテクニックが高い、という描写によってNTRが発生するパターンが多くあります。
しかし、仏教の説話の中に「美しい妻を持ったが彼女が別の男に心を移すのではないか」と恐れを抱いた男の話があります。
つまり、ペニスの大きさで女を得た男は常に自らよりもペニスの大きな男に怯えていなければならなくなる、ということです。
さらには奴○という面でかんがみても、パートナーとの幸福な生活という精神的に満たされている状態よりも自らの性的な快感でパートナーを裏切る、ということは自分本位で身勝手な奴○に過ぎず、簡単に主人を裏切ったり、その意図を無視する可能性が考えられ扱いずらいものだといえます。
これらの理由から私個人としては、NTRの堕ちるシーンは好きな一方で、堕ちた後は「もう後は殺すしか楽しみ方がない」と判断するに至るのです。

では、なぜ男性向けにおいて上記のようなペニスの大きさやセックスの巧緻においてNTRというのが一つのテンプレなのかを考えてみます。
男性は女性に比較して、現在をとても重要視しているものですから、「今、好ましい女を得られる」ということが重要であり、その後、奴○を飼育する上での困難というのを想定していない可能性が高く考えられます。
また、女性がその目鼻立ちや体形にコンプレックスを抱くように、男性もまた自らのペニスの大きさ、セックスのテクニックに対してコンプレックスを抱くものであるため、そのコンプレックスに対して「すぐれている」という評価を得られるワードを言わせることで自尊心が満たされるのではないでしょうか。
この考えは男性が女性よりも外見に関心を強く感じ、そこに魅力を持つことと合わせても適当な答えのように思えます。

では、女性向けにNTRはないのか、と疑問を抱かれる方もおられるでしょうが、古くは『ベルサイユのばら』の頃からNTRそのものはあります。
ただ、女性向けNTRのテンプレはペニスや外見が今のパートナーと比してすぐれている、という点ではなく概ねの場合、「パートナーから精神的に満たしてもらえていない状態」にあり、その精神的な幸福を別の存在が埋めることによってNTRが発生します。
これは少女漫画だけでなく、BL作品においても同様で、セックス単一でNTRが発生する作品というのは男性向けの影響が強い作品以外ではほとんど見受けられないのが特徴といえます。
この場合、すでに今のパートナーに対しての不満があり心が離れている状態であることと、精神的支柱を新たな存在に挿げ替えることにより、NTR後にそのパートナーから離れることが困難となりますから、パートナーは自らのペニスの大きさやセックスの巧緻を他者に比較して怯えることもありません。


つまり、私は「堕ちる」という行為に対して高潔な人間が快楽にひれ伏す崩壊のカタルシスを覚えますが、それ以後のことを考えると「この奴○は優秀な奴○ではない」と判断して興味を失うのです。
同様に奴○をはらませる行為も「奴○の価値を下げる行為、場合によっては母子ともに死ぬ損益」を考え、あまり好きではないのです。
そもそも、私自身はビッチがそう好きでもありませんから、堕ちる前の段階、高潔であったりエリート意識が強かったり、まじめであったりする人物が好ましいからこそ、そういった人を辱めたいと思うのです。
ならばこそ、堕ちる過程によってそうした人々の屈辱、羞恥、葛藤、崩壊の様が一種のエンターテインメントとして楽しめるのです。
そして、堕ちた後、というのは大抵の場合において(私の場合、これは大衆への迎合に近いのですが)、「ちんぽ、ちんぽ欲しいのお」と甘えたような口調でいうテンプレ的な性奴○になるのですから、もう元々私が求めていた人物像とは乖離してしまうので、「あとは殺すか」という判断になるのです。
殺そうとすれば生き延びたくて何か面白い行動をしてくれるかもしれませんから。

これらの理由から、私は「堕ちる」描写が好きな一方で「堕ちた人間」には興味がなくなります。
このあたりが段階エロ、調教物のゲームが好きにもかかわらず、それらに没頭できない理由なのでしょう。
ゲームを進めれば進めるほど、私の興味が薄れてしまうから。
この点に関しては自分自身の問題であるため、このあたりにどう取り組むか、今後の自分の作品で真摯に向き合っていく次第です。

以上、ケツマンコの描写に悩む行雲流水でした。

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行雲流水/灼熱の砲撃 2021/09/19 03:07

UNDER TALE考察 ※本気でただただ雑記

UNDER TALE考察
※作者は1周目Nルート、2周目TPルートのみクリアでGルートや一部はネタバレを読んで書いています。


・地下世界とはなんなのか
冒頭で説明されている内容では大昔に人間と魔物が戦い、人間が勝利した。
そのせいで魔物はイビト山の地下深くにバリアで封印されているが入ることは容易である。
バリアを通過するには魔物と人間の魂が1つずつ必要である。
バリアを破壊するには人間の魂が7つ必要である。

・魔物とはなんなのか
魔物は人間に比較して存在が弱い生き物として表現されている。
死んですぐに魂は消滅し、死体も塵になって消えてしまう。

・人間の魂とはなんなのか
人間の魂は死んでもすぐには消ず、死体も残る。
人間の魂がすぐに消えないのは魔物とは違う強い感情「ケツイ」を有しているからだ。
しかし、人間の命そのものは魔物は容易に奪うことができる。
人間の魂1つ分の力は魔物全ての魂を集めなくては出せない。

・何故フリスクは危険に晒される?
トリエルは「遺跡を出た人間は全員アズゴアに殺される」と言っている。
また、アズゴアは「アズリエルとキャラが死んで絶望した民に希望を与えるためにバリアを破壊して地上に出る」と宣言したことを明かしている。
このことから魔物たちは人間への恨みや憎しみ以上に「地上=自由」への憧れからフリスクの魂を狙っていることが分かる。

・何故魔物たちは人間を恨んでいないのか?
少なくとも最初に地下に下りた時、魔物たちは人間からの更なる攻撃を恐れて洞窟の最奥である「ホーム」まで辿り着いている。
つまり戦争に破れ、バリアが造られた当初、魔物たちは人間を恐れていた。
しかし、キャラが落下してきた時、アズリエルは人間であるキャラが助けを求めていたのに応じており、王であるアズゴアと王妃のトリエルもキャラを家族として受け入れており、地下世界は希望に包まれたと言われている。
このことから「ホーム」に辿り着いた後、魔物たちは人間を恐れる感情が薄れていたことが分かる。
また、Nルートでトリエルが女王になったエンドでもフリスクが魔物たちを殺しすぎていない場合にはそれが地下世界に受け入れられている。
このことから現在生きている魔物たちは少なくとも人間に本質的な嫌悪感や恐怖を感じてはいないことが分かる。
つまり、魔物が地下に追いやられてからかなりの期間が経過して魔物たちの中から人間全般への恐怖が失われていることが分かる。
冒頭のムービーで確認できることからキャラがイビト山に登り、地下世界へ落ちたのは201x年であることが分かる。
つまり魔物たちが地下世界へ追いやられて相当の時間が経過してから人間が訪れていることが分かる。

・キャラは何故イビト山に訪れた?
冒頭のムービーを見る限り、キャラは「登った者はおりてこない」と言われているイビト山に訪れてはいるが、穴から落下した際に助けを求めてアズリエルに助けられていることから、キャラは魔物たちに遭遇することは想定していなかったことが分かる。
では何故、イビト山に登ったのか?
Pルートでアズリエルがキャラが「山に登ったのは良い理由ではなかった」と言っているが、具体的な事情は語られていない。
ゲーム内でキャラの者であると想像できるアイテムは6つある。
2つはP、Nルートで発見できる「古びたダガ―」と「ハートのロケット」だ。
そして残りの2つはGルートで代わりに入手できる「ほんもののナイフ」と「ロケット」である。
また、誰のものかは判然としないが、まるで反対になるかのように遺跡では「おもちゃのナイフ」と「色あせたリボン」を手に入れられる。
これが地下に訪れた時のキャラの持っていたもの、あるいはキャラの遺品だとすると以下の組み合わせが考えられる。

1.「古びたダガ―」+「ハートのロケット」
「古びたダガ―」には「植物のツルを切るのに最適」という言葉がある。
「ハートのロケット」には「ずっと友だち」という言葉が刻まれている。
これが遺品である場合には「ハートのロケット」はキャラとアズリエルの友情の証といえるが、逆にこれがキャラが最初から持っていたものであった場合には、キャラには「地上に親友がいた」という風にも捉えられる。
基本的に地上の様子は作中ではPルートエンディング以外では一切登場しないため、「キャラは地上に友人がいた」ということは推測の域を出ない。

2.Gルートでの「ほんもののナイフ」+「ロケット」
これら2つは極めてキャラとフリスクが近しい存在になるGルート以外では手に入らない。
「ほんもののナイフ」はやっと手に入れた、「ロケット」は取り戻したという風に表示される。
このことからこれら2つは「キャラが死に、キャラに近しい魂を持つもの」でないと手に入れられないことが分かる。
Gルートではトリエルの家の台所でもナイフを探している描写があることから、生前のキャラは「ナイフを求めていたが手に入らなかった」ということが分かる。

3.「おもちゃのナイフ」+「色あせたリボン」
これは遺跡に落ちている元の持ち主不明のアイテムである。
おもちゃのナイフには「今となってはレアもの」とあり古いものであるのが分かる。
「色あせたリボン」は「可愛く着飾れば敵も手加減してくれるかも」という内容がある。
「敵」というのは英語では「monster」となっているが、日本語訳が「魔物」でないことからこれがキャラの持ち物であったならばキャラにとって「敵」は「魔物ではない」ということが分かる。

上記の情報を確認すると「キャラは本物のナイフを手に入れたかったが手に入らない状況にあった」ということが分かる。
しかし、やはり何故キャラがイビト山に登ったかは分からない。
城で手に入る「古びたダガ―」と「ハートのロケット」はキャラの遺品であると想定できることから、キャラが所持したまま落下してきたアイテムは「おもちゃのナイフ」と「色あせたリボン」の組み合わせではないかと考えられる。

つまり、地上にいた頃のキャラは地上にいる「敵」に媚びて少しでも優しくしてもらおうとしていた。
しかし、彼の手にはおもちゃではあるが「ナイフ」が握られている。
強い攻撃性を秘めながらもキャラは地上にいる「敵」へと可愛がってもらいたいと思っていた。
だが、キャラはイビト山へと向かったことから、「キャラは人間社会で愛されなかった、望んだ結果を得られなかった」結果として人間が訪れないイビト山へと入ったことが考えられる。
つまり、キャラは「自殺」に近い願望を抱えた状態でイビト山を訪れていたのだ。

・フラウィー(アズリエル)の目的は?
P、Nルートではフラウィー(アズリエル)はそれぞれ別の目的を口にする。

Nルートではフラウィーは「自分が神になり世界に殺すか殺されるかを教える」と言っている。
だが、そもそも本来のアズリエルは優しい少年であることがPルートで分かる。
ではどこで「殺すか殺されるか」などという考えが彼の中に生まれたのか。
それはキャラが死に、その亡骸をつれて地上へと向かった時だ。
アズリエルは人間を殺さなかったが、人間たちは死に物狂いでアズリエルを殺そうとし、致命傷を負ったアズリエルは城に戻ってから死に、その塵が降り注いだ庭には金色の花が咲いた。
その花にケツイを注入し生まれたのが「フラウィー」だ。
つまり、アズリエルは人間と遭遇した際に殺しはしなかった(元々の思いやりや愛情を持っていたため)が、「殺さなければ殺される」ということを学んでいたからフラウィーのモットーとして語られる「この世界は殺すか殺されるか」という考えが生まれたのだ。
しかし、「殺すか殺されるか」ならばGルートのように全ての存在を殺せばいいのだがフラウィーは「皆殺しにする」とは断言していない。
フラウィーも自らGルートに入ったがサンズに勝てなかったことを明かしているのでフラウィーは「皆殺しにできない」からそうしているのかもしれないが、戦闘にフラウィーのHPを0にすると、その直後にフラウィーはフリスクを殺そうとし、「助けを求めても誰も来ない」「1人で死んでいく」と語っている。
このことからフラウィーは内心では「たった1人になる」ことを恐れているのが分かる。
つまり、フラウィーの本当の目的は「1人になりたくない」なのである。

Pルートではアズリエル・ドリーマーとして襲い掛かってくる。
1周目で誰も殺さずに遺跡を突破するとフラウィーから「自分はこの世界の未来を担うプリンスである」ということが明かされ、Pルートラスボスの伏線となっている。
そしてアズリエル・ドリーマーとの戦いが進むと「ハッピーエンドになったら君は飽きてしまう」「キャラ以外には自分を理解してくれる人はいない」と縋るようにいい、泣き始める。
つまりPルートにおけるアズリエル・ドリーマーとの目的はやはり「1人になりたくない」なのである。
そして、最終的に主人公が「キャラ」ではない、「フリスク」であるとキャラは認める。
これは「自分の理解者がキャラだけではない」と理解したことと、魂を得たことで本来アズリエルが持っていた思いやりを取り戻し、「フリスクと皆の幸せ」を自分の願いより優先したのだ。
そしてアズリエルは魂を解放し、フラウィーに戻った自分は「嫌な奴に戻るからフリスクの前から姿を消す」といって立ち去っていく。
エンディング前に最初にフラウィーに出会った場所に戻るとフラウィーと会話ができるらしく、この時、「キャラは冷酷な人物だった」ということや「地上には自分のような人間もいるだろう」ということから、アズリエルとして地上に上がった時、アズリエルが見たのはやはり「殺すか殺されるか」という人間たちだったことが想定できる。

・キャラはどんな人物だった?
アズリエルはPルートで「キャラは人間を心底恨んでいた」と語ることと、Pルート後にゲームを再起動すると「皆とフリスクの希望を奪わないで」とキャラに訴えるなど、親友であったアズリエルからしても「キャラは自分の気まぐれで残酷な行動すら躊躇わない人物」と思われていることが分かる。
しかし、キャラの持ち物で考察したようにキャラは「敵に愛されようと媚びた行動をしていた」と想定できることから、キャラは他人に対して一見すると親切な人物だったと想像できる。
つまり、親友であるアズリエル以外にとってキャラは「心優しい愛すべき人間」として映っていたのだ。
そして、何よりもケツイを持つ人間であるキャラは何度でもやり直し、世界を作り直すことができる。
そしてPルート後のフラウィーの反応から見て、「キャラはかつてGルートを行おうとしたがナイフが手に入らなくて完遂出来なかった」そしてそれをアズリエルに打ち明けていたのだろう。
アズリエルが「キャラにしか自分を理解できない」と言っていたのもアズリエル自身もケツイを注入されたことで「SAVE」の力を手に入れて繰り返しを行い、Gルートをサンズに妨げられている。
このことからアズリエルとキャラは同じ行動をしていたからこそ「分かりあえる相手」と思い続けた可能性がある。
しかし、反面、Gルートでフリスクと対面した際のフラウィーはフリスクを「キャラ」と呼びながらも恐怖を覚えて逃げ、その後自分の有用性をアピールして命乞いをする。

以上の事から、キャラは「愛されたい」と願いながらも「愛されなかった」。
そして「自分の好奇心から人を殺すことに躊躇いがない」ということも分かる。
思いやりを失ったフラウィーであればともかくキャラは元々思いやりを持っていなかった、あるいは失っていたということが分かる。
アズリエルがキャラの中にある人間への憎しみを感じたのは、キャラと共に地上に戻った時かもしれない。
そして、そこで自らが致命傷を受けたことで「殺すか殺されるか」の考えを得た、ということはキャラもまた「殺すか殺されるか」という思いを抱いていた可能性が高い。

つまり、キャラは「人間から死ぬような目に合わされた」経験から「人間を深く憎み」、「殺すか殺されるか」という思いを感じたままフラウィーのように「媚びて命乞い」をしていたのだ。
結局上述したように人間社会から離れ、自殺しようとしたキャラはイビト山から地底へと落下し、偶然にも人間を簡単に殺せるだけの力を得る方法を知ってしまう。
キャラはアズリエルに「自分を疑わない」という約束をさせ、人間の魂を6つ取ってくるという目的を共有させる。
しかし、この時キャラは自分が「バターカップの花」を食べることで自殺し死にかけている。
目の前で友人を失った優しいアズリエルは友人との約束を破ることも、自分達の罪を両親に告白することもできなかった。
そしてキャラとの約束通りに魂を受け入れたことでアズリエルは恐らくはアズリエル・ドリーマーの姿になり地上へと向かうことになった。
この時、アズリエルは初めてキャラの本心にある「人間への憎悪」をはっきり感じ取っただろう。
そしてアズリエルはキャラに抗い、人間の魂を奪わないまま地下へと戻った。
この時、アズリエルの体は塵となって城の庭に降り注ぎ、そこに金色の花が咲いた。
魔物の葬儀は大切にしていたものに塵をかける、と図書館で読めるため、アズリエルの肉体が花になったことが分かる。
だが、Gルートで「ロケット」を手に入れるとそれから「鼓動が聞こえる「ということが分かるので、キャラの魂は残り続けていたらしいと推測ができる。

逆に言えばGルートでのキャラの復活時以外はアズリエルとの友情の証である「ハートのロケット」を手に入れられるため、キャラは本心ではアズリエルのことも友人ではなく利用する相手とだけ考えていた可能性はある。

・メタトンの性別は?
メタトンは3つの姿で作中に登場するが本体はゴーストであることが分かっている。
一番最初に現れるのは箱の表面にカラーパネルがついた姿でGルートではメタトンNEO、それ以外のルートではメタトンEXの姿を見ることができる。
Gルートではメタトンが元々NEOの姿で後から箱型になったことが語られるため、メタトンのボディの時系列は以下となる。

メタトンNEO→メタトン→メタトンEX

そして、メタトンは箱型の姿をファビュラスで好ましいものだと思っているが、メタトンEXの姿を理想形としているらしいことが会話から感じられる。
更に戦闘中に脚による攻撃が発生したり、「脚さえあれば」という発言をするなど「脚」へのコダワリが散見する。
冒頭で地下世界は夢(深層心理)ではないか、と語ったがフロイト心理学では「脚」は「男性性の象徴」とされている。
更にメタトンは元々ゴーストであったことから「脚がない」のだ。
つまり女性から男性へ性転換した、という風にとらえることができる。
作中登場するゴーストは遺跡にいるダミー、ぷんすかダミー、ナプタスブルーク、メタトンの4名である。
メタトンはナプタスブルークといとこ同士であり、家も隣り合っていて似た形をしていることからメタトンの元々の姿はナプタスブルークと似ていた可能性がある。
メタトンは「スターになりたい」と望んでいることが頻繁に分かる。
アルフィーの「人間殺戮ロボット」として茶番に付き合ったのは、アルフィーと人間が好きな者同士というきっかけで仲良くなっていたためである。
そして、その代わりにアルフィーはメタトンに対し、理想のボディを与えることになった。
地下世界唯一のTVスターとなったメタトンからの感謝が書かれたポスターがアルフィーのラボに飾られていることからメタトンとアルフィーは箱型の体を手に入れた段階では仲が良かったことが窺える。

メタトンの3つのボディの内、箱型以外の二つには脚がついている。
しかし、メタトンNEOには股間に該当する部分にパーツがなく、コアと脚が繋がっていない。
つまり、メタトンNEOはまだ「男性器」がついていないボディなのだ。

結果としてメタトンはNEOからEXにかけて性別移行をしているのだ。

ゴースト(性別違和)→メタトンNEO(性別移行の初期)→メタトン(手術中)→メタトンEX(性別移行完了)

ちなみにメタトンを殺さずに戦いを終えるためには視聴率を上げ、メタトンが地下世界に必要とされるスターであることを教える必要がある。
つまりメタトンは自分が「男性として社会に受け入れられ、愛されること」を望んでいたことが分かる。
また、同時にメタトンは各ルートで「ファンを大事にしている」ということが分かる。
メタトンは「男性として愛したい、そして愛されたい」というのが語られない願望だったのだろう。

・キャラとフリスクの関係性は?
城にある赤いハートの棺桶をPルート達成後に確認すると、「包帯がある」ということが分かり、フリスクが地下世界に訪れた直後に装備しているのも「古びた包帯」であることや外見的に似ていることから「あえて似せている」「関連があると考えさせている」という風に考えられる。
ここで一つ仮説として「キャラは多重人格であった」と考えてみよう。
フリスクがPルートで地上に上がった際にトリエルと暮らしたことで「フリスクの言う帰りたい場所は現実にはなく、夢の世界からの帰還を意味している」ということは既に語った。
そしてGルートではフリスクの行動によってキャラが蘇ったということがキャラの口から語られる。
そして、キャラが「人間を憎んでいながら媚びて命乞いをしていた」ということからフリスクは元々キャラが作った「幸せな自分」の人格ではないかと考えている。
キャラとフリスクの服の色が補色である、ということは語られている。
そして、補色とは色相環において反対側にある色の事だ。

Gルートでのフリスクはキャラが成し遂げなかったGルートの達成を補い、キャラが世界を消滅させることを手伝っている。
Pルートではキャラが復活することはなく、フリスクとして幸福を得ており、アズリエルからも「全然違う」と言われている。

そしてGルートラストでキャラはプレイヤーに対して語りかけながらも選択権は与えていない。
魂と引き換えに世界を作り直すか、というキャラとの取引に応じた場合でもTPルートは失われており、Pルートであっても写真でフリスクの顔は塗りつぶされ、魔物たちの顔にも赤の×が書かれており、この幸福が本物でないことが分かる。

つまり、キャラにとってプレイヤーとフリスクは自分の下位人格なのだ。
多重人格において下位の人格は通常上位の人格を認知できないが、上位の人格は下位の人格を認知できる。

一番の上位人格であったキャラの人格がアズリエルと共に死亡した際に、一度キャラの人格は消えた。
しかし、下位人格であるプレイヤーとフリスクが無自覚にキャラの人格をなぞっていくことでキャラの人格は復活してしまう。
だからキャラとの取引で世界を作り直した後にPルートへと入っても、上位人格であるキャラに認知され、嘲笑われているのだ。

その一方でTPルートではキャラが復活していないため一番上位の人格はプレイヤーである。
更にプレイヤーはフリスクを認知することができ、フリスクの行動にある程度の指向性を持たせることはできる一方でイベント中などは一切フリスクに干渉することがでない。
見ているだけの存在だ。
そのため、フリスクが幸福になったエンディングに干渉することはできない。
つまり、プレイヤーはフリスクの上位人格ではあるがキャラほど絶対的な干渉をすることはできない人格だと分かる。

だが、プレイヤーもまた「SAVE」の力を使える存在なのだ。
Pルートの後にゲームを再起動するとフラウィーが「キャラ」と語りかけてくるのは、「キャラ=フリスク=プレイヤー」だからだ。
そして最も下位の人格であるフリスクの幸福は最上位の人格である「キャラ」と「プレイヤー」が存在する限り簡単に壊せてしまうものなのだ。

・キャラは何故世界を消し去りたい?
少なくとも地下世界に訪れる前のキャラは「世界を消し去る力」と持っておらず、先の考察でも触れたように自殺するためにイビト山に入っている。
所持品が「おもちゃのナイフ」であったとしても「古びたダガ―」であったとしても、子供が人を殺すには力不足だろう。
そして、キャラは地下世界で「7人の人間の魂を魔物がとりこめば神になれる」ということを理解する。
キャラはアズリエルを説得(自分の死によって脅迫)して、地上へと上がるもキャラはアズリエルに抗われたことで人間の魂を取り込むことはできなかった。
そしてキャラはここで一度諦めたために人格が消滅した。

だが、自分以外の人格である「プレイヤー」と「フリスク」のケツイはまだ残っていた。
そして「プレイヤー」がUNDER TALEをプレイすることをケツイしたことで更に下位の人格であるフリスクが肉体を得て行動するようになったのだ。
Gルートに入ると「プレイヤー」の下位人格であるはずの「フリスク」が「プレイヤー」の操作を待たずに行動するようになる。
これは「プレイヤー」と「フリスク」によって徐々に最上位人格である「キャラ」が復活していっていることを暗示している。
つまり、「キャラ」は「プレイヤー」よりも更に上位の人格だから「フリスク」の操作権を奪うことが出来た。
更にアズリエルと違い、フリスクは完全にキャラの支配下に置くことが出来るため反抗される恐れがない。
そして、フラウィー(アズリエル)が当初のキャラの目的通り6人の人間の魂を手に入れる手伝いをしたことでキャラはもうアズリエルさえ必要ではなくなった。

Gルートクリア後にゲームを再起動するとキャラから「魂と引き換えに世界を作り直してやる」と取引を持ち掛けるが、作り直した世界は先述したようにキャラの干渉を受けている。
そもそも「キャラ=フリスク=プレイヤー」であるならばプレイヤーの魂は元からキャラのものである。
更に言うならば既に7人の人間の魂とすべての魔物の魂を得ているキャラにわざわざ再び世界を再構築してまで人間の魂1つを得る理由はない。
これは単にプレイヤーが「自分に自由がある」と思っているのをキャラが面白がっていると受け取れる。

・2度目のGルート達成
しかし、最上位人格である「キャラ」にとっても理解できない事態が起きる。
プレイヤーが2度以上Gルートを達成することだ。
「キャラ」は理解できない、と言っており「他のルート」を選ぶことまで進めてくる。
つまり、ここにきて初めてプレイヤーは「キャラ」が完全に支配できていない人格になっていると分かる。
しかし、これは多重人格にはままあることだ。

例えば多重人格という症状が世に知らされるきっかけとなったのはホワイトという女性の症状についてだ。
ホワイトは自分の中に攻撃的なブラックの人格があると医師に相談した。
そして治療中にホワイトの中には更に「穏やかな人格」が生まれ、医師たちはその「穏やかな人格」を主人格とし、下位となった2つの人格を支配させることで治療を完遂した、という。
ちなみにエヴァ本人は「治療は完遂されていない」と言っている。

上記の例のように多重人格の症状では本来下位であった人格が上位の人格の理解を越える、支配権を奪う、ということが実際に確認されているのだ。
また多重人格(解離性同一性障害)においてはかつては人格の統合を「治療の目的」とされていたが、その際に人格が「死にたくない」と恐怖に苛まれることが報告されている。
そして「フラウィー」が最初にSAVEの力に気付いたのは自殺しようとした際に「死にたくない」と願った瞬間だ。

つまり「キャラ」は世界を消滅させることで人格を統合しようとしたが、「プレイヤー」の人格は「死にたくない」とSAVEの力を行使した。
そこで「キャラ」は世界を再構築する代わりに「プレイヤー」の支配権を完全なものにしようとした。
だが、「プレイヤー」への支配は完全なものにならず、更には2度目のGルートにまで至る。
「死にたくない」はずの「プレイヤー」の人格が再度自分の人格が消されかけることを選ぶのを「キャラ」が異常と感じるのは当然のことである。
下位の人格が自分の想定を越え、支配すらも受け付けずにまた自殺しようとしてくるのだ。
だからこそ「キャラ」は「プレイヤー」が死なないGルート以外のルートを選ばせることで「プレイヤー」の人格が自分の支配下にあることに安心するのだ。

ちなみに初回Gルート時に「キャラ」は「魂とケツイは自分のものではないがそれが自分を蘇らせた」と言っているが、これはGルート完遂直前に「ロケット」を入手することで「取り戻せた」と言っていることから「フリスクの魂はキャラの魂のコピー」であり、同じであるが違うものだったことを示していると思われる。

いわば魂のクローンなのだ。
クローンにはそれぞれ別の肉体と別の人格があるが生物としては同一の存在であるように、キャラとフリスクの魂は「同一だが別のもの」という状況にあったのではないか。

・キャラは本当に多重人格か?
キャラが多重人格者であるという話は作中には一切登場していない。
ただ、キャラは他の人間たちに比較してキャラのものと思われるアイテムが多く存在している。
そして、キャラは「チョコレート」が好物であることが示されている。
チョコレートを食べることで脳内ではエンドルフィンβが放出される。
このエンドルフィンβは幸福を感じさせる物質であり、このほかにエンドルフィンβを放出する方法としては「美味しいものを食べる」「性行為を行う」「ストレスを持続的に受ける」というものが代表的である。
性行為に関しては全年齢ゲームかつキャラもフリスクも子供なため除外していいと思うが、ここに「キャラが虐○を受けていた」という説を足してみるとどうだろうか。
「色あせたリボン」に敵に手加減してもらうために可愛く着飾っているという内容がある。
そして人間社会を諦めたキャラはイビト山に来たのだ。
それを鑑みると「キャラは性的なものを含む虐○を日常的に受け、ストレスを感じていた」と言えるのではないか。
例えばキャラが「男の子」であったにも関わらず強○的に可愛く着飾らされて本来の性を否定されていたのであれば、それも性的虐○に含まれる。
逆にキャラが「女の子」であるにも関わらず男の子のような服装を強要されていたのであればそれも同様だ。

そして、「虐○」をはじめとしたストレスを受け続ける状態、自分の居場所を失ったという絶望などは多重人格を発症する条件とも合致している。

逆に単純に「チョコレートが好き」と考えた場合でも、フリスクは別にチョコレートが好きという場面はない。
人格同士の中で嗜好が異なっていることはよくあることだが、そもそも「キャラ」が地上での暮らしのストレスから「フリスク」を生み出したとすれば不幸なキャラと違い、幸福なフリスクが「幸福物質を放出させるチョコレート」を求めないのも当然なのだ。
逆に言うと城、トリエルの家の両方にチョコレートがあることから「キャラはいつもチョコレートを求めていた」ということが分かる。

少なくとも地下に訪れてからのキャラはアズゴア王、トリエル、アズリエルという心優しい魔物たちに家族として迎え入れられ幸福になっていたはずだ。
それゆえに「フリスク」の人格が地下世界で表に出てくることはなかった。
だが、キャラはそれに納得しなかった。
自分を苦しめた地上の人間たちへの復讐の方法を見つけたからだ。
そこでキャラはアズリエルに「魔物たちを解放する」という建前で作戦を持ちかける。
おそらくその時はキャラは本心など何も明かしておらず、地上は地下の魔物たちが夢みているような理想的な場所だと思い込ませたままだったのだろう。
そして、アズリエルの肉体へとキャラの魂が取り込まれた直後にキャラがアズリエルの体を操作できたのは、この段階ではアズリエルにとって「魔物の解放」という目的はキャラの建前と同じものだったからだ。
しかし、地上に出て自分に襲い掛かる人間たちを殺そうとするキャラに、アズリエルは反抗した。
一つの体に2人が同居している状態に順応が早かったキャラだが、アズリエルの肉体を支配できなかったことで目的が達せられず、「キャラ」の人格は諦めた。

上記のことからもキャラが「2つ以上の人格が同居している状態へ即座に順応した」ということは分かるので、逆説的にキャラは「常に2人以上の人格が自分の中にあった」とすれば順応が早いことも理解ができる。
また、本来の肉体の持ち主であるアズリエルが体を操作するよりも先にキャラがアズリエルの肉体を動かしたことからも「キャラが他の人格を支配する」ということができると考えられる。

・キャラって結局どういうキャラ?
※これは完全に上述の考察を元にした妄想であり、作中でこんな描写は一切ない。

キャラは地上で人間たちから何らかの虐○を日常的に受け、死にかけるような目にあってきた。
キャラは当初、可愛く媚びて人間たちからの攻撃を避けようとしたが結局その試みはうまく行かなかった。
キャラは自分の境遇にストレスを感じ、別の人格である「フリスク」を生み出す。
だが、キャラは自殺しようとイビト山に向かうことにした。

イビト山で穴に転落したキャラは遺跡の最初の部屋に落下した。
キャラはこの時、「死にたくない」と願って助けを呼びアズリエルと出会った。
※あるいはこの時、アズリエルが訪れるまで何度もSAVEの力を使ったかもしれない。

アズリエルと出会った後、アズゴア、トリエルにも家族として受け入れられたキャラは魔物たちと仲良く暮らす。
しかし、この状況はキャラにとって「殺されないように媚びている」状態でしかなかった。
結局キャラは再び自殺、あるいは魔物たちの殺害を試みるも「ほんもののナイフ」が手に入らなかった。

キャラは「魔物が人間の魂を7つ集めれば神」になれる、という言い伝えを知る。
キャラはアズリエルをそそのかし、2人で魔物たちを解放しようとバターカップの花によって自殺する。
アズリエルはキャラとの約束を守るためにキャラの魂を取り入れるが、キャラに肉体の操作をされ、キャラの亡骸を持って地上へと向かわれる。
この時、キャラが自分の亡骸を持っていったのは自分の体を弔うためではなく、「魔物が人間に受け入れられない」ように「子供を殺した魔物」としてアズリエルを演出したと考えられる。
しかし、アズリエルの反抗によってこれは上手くいかず、アズリエルはキャラの亡骸を持って地下へと帰る。
アズリエルがキャラの亡骸を持って帰ったのはキャラの人間への憎悪を感じたことで、「キャラが憎しみに満ちた人間たちのもとではなく、幸せだった(と、アズリエルが思っている)地底へと戻そう」というアズリエルの思いやりだったのではないか、と思う。
そして作戦が失敗したこと、自分が他の魔物の肉体を乗っ取ったとしても他者の協力がなければ自分の目的は達成されない、と感じたことでキャラはケツイを手放す。

しかし、キャラが死を受け入れたその時、「フリスク」の人格はまだ死を受け入れていなかった。
だが、「フリスク」には上位の人格である「キャラ」に反抗することはできなかった。
そこでフリスクは上位の人格である「キャラ」にも反抗できる人格である「プレイヤー」を生み出した。
そして「フリスク」はケツイの力によって「キャラ」が一番最初に助けを呼んで「死にたくない」と願った遺跡の最初の場所で目覚める。
しかし、「フリスク」は自分が生み出したはずの「プレイヤー」を認識できていない。
このことから、そもそも「フリスク」は自分が上位の人格である「キャラ」から生み出されたことも「プレイヤー」を生み出したことも認識できておらず、自分一人だと思っているのだ。
そしてフリスクは自ら遺跡を出ることはない。
上位人格である「プレイヤー」の操作によって、トリエルに「地上に戻る方法」を聞くことでフリスクは強○的に地下世界の冒険へと連れ出されていく。
更にはGルートに入るには「意図的に殺さなくてはいけない」トリエルを殺す必要がある。
つまりここでは「プレイヤー」すらも「キャラ」の復活を意図せずに手伝うことになる。
初回Gルートは「キャラ」によって下位人格である「プレイヤー」「フリスク」が操られて「キャラ」が求める「世界の消滅」を行わせられるのだ。

そして、Gルート到達を行ったはずの「キャラ」は神である自分以外が再びケツイの力を使ったこと、そして更には「死にたくないのに自殺する」、「自分の決定に逆らい続ける」という状況に遭遇することになる。

・フリスクの幸福は?
地下世界=深層心理とするとキャラの別人格であるフリスクは主人格のキャラの影響を基本的に受けることはないが、上位人格である「プレイヤー」の影響は大幅に受けている。
これは「キャラ」がGルート以外では諦めてしまっているからだ。
そして「フリスク」は「プレイヤー」の人格からもイベント中など一部のタイミングでは影響を受け付けることがない。
そして、TPルートのエンディングでは完全にプレイヤーは「フリスク」を操作できない。
エンドロールで名前を避けるときに操作している赤いハートは「フリスク」のレベルに関係なくHPが∞となっていることからも「プレイヤー」の魂であることが想定できる。
つまり、TPルートでのフリスクは上位人格からの支配を受けない幸せな世界で初めて1人の存在として生きることができるのだ。

だからこそ、上位人格である「キャラ」、「プレイヤー」によってリセットされることで「フリスク」の幸福が壊されることをフラウィーは危惧して止めてくれるように訴えかけてくる。

・フラウィーはどこまでプレイヤーを分かっている?
フラウィーはGルートで「フリスクを殺せなかったときにSAVEが使えなくなっていることに気付いてフリスク=キャラだと思うようになった」ということを語っている。
これは失ったはずの親友が帰ってきた、という「1人にされたくない」というフラウィーの願いがかなったとも思え、かなり希望的に考えていることが分かる。
だが、フラウィーは初回プレイ時に3回弾を避けると、「お前、知らないフリしてるな?」という風に語りかけてくる。
他にも特定の条件を満たした時、フラウィーは「過去と違う選択をしている」と周回していることを指摘してくる。
これはフリスクではなく、プレイヤーに語りかけている、と思われている。
しかし、作中で「フリスクが前の周回の記憶を引き継いでいる」と思わせる場面がある。
2周目以降、サンズと初めて会うタイミングでサンズは「こっちを向けという前に振り返った」と指摘する。
そしてこのタイミングでは「プレイヤー」の操作は発生していない。
つまり、フリスクはどの程度鮮明かは不明だが「周回の記憶を引き継いでいる」ということが分かる。
つまり、フラウィーのセリフを含めた「周回の指摘」は「プレイヤー」ではなく、「フリスク」を指していても成り立つのだ。

だが、「フラウィー」は更に「観ているだけで手を汚さないやつ」という指摘もする。
この時、少なくとも「キャラ」と「フリスク」は手を汚しているのだ。
「観ているだけ」なのは「プレイヤー」ただ1人だ。
すなわち、フラウィーは「キャラ」「プレイヤー」「フリスク」の三人の人格を知りながら、「キャラ」だと思っているのだ。
そして、上記の「キャラ多重人格説」を基にするのであればそれは正しい。

Pルートでアズリエルがキャラとフリスクは別人だ、というのはキャラの人格が蘇らないため人格が「プレイヤー」と「フリスク」だけになっているからだ。
そして、Pルートエンディングで「フリスク」は完全に「プレイヤー」からも分離する。
以上の理由からPルートでは「フリスク」は「キャラ」と違う存在になっているのだ。


なんだか色々と語っていたが全て妄想である。
上記の考えは全て、私個人の考えであり他の考察を否定するものではない。
そして疲れたので今日はここまでとする。

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行雲流水/灼熱の砲撃 2021/03/09 23:12

BLについて考えてみた

どうも、美少年を○すことでしか得られない栄養素で生きている行雲流水です。

本日、『私たちがトキめいた美少年漫画』という本を読み、ふと何故BLが生まれたのかについて私なりに考えてみました。
BLがまだJUNE、耽美と呼ばれるよりもさらに前、金字塔として知られる作品はもちろん、『風と木の詩』と『トーマの心臓』の二大巨塔です。
『風と木の詩』の作者である竹宮恵子先生は風木を執筆する前の時期に、「男女の恋愛に関しては読めない少女たちが少年同士の恋愛であれば読める」といった反応があったことについて後に語っています。
少女漫画というのは基本的に読者である少女たちが共感を持ち、その作品を楽しめるものであるという場合が多いので、主人公は当然少女であり、その周囲には当時の女の子たちの憧れとなる男性キャラクターが登場し、少女たちにとって楽しめる展開、特に恋愛をテーマにしていることが多いものです。
ただその一方で、男女の恋愛というものはどうしても生々しさが付きまといます。
結婚や子供ができるといった分かりやすいものが存在し、社会的にも夫、妻という肩書ができます。
ましてや風木やトマ心が描かれた70年代は妻は夫に従属するものという考え方が今よりも一般的だったことを思うと、恋愛と言うのは少女たちにとって憧れるようなものであると同時に社会的な契約などの現実も伴うものだったかもしれません。
男女が恋愛すれば当然性行為もある、子供だってできる。
そうした生々しさに対しての思春期の少女たちの潔癖な嫌悪感もあったかもしれません。
これらの理由から「男女の恋愛は読めない」という少女が「男同士の恋愛は読める」
という結果につながったのかもしれません。
これらの理由から、私は初期の少年愛作品は「ジェンダーの役割を解放された少女像としての少年」として好まれたのではないかと考えます。

私の場合、私自身がバイセクシャルのためヘテロセクシャルの女性とは少々違うのかもしれませんが、「女に比べて男はムダ毛が多いし、身だしなみに気を使ってない人が多くて汚い」「男と女を比較した時、女の方が自分のイメージする美しいものに近い」という理由で高校時代に腐女子に目覚めるまで小中学時代の私は男性よりも女性が好きでした。
しかし、その一方で美少年を好きになったのは小学三年生の時、『テイルズ オブ デスティニー』にはまった時です。
当時、イラストのメイキング本として出された『色彩王国2巻』のいのまたむつみ先生の作品として紹介されたゲームの立ち絵のリオン・マグナスに一目ぼれしたのです。
それまでは『キャンディキャンディ』のアンソニーや『セーラームーン』のタキシード仮面といった主人公の相手役となるヒーローキャラクターが好きだったことはあっても、小学校入学時には圧倒的に女性キャラが好きだった私が、リオン・マグナスにはまった途端に美少年キャラにドはまりしました。
今にして思えば、女性的な少年が好きということは当時の私にとっては美少年は少女の代替としての好きだったのかと思います。

では、それらの少年愛が今日のBLに変化したのはいつ頃でしょうか。
私の記憶にある限り、バブル崩壊直後の作品はまだ少年愛であったように思います。
BL雑誌などもあり、BLゲームが発表される中、その絵柄は線が細く、全体的に中性的な雰囲気があり、攻めと受けというジェンダーロールがかなり明確にありました。
攻は男らしく強引で力強い、受は小柄で可愛らしいというのが2000年代前後のBLまでには多くみられました。
この頃の攻めを「スーパー攻様」と呼び、それを題材に現代の目線で面白く描いている作品として『スーパー攻め様と時をかける俺』がありますが、こういう攻いたなあ、と笑いながら読んでいました。
ただ、この頃は少女漫画でも『快感♥フレーズ』内で描かれているヒーローもこういう強引で恋愛パートでいきなり甘いセリフを吐いてくるなど、当時の少女たちの憧れだったのでしょう。
直近の少女漫画でも『ハニーレモンソーダ』という作品で普段は塩対応で回りにも冷たいヒーローがヒロインに対してだけ優しくて甘い言葉をかける、というものを読んでいますので、BL漫画の文法は少女漫画がベースにあるのでしょう。

ただその一方で、2000年以降のBLは「筋肉受け」「ヒゲ受け」「強い受け」といった傾向がかなり多くなり、攻めに関しても2010年ごろから「モブレ○プ」というジャンルが男性向けから輸入されてきました。
これまで少女の代替品であった美少年や美青年ではなく、男としてのキャラクターの同性愛が描かれだしたのはこの頃ではないでしょうか?
作品で言えば『咎犬の血』、『鬼畜眼鏡』など男性同士であることが外見的にもかなり強調されており、この辺りから耽美、JUNE、少年愛と呼ばれていたジャンルから決別したBLとしての発展がしてきたように思えます。
この間に何があったのか考えてみると、90年代の頃の少女たちの憧れの職業といえばカリスマ美容師、キャバ嬢などがあります。
職業の違いはありますが、90年代以降の女性は男性との恋愛を主題とするより、一人の人間として独立した生き方をするようになっていたように思えます。
もちろん恋愛ものというジャンルは無くなってはいませんし、受けのキャラでもショタキャラが相手なら攻め、という立ち位置になるのはBLでも変わりません。
けれど、90年代以前に比べてジェンダーロールが薄れてきている部分はありました。
強い女性、社会進出した女性というのが一般的になってくるに従い、それまで「少女たちのアバターであった美少年」という受けのジェンダーロールも薄れ、「強くてかっこいい受け」という像に変わっていったのかもしれません。
そして更に2010年頃になると流行っているジャンルも『黒子のバスケ』のようなスポーツジャンルが連続し、アニメでは『タイガー&バニー』といった骨太な男性キャラクターが活躍するジャンルになっていきました。
古くは『キャプテン翼』の頃から少年漫画の腐向けジャンルは存在していましたが、少女漫画の文法に少女漫画の男性キャラのような攻めとヒロインのような受けというのが当たり前だったBL界隈でも骨太で逞しく、内容もかなりハードなエロを描写したものが増えました。
かつて竹宮恵子先生の風木がかなりハードな同性愛作品として扱われていた頃の作品でもレ○プシーンなどはありましたが、それらもあくまで体が重なっている程度。
耽美ものではセックスシーンはさほどハードに描かれないというのが当たり前でしたが、2010年頃からBL界ではセックスシーンに重きを置いた作品がぐんと増えたように思えます。

こうした内容の変化はpixivなどにより今までBL、男性向けと大きく分けられていたジャンルの壁がかなり薄いものになり、男性向けも読む女性がぐんと増えたことも関連しているように思えます。
逆に男性向けでもゲイ向け作品などとは別に、少女のように可愛い美少年が犯される「ショタ」というジャンルが確立されていき、「おねショタ」など従来の「男性に犯される女性」「受け身な女性」の役割が少年に置き換えられることが増えました。
近年のBLのエロシーンは私自身も含め、男性向けの作品の描写を参考にしているものが多く、またパロディネタ程度であればAVのワンシーンがそのまま使われることすらあります。(亀甲縛り 蕎麦打ち)
2000年以降の強い男性的な受け、ハードなエロシーンの増加は社会的にジェンダーロールが薄れつつある、男性向けジャンルとの垣根が曖昧になりつつある、という部分が関連しているように思えます。

私自身の作品だと『騎士団長凌○』のようにがっつり筋肉質で屈しない男を○す作品などはBLではなくゲイ向けなのでは?とジャンル分けに困る時もありますが、そういった部分もBLというジャンルが非常に幅広いジャンルへと変化していったことに由来するのでしょう。

反対に「オメガバース」という作品はどうなのでしょうか。
こちらはΩとαという性別の役割が明確にあり、また作中でも原則としてΩはαよりも劣位であり迫害されておりαに従属する、αは優秀であり優遇されておりΩを孕ませることができる、というジェンダーロールが明確に存在しています。
作品にもよりますが、原義的なオメガバースではα×Ωという絶対の不文律があり、そこにはかつての「強い攻め×可愛い受け」の構図があります。
これらは現実のジェンダーやセックスとは別にジェンダーロールが存在している世界というある種のファンタジーですが、その一方でかつての耽美ものや少年愛とは全く異なるものだと私は考えます。
「オメガバース」を好む人は70年代の耽美もののような「ジェンダーロールから解放された少女の代替像としての少年愛」を好んでいるのではなく、女性が性的なものに対して開放的になることが許された環境であるからこそ「オメガバース」というジャンルが好まれているように思えます。
かつて、少女たちは男女の恋愛には結婚や子供ができるという結果がついているという生々しさによる嫌悪感があったため、「少年愛」を好む層がいた、という風に言いましたが、今度は逆にそういった生々しさを好むことが出来るほど少女たちの性に対しての感情がおおらかになったゆえに「オメガバース」が受け入れられたと考えています。

さて、長々と語っていましたが、これらはあくまで私が個人的に感じたことや考えたことであり、もちろん別の観点からみたときに全く異なる意見があることもあると思います。
最後に語りたいことはただ一つ。
「美少年が犯されることでしか得られない栄養素」で私は生きております。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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