柱前堂 2021/05/19 20:06

ボディでダウンする選手に見惚れてしまう

『強烈なボディブローが炸裂ーッ! アユミ選手の脚が止まる! これは効いてしまったかーッ!?』

あと一分耐えれば判定勝ち。だからこそ、アユミに油断はないはずだった。
だというのに、一番恐れていたチャンピオンのボディをここに来て貰ってしまうなんて。
ここから立て直せればまだ勝機はある。アユミにまだその力があるか、私は祈るような気持ちで注視した。

アユミの様子は絶望的だった。チャンピオンをあと少しで狩れる興奮で血走っていた目はまんまるに見開かれ、涙が浮かぶ。ボディブローのダメージに闘争心が吹き飛んでしまったのは明らかだった。
打ち抜かれたアユミのお腹は、私と鍛えた腹筋などなかったかのように赤いグローブがめり込んでいる。あんな強烈なボディブローは、練習でも再現してあげられなかった。アユミは今、これまで経験したことのない苦痛と闘っているはずだ。
そのグローブが、ぐりりと捻りを加えて押し込まれる。アユミの肩がびくんと跳ね、頬がパンパンに膨らむ。吹き出る脂汗、目尻から零れ落ちた涙は練習中にはない有様だった。

初めて見るアユミが苦悶する姿に、目が離せなかった。
なんとかこの苦境を耐え抜いて判定勝ちしてほしいと願う一方で、構えたまま震える拳に、流れる汗に、膨らんだ頬に、抗いがたい魅力を感じてしまう。
その頬の先、唇がゆっくりと割れていくと、もう会場の大歓声もチャンピオンの姿も感じられなくなった。
紫色になったアユミの唇から、真っ白いマウスピースが顔を出す。のっぺりとして、涎でてかって、弾力のありそうなアユミのマウスピース。それがアユミの体から出てくる様子は、ひどく官能的だった。
マウスピースを吐くほどのダメージを受けてしまっては、このラウンドを耐え抜くのは難しい。どうか出さないでほしい。セコンドとしての私はそう思う一方で、出てくるマウスピースを早く見たい、いや、マウスピースが出てくる一瞬一瞬を永遠に見ていたい、そう願う私もいた。
喉がカラカラだった。初めて体を触られる生娘みたいに全身が硬ばって、ジーパンの中はだらしなく濡れていた。早く、早く。

その瞬間はすぐに来た。ほとんど全体が出てきたマウスピースが、重みに耐えかねて唇から零れ落ちる。口を塞いでいたマウスピースが抜けて、ブボォッと汚い水音が立った。それを気にする余力すら、今のアユミにはない。
アユミの口を離れたマウスピースは、涎の糸を引きながらまっすぐ落ちて、キャンバスにバウンドした。マウスピースに溜まった涎がぼちゃっと音を立てた瞬間、私の腰も砕けた。立っていられなくなり、エプロンに上体を投げ出した。

『アユミ選手、ダウーン! チャンピオンをあと一歩のところまで追い詰めましたが、これは厳しいか!』

チャンピオンが拳を引き抜くと、アユミは膝をつき、そのまま上半身を投げ出すように倒れた。膝を折り頭をチャンピオンに投げ出したダウン姿は土下座を連想させ、その連想が説得力を持つほどチャンピオンのボディは効いてしまっていた。

現に受け身も取れないほど、ボディの苦痛に支配されたアユミは体を少しもコントロールできていないのだから。

「アユミ、立って! あとちょっと立っていられれば勝てるのに! 立って!」

我にかえった私は、アユミに必死で呼び掛ける。ここに来るまでのアユミの努力を全部見てきた私が、それが無駄になる瞬間を黙って見ていられるわけがなかった。
だけど一方で、アユミがボディブローに沈む様子を最後まで見たいという欲望が、口から出てしまいそうなほど膨らんでいた。

じれったいほどに長いカウントが進む。アユミはまだ、動かない。

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