柱前堂 2021/07/29 20:19

【試し読み】幼馴染はベルトを掴む(復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染 第2章)

復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染の試し読み、第2章分です。
本編の前のタイトルマッチ、主人公がチャンピオンに勝った試合です。
本編ではこの試合のリベンジをされちゃいます。


十ヶ月前。東都スーパーアリーナ。

『ここで第九ラウンド終了のゴング! チャンピオン猫四手 灯歌、このラウンドも試合をコントロールしています! プロデビューから破竹の八連勝で王座に手をかけた挑戦者ユミナ、チャンピオン相手に自慢の爆発力を見せる隙はないのか!? これが最後のインターバル、両陣営ともに勝負どころです!』

スツールに腰を落とした由実菜は、どっと襲ってくる疲れに焦りを感じた。
丸っこい顔には疲労の色が滲み、汗が噴き出て止まらない。無数のジャブを浴びてところどころ赤く腫れ、とくに右目は塞がりかけている。
練習してきたとはいえ、8ラウンドを越える試合は初めて。だがそれ以上に、チャンピオン灯歌の隙のなさがプレッシャーとなって重くのしかかっていた。
判定では大差で負けている。あと1ラウンドで灯歌をノックアウトできなければ、チャンピオンベルトは手に入らない。

「疲れてるか?」
「あ……うん。でも、まだやれる!」

マウスピースを抜いてくれた会長が状態を確認する。勇人の父であるが、子供の頃からジムに入り浸ってた由実菜にとっても父のような存在だった。仕事であまり家にいない実の父よりも、接していた時間は長いかもしれない。

「うん、タイトルマッチってやつはいつでも疲れるんだ」
「いつでも……?」
「そうだ。何度も防衛している猫四手だってそうだ。見ろ、腹を気にしないようにしてるだろ。ボディが効いてるんだ」
「あ……言われてみれば」

対角のコーナーに座るチャンピオン、猫四手 灯歌は両腕をロープに載せて体を開いている。余裕があり堂々と次のラウンドを待っているように見えるが、言われてみれば確かにわざとらしい。そわそわしているのは武者震いではなく、痛むお腹を抱えたいのを我慢しているのだ。
よくよく見れば、モデルもこなす端整な顔立ちがヒクヒクと動いている。苦痛に歪むのを必死に抑えているのだ。体が丸まるのは我慢できても、僅かな動作で黒髪のポニーテールが揺れるのは隠せない。

「ここまでチャンスを作れなかったからって焦るな。お前が疲れてる分だけ、猫四手も弱ってきてる。この先何十ラウンドもあると思って、納得できるまで機を窺え」
「何十ラウンドもって……それで次のラウンドで仕留められなかったら……」
「なんの、そんときゃベルトはまだ早かったってだけの話だ! とにかく焦んな、お前の勝負勘を信じろ。それで勝てなかったら、よっぽど運がなかったんだ」
「は、はい……」
「おう馬鹿息子、お前からも何か言ってやれ」

ちょうどマウスピースを洗い終えた勇人が顔を上げる。
勇人がセコンドに入っているのは小さなジムで人手が足りないのもあるが、一番信頼できる幼馴染に一番近くにいてほしいと由実菜が指名したからだ。
とはいえ、自然と涎まみれのマウスピースを触らせることになってしまう。あられもない姿は練習中にもいくらでも見られているとはいえ、どうしても乙女心は複雑になってしまう。

「まあ……由実菜が負けるところなんて想像できないからなあ。今はナーバスになってても、どうせ2分後にはぴょんぴょん跳ねて喜んでるだろ」
「お前なあ……180cm越えてる野郎の照れ隠しなんてかわいくねえぞ?」
「親父が言わせたんじゃねえか!」

親子漫才はさておいて、由実菜は不安で浮きそうになっていた脚がしっかりキャンバスにつくのを感じた。
ゆーくんが言う通りになりそうな気がする。根拠がなくても、ゆーくんが見ている景色と同じものを見られるという確信が湧いてくる。

「うっし! 行きます!」
「おう、いい顔になったな。あと一つ、迷ったらボディ叩いとけ。あれは相当キてるぞ」

勇人が洗ったマウスピースを会長に咥えさせてもらう。スツールから立ち上がり、拳を打ち鳴らす。あと2分間、やるだけやってみる。


ゴングが鳴って飛び出した由実菜を、灯歌の長身を活かしたフリッカージャブが襲う。

「ぶっ! ぶぶぶっ! ……このぉっ!」

頭を揺らされながらも前に出るが、灯歌のフットワークにするりと逃げられてしまう。
ここまでの試合は、この展開の繰り返しだった。ラウンドごとに数発は由実菜も当てることができて、なんとか最終ラウンドまで食い下がってきた。だが、それ以上に事態を動かそうと由実菜が手をつくしても、灯歌は必ずその作戦を上回ってきた。ベテランチャンプとの経験の差に、由実菜の連勝記録が阻まれようとしていた。

(でも……いける! 今なら追いつける! ブン殴る!)

インターバルで会長が指摘していた、灯歌のボディダメージ。それが灯歌の完璧なフットワークをも蝕んでいる。
こうして灯歌を追いかけていると、そのスピードが落ちたことは確信できた。

強打を振り、灯歌を退がらせる。由実菜が追う。灯歌が逃げる。由実菜が追う。灯歌が逃げる。由実菜が追いつく。
全力のバックステップを着地した灯歌に、由実菜のパンチを躱す余裕はない。

(ここだぁぁっ!)

由実菜は渾身のストレートを振り抜く。狙うはボディ。灯歌の厄介なフットワークをさらに削り、チャンスを広げる。

「んぶぐぅううっ!」

次の瞬間、突進する由実菜は灯歌の黒グローブと正面衝突していた。

(なん……で……っ)

由実菜のストレートは空を切っていた。灯歌は由実菜のパンチをサイドステップで躱し、その腕に交差するカウンターを叩き込んでいた。
では、全力で由実菜から逃げ回っていたはずの灯歌になぜサイドステップする余裕が残っていたのか。

(騙された……! あのスピードは全力じゃなかった……! 弱ったフリだったんだ……!)

由実菜は拳を突き出した姿勢のまま、黒グローブに顔面を滑らせ、リングに崩れ落ちた。

『ダウーンッ! チャンピオン灯歌、タフなチャレンジャーを撃墜ーッ! 挑戦者ユミナ、アウトボクサーの女王にダウンまで奪われ、厳しい展開! 連勝街道をひた走る若き才能も、王座の高みには届かないのかーっ!?』

潰れたカエルのようにキャンバスに倒れ伏した由実菜の横を通り、灯歌がコーナーへ戻る。由実菜は腫れかけた頬をキャンバスに押しつけたまま、微動だにしない。

(猫四手さん、弱ってない……もう最終ラウンドなのに……。これじゃ、打つ手がないじゃん……)

綺麗なクロスカウンターを貰っても、まだ由実菜には立って闘う力があった。だが、立ってもどう闘えばいいのか。それが分からない今、立ち上がる気力が湧いてこない。

「由実菜ーッ! 何ボケっとしてんだ、とっとと立て! KOで勝つんだろ!」

沈みかけた由実菜に、リングサイドから幼馴染の激が飛ぶ。

(か、簡単に言ってくれちゃって……! こっちは全然追いつけない上、ダウンまで取られて……あれ?)

勇人の無責任な言葉に、勝てない理由を列挙しようとして違和感に気付く。
ダウンを奪われたのは痛手だが、灯歌がそれほどの攻撃性を見せるのは珍しい。どうして灯歌は、わざわざ由実菜を罠に嵌めたのか。これまでのように、フットワークで逃げ切れば判定勝ちは揺がないのに。

(それができないから……逃げ切れないから、私から積極性を奪おうとした)

由実菜の闘犬めいたカンが、灯歌の弱気を嗅ぎつける。
勇人の言葉をきっかけに、なんだかいけそうな気がして立ち上がる。レフェリーにファイティングポーズを見せて試合再開を促しながら、頭はフル回転で勝利のチャンスをたぐりよせる。

(つまり……私が被弾を恐れなければ、捕まえられる! 倒せる!)

弱い犬ほどよく吠える。灯歌が急に見せた攻撃性は、これ以上は由実菜に近づいてほしくないという最後のあがき。
ダウンを奪われた由実菜も苦しいが、ダウンを奪わざるを得なかった灯歌はもっと苦しい。フルラウンドにわたって積み重ねてきたボディブローは、無駄じゃない。
レフェリーが試合再開を叫ぶ頃には、由実菜の全身にゴールへラストスパートをかける力が漲っていた。

『ユミナ立ちました! 膝から崩れ落ち、これまでかと思われましたが! しっかりと立っています! 試合再開!』

レフェリーが離れると、悲壮な顔をした灯歌が進み出てくる。ボディへのダメージで血の気が引いている、だけではない。
灯歌の覚悟と危機感の理由はすぐに分かった。由実菜が距離を詰めると、灯歌は脚をキャンバスにつけて迎えうった。やはり灯歌には、由実菜から逃げ切る力が残っていない。最後のハッタリを由実菜が見抜いた以上、下手に逃げ回るよりイチかバチかの勝負に賭けたのだろう。
由実菜の得意な距離での、打ち合いが始まる。

「ぶっ! ぐぶっ! この……ぶぶっ! ふぶぅ!」

だが、由実菜の被弾ばかりが増えていく。
チャンピオンの熟練のテクニックが、由実菜のパンチを寄せつけない。躱し、防ぎ、コンパクトなパンチで機先を制する。
当たれば一撃で倒せる距離なのに、その一発が当たらない。

「何焦ってんだ由実菜! らしくねえぞ! ボディ打てボディ!」

勇人の声が耳に届いて我にかえる。やっと掴んだ得意距離というチャンスに浮き足立って、顔面狙いに集中してしまっていた。
ボディを狙うと、灯歌は露骨にガードを下げた。だが空いた顔面を狙っても、スリッピングで躱される。上下に打ち分けてもなお、灯歌のディフェンスは鉄壁だ。

(でも、ここだ! ここが勝負所だ!)

再びボディを狙ってガードされる。空いた上に、大振りのフックを放ち、躱される。

「ぶぼほぉっ!」

由実菜に大きな隙が生まれ、強烈なカウンターをお見舞いされる。膝が折れ、上体が崩れる。

「やぁあああっっ!」

だが由実菜は泳ぎかけた右足をぐっと踏みしめた。前のめりになった重心をそのままに拳を振り回す。

「おご……っぶぅぅぇ」

カウンターをわざと貰って掴んだ由実菜の一撃は、灯歌の土手っ腹を打ち抜いた。

(もう一発!)

「おぶぶぅぅ!!」

動きの止まった灯歌に、ダメ押しのボディアッパーを叩き込む。
既にグロッギーな灯歌の腹筋を、由実菜のパワーがたやすく粉砕した。
これまではボディブローが当たってもずらされていた急所、ストマックを潰した水っぽい手応えに、由実菜は勝利を確信する。
2発のボディブローに悶絶した灯歌は、そのまま前に崩れ落ちた。

『だ、ダウーン! 壮絶なパンチの応酬に、チャンピオンダウンです! 今カウントが……ああっとここでゴングです! レフェリー試合を止めたー!』

由実菜は突然殴り合う相手がいなくなって呆然としていた。キャンバスに倒れ伏し、お腹を抱えて丸まる灯歌の背中を、その意味も分からず見下ろしていた。
丸まる灯歌にまずレフェリーが、次いでセコンド達が駆け寄る。壁を作って観客から敗者の姿を隠し、背中をさすり呼び掛ける。
集中的に介抱を受ける灯歌だったが、返事をすることはない。その代わりに、丸まった背中がビクンと大きく跳ねた。

「ウッ……オゴォェエエッッ!! ウェエエッッ!!」

キャンバスに顔を埋めこもうとするかのように前のめりになると、激しくえづいた。試合に備えて空っぽにした胃を、わずかにでも軽くして楽になろうと胃液を吐き出す。
灯歌自慢の長く滑らかな黒髪ポニーテールが、苦しみを表すかのように跳ねまわる。

「はぁーっ、はぁーっ、はっ、ふっ、はーっ……」

大観衆の前で長々と嘔吐した灯歌が、ようやく呼吸を取り戻す。
試合の緊張が戻らず呆然と見ていた由実菜は、顔を上げた灯歌と目が合った。

「ひっ……」

目尻に涙を浮かべた灯歌が、すさまじい形相で睨みつけてくる。不意打ちで強烈な感情をぶつけられた由実菜は、思わず竦んでしまった。

「由実菜、やったな! チャンピオンだぞ!」
「わっ!? あ、ゆーくん……」

だが、そんな感情はリングに上がってきた勇人に背中を叩かれて霧散した。
勇人に向き合うと、次第に由実菜の心中に色々な感情が湧き上がってくる。
ゆーくんがリングにいる。
試合は終わったんだ。
私……勝ったんだ!

「ゆーくん……私、私、チャンピオンに……」
「そうだぞ! チャンピオンだ!」

緊張が解けたのか、脚がもつれた由実菜を勇人が抱きとめる。由実菜は逆らわず、勇人の胸板で激闘に熱くなった顔を休めた。

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