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柱前堂 2021/07/31 13:07

【試し読み】幼馴染は立ち向かう(復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染 第4章途中まで)

復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染の試し読み、第4章の途中までです。
ついに始まる復讐のタイトルマッチ。主人公の由実菜と敵役の灯歌、二人の試合衣装と決意をお楽しみください。


花道へ続くコンクリートの通路は、会場の熱気が届いているのに妙に冷たく思える。
由実菜は、この冷たさが好きだった。どれほどファイトマネーが増えファンが増えても、結局は殴り倒すか倒されるかというボクシングのシンプルさを再確認できるようで。
だが、リングの上が厳しい世界だとは思っていても、リングの上で一人きりだと思ったことはなかった。
これまでは。

「すまねえな由実菜。あの馬鹿息子、まさか本当に帰ってこねえとは……」
「ううん、私があんなこと言っちゃったから……」

由実菜の背中に不安を見て取ったのか、後ろを歩く会長が声をかけてくる。

「いいや、幼馴染の大事なときに駆けつけねえような育て方した覚えはねえ。悩んでるようだからって甘やかしちまったが、こうなったらアマチュアのてっぺんでも獲らねえ限りウチの敷居はまたがせねえぞ」
「……そんなこと言うと、ゆーくん、本当に帰ってこないかも」

先頭を歩いていた由実菜が足を止めた。通路の先では、既に挑戦者がリングインを済ませ、観客がチャンピオンの入場を今か今かと待ち構えている。だが、由実菜の足は止まってしまった。

「ゆーくんのパンチ、効きました。すっごく重かった。けど……本当は、あんなものじゃないはず。ゆーくんはもっと追い込めるはずです」
「アイツがサボってるって? 親父がトレーナーじゃやりにくいかと思って大学に入れたが、逆効果だったか……」
「ゆーくんは、ボクシングが好きじゃないのかも」
「それは……そう、なのかもな。俺も由実菜も、アイツの気持ちを分かってやれるとは言えねえ」

由実菜は今のところプロ無敗。会長は手痛い敗北の経験もあるが、それも世界ランカーになってからの話だ。
同世代や、幼馴染の女の子に差をつけられたまま伸び悩んでいる勇人と同じ立場になれるとは言いにくい。
そんな由実菜が出来ることに思い当たって、会長は俯いていた顔を慌てて上げた。

「だからって、負けてみようなんて考えるなよ?」
「もちろん! わざと負けたりなんかしたら、それこそゆーくんから遠くなっちゃうから。いけるところまでいきます」
「よぉしその意気だ!」

会長が背中を張り手で叩いて気合いを入れると、由実菜は少しよろけながら再び歩き出す。

「いないと心細いけど……ゆーくんが来たくないなら、いない方がいいのかも。私が、ゆーくんのボクシングに邪魔だったなら……」
「そうだな、気にすんな。アイツはアイツでいいようにやるし、それでダメなら自業自得だ」
「あはは、親子だと容赦ないですね」

ついに由実菜がコンクリ打ちっ放しの通路を抜け、花道に足を踏み出す。花道を照らすスポットライトが、試合中継のカメラが、会場中の歓声が由実菜に集中する。

『熱いファイトで連勝街道を突き進む天才女子高生ボクサーが、ついにチャンピオンベルトとともにリングイン!
もう一度猫四手選手に勝たなければ名実ともにチャンピオンとは言えないと、そうインタビューに答えていました。勢いに乗りながら謙虚に成長を続ける怪物が、新時代を築くのか時代の徒花となってしまうのか! その試金石となる試合です!』

観客の歓声に包まれながら、由実菜は花道を行く。リハーサル通り、逸る気持ちを抑えてチャンピオンらしく堂々と歩く。
背後には会長とセコンドについてくれたジムのトレーナー陣が続き、由実菜のチャンピオンベルトを高々と掲げる。がむしゃらに目指してきた目標は、今は由実菜の背中にある。
リハーサルと一番違うのが、観客が入っているところだ。緊張して早く試合を始めてしまいたい由実菜は、ホールを埋めつくす観客を眺めて気を逸らす。
由実菜を迎える会場は、席によって温度差がある。それはそのまま、このタイトルマッチの下馬評でもある。
熱烈に迎えてくれるのは由実菜のファン。若く無敗という由実菜の話題性と、体当たりで勝機を掴むファイトに魅せられた者達だ。彼らは今日も、由実菜の劇的な逆転勝利が観られることを期待している。
一方、比較的抑え目な観客は灯歌のファン。大人の魅力と経験に裏打ちされた堅実なボクシングを評価し、由実菜が勝った前回のタイトルマッチはまぐれだと考えている。彼らは灯歌と由実菜が闘えば10回に9回は灯歌が勝つし、今度こそまぐれの負けはないと思っている。
由実菜は重圧に息を呑む。由実菜ファンの期待に応え、灯歌ファンにチャンピオンにふさわしい実力を見せなければならない。そして、どちらでもない人達にも、ボクシングの世界チャンピオンというものが憧れになるよう魅せなければならない。
由実菜が目指してきたチャンピオンとは、そういう存在だったのだから。

由実菜が指定した入場曲は、カラオケでもよく歌うメタルロック。自らの強さを吼え立てる挑発的な歌詞は、会場スタッフに全国中継に流すにはいささか品がないなどとやんわり止められかけた。だが、試合に勝つためには絶対に必要だと押し切った。
勇人が欠けている試合で、それ以上少しでも普段と違うことは避けたかった。ただでさえ二度目のタイトルマッチ、初めての防衛戦なのだ。
入場曲が終わると同時、会長が広げたロープの間をくぐって由実菜はリングインした。
リングの上から見回す会場は、さらに狹く、迫ってくるかのように見えた。品定めされているかのような緊張感に呑まれかけ、由実菜は小さく深呼吸して体の硬ばりをほぐす。

『ただいまより、WFBC世界フェザー級タイトルマッチ10回戦を始めます。
赤コーナー! 9戦9勝9KO無敗、WFBC世界フェザー級チャンピオン、ユミナ!』

コールを受けて、由実菜は黒いガウンを脱ぎ落とす。
まずフードが外れ、現れたのは金髪の跳ねたショートカット。階級の中でも小柄な由実菜の小動物っぽさを象徴する髪型はファンにも人気だ。
肩口には黄色のスポーツブラがかかる。金髪と合わせ、由実菜のイメージカラーに統一されている。ボクサーらしく控えめに膨らんだ胸は、由実菜のシルエットを崩さずに女の子らしいしなやかさを強調する。肩から伸びた腕は、違和感があるほどに太い。相手ボクサーをことごとくノックアウトしてきたこの豪腕こそ、世界一の女の子の証。
スカートも同じ黄色だが、その下に黒いスパッツが覗く。黒い布地に包まれた脚もまた発達した筋肉が盛り上がり、数々の打ち合いを制してきた由実菜を力強く支える。
そしてその間に、今日のため鍛え上げた腹筋が鎮座する。なだらかな脂肪の層を残しつつ、発達した腹直筋はその層をも押し上げ6つに割れていることを誇示している。その厚くしなやかな複合装甲が、由実菜の深呼吸に従って大きく上下する。
そして、黄色のボクシンググローブ。相手を殴り倒すことだけに専念する誓いの証が、由実菜の両腕に嵌められている。

(……よし、やれる)

由実菜は歓声に応え、小さくシャドーをして見せる。体の軽さ、思い通りに動く動作の正確さに、初防衛戦に向けた手応えを感じる。
タイトルマッチに向けて鍛え、減量し、整えてきたコンディションは過去最高。メンタル面でもほどよく緊張して冷静だ。犬芥由実菜が今出せる全力をぶつけられる。勇人がセコンドにいない心細さも、今は気にならない。
そうだ、ゆーくんなんかいなくったって勝たなきゃ、チャンピオン失格だ。

ほどよいところで手を止め、リングの対角を睨む。紹介を待つガウンの女は、猫四手灯歌。由実菜を含め多くの観客がチャンピオンの実力があると考える、恐るべきチャレンジャーだ。


花道を向かってくるユミナを、先にリングインした灯歌は忌々しげに見つめていた。

「灯歌さん、大丈夫ですか。いくら実力じゃ灯歌さんが上って言っても、冷静さを欠いて勝てる相手じゃないですよ」
「分かってるわよ……」

セコンドの大男が、灯歌の隠し切れない苛立ちを察して声をかける。
結城 八尋は自身も世界ランカーまで登り詰めた才能あるボクサーだった。目の故障で引退したところを灯歌に拾われたことを感謝しているし、誰よりも近くで灯歌のボクシングを見てきた彼は灯歌こそチャンピオンにふさわしいと信じている。
だから、灯歌がこの試合で勝つこと以外の目的を持って臨んでいるのが心配だった。

「あの小娘が油断ならない相手なのは、一度闘った私が一番よく分かってる。でも、私はあのガキに吐かされたのよ」

猫四手灯歌といえば、強くしなやかな、余裕ある大人の代名詞。ただボクシングの世界チャンピオンとして有名なだけではなく、その美貌と自信に溢れた態度でファッションや美容の世界でも知られている。実際、灯歌の名前を使ったブランドやCM出演もあり、タイトルマッチのファイトマネーを軽く越える収入になっている。
八尋もその金で雇われている。彼の指導をはじめ、金に糸目をつけない練習環境は灯歌の実力を支える一端となっている。そうして灯歌は世界チャンピオンというブランドを手にし、この看板によってさらにモデルとしての収入を増やした。灯歌はボクシングとモデルという二足のわらじを履きこなしていた。
もちろん、練習環境に投資して実力となるのは、かけた金を使い切るだけの練習量があってこその話だ。灯歌はそれだけの練習を重ねている。それも、モデル業にも同じだけの熱意と時間をかけながら。その姿を見てきた八尋は、灯歌こそチャンピオンにふさわしい実力者だと信じている。
もっとも、日々指導する彼は、灯歌の築き上げてきた「余裕ある大人」というイメージとは裏腹に、彼女の本性がひどく狭量で自己中心的なことを知ってしまったのだが。

灯歌が初めてボクシングをしたのは高校の部活動だった。既に学内で美人と有名だった灯歌は、美容健康のために入ったボクシング部で、眠っていた才能を目覚めさせた。リングの上で浴びる喝采は、誰よりも目立ちたいという灯歌の本能をひどく刺激した。
大学進学のために上京し、同時にプロデビュー。以来着実にキャリアを積み上げ、世界チャンピオンになり三度防衛するに至った。その間にも女としての美しさを磨くことは忘れず、モデルの仕事で稼いだ資金と自尊心でボクシングに勝ち、ボクシングで得た知名度とイメージで美しさの価値を釣り上げた。
灯歌のボクシングと美容の両輪は、極めて上手く回っていた。
ユミナが彼女のリングに立つまでは。

ユミナに敗れたことで、解約されたり更新されなかった契約が3本出た。うち1つはチャンピオンでいることが条件だったので仕方ないが、残りの2つは明らかに灯歌の嘔吐が放送されたのが原因だった。
だが灯歌は、そんなことはどうでもよかった。失った仕事など後でいくらでも取り戻せる。灯歌は自身の美しさとその価値に絶対の自信があった。
そんな美しさを、公開の場で穢されたことが許せないのだ。ユミナを同じ目に遭わせてやるまでは、ベルトのこともCMのことも考えられなかった。

灯歌が見つめる中、リングに上がったユミナがコールを受けてガウンを脱ぐ。灯歌は自分の前に立った女を、じっくりと品定めする。
ユミナは現役高校生という話題性をさし引いても、まあまあの美少女だ。ショートカットで強調された小顔に、はっきりと見開かれた大きな目。黄色を基調に黒を入れたスカートとスポーツブラも、灯歌の目からすればまだまだ垢抜けないが、かわいらしく纏まっている。
自身の美に絶対の自信を持つ灯歌から見ても、及第点の美少女。だからこそ、同じ目に遭わせる価値がある。
前回のタイトルマッチからさらに鍛えてきたお腹、偶然勝てただけの灯歌との再戦に緊張するユミナの顔を見て、灯歌の口角が釣り上がる。これからこの女が無様に吐くところを、世界中に見せつけるのだ。

そして女王ユミナの紹介が終わり、スポットライトが一度消える。

『青コーナー! 25戦20勝3KO3敗2分け、WFBC世界フェザー級2位、猫四手 灯歌!』

名を呼ばれ、会場中の視線が集まるのを感じながら、灯歌はガウンを脱ぎ落とす。
灯歌のコスチュームは、黒を基調に金のラインが入ったトランクスとスポーツブラ。スポンサーであるスポーツウェア会社の最高級モデルを、灯歌カラーに仕上げた特注品だ。
伸びる手足は細く絞り込まれ、それでいて女性らしい丸みを残している。上下のウェアに挟まれたお腹は、灯歌の強い自我を表したようにはっきりと割れたシックスパック。白く美しい、研ぎ澄まされたナイフのような女体が、過不足ないシックなウェアに収められている。
ヘアトリートメントのCMにも出演する濡れ羽色のロングヘアは、高い位置で結ってポニーテールに。灯歌が動くたび、腰まで伸びる黒髪の束が流れるように追従し、会場のライトを反射してきらめく。引っかかり一つない、手入れの行き届いたしなやかな髪だ。
高く鼻の通った、日本人離れした顔立ちの灯歌が、これから挑む闘いに向けて表情を引き締める。その凛々しさと美しさに、会場に詰め掛けたモデルとしての灯歌のファンから黄色い声援が上がる。

灯歌は黒グローブを掲げてアピールする。一度は負けて追われたタイトルマッチのリングに、女主人が帰ってきたと。
整った顔立ち、豊かな黒髪、白くしなやかな肢体、黒地に金色をあしらった威圧的なウェア。灯歌の立ち姿は既に王座を奪還したかのように絵になった。事実、勝てばこの試合前の写真でフィットネスクラブのポスターを作る契約になっている。

灯歌はこのタイトルマッチにおいて、挑戦者らしく勝ちに専念するつもりなど毛頭なかった。


灯歌の写真撮影を兼ねた名乗りを、由実菜は苦々しく見ていた。
元チャンピオンならチャンピオンらしく、試合のときくらいは試合に集中するべきだ。灯歌と由実菜はあくまでボクシングで一番強いからこのリングに立っているのであって、美しさなんて関係ない。
灯歌は由実菜が憧れてきたチャンピオン像から、最も遠いボクサーだった。灯歌が相手だから、由実菜はより一層負けたくなかった。
もちろん、そんな由実菜の想いもボクシングの強さには関係ない。灯歌は誰よりも――おそらくは由実菜よりも——強いから、タイトルマッチのリングを撮影会にしてしまえる。灯歌にベルトを渡したくないなら、由実菜自身が灯歌を殴り倒してこのリングから追い出すしかない。

そんな意気込みで全身を満たして、由実菜はレフェリーの諸注意に臨んだ。灯歌は由実菜を恨んでいるだろうが、こっちだって灯歌のことが気に入らない。気持ちで負けているつもりはない、はずだった。

「へぇ……男も知らない小娘が、いいカオしてるじゃない」
「……ッ!」

だが、灯歌と間近で向き合い、その視線に全身を舐め回されると、由実菜の背中を悪寒が走った。
ほんの数秒前までモデルとしての撮影で澄まし顔をしていた灯歌が、カエルを前にしたヘビのように酷薄な目をしている。由実菜はこれから酷い目に遭うし、それが当然だから何の感慨も湧かない。そんな強烈な悪意を浴びて、高校生の由実菜が平気でいられるはずがなかった。

「ここ、とっても鍛えてきたのね。もっと鍛えておけば良かった、なんて思い残しはないわよね?」

灯歌は艶消しの黒いグローブで、由実菜のお腹をぽすぽすと叩く。話しているレフェリーが険しい顔をして睨むが、灯歌は涼しい顔だ。

「嬉しいわぁ。……二度と私の前に立つ気がなくなるように、完璧に壊してあげる」
「……立てなくなるのは、そっち。チャンピオンは私」
「みっともなく足掻いて偶然勝っただけの弱い女が、チャンピオンにふさわしいとでも思ってるの」
「に、二度勝てば偶然なんかじゃない」

痛いところを突かれて、由実菜の言葉が乱れる。由実菜の理想は確かな実力で業界を牽引し全ボクサーの実力を引き上げる、強いチャンピオンだ。実力で言うなら自分より灯歌の方がその理想に近いことは分かっている。
それでも、一度掴んだベルトを手放す気はない。いや、そのために必死に特訓してきたのだ。今の自分は灯歌より強いのだと、この初防衛戦で証明してみせる。

由実菜が気持ちを入れ直して睨み返す。だが灯歌はそんな視線もどこ吹く風、正確に一定のリズムで由実菜のお腹を触り続ける。念願叶って買ってきた宝石を眺めるねっとりとした視線のような接触を受け続けて、由実菜は次第に気味が悪くなってきた。
灯歌はそんな由実菜の様子に気付いたようで、それでもペースを変えずに淡々と触れ続ける。
ついにはレフェリーが諸注意を中断し、止めに入った。

「猫四手選手、挑発行為はやめなさい。試合前に相手選手に触れないように」
「はぁい」
「ユミナ選手も、挑発に応じないように」
「……はい」

灯歌のグローブと視線から解放されて、由実菜は大きく息を吐く。こんなところで気圧されている場合じゃない、気持ちを切り換えろ。
由実菜が正面から見つめると、視線はちょうど灯歌の唇にあたる。二人の身長差は10cm、その差はそのままリーチの差だ。灯歌がアウトボクシングに徹すれば、由実菜はパンチの届かない距離から殴られ続けることになる。由実菜が灯歌を殴り倒すには、まずチャンスを掴んで灯歌の懐に入り込まなければならない。

だがボクシングの戦略とは別に、由実菜はまたしても灯歌に圧倒されてしまう。
すらりと伸びた長身、手入れの行き届いた黒髪、自分でプロデュースしたシックなウェア、目立つほどではないが由実菜よりは大きく女性らしい胸の膨らみ。そんな灯歌の姿は全て、高校生の由実菜から見れば眩しいほどに大人びていた。

(ゆーくんも、私みたいなボクシングバカより、あれくらい大人の女性の方がいいのかな……)

視線を下ろすと、鍛え抜かれた腹筋が目につく。灯歌はもともと、モデルとしても絞り込まれた腹筋を売りにしていた。だが今日の灯歌の腹筋は、普段以上に厳つく仕上げられていた。由実菜との再戦を意識して鍛え直したのは明らかだ。
アウトボクサーである灯歌の脚を止めるのに、ボディを叩いてスタミナを削る戦術は有効だ。前回のタイトルマッチではそうして灯歌を仕留めることができたし、今回の防衛戦でも基本戦術はボディ狙いだ。
灯歌が対策してくるのも当然だ。一方の由実菜も、ブ厚くなった腹筋ごとブチ抜くつもりで練習してきた。灯歌の対策が由実菜の想定を上回るか、それとも由実菜の拳が灯歌の鍛錬を打ち砕くか。
激闘の予感に、音がするほどボクシンググローブを握り締める。

「……では、タイトルマッチにふさわしいファイトを期待します」

レフェリーの話が終わり、由実菜は灯歌の腹筋を見つめていた視線を上げた。
口元をニヤつかせた灯歌が、由実菜をじっと見ていた。灯歌は自分のグローブを、今度は自分の腹に当てて見せる。

「鍛えてきたお腹、そんなに見つめられたら照れちゃうわね」
「あっ……」
「私のスタミナが尽きるのが先か、貴女のお腹が潰れて恥ずかしい目に遭うのが先か……正々堂々、勝負しましょう?」
「え、ええ……」

由実菜は返事を絞り出すのがやっとだった。灯歌の顔はニヤついていても、目は笑っていない。そしてボディ狙い宣言。それだけで、先ほどの不気味な悪意を思い出してしまう。

由実菜が重い気持ちを抱えてコーナーへ戻ると、会長がマウスピースを用意して待っていた。

「だいぶやられたみたいだな」
「はい……すみません」
「なんの、こういうのをサポートするために俺がいるんだ。人生もボクシングも、猫四手なんかより俺の方がずっと先輩なんだからな」
「そ、そうだよね」

試合前から景気の悪い顔をしちゃってるな、という自覚はあった。だからこそ、会長がなんでもない態度で迎えてくれたことで気が楽になった。

「世界の頂点に立つようなヤツらってのは、ただ殴り合いが上手いだけじゃねえ。他人を蹴落として願いを掴むエゴの強さも世界レベルなんだ」
「は、はい」
「つまり、現チャンピオンの由実菜も負けちゃいねえはずだ。チャンピオンでいたいんだろ」
「はい!」
「よし、いい返事だ。あとは練習通りやれ。勝てるとは言えないが、負ける勝負でもないはずだ」
「あ、あはは……」

会長の率直な物言いは、それだけ力強い。由実菜は灯歌の気味悪さから抜け出し、体が軽くなるのを感じた。
灯歌がこの試合で何をするつもりであれ、由実菜は由実菜でチャンピオンらしく勝つという目的がある。あとは強い方が目的を叶える、それだけだ。

(でも、こういうときはゆーくんの顔が見たいな……)

普段は勇人が用意するマウスピースを会長に咥えさせてもらうと、試合開始のゴングが打ち鳴らされた。

柱前堂 2021/07/30 21:35

【試し読み】幼馴染は妥協しない(復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染 第3章)

復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染の試し読み、第3章分です。
主人公が5階級上の幼馴染にボディ打ち特訓してもらいます。


―― まずは戴冠おめでとうございます。初めてのタイトルマッチでしたが、いかがでしたか

ありがとうございます。タイトルマッチということで身の引き締まる思いでしたが、実力は発揮できたかなと思います。それ以上に、猫四手選手が強かったですね。
―― ユミナ選手は何度も下馬評をくつがえし無敗で王座につかれたわけですが、そんな新王者にとっても猫四手選手は強敵だったと

確かに戦績上は無敗なんですが、いつ負けてもおかしくない試合ばかりだったと思います。もちろん少しでも勝ちに繋がるように努力してきましたが、全勝という結果は実力というより運と勢いのおかげです。
そういうこれまでの対戦相手と比べても、猫四手選手は別格でしたね。
―― 猫四手選手は再戦を希望しています。初防衛戦の指名挑戦者となると思われますが

私としても、猫四手選手に一度勝っただけでは胸を張ってチャンピオンを名乗れないと考えています。まだまだ技術面では猫四手選手に及ばないと思いますので、挑戦者の意気込みで練習に励みたいと思います。

由実菜に突き付けられた雑誌をそこまで読んで、勇人は顔を上げた。
再会した翌日、ジムの片隅で、二人はグローブを嵌めて向き合っていた。

「ずいぶんとまあ、猫を厚着したな」
「それはインタビューがメールだったから会長達にめちゃくちゃ直されて……じゃなくて! ここ! ここ読んで! 文章はともかく内容は本心だから!」
「猫四手に勝てないかもしれないって? 珍しくしおらしいな」
「言い方! でもまあ、そういうこと。だから本気でやって」

しぶる勇人の背中に、会長が声を投げる。

「勇人! 猫四手のやつ、ボディでノックアウトされたことをかなり恨んでるみたいだからな。試合になれば絶対に狙ってくる。対策は必須だし、うまく防げればチャンスにもなる。しっかりやれ!」

それだけ言うと、勇人が言い返す間もなく他のボクサーの練習に戻った。
反撃を許さない絶妙な間の取り方はリングを降りても往年の名チャンピオンのそれで、勇人はそんな些細なことにも父との、ひいては由実菜との才能の違いを感じてしまう。

「くそっ、親父のやつ。俺の気も知らないで……」
「そういうの今いいから。やるの、やらないの?」

由実菜の練習に付き合うことは勇人にとって「そういう」ことに他ならない。だが、二人の才能を前に拗ねたくなるだなんてダサいことを、幼馴染に言えるわけがなかった。

「分かった。……泣き言言うなよ」
「言ったってゆーくんにしか聞かれないもん」

由実菜は両手を頭の後ろで組み、壁に背をつける。身長差のある勇人が正面に立つと、世界チャンピオンであるはずの由実菜が小さく頼りなく見える。まるで力づくで襲いかかる暴漢になったかのようで、勇人は居心地の悪さを感じた。
勇人は由実菜のお腹にグローブを添えた。鍛え上げた腹筋は厚く、女の子らしくも薄い脂肪の層を盛り上げて割れ目を見せている。由実菜は同階級の選手と比べても背が低く、その分のウェイトを筋肉に回せる。相手選手の攻撃に耐え、チャンスがあれば強引に掴み取るインファイトに最適化した体だ。
勇人は由実菜の腹筋の仕上がりを確かめると、最後におへそのやや上を軽く叩いた。

「……ここ、いくぞ」
「うん、来て」

勇人は由実菜から距離を取り、大きく息を吸う。吐きながら、拳を打ち込んだ。

「んんぶぅぅううっっ!」

20cmの身長差から繰り出されたストレートに、由実菜は目を真ん丸に見開いて悶絶する。硬く閉じられた口から、それでも抑えきれない唾液と苦悶の声が漏れ飛んだ。
由実菜がフェザー級なのに対して、勇人はスーパーウェルター級。性別の違いをさて置いても実に5階級分のウェイト差があり、由実菜の鍛え上げた腹筋もたやすく押し潰した。

「んっ……ぷぷっ……よしこいっ!」

勇人が拳を引き抜くと、由実菜は少しよろけたものの、しっかりと両脚で踏ん張った。気丈に見上げてくる幼馴染の少し潤んだ目に、勇人の心の奥底がざわつく。

「連打いくぞっ!」
「んぶっ! ぶぅう! んんんっ! んぶぅ!? がはぁっ! ぐぶぅぇっ!」

芽生えかけた感情を振り払うように、勇人は拳を振るい続けた。幼馴染の土手っ腹に、同世代の男子を殴り倒すために鍛えた拳が次々と着弾する。
何発か殴りつけると、手応えが変わった。固い壁から、ぐにゃりと不快な肉塊へ。パンチを受け続けた腹筋が保たなくなり、緩んだ瞬間に勇人の拳がめり込んだのだ。筋肉の守りなく内臓を殴られた由実菜は、もはや再び腹筋を固めることなどできなかった。
そんな由実菜に、勇人は手加減しない。柔らかいお腹を次々と抉った。抉りながら、由実菜の様子を注意深く観察する。脚が内股になり、肩が壁から離れかけると、限界と見て次のステップに移る。

「細かくいくぞ」
「んんんんっ! はっ、ああっ! ぐうぅぅ……っ! ああぁーっ!!」

勇人は背中を丸めて由実菜の眼前に潜り込み、サンドバッグにするようにストロークの短い左右のパンチを連打する。手打ちだが、階級差もあり既に腹筋を使えない由実菜には地獄の苦しみだ。絶え間なく襲いくるパンチに内臓を揺さぶられ、呼吸もままならない。

「ラストッ!」
「んぶぅっ!? んんっ……んんんーー!?」

勇人は叫ぶと、一歩脚を引いた。できた空間をフルに使って、拳で半円を描く。太もも、腰、背中の筋肉の力が爆発し、弱りきった由実菜のお腹に渾身のボディアッパーを叩き込んだ。
もはやぐしゃぐしゃになった由実菜の顔が、アッパーの衝撃で押し広げられたかのように膨らむ。涙の滲んだ目は真ん丸に見開かれ、パンパンに膨らんだ頬はすぐに決壊して胃液混じりの唾液の塊を吐き出す。
内臓が押し退けられぐちゃぐちゃと蠢く様子をグローブ越しに感じながら、勇人は拳を抜かない。由実菜の小さな体をジムの壁に縫いつけるかのように、拳を捩じ込んでいく。由実菜の体重の半分は突き上げる勇人の拳に支えられ、由実菜の両脚から力が抜けていく。

「……降ろすぞ、由実菜」
「んんっ……はぁっ、あふぁっ……はぁーっ、はぁーっ、う、ぷ、んんっ! はっ、はーっ!」

ゆっくり由実菜のお腹から拳を抜くと、由実菜はふらつきながらも自分の脚で立ち続けた。お腹と口元をグローブで押さえ、やっと許された呼吸の欲求と込み上げる吐き気とに抗った。

「由実菜、来い!」
「んっ……いくよっ!」

そんな由実菜の前で、勇人は両手を頭の後ろで組んでみせる。攻守交代だ。
ボディに耐えるだけでは駄目、苦しい中で反撃できなければ意味がないという会長の方針で、ボディ打ちの後は打ち込みがセットになっている。
由実菜は今すぐにでもジムの冷たい床に転がってしまいたいはずなのに、声をかけられる前から構えていた。
始まった由実菜のラッシュは、勇人以上に遠慮なくフルスイングだ。だが、勇人は小さく声を漏らす程度で、効いている風ではない。
由実菜が既にグロッギーであることも大きいが、それ以上にここでも階級の差が立ち塞がる。由実菜は彼女の階級では屈指のハードパンチャーだが、そのパンチが平凡なオールラウンダーである勇人に通じない。
由実菜がどれほどボクシングの試合で強くとも、思春期を過ぎた勇人にとって幼馴染はか弱い女の子だった。仮に階級を無視して由実菜とリングで対峙すれば、いくら由実菜のボクシングが巧くとも勝負にならない。一発の重さが違いすぎるため、由実菜の戦略は致命打を貰わないことに重点を置かざるを得ない。一方の勇人は強引に距離を詰めて殴りつければ、ガードの上からだろうと簡単にダウンを奪える。これほどのハンデがあれば、いくら由実菜が天才でも負けるはずはない。
そしてそれは、由実菜が闘わなければならない猫四手 灯歌が相手でも同じことだ。幼馴染が胃液を吐き戻してまで特訓している相手を、勇人ならば簡単に倒すことができる。にも関わらず、勇人がこの幼馴染にしてやれるのはお腹を殴りつけることだけだ。あまりにも歯痒かった。
もちろんこれは、階級を無視すれば、の話だ。ボクシングという競技において、あまりにナンセンスな仮定。第一、勇人が由実菜の代わりに灯歌に勝ったところで何の意味もない。二人はチャンピオンベルトを奪い合っているのであって、手段を選ばない殺し合いをしているわけではないのだから。
そして由実菜にしてやれることを考える一方で、勇人は由実菜との差を見せつけられてもいた。
内臓をめちゃくちゃにやられて地獄の苦しみを味わっている真っ最中だというのに、由実菜は全力のラッシュを放ち続けている。ろくに呼吸もできない中、身体制御に集中しすぎた由実菜の額には冷や汗が滲み、噛み締めたマウスピースから唾液が溢れて口から零れる。
勇人のボクサー人生の中で、ここまで必死に頑張ったことがあっただろうか。
同じジムでボクシングを始めた幼馴染が、片や世界チャンピオンとなって初防衛戦に向けて必死の特訓をし、片や同世代のトップ争いから外れても平気な顔をして遊び歩いている。
勇人にとって、ここまでボクシングに打ち込む由実菜は眩しすぎた。好意を寄せる幼馴染への感情が、歪んでしまうほどに。

「……はぁっ! はぁ、ふっ、ふーっ……! はぁ、はぁ、はぁ……うっ! ……んく、んんん……っぷはぁ」

疲労の限界に達した由実菜がパンチを止める。動き続けることで誤魔化してきた身体の異常が一斉に火を噴く。とくに揺さぶられ続けた胃が収縮し、強烈な吐き気となって由実菜を襲った。
せり上がる胃液をかろうじて収め、飲み下す。きつく閉じられた口の端から、漏れた唾液がつうっと糸を引く。

「い……インターバル……ちょっと……休ませてぇ……」

そう言うと由実菜は、勇人の胸元に寄りかかった。今にも倒れそうな幼馴染の小さな体を、勇人は腕を回して抱き止めた。
短く立たせた由実菜の髪から、汗臭さに混じって甘い匂いが立ち上る。腕の中の小さな体が、活力を取り戻そうと呼吸する大きな揺れが伝わってくる。胸板に押し付けられた顔は柔らかく、唾液が漏れた恥ずかしい跡がひんやりと主張する。

(くそっ……こいつも、人の気を知らないで……)

グロッギーになった幼馴染を、勇人は色っぽいと思ってしまった。日頃からかわいいと思っている女の子が密着しているのだ。その上、由実菜の弱り切った様子は野蛮な本能を刺激する。
勇人の本音を言えば、ちゃんと恋人同士になって堂々といちゃつきたい。由実菜だって憎からず思ってくれているはずだ。
だが、ボクシングに打ち込む由実菜にそんなことを言えるわけがない。カップルらしいことをしたいと思っても、たいやき一つ買ってやることもできないのだから。
だからせめて、練習中の卑怯な接触でもいい、由実菜のことを間近に感じていたかった。

だが、由実菜はあっさりと勇人から離れてしまった。

「はぁっ……はぁっ……ゆーくん、もう一本」
「なっ……はあっ!? 無茶言うな、今にも倒れそう……つーか、さっき吐きかけてたじゃねーか」
「まだ吐いてないもん。本当の本当に限界までやって。私がゆーくんのこと一生許せなくなるくらい」
「……嫌だ」

勇人は由実菜から一歩離れた。
由実菜の中で自分とボクシングが天秤にかけられたみたいで、ショックだった。例えはあくまで例え、由実菜が深く考えて言ったわけじゃないのは分かっている。それでもショックはショックで、そして子供の我儘のような自分の狭量さにもショックを受けた。

「や、やだって……練習、付き合ってくれないの……?」
「もう、十分だろ……」
「まだまだ! ボディは絶対狙ってくるからね、どれだけ耐えられるかが勝負だよ」
「俺は……由実菜がこれ以上苦しむところを見たくない」
「これから試合なんだよ!? 猫四手さんにやられるのはいいわけ!? 私だって、それならゆーくんの方が……」
「そうなる前に、棄権すればいいだろ」
「棄権って……!」

由実菜はコンパクトに身体を締めて勇人の懐に踏み込み、その土手っ腹を突き上げた。

「んぶっ……!」
「ゆーくんのバカぁ! 試合する前から棄権って、それでもボクサーなの!?」

このボディアッパーが効いたのは、由実菜が少し回復したから。そのはずだ。

「俺は……」
「ねえ! 私に勝ってほしくないの!? 偶然で一回ベルトを獲れただけのボクサーで終わっちゃってもいいの!?」
「俺は、由実菜に苦しい目に遭ってほしくない。綺麗な服で出歩いて、好きなもの食べて……」
「それを我慢して試合に備えてるんでしょ! どうしてそんなこと言うの!?」

お前が好きだからだ。とは、勇人は言えなかった。告白するには最悪のシチュエーションだ。
だから、言い返せないうちに、由実菜にキツいことを言われた。言わせてしまった。

「そんな気持ちでリングに上がってるから、ゆーくんは肝心なところで勝てないんでしょ!」
「なっ……負けていいなんて、思ってるわけねーだろ! 一度でも負けたことあったら、そんなこと思わねーよ! 負けたことないくせに!」
「あっ……ごめん……」
「あ、いや……言い過ぎた……」

互いに俯いて、顔を見られない。売り言葉に買い言葉で、つい互いに踏んではいけないところを踏んでしまった。
だが、だからといって、最初の主張を変えるわけにはいかなかった。

「……とにかく、もうボディ打ちの相手はしない。これから寮に帰る」

それだけを絞り出すように告げると、勇人はリングを降りた。

「ゆーくんのバァカ! バカバーカ! そんなこと言うなら応援だって願い下げですー! 試合見に来んなー!」

勇人が更衣室に続くドアを閉めると、ジムの中は静まりかえった。大声で言い争ってジム中の注目を集めていたことに、由実菜は今さら気付いて赤面した。
他のボクサーのサンドバッグ打ちを指導していた会長が、頭を掻きながら声を上げた。

「あー……うちの馬鹿息子がすまん。さ、練習再開だ! 由実菜は顔洗ってこい! 戻ってきたらサンドバッグ打ちだ!」

柱前堂 2021/07/29 20:19

【試し読み】幼馴染はベルトを掴む(復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染 第2章)

復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染の試し読み、第2章分です。
本編の前のタイトルマッチ、主人公がチャンピオンに勝った試合です。
本編ではこの試合のリベンジをされちゃいます。


十ヶ月前。東都スーパーアリーナ。

『ここで第九ラウンド終了のゴング! チャンピオン猫四手 灯歌、このラウンドも試合をコントロールしています! プロデビューから破竹の八連勝で王座に手をかけた挑戦者ユミナ、チャンピオン相手に自慢の爆発力を見せる隙はないのか!? これが最後のインターバル、両陣営ともに勝負どころです!』

スツールに腰を落とした由実菜は、どっと襲ってくる疲れに焦りを感じた。
丸っこい顔には疲労の色が滲み、汗が噴き出て止まらない。無数のジャブを浴びてところどころ赤く腫れ、とくに右目は塞がりかけている。
練習してきたとはいえ、8ラウンドを越える試合は初めて。だがそれ以上に、チャンピオン灯歌の隙のなさがプレッシャーとなって重くのしかかっていた。
判定では大差で負けている。あと1ラウンドで灯歌をノックアウトできなければ、チャンピオンベルトは手に入らない。

「疲れてるか?」
「あ……うん。でも、まだやれる!」

マウスピースを抜いてくれた会長が状態を確認する。勇人の父であるが、子供の頃からジムに入り浸ってた由実菜にとっても父のような存在だった。仕事であまり家にいない実の父よりも、接していた時間は長いかもしれない。

「うん、タイトルマッチってやつはいつでも疲れるんだ」
「いつでも……?」
「そうだ。何度も防衛している猫四手だってそうだ。見ろ、腹を気にしないようにしてるだろ。ボディが効いてるんだ」
「あ……言われてみれば」

対角のコーナーに座るチャンピオン、猫四手 灯歌は両腕をロープに載せて体を開いている。余裕があり堂々と次のラウンドを待っているように見えるが、言われてみれば確かにわざとらしい。そわそわしているのは武者震いではなく、痛むお腹を抱えたいのを我慢しているのだ。
よくよく見れば、モデルもこなす端整な顔立ちがヒクヒクと動いている。苦痛に歪むのを必死に抑えているのだ。体が丸まるのは我慢できても、僅かな動作で黒髪のポニーテールが揺れるのは隠せない。

「ここまでチャンスを作れなかったからって焦るな。お前が疲れてる分だけ、猫四手も弱ってきてる。この先何十ラウンドもあると思って、納得できるまで機を窺え」
「何十ラウンドもって……それで次のラウンドで仕留められなかったら……」
「なんの、そんときゃベルトはまだ早かったってだけの話だ! とにかく焦んな、お前の勝負勘を信じろ。それで勝てなかったら、よっぽど運がなかったんだ」
「は、はい……」
「おう馬鹿息子、お前からも何か言ってやれ」

ちょうどマウスピースを洗い終えた勇人が顔を上げる。
勇人がセコンドに入っているのは小さなジムで人手が足りないのもあるが、一番信頼できる幼馴染に一番近くにいてほしいと由実菜が指名したからだ。
とはいえ、自然と涎まみれのマウスピースを触らせることになってしまう。あられもない姿は練習中にもいくらでも見られているとはいえ、どうしても乙女心は複雑になってしまう。

「まあ……由実菜が負けるところなんて想像できないからなあ。今はナーバスになってても、どうせ2分後にはぴょんぴょん跳ねて喜んでるだろ」
「お前なあ……180cm越えてる野郎の照れ隠しなんてかわいくねえぞ?」
「親父が言わせたんじゃねえか!」

親子漫才はさておいて、由実菜は不安で浮きそうになっていた脚がしっかりキャンバスにつくのを感じた。
ゆーくんが言う通りになりそうな気がする。根拠がなくても、ゆーくんが見ている景色と同じものを見られるという確信が湧いてくる。

「うっし! 行きます!」
「おう、いい顔になったな。あと一つ、迷ったらボディ叩いとけ。あれは相当キてるぞ」

勇人が洗ったマウスピースを会長に咥えさせてもらう。スツールから立ち上がり、拳を打ち鳴らす。あと2分間、やるだけやってみる。


ゴングが鳴って飛び出した由実菜を、灯歌の長身を活かしたフリッカージャブが襲う。

「ぶっ! ぶぶぶっ! ……このぉっ!」

頭を揺らされながらも前に出るが、灯歌のフットワークにするりと逃げられてしまう。
ここまでの試合は、この展開の繰り返しだった。ラウンドごとに数発は由実菜も当てることができて、なんとか最終ラウンドまで食い下がってきた。だが、それ以上に事態を動かそうと由実菜が手をつくしても、灯歌は必ずその作戦を上回ってきた。ベテランチャンプとの経験の差に、由実菜の連勝記録が阻まれようとしていた。

(でも……いける! 今なら追いつける! ブン殴る!)

インターバルで会長が指摘していた、灯歌のボディダメージ。それが灯歌の完璧なフットワークをも蝕んでいる。
こうして灯歌を追いかけていると、そのスピードが落ちたことは確信できた。

強打を振り、灯歌を退がらせる。由実菜が追う。灯歌が逃げる。由実菜が追う。灯歌が逃げる。由実菜が追いつく。
全力のバックステップを着地した灯歌に、由実菜のパンチを躱す余裕はない。

(ここだぁぁっ!)

由実菜は渾身のストレートを振り抜く。狙うはボディ。灯歌の厄介なフットワークをさらに削り、チャンスを広げる。

「んぶぐぅううっ!」

次の瞬間、突進する由実菜は灯歌の黒グローブと正面衝突していた。

(なん……で……っ)

由実菜のストレートは空を切っていた。灯歌は由実菜のパンチをサイドステップで躱し、その腕に交差するカウンターを叩き込んでいた。
では、全力で由実菜から逃げ回っていたはずの灯歌になぜサイドステップする余裕が残っていたのか。

(騙された……! あのスピードは全力じゃなかった……! 弱ったフリだったんだ……!)

由実菜は拳を突き出した姿勢のまま、黒グローブに顔面を滑らせ、リングに崩れ落ちた。

『ダウーンッ! チャンピオン灯歌、タフなチャレンジャーを撃墜ーッ! 挑戦者ユミナ、アウトボクサーの女王にダウンまで奪われ、厳しい展開! 連勝街道をひた走る若き才能も、王座の高みには届かないのかーっ!?』

潰れたカエルのようにキャンバスに倒れ伏した由実菜の横を通り、灯歌がコーナーへ戻る。由実菜は腫れかけた頬をキャンバスに押しつけたまま、微動だにしない。

(猫四手さん、弱ってない……もう最終ラウンドなのに……。これじゃ、打つ手がないじゃん……)

綺麗なクロスカウンターを貰っても、まだ由実菜には立って闘う力があった。だが、立ってもどう闘えばいいのか。それが分からない今、立ち上がる気力が湧いてこない。

「由実菜ーッ! 何ボケっとしてんだ、とっとと立て! KOで勝つんだろ!」

沈みかけた由実菜に、リングサイドから幼馴染の激が飛ぶ。

(か、簡単に言ってくれちゃって……! こっちは全然追いつけない上、ダウンまで取られて……あれ?)

勇人の無責任な言葉に、勝てない理由を列挙しようとして違和感に気付く。
ダウンを奪われたのは痛手だが、灯歌がそれほどの攻撃性を見せるのは珍しい。どうして灯歌は、わざわざ由実菜を罠に嵌めたのか。これまでのように、フットワークで逃げ切れば判定勝ちは揺がないのに。

(それができないから……逃げ切れないから、私から積極性を奪おうとした)

由実菜の闘犬めいたカンが、灯歌の弱気を嗅ぎつける。
勇人の言葉をきっかけに、なんだかいけそうな気がして立ち上がる。レフェリーにファイティングポーズを見せて試合再開を促しながら、頭はフル回転で勝利のチャンスをたぐりよせる。

(つまり……私が被弾を恐れなければ、捕まえられる! 倒せる!)

弱い犬ほどよく吠える。灯歌が急に見せた攻撃性は、これ以上は由実菜に近づいてほしくないという最後のあがき。
ダウンを奪われた由実菜も苦しいが、ダウンを奪わざるを得なかった灯歌はもっと苦しい。フルラウンドにわたって積み重ねてきたボディブローは、無駄じゃない。
レフェリーが試合再開を叫ぶ頃には、由実菜の全身にゴールへラストスパートをかける力が漲っていた。

『ユミナ立ちました! 膝から崩れ落ち、これまでかと思われましたが! しっかりと立っています! 試合再開!』

レフェリーが離れると、悲壮な顔をした灯歌が進み出てくる。ボディへのダメージで血の気が引いている、だけではない。
灯歌の覚悟と危機感の理由はすぐに分かった。由実菜が距離を詰めると、灯歌は脚をキャンバスにつけて迎えうった。やはり灯歌には、由実菜から逃げ切る力が残っていない。最後のハッタリを由実菜が見抜いた以上、下手に逃げ回るよりイチかバチかの勝負に賭けたのだろう。
由実菜の得意な距離での、打ち合いが始まる。

「ぶっ! ぐぶっ! この……ぶぶっ! ふぶぅ!」

だが、由実菜の被弾ばかりが増えていく。
チャンピオンの熟練のテクニックが、由実菜のパンチを寄せつけない。躱し、防ぎ、コンパクトなパンチで機先を制する。
当たれば一撃で倒せる距離なのに、その一発が当たらない。

「何焦ってんだ由実菜! らしくねえぞ! ボディ打てボディ!」

勇人の声が耳に届いて我にかえる。やっと掴んだ得意距離というチャンスに浮き足立って、顔面狙いに集中してしまっていた。
ボディを狙うと、灯歌は露骨にガードを下げた。だが空いた顔面を狙っても、スリッピングで躱される。上下に打ち分けてもなお、灯歌のディフェンスは鉄壁だ。

(でも、ここだ! ここが勝負所だ!)

再びボディを狙ってガードされる。空いた上に、大振りのフックを放ち、躱される。

「ぶぼほぉっ!」

由実菜に大きな隙が生まれ、強烈なカウンターをお見舞いされる。膝が折れ、上体が崩れる。

「やぁあああっっ!」

だが由実菜は泳ぎかけた右足をぐっと踏みしめた。前のめりになった重心をそのままに拳を振り回す。

「おご……っぶぅぅぇ」

カウンターをわざと貰って掴んだ由実菜の一撃は、灯歌の土手っ腹を打ち抜いた。

(もう一発!)

「おぶぶぅぅ!!」

動きの止まった灯歌に、ダメ押しのボディアッパーを叩き込む。
既にグロッギーな灯歌の腹筋を、由実菜のパワーがたやすく粉砕した。
これまではボディブローが当たってもずらされていた急所、ストマックを潰した水っぽい手応えに、由実菜は勝利を確信する。
2発のボディブローに悶絶した灯歌は、そのまま前に崩れ落ちた。

『だ、ダウーン! 壮絶なパンチの応酬に、チャンピオンダウンです! 今カウントが……ああっとここでゴングです! レフェリー試合を止めたー!』

由実菜は突然殴り合う相手がいなくなって呆然としていた。キャンバスに倒れ伏し、お腹を抱えて丸まる灯歌の背中を、その意味も分からず見下ろしていた。
丸まる灯歌にまずレフェリーが、次いでセコンド達が駆け寄る。壁を作って観客から敗者の姿を隠し、背中をさすり呼び掛ける。
集中的に介抱を受ける灯歌だったが、返事をすることはない。その代わりに、丸まった背中がビクンと大きく跳ねた。

「ウッ……オゴォェエエッッ!! ウェエエッッ!!」

キャンバスに顔を埋めこもうとするかのように前のめりになると、激しくえづいた。試合に備えて空っぽにした胃を、わずかにでも軽くして楽になろうと胃液を吐き出す。
灯歌自慢の長く滑らかな黒髪ポニーテールが、苦しみを表すかのように跳ねまわる。

「はぁーっ、はぁーっ、はっ、ふっ、はーっ……」

大観衆の前で長々と嘔吐した灯歌が、ようやく呼吸を取り戻す。
試合の緊張が戻らず呆然と見ていた由実菜は、顔を上げた灯歌と目が合った。

「ひっ……」

目尻に涙を浮かべた灯歌が、すさまじい形相で睨みつけてくる。不意打ちで強烈な感情をぶつけられた由実菜は、思わず竦んでしまった。

「由実菜、やったな! チャンピオンだぞ!」
「わっ!? あ、ゆーくん……」

だが、そんな感情はリングに上がってきた勇人に背中を叩かれて霧散した。
勇人に向き合うと、次第に由実菜の心中に色々な感情が湧き上がってくる。
ゆーくんがリングにいる。
試合は終わったんだ。
私……勝ったんだ!

「ゆーくん……私、私、チャンピオンに……」
「そうだぞ! チャンピオンだ!」

緊張が解けたのか、脚がもつれた由実菜を勇人が抱きとめる。由実菜は逆らわず、勇人の胸板で激闘に熱くなった顔を休めた。

柱前堂 2021/07/28 22:07

【試し読み】幼馴染はチャンピオン(復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染 第1章)

復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染の試し読み、第1章分です。
主人公の日常風景、幼馴染の関係をお楽しみください。


館林 勇人が改札を出ると、2つ年下の幼馴染の姿はすぐに見つけられた。

目が合った犬芥 由実菜は、ブンブン手を振って勇人に駆け寄った。

「やー、久しぶり! ゆーくん、背が伸びた?」
「一週間で伸びるか、由実菜が小さいんだろ」

勇人の頭頂まで手を伸ばそうとする由実菜の頭をポンポン撫でる。
勇人より20cm以上低い身長は、実に撫でやすい。二人の身長に差がついた数年前に面白がって頭を撫でていたのが、今では定番のスキンシップになってしまった。
前の休みで由実菜と別れてからわずか一週間、されど一週間。大学の寮で過ごし、この町と、由実菜と離れている間に何かが変わってしまうのではないかという不安が、たちまち解けていく。

駅から商店街を突っ切って実家まで、二人で並んで歩く。
身長181cm、大学のボクシング部ではスーパーウェルター級の勇人の体は縦にも横にも大きく、とにかく目立つ。それでなくても、顔を知られた地元なのだ。
だが、155cmの由実菜がそれ以上に目立つ。毎日通っている地元だというのに、初めて来た遊園地のように落ち着きがないからだ。
ボーイッシュに跳ねさせたショートカットは金髪に染めていて、由実菜の丸っこい顔をますます小さく見せている。
シャツの裾を結んでお腹を出し、きわどいクラッシュホットパンツを履いた格好はともすればセクシーになりかねないが、由実菜の場合はやんちゃな印象が先に立つ。短く絞られたシャツが隠すことでかえって強調されている小さな胸やホットパンツの破れた布地に縁取られた締まったお尻よりも、割れた腹筋やよく絞られたくびれ、シルエットからは意外なほどに太く発達した手足の筋肉に目がいくからだ。
シルバーアクセが好きで、チョーカーやイヤリングはなかなかサマになっている。これでカラオケに行くとロックを熱唱するので、小っこいくせにいやに格好いい。
童顔な由実菜の大きな目は何を見ても楽しいとばかりにきょろきょろ動き、太めの眉が追従する。それでいて、歩幅の大きい勇人に遅れるどころか手を引いて前を行く。
今年で高校卒業する歳とは思えないほど、小動物っぽい女の子。

我が幼馴染ながら、尋常じゃなく可愛い、と勇人は思う。惚れた弱味かもしれないが。

「それでね、昨日までは赤羽さんがスパーリングパートナーに来てくれてたの」
「赤羽……って、あのハードパンチャーの」
「そうそう。私と再戦するまで負けたら承知しません、って、すごく熱心につきあってくれて」
「はー……。あんな真面目で大人しそうな人が、そんな好戦的な……」
「なんかね、負けたことはあるけど、あんなに悔しい負けは初めてだって。だから私も、赤羽さんに勝って嬉しかったことは今でもはっきり覚えてるって言っておいた」

由実菜とファイトスタイルが噛み合った赤羽戦は、激しい乱打戦で語り草になっている。間近で見ていた勇人からすれば、とくに心臓に悪かった試合の一つだ。
とくに最終ラウンドで、赤羽が予想外の粘りを見せたときは、どっちかが壊れるまで終わらないんじゃないかとすら思った。頭がいいからか妙に諦めの早いところがある赤羽がああも根性を見せたのは、後にも先にも由実菜戦だけだ。

「まー、あんなに言われたら負けられないよね。責任重大、ってね」

にかっと笑う由実菜は、そう言うわりにプレッシャーを受けた悲愴さは感じられない。爽やかな闘志をぶつけられて、自らの闘志を燃え上がらせている。

そんな話をしていると、通りかかった八百屋のオヤジから声がかかった。

「おや由実ぼう、今日はカレシも一緒か」
「カレ……っ!? ちち、違いますー! 見ての通りのゆーくんですー!」
「まあ、そのタッパは見間違えないな」
「いやあ、ははは……ご無沙汰してます」

地元の大人には由実菜と遊び回っていた頃から知られている。今は勇人の方が見下ろすほどに大きくなったが、だからこそ頭が上がらない。

「今日は迎えに来ただけ! すぐ帰りますー」
「おおそうか、由実ぼう、毎日頑張ってるもんなあ! 次の試合も楽しみにしてるよ」
「あれ、オヤジさんボクシング観ましたっけ」
「いやあ、お前らが出るなら観るだろ。そしたらなあ、由実ぼうが倒されても躱されても諦めないで、最後には勝つんだもの。思わず手に汗握って観ちまって。もうすっかり試合が楽しみになっちまったよ」
「いやーははは……照れるなもう。でもまあ、これからもっともっとすごい試合しますから」

手を振るオヤジさんと別れて、実家への道に戻る。
地元の大人たちは、初期の由実菜ファンと言える。元々顔見知りという条件はあれど、由実菜は自分のファイトでボクシングに興味のなかった大人たちのハートを掴んでいる。
由実菜が進路を決めたとき、どんなボクサーになりたいか聞かれたのを勇人は覚えている。ボクシングに興味がない人にもファンになってもらえる、魅力的な強さを持ったボクサーだと即答したときは、いつまでも子供みたいな幼馴染も案外いろいろ考えているんだな、と思っただけだった。
だが、少し離れて見てみると、由実菜は着実に夢に向かって進んでいるようだった。

などと考えながら歩いていると、由実菜の脚が遅れてきているのに気付いた。見ると、その視線はたいやき屋に吸い寄せられている。

「……食べたいのか?」
「えっ、あっ、いやー……」
「奢るぞ? わざわざ迎えに来てくれたんだし」
「うっ、ぐぐぐ……いや、やめ……とく!」

小さな体で食べたい由実菜と自制する由実菜の二人分を表現するかのように大きく悶え、それから太刀を振り下ろすかのように宣言する。
買い食いの一つもすればデートっぽさが増すし、という勇人の下心は粉砕された。

「まだ減量は始めてないんだろ?」
「そうだけど〜やっぱりカロリーは怖い……」
「そっか」
「それに、ジムに着いたらまたすぐ練習だし。あんまり胃に入れると……ホラ、その」

吐く、と直接的に言わなくなっただけ、やんちゃな幼馴染も成長したものだ。もちろん勇人は乙女にそんなことをわざわざ指摘しない。

「練習の合間にゆーくんの出迎えって言ってやっと休憩時間貰ったんだから。なんだかんだ会長も息子に甘いよね」

親父が甘いのは俺にじゃないだろう、と言えないのは、気配りなのかヘタレなのか。
背後にブンブン振り回される尻尾が見えそうな幼馴染を見ながら、勇人は悩む。

そんな勇人の内心に気付かず、由実菜は続けた。

「やっぱりさ、リングに上がっちゃったら、やっぱり逃げて出直すってわけにはいかないから。練習できるうちには練習しておきたい。あの時たいやきを止めておけば、っていうのは……ちょっと間抜けすぎるよね」

前のめりと呼べるほど熱心な幼馴染の言葉が、チクリと勇人の胸に刺さる。
勇人はたいやきどころか、由実菜と会っていない間に何度も合コンに行った。

勇人の父は元世界チャンピオンにしてジムオーナー。当然のように、小学校に上がると同時にジムでの練習が始まった。
英才教育の甲斐あって、ジュニアのうちはかなりの成績を残した。勇人もこのまま順調に勝ち続け、いずれは父のように世界を獲るのだと、希望と心地良いプレッシャーを感じていた。

ところが、高校生になると思うように勝てなくなった。磨き上げた基礎の動きはまだ優位性を保っていたが、ジュニアの頃ほど圧倒的な武器ではなくなった。フィジカルで押し負ける場面が増えた。多様化する戦術に対応しきれなくなった。
つまるところ、ライバル達も練習を積んできたことで、英才教育のリードが縮んでしまった。そして勇人のもう一つの武器であったはずの才能は、そもそも存在しなかったのだ。
青春の中で悩みに悩んだ勇人は、そう理解した。

勇人の高校での記録は、インターハイ2回戦突破という、肩書のわりには微妙な成績だった。スポーツ推薦で大学に進学し、今は生家のジムを離れボクシング部の寮でボクシングを続けている。
環境を変えればまた伸びるかも、という周囲の期待を裏切り、勇人はやはり同世代のトップ争いから脱落した。
一度自分の才能に見切りをつけてしまった勇人は、実家にいた頃のようにストイックなままではいられなかった。スポーツ推薦で入ったボクシング部の寮生活は厳しかったが、抜け出して遊ぶことを覚え、この半年ほどですっかり”大学生らしい”交友関係を築き上げた。

そんな勇人にとって、今も成長を続け自身の実力に希望を持っている由実菜は眩しすぎた。もう子供の頃からこれが自分の人生だと思っていたボクシングを、止めてしまおうかと思うほどに。

偉大な世界王者のセンスも情熱も、息子に引き継がれなかった。だがそれと同じものが、勇人の真似をして入門した2つ下の幼馴染に秘められていた。
勇人が同世代の中で伸び悩む一方、高校入学と同時に全世代を相手にするプロデビューが決まるほどに。無謀と言われた試合を幾度となく勝ち抜くほどに。

幼馴染の手を引いて商店街を歩く女の子、犬芥 由実菜は世界チャンピオンなのだ。

柱前堂 2021/07/28 21:49

【新作予告】復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染

柱前堂の新作予告ページができました

復讐ボディブローに絶対負けない幼馴染

7/31 発売予定です。
発売までの間、試し読みパートを段階的に公開しようと思います。

「JKチャンプ腹パン地獄」というワンフレーズから始まった企画が6万字近くになりました。どうして……。

ボディブローとそのダメージの描写はもちろんのこと、ボディブローを受けざるを得ない状況、どれほど痛く苦しくてもギブアップしない理由にもこだわりました。
当社比で丁寧な描写を心がけたので、文字数のわりには読みやすいかと思います。

主人公の由実菜もなかなかにかわいく書けたかと思います。対戦相手の悪い大人、灯歌の方が書くのはスムーズでしたが……。

主人公には限界まで苦しんでもらいましたが、終わりは爽やか……のつもりです。

作品ページには書きにくいメタな売りについてつらつら書きました。
柱前堂の新作、どうぞよろしくお願いします。

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