フリーセンテンス 2021/06/20 17:38

黄昏の地下シェルター 第二部 遮断

 コツコツと書いていた地下シェルター物語の第二弾です。
 エロ要素ゼロですが、真面目に書きましたので、お暇なときにでも読んでいただければ幸いです。
 それではどうぞ!


・・・・・・季節は初夏。長かった梅雨が明け、ようやく夏が本番に向かおうとしていた頃だった。サンクチュアリ・キャピタルが拠点を置く地下シェルター内は、外界とは完全な遮断状態にあり、嫌悪感を伴うような湿度や熱気とは無縁の快適な状態が保たれていた。にも関わらず、地下二層に設置されたディーリングルーム内では、サンクチュアリ・キャピタルの社員たちが額に汗を流しながら忙しなく動きまわっており、その熱気と蒸し暑さは、空調が効いているにも関わらず、真夏を彷彿とさせるものがあった。地上における問題の発生が、地下世界へと波及してきたからだ。
「日経平均株価と先物が下落に転じたぞ。凄い勢いで売られてる。こっちも早く売りを入れろ!」
「香港、上海、シンガポールも下落に転じた。アジアの各市場も軒並み総崩れになりやがった! くそったれッ!」
「昨日、買いを強めていたのが完全に仇になったな・・・・・・」
「ぼやいてる暇があったら早く売らないか!」
「恐怖指数が凄いことになってるぞ。なんだこの上げは・・・・・・」
「金相場も値下がりはじめた。銀もだ」
「おそらく損失補填の換金売りだろう。でもすぐに騰がるぞ。ゴールドはいまのうちに買いまくっておけ」
などというやりとりが、唾を伴いながら激しく飛び交っている。にも関わらず、誰もマスクを着用せず、なおかつそれを誰も咎めないのは、この場所が「安全」だということをみなが承知しているからであった。
 そんな時だった。エレベーターを昇って、ひとりの男が騒然とするディーリングルームに現れたのは。その人物は長身で、鍛え上げられた身体が見事に引き締まっており、それは着こなしたスーツ越しにもわかるほどの体格だった。頭髪にはわずかな白髪が入り混じっているものの、いまだに豊かさを誇っており、しっかりと整えられていた。眼光は鋭く、精悍な顔つきにも、身のこなしにも一切の隙がなく、まるで戦歴の強者を彷彿とさせるものがあった。彼の亡父を知る者は、「父親の若い時にそっくりだ」と言ってはばからない。血が繋がっているから当たり前ではあるのだが、それを聞くと背筋に虫が走るような感覚に襲われるのが常だった。男の名前は東堂勝也といって、年齢は三七歳。サンクチュアリ・キャピタルの最高経営責任者にして、この地下シェルターの支配者たる人物である。
 東堂勝也の登場に伴って、騒然としていたディーリングルームが、一瞬、まるで台風の目の中にでも入ったかのように鎮まり返った。それまで忙しなく動かしていた口を慌てて閉ざした者、座っていたイスから立ち上がって礼を施す者と、各々がとる行動は様々であったが、それは畏怖によるものではなく、畏敬の念からくるものであった。
「かまわない。みんな仕事を続けてくれ」
そう言いながら、東堂勝也は大股で歩を進め、自分の腹心としてこの場を取り仕切っているファンドマネージャーの只野結城の元へ赴いた。彼は勝也の大学時代の後輩にあたる人物で、大手証券会社を経た後、ヘッドハンティングによってサンクチュアリ・キャピタルにやってきた。年齢は三五歳で勝也よりも年下であるが、低身長の肥満体型であるうえ、顔もやや老けて見えるため、勝也よりも年上にみられることがしばしばあった。
「どうもえらいことになっているようだな、結城。いま開いている市場はどこもパニックか?」
 複数のモニター画面に表示されている指数やチャートに目をやりながら、勝也が腹心に語りかける。同じ画面を眺めながら只野がそれに応じた。
「ええ。ボストンとサンフランシスコで発病者が確認されたという速報が流れた途端、ご覧のあり様ですよ。この流れは間違いなくヨーロッパ、それに震源地であるアメリカにも波及するでしょう」
「そうなるだろうな。で、損失はどのくらいになりそうだ?」
「いま、全力で売りを入れていますが、昨日投じていた資金が多かっただけに、かなりの額になると予想されます。今月はかなりの額を稼いでいたのですが、まったく、最悪のタイミングですよ」
そう言って只野は苦虫を噛み潰したような表情をしながら軽く舌打ちをした。新型ウイルスの世界的流行に伴って、低迷する世界経済を下支えするために、各国が協調して大規模な金融緩和をおこなうと発表したのがつい昨日のことである。それによって、これまで極端に下がっていた株価が今日は朝から大幅に上昇していたのだが、資本主義の総本山たるアメリカで、政府が把握していない発病者が市中で確認されたという報道が成された結果、まだ危機は去っていないという認識が広まってこの有り様である。舌打ちの一つや二つ、したくなるのも無理はなかった。
腹心同様、勝也も舌打ちをしたい気分に駆られたが、喉奥よりこみ上げてくるそれを意識的に我慢して、各種モニター画面に表示されているチャートやグラフ、指数をジッと見つめた。モニター画面に表示されているそれら数値は、刻一刻と変化しているが、好転する兆しを見せないまま悪化の一途を辿っている。おそらくは、今日一日、ずっとこんな調子だろう。
(これはダメだな・・・・・・)
内心でそう決断を下した勝也は、再び腹心に声をかけた。
「損失を取り戻そうと、無理にトレードを続ける必要はない。ある程度売った後は清算して手持ちの現金比率を厚くしておいてくれ。なにかあった時、すぐに反応できるようにな」
「はい、心得ています」
「よし」
それから、彼は慌ただしく取引を続けている社員たちに向かって、自らに注意を向けるよう、二度、三度と手を叩いて耳目を集中させた後、豊かな声量でもって言葉をかけた。
「みんな、慌てる必要はない。まずは一度、深呼吸をして冷静さを取り戻すんだ。これはイレギュラーな事態であって、損失を被ったとしても君たちの責任ではない。もちろん、冬のボーナス査定にも響かない。だから損失は気にせず、マニュアルに従って冷静に対処するんだ。それが、被害を最小限で食い止める、最良の手段なのだからな」
「はい!」
勝也の声かけにより、半ばパニックに陥っていた社員たちは、幾分か冷静さを取り戻したようである。まるで波が引くように、ディーリングルーム内の喧騒は徐々に収まっていった。
「・・・・・・」
ただ、場を収めた勝也だけは、表面上は平静さを保ちつつも、内心は穏やかではいられなかった。
 現状の市場の動きは、二〇二〇年に新型コロナウイルスが猛威を振るっていた状況に酷似している。だが、今回南半球で流行している新型ウイルスは、コロナウイルスよりも感染力が強く、判明している致死率もほぼ一〇〇パーセントと高く、しかもわからないことが多すぎる。なにしろ、火星由来のウイルスであるからだ。
(・・・・・・前回はどうにか収まった。だが、今回はどうだろうか)
そう内心で呟きながら、下落を続ける各種チャートをジッと見つめる勝也だった。

          *

 ・・・・・・事の発端は二年前まで遡る。
幾つかの偶然が重なって、直径が一二〇キロメートルを超える小惑星が、木製の重力圏を脱してある惑星の地表に衝突したのだ。小惑星の衝突によって地表には数千キロメートルに及ぶクレーターが出現し、地殻まで抉れ、舞い上がった粉塵や岩石は宇宙空間にまで到達した。前代未聞の大災害にして大惨事たるこの出来事は、むろん、地球で起こったことではない。被害を受けた惑星の名前は火星という。
 これは、間違いなく不幸中の幸いというべき宇宙災害であった。これがもし、地球で起こったとしたならば、人類はもちろんのこと、動物や植物、昆虫、さらにはあらゆる海洋生物にいたるまで、ほぼ全ての生物が死滅していたに違いないからだ。地中奥深くに棲息している微生物は助かるかもしれないが、この惨事が地球で発生したならば、地球は間違いなく辞書的な意味で死の惑星と化していたに違いなかった。
もちろん、今後の宇宙開発を考慮すれば、惑星開発の筆頭に挙げられていた火星に生じた今回の悲劇は、真の意味で哀しむべきことであったが、それでも地球に衝突するよりはずっとマシで、さらに踏み込んで述べるとするならば、大多数の者にとっては世紀の天体ショー以外の何モノでもなかった。事実、小惑星が火星に衝突した際には、多くの人たちがその瞬間を目撃しようと、望遠鏡を覗いて夜空を見上げたものである。
 だが、古来から言われているように、他者の不幸を喜ぶような真似は慎むべきであった。不幸を嗤う者には不幸に遭うと言われるように、どんな形で不幸が襲ってくるか、知れたものでないからだ。
 小惑星の衝突に伴って宇宙空間へと巻き上げられた火星の地殻は、その大部分は火星の重力に引き寄せられる形で火星に降り注いだが、一部は火星の重力圏を脱して宇宙空間を彷徨った挙句、流星群となって地球に飛来し、主に南半球に降り注いだのであった。
 地球に飛来した火星由来の隕石群は、その大部分が大気圏突入時に燃え尽きたり、海に落下したりしたが、それでも一部は陸地に降り注ぎ、南半球の広範囲に被害をもたらした。特に多くの被害を受けたのが南米で、ブラジルのキリスト像や、ペルーのマチュピチュ遺跡など、貴重で重要な文化財が被害を受けただけでなく、隕石は市街地にも落下して多数の死傷者をだした。特にサンパウロの貧民街に落下した隕石は直径が一五メートルを超える巨大なモノで、これによって四五〇〇人を超える死傷者がでた。仮定で語られていた宇宙災害がついに現実のモノとなったわけだが、この一連の出来事は、危機のほんの序の口でしかなかったのである。
 隕石の被害を受けた南半球に各国が援助隊や救援隊を派遣するなか、複数の隕石が回収された。大きなモノは二〇メートルを超えるモノから、小さなモノは数センチにいたるまで、合計で数十個の隕石が回収されたのだが、世界中が大騒ぎになったのは、回収された複数の隕石から、未知のウイルスが発見されたからであった。
 遺伝子情報も、塩基配列も、既存のウイルスとは何もかも異なるこのウイルスは、火星からやってきたウイルスとして、火星を意味する「マーズ(Mars)」ウイルスと命名された。
このマーズウイルスは、宇宙における生命の神秘と、地球外生命体の可能性を解き明かす大いなる鍵だとして世界中を熱狂させたが、この時点で、一部の人間は、この未知のウイルスが人間に新たなる脅威をもたらす可能性を示唆して警鐘を鳴らした。
 アメリカのジョンズホプキンス大学の名誉教授フルアレッド・バナーキンは、この新型ウイルスが新たなパンデミックの引き金になることを危惧する声明を発表し、ロベルトコッホ研究所の所長ルドルフ・マコーミックは、隕石墜落付近の大規模な殺菌消毒をおこなうよう各国政府に書簡を送った。著名なジャーナリストであるガナ・ケインは、自身のブログで二〇二〇年に猛威を振るった新型コロナウイルスの脅威を思い起こすべきだと注意喚起を促し、フランス大統領エルディン・ボナパルトは自国民に対して隕石が落下した国への渡航を自粛するよう勧告をだした。他にも現代の予言者として有名なサラ・フェイトが、この新型ウイルスによって人類が滅亡するという予言をして話題になったりしたが、多くの者は史上初となる地球外生命体の発見に歓喜して、注意喚起に耳を貸そうとしなかった。
 世界に戦慄が走ったのは、隕石衝突付近の住民を対象とした健康調査にて、住人の複数からマーズウイルスが検出されたという一報がもたらされた時だった。
この時点では、マーズウイルスが人体に与える影響はまだなにも判っていなかったが、危機感を抱いた一部の人間の行動は迅速だった。
食料や医薬品、マスクや手袋といった物資を買い込んだり、家に籠って人に遭うことを避ける者が続出したのだ。まだ、新型コロナウイルスによる脅威の記憶が色濃く残っていたからである。この行動は、特に金持ちほど顕著で、アメリカの富豪のなかには契約した地下コンドミニアムに避難したり、豪華客船を借り切って洋上で長期滞在を試みるなどの動きをする者が相次いだ。
 当然のことであるが、地下シェルターを保有する東堂勝也も行動を起こしたひとりだった。彼は二〇二〇年の時と同様に、社員たちと地下シェルターに籠ることを決めた。
 この決定に対する不平や不満の声は少なくなかった。いくら業務命令とはいえ、地下シェルターに住居があるとはいえ、地下滞在中は特別手当が出るとはいえ、外部との接触を完全に遮断した地下空間での長期滞在生活は、慣れない者だけでなく、耐性がある者にとってもかなりのストレスになる。実際、地下で長期滞在生活をおこなった二〇二〇年の健康診断では、社員のおよそ七割に健康状態の悪化が数値として確認された。しかも前回からそれほど期間を空けないでの再度の地下生活だ。生体実験をしているわけでもないのだから不平や不満が出て当然だ。
 それでも、社員たちは最終的に勝也の決定に従った。業務命令だから仕方がない、という半ば諦めの境地もあったが、やはり新型コロナウイルスの記憶が新しかったことと、なにより勝也が社員たちから信頼されているからであった。どんな時でも沈着で、冷静で、決して激発することなく対応する彼に対し、社員たちは畏敬の念を抱いていた。
 サンクチュアリ・キャピタルの社員と関係者、それに若干名の家族が地下シェルターに引き籠ってから最初の一か月間は、地上では特に変化は見られなかった。マーズウイルスに感染している者が日を追うごとに増えているという報道がなされてはいたものの、感染者の体調になにか変化があったわけでもなく、日常は変わらず続いていた。
「人間の体内には様々なウイルスや細菌が存在していますが、それらの大半は人体に害を及ぼしません。おそらくマーズウイルスも、そのような常在ウイルスとして、今後は人類と共存していくことになるのではないでしょうか」
テレビでそう主張する学者が居て、過度な心配はする必要はない、という意見が増えていった。マスコミの中には地下シェルターに籠って生活するサンクチュアリ・キャピタルのことを取り上げて「過剰な行動」だと断言して嘲笑に近い報道をするテレビ局もあった。
「臆病な連中だなぁ。そんなにウイルスが怖いのなら、一生地上に出ないで地下で生活していればいいのに」
と嗤いながら発言するコメンテーターがいて、後日、その報道番組がシェルター内での生活を取材させてほしいと申し込んできたことがあったが、当然、勝也は丁重に断りを入れた。ただ、この時点で彼は、自分の決断に少なからぬ疑義を抱くようになり、それはウイルスに対する楽観論の蔓延に伴って、少しづつ増幅していった。
 世界では地下コンドミニアムに籠っていた富豪が外に出たり、洋上生活を送っていた豪華客船が港に戻ってきたという報道がされていた。なかには「火星ウイルスを取り込んで新人類に進化しよう!」と名打って、隕石墜落現場を訪れる者が増えていることを伝えるニュースもあって、勝也もシェルター解放を考えはじめた。
 それに「待った」をかけたのが、同年の友人で、シェルター内の病院で勤務する医師の真田慎吾だった。彼は勝也に対し、マーズウイルスの感染者が減少するどころか増加していることを指摘し、自分が抱いている危惧を率直に伝えてきた。
「世間では楽観的な報道が大半を占めているが、世界中の研究者たちは未だに危機感を持っていて、軽率な行動を控えるべきだと警鐘を鳴らしている。ぼくもその意見に賛同だ。このウイルスに関しては、まだわからないことが多すぎる。公表されている研究結果はわずかだし、論文の数も少ない。わかっていることといったら、このウイルスが「人間」からしか発見されていないことと、とても強い感染力を持っているということだけだ。確かな情報はそれだけで、未知の脅威は軽んじるべきではないだろう。既存のウイルスのなかには長期間潜伏した挙句に発病し、人体に致命症を与える奴もいるんだから、少なくとももう少し様子を見た方がいいんじゃないかな。なにが正しいかなんてこの段階ではまだわからないんだから、嗤いたい奴は笑わせておけばいいし、批判したい奴には批判させておけばいい。ただ、それらの声に惑わされる形で、外部と完全に隔絶された現在の状況を無下にする愚行は○すべきではないだろう。まぁ、もっとも、支払う特別手当が惜しいというのなら話は別だがね」
最後にチクリと釘を刺すところが実に友人らしいと勝也は思った。
「確かに、その通りだ」
彼は友人の意見を受け入れた。
 地下シェルターの解放はいつでもできる。しかし、一度解放した後に、危機が発覚したとあっては目もあてられない。そのことを踏まえて、勝也は社員たちに、地下生活をもうしばらく継続する旨を伝えたのだった。
 その、直後だった。凶報が世界を駆け巡ったのは。
 感染者が、発病したのだ。

 ・・・・・・発病の最初の症状は、痛みを伴わない血涙である。これが丸一日続いた後、感染者の全身を強い倦怠感が襲い、動けなくなる。その後、激痛を伴う様々な全身症状が出現し、脂肪や筋肉が溶解をはじめる。そして最後は、溶けた体溶液によって身体が風船のように膨張して破裂し、死にいたる。それはあまりにも悲惨で無残な最期であり、この世に存在するあらゆる死因のなかでも「もっとも最悪」と評されるほどであった。
マーズウイルスに感染した場合、潜伏期間や、発病率はまだ定かではないものの、感染者が発病してから死にいたるまでの期間は、おおよそ一週間から一〇日間という発表がなされた。死にいたる期間の個人差は少なく、子どもであれ、老人であれ、男性であれ、女性であれ、他に疾患を患っている病人であれ、死期に差はほとんど見られない。だが、驚くべきはその致死率の高さだった。
「推定致死率一〇〇パーセント」
 最初の発病者が死にいたってから三週間後、世界保健機関がそのような報告書を発表すると、全世界がパニックに陥った。なにしろ、この時点で、マーズウイルスに感染した者の数は、全世界でおよそ二〇万人という推計が出されていて、その数はなおも増加傾向にあったからだ。
 各国政府はこの混乱を鎮めようと躍起になった。
「ウイルスに感染した者が全て発病するわけではない。初期に感染が確認された者であっても、いまだ発病が確認されていない者は大勢いる」
「現段階で発表されている致死率は推定で、今後は、発病者の増加と共に、徐々に低下していくものと思われる」
「WHOは軽率な発表を控え、人々に過度の不安を与えるべきではない」
「発病者は隕石が降った南半球に集中しており、北半球は大丈夫だといえる」
「マーズウイルスは特徴のあるウイルスのため、ワクチンや特効薬の開発は容易だ。危機はすぐに終息に向かうだろう」
「過度に怖がるべきではなく冷静に対処すべきだ。恐怖はすぐに伝播して人心を惑わす。パニックがウイルスより悪質であるという事実は、二〇二〇年のパンデミックの際に充分思い知らされたことではないか」
と矢継ぎ早に発表したが、発病者の数は日を追うごとに増えていき、それに伴って死者の数も増加していくと、世界的な混乱は増してゆくばかりとなった。
 この災禍の中、サンクチュアリ・キャピタルは活況を呈していた。マーズウイルスが確認された直後より、地下に籠って潜伏生活を送っていたがゆえに、いま自分たちがいる場所が安全だとわかっているからこそ、地上の混乱をよそに落ち着いて活動ができるのだった。同業他社が、慌てて在宅勤務を取り入れたり、変動制シフトを導入したり、あるいは臨時休業を迫られるなどの対応を迫られて混乱をきたすなか、サンクチュアリ・キャピタルはいままでの鬱憤を晴らすかのごとく貪欲に利益を追求していた。
 事態は悪化の一途を辿っている。発病者の数が増加するごとに、社会全体が機能不全の様相を呈しはじめ、それが経済へと波及してゆく。混乱は感染者の数が多い南半球ほど深刻で、発病者の数が一万人を超えたベネズエラで五〇万パーセントというインフレ率が確認され、社会不安による大規模暴動が頻発するようになったアルゼンチンでは何度目かになる債務不履行が宣言された。世界でもっとも潜在的感染者の数が多いとされるブラジルでは通貨レアルの下落が止まらず、オーストラリアのシドニーで複数人の発病者が確認されると高騰していた不動産価格が急落した。南アフリカではマーズウイルスに感染することを恐れた労働者たちが大規模ストライキを決行し、金鉱山やウラン鉱山、ダイヤモンド鉱山での採掘が停止に追い込まれた。ニュージーランド、シンガポール、インドネシア、タイ、モーリシャス、ペルー、中央アフリカでも発病者が続出し、感染者はついに隕石が落下していない国や北半球でも確認されはじめた。
その世界的な混乱は、世界の経済市場をあっという間に地獄へと追いやった。売りが売りを呼び、株式、債券、通貨、資源など、あらゆる経済商品の下落が連日のように続く。ニューヨーク、東京、香港、上海、ロンドン、フランクフルトなど、主要な市場の下落率は軒並み四〇パーセントから五〇パーセント台を記録し、特に東京市場が最悪で、発病者が確認されてからの下落率は五二パーセントに達した。ありとあらゆる業種の銘柄が下落したため、まさに売れば勝てる状況だ。
 当然、この機を逃すまいと、サンクチュアリ・キャピタルはここぞとばかりに容赦なく売りを入れ、莫大な利益を稼ぎだした。それこそ、二〇二〇年の時とは比較にならぬほど多額を。
「笑いが止まらないとはこのことですね。見てくださいよ、あの放送局。我々を嗤っていたのに、連日安値を更新中です。せっかくですから買いまくってあの報道番組を廃止に追いやってやりましょうか」
そう言ってファンドマネージャーの只野は笑ったが、勝也は頷きつつもその案を承諾せず、「慢心せずに業務を遂行せよ」という命令を下すだけにとどめた。
 この時、勝也は漠然とした不安を抱かずにいられなかった。
 発表される感染者の数が止まらないのだ。それに伴って、発病者の数も増えてゆく。だが、致死率は一向に下がらない。一〇〇パーセントで推移したままだ。これが何を意味するか、少し考えれば理解できるはずだ。
 地上での混乱は日を追うごとに増してゆく。
感染者と発病者の増加に伴って、世界保健機関は早々にパンデミックの宣言をした。それを受け、各国は相次いで非常事態宣言を発令し、渡航警戒レベルを最大に引き上げると同時に、不要不急の外出禁止措置を講じた。感染が拡大する南半球との人の往来は完全に遮断され、さらに北半球諸国では、隕石落下後に南半球に滞在歴がある者に対しては強○的にウイルス検査が実施されるようになった。そして、マーズウイルスへの感染が確認された者に対しては、強○隔離措置が取られ、従わない者には厳罰を伴う厳しい態度で臨まれるようになった。
医療体制が劣弱な発展途上国では、感染者の措置的射殺が推奨された。東南アジアやアフリカ、そして感染爆発に歯止めがかからない南米で特に積極的におこなわれ、措置的射殺による犠牲者の数は、最初の発病者が出てから一か月間で、世界推計で一五万人を超えたという統計結果が国際的人権団体から発表された。
 当然のことながら、措置的射殺などの強硬政策に対しては少なからぬ批判の声が上がったが、射殺を推奨する国々の大統領や首脳は意に介さなかった。
「感染者はいずれ死ぬのだ。遅かれ早かれの違いだけで、どうせ助からないのであれば、苦しんで死ぬよりも、いっそひと思いに殺してやるほうが慈悲というものだ!」
まだ感染者が全員発病すると決まったわけでもないのに関わらず、そう断言する大統領まで出現して、世界は恐怖に支配される様相を呈しはじめた。
 世界がここまで強行かつ強力な手段を迅速に講じた背景には、やはり二〇二〇年に流行した新型コロナウイルスの教訓があったと言わざるを得ない。あの時、世界が一丸とならず、甘い対応に終始したばかりに、感染拡大を抑えられずに被害拡大を招いたという反省があった。今回は、新型コロナウイルスよりもさらに強力で、凶悪なウイルスが蔓延しているのだ。対応を一歩でも間違えれば、人類は絶滅の危機に瀕することになるかもしれない。その恐怖が、世界の為政者たちを凶行へと導いたのだった。
 それは日本でも同様だった。新型コロナウイルスが終息した後、日本では法改正がおこなわれ、危機に際しては個人の自由を著しく制限する法案が採択された。それは「新型コロナウイルス法案」とも揶揄される法律で、その最大の特徴は、疫病の感染拡散に繋がる行動をとった者に対しては、その意思を伴わなくても、最高で無期懲役に処するという重い厳罰化だった。当然、マスコミや人権派を自称する弁護士団体、市民活動家などが相次いで反対を表明したが、大多数の民意が、法案成立の後押しをした。善意に縋る自粛の要請など、危機に際してまったく意味を成さなかったことは、新型コロナウイルス騒動で痛いほど理解された事柄である。
 新型コロナウイルスの教訓は生かされた。当初は楽観的意見が蔓延っていたものの、世界保健機関のパンデミック宣言を受け、日本国内でもウイルス検査が相次いで実施された。そして、すでに感染が確認されている者も含めて、合計で三五八人の感染者が、国内の感染症指定病院へ強○隔離されるにいたったのであった。この時、神奈川県在住の二十代の男性が、措置に抵抗して逃走を図ったとして射殺されたが、この一件に対して、寄せられた意見の大半は、発砲した警察官の対応を讃美する声であった。
「撃った警察官はよくやった! 素晴らしい!」
「人の迷惑になる行動をとったんだから、射殺されるのは当然のことだ」
「こういう輩は、自分のことしか考えないんだから殺されて当然だ」
「自業自得だ」
「どうせ死ぬんだから、さっさと自殺すればよかったのに」
「むしろ射殺した警察官が可哀そうだ」
「これだから最近の若者は・・・・・・」
そのような意見が多数を占め、それはそのまま感染者叩きへと発展していった。
 いつか見た光景が日本中で相次いだ。
 メディアやネットを通じてマーズウイルスの脅威と恐怖が極彩色を伴って伝わると、人々はその悪夢から目を背けるかのごとく批判の矛先を感染者へと向けてゆき、やがてそれは感染者本人だけでなく、その家族に対しても牙を剥くようになっていった。悪口、投石、落書き、偏見、差別、個人情報の拡散などなど、悪意が悪意を伴って伝播してゆき、感染者やその家族は社会的に追い詰められていった。
 感染者やその家族からしたらたまったものではない。治療法がなく、発病したら死ぬことが確実なウイルスに感染しているというだけでも絶望的なのに、そのうえ社会からも強い悪意を伴った批判にさらされるとあってはたまったものではない。そのため、感染者のなかには自暴自棄に陥る者が続出し、自殺したり、なかには故意に感染拡散をしようという自爆テロに近い行動を起こす者もいて、それによって感染が拡大したという報道がなされると、感染者に対する批判や非難の声はさらに強く増していった。
 当然のことだが、社会がこのような状況にいたって、経済がうまく循環するわけがない。しかもマーズウイルスは、新型コロナウイルスと違って、感染して発病すれば必ず死ぬ(現段階で確認されている限りにおいては)病気なのだ。潜伏期間も、発病率も未だ定かではなく、感染経路もまだ確定していないものの、潜伏期間中であっても強い感染力を有しているということだけは判っている。そのため、人々は感染しまいと家に引き籠るようになり、その数は日を追うごとに増えてゆき、人の往来は激減した。それに伴って企業も否応なしに休業に追い込まれ、コンビニやスーパーマーケットなど以外のはほとんどの店舗は休店、配送業者のストライキもあって物流も滞り、観光地では閑古鳥が鳴くようになった。
この自粛傾向は世界中で見られ、結果として社会と経済は死んだ。当然である。金も、物も、何もかも動いていないのだ。経済は人体に例えるなら血液循環と同義であって、これが止まるということがなにを意味するか、少し考えればわかるというものだ。
 が、これにはこれで利点があった。人の往来が止まり、接触の機会が減ったことによって、感染者の増加に歯止めがかかったのだ。新規感染者の数が発病者の数を下回り、それは強い強硬策を講じた国ほど如実に現れた。
 接触感染にせよ、飛沫感染にせよ、血液感染にせよ、経口感染にせよ、あるいは空気感染にせよ、人と人の交流が途絶えれば感染は広がらない。そして致死率が高すぎるゆえ、やがて発病者はひとり残らず死に絶え、感染もそこで止まる。ワクチンや特効薬、抗ウイルス剤が登場するよりも前に、このパンデミックは終息するに違いない。南半球ではいまだに感染が収まっていないものの、北半球では、強力な隔離措置が強権でもって実施された結果、すでに終息の兆しを見せ始めていた。
特にアメリカでは、大統領が強い批判を受けながらも迅速な強硬隔離政策を実施した結果、新規感染者数が一週間ゼロ人を記録し、発病者も隔離措置対象者以外は確認されないという状況が続いていた。
「アメリカはこの新たな脅威に打ち勝ったのだ!」
という声明まで早々に発表されて、アメリカは防疫から経済回復に舵をきった。
 その早すぎる政策転換に、
「時期尚早だ!」
「まだ早や過ぎる!」
という批判の声は少なくなかったものの、今回のパンデミックでも、経済はすでに壊滅的なダメージを負っていたため、早急に手を打つ必要があったのだ。
 かくしてアメリカ主導の下、各国政府は協調して金融緩和を実施することを決め、瀕死の経済を一刻も早く立て直すという意思を強く表明するにいたったのだった。
 これを受け、危機は去ったという認識が強まり、かくして株価も大幅な回復にいたったわけだが、ボストンとサンフランシスコで新たな発病者が確認されたのはその直後だった。それも、感染が把握されていなかった非隔離者がだ。これはいまだ感染拡大が収まっていないことを示唆しており、市中感染が水面下で続いていることを意味していた。
 危機は去ってなどおらず、まだ継続中のようである。

          *

 ・・・・・・東京株式市場が閉場後、勝也は幹部たちを招集し、緊急の会議を開催した。ボストンとサンフランシスコで新たな発病者の確認を受けてのことだ。
 アメリカで起こった今回の出来事は、当然、日本でも起こりうることである。その認識は、勝也だけでなく、他の幹部たち同様に抱いていた。
 ゆえに、地下潜伏生活の継続は、すみやかに決定されたのであった。



 ・・・・・・エロい方の小説も、よろしくお願いいたしますm(_ _)m

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