フリーセンテンス 2022/02/10 21:29

新作 私立魔鬼孕学園の淫談 南獄の性物災害編

 ・・・・・・その新種の粘菌に関する論文が国際的な科学雑誌に掲載されたのは二〇XX年のことであった。論文の著者はイギリスの名門、ドレンフォード大学に籍を持つ生物学者のサミュエル・サー・ドレイク教授で、彼は菌類研究の分野では第一人者として知られる人物である。彼は男爵の称号を保持しているが、これは彼が生まれながらの貴族だからというわけではなく、この分野における研究の成果が認められて女王より授与されたものであった。
 彼がその新種の粘菌を発見したのは二〇〇二年のことだ。きっかけはまったくの偶然で、その状況を言葉に当てはめるとしたならば、「奇跡」とか「運命」といった言葉がふさわしいに違いない。
二〇〇二年、ドレイクは、同僚と教え子たちから成るチームを率いて南米のアマゾンを訪れていた。目的は未踏の国際保護区域内における絶対寄生菌の調査で、彼が率いる研究チームは、およそ二か月かけて三八カ所を調査し、合計で八五〇〇点に及ぶ動植物の生体サンプルを採取した。その中に、件の粘菌に寄生された昆虫が一匹だけ含まれていたのだった。その時の状況を、ドレイクは、論文の中で次のように綴っている。
「そのハンミョウ科に属する昆虫は、サンプルとして確保した当時から極めて特異な外見的特徴を持っており、明らかに異質と思われる行動をとっていた。脚や身体の一部が壊れ、壊死したように腐敗しているにも関わらず、まるでなにか熱病に侵されているかのように活発に動き回っており、それでいて同種の雄や他生物に対して過剰なまでに攻撃的だったのだ。だが、この個体のもっとも特筆すべき点は、同種の雌に対する行動だった。この特異な個体は、同種の雌を認識するや否や、狂ったような発情反応を示し、盛んに生殖行動をおこなおうとしたのだ。その有り様は狂気的で、一種の強○性交のようですらあった。前述したとおり、この個体の様子は明らかに普通ではなく、なにかしらの病原菌に侵されていることは確実であったが、しかしそれがまさか、生物の脳に寄生するタイプの粘菌であろうとは、この時はまるで予想していなかった・・・・・・」
ドレイクはその特異な動きをとるハンミョウ科に属する昆虫をつぶさに観察し、そして生体解剖をおこなった。その結果、その昆虫の頭部より、そこに巣くっていた極少量の寄生粘菌を採取することに成功したのだった。
「大発見だ!」
 という気持ちが、頭の中で爆発したという。
 それから数年間、ドレイクはその寄生粘菌の生態研究に明け暮れて、その奇異な生態を解き明かすことに成功する。
科学雑誌に掲載された論文には、その生態が事細か詳細に記されており、その中には次のような一文が記されていた。
「この粘菌は、乾燥した宿主の体液を介したエアロゾル感染で拡がり、昆虫だけでなく、爬虫類や鳥類、さらには哺乳類にも寄生することが確認された。この粘菌は生物が分泌する快楽物質を主な栄養素としており、それを効率より摂取するため、脳に寄生することで宿主の行動を操作する。そのため、粘菌に寄生された宿主は、脳の自制機能を破壊されて身体能力を暴走的に強化され、恐怖心や警戒心が欠如した大胆な行動をとるになる。それに伴って、直情的に快楽を追求する動きを強くし、生物としての本能を解放した行動を抑制なくとるようになる。その行動は、容易に快楽を得ることができる摂食行動と生殖行為がもっとも強く、特に後者の場合、宿主が雄性である場合はその行動がより顕著になることが実験によって確認された。宿主のその有り様はまるで、性欲に飢えた「ゾンビ」のようである・・・・・・」
この論文が科学雑誌に掲載されてから数日後、サミュエル・サー・ドレイクは、突然、大学に退職届を提出し、教授の職を辞することになる。その際、彼は親しい同僚や教え子たちに対して次のように語っていた。
「もっといい、新しい職場が見つかったんだ」
と。
 彼が世界的な軍需企業ダーク・シェアーズに就職したとの噂が流れたのは、それからしばらく後のことであった・・・・・・。

          *

 ・・・・・・南シナ海に位置するカブラン島は、血生臭い歴史を持つ南国の孤島である。
南海の火山島であるこの島に、人類が辿り着いたのは紀元前三〇〇〇年頃だとされている。一九六七年にアメリカのミスカトニック大学がおこなった発掘調査によると、この島に最初に定住したのはネグリト人だったそうだ。だが、ネグリト人たちの繁栄は長く続かず、その後にやってきたオーストロネシア人にとって変わられた。両者の間で争いがおこり、ネグリト人が駆逐されたのだ。争いの原因は食料を巡るものだと推測された。島のあちらこちらから、骨髄が啜られたり、頭蓋骨が砕かれたネグリト人の化石が幾つも見つかったからだ。
 その後、島の歴史は沈黙を刻むが、一五六〇年、この島の名づけ親になったスペインの冒険家オリベイラ・カブランがこの島を発見し、上陸したことで、再び歴史の針を刻みはじめた。彼が記した航海日誌によると、この時、島には千人近い島民が暮らしていたと記されている。島の族長に謁見したオリベイラは、島民たちに対し、スペイン王への服属とキリスト教への改宗を求めた。だが、これを拒絶されると、彼は武力によって島を制圧。二八五人の原住民を殺害し、女や子ども一二八人を奴○として連れ去った。そしてこの時、スペイン人たちが島に持ち込んだ梅毒と天然痘が原因となって、襲撃を生き残った原住民たちは全滅の運命を強○させられたのだった。
無人となった島の歴史は続く。スペインによるフィリピン植民地政策に伴って、カプラン島も永らくスペイン領となっていたが、一八九八年に勃発した米西戦争によってスペインが敗北すると、カプラン島を含めたフィリピン全域がアメリカの支配下に置かれることになった。だが、これに怒ったのが、エミリオ・アギナルドを筆頭とするフィリピン独立勢力である。彼らは米西戦争の際、フィリピンの独立を条件に、アメリカ軍に協力してスペイン軍と戦った。多大な犠牲を支払って。しかし、独立の約束を反故にされ、フィリピンがアメリカの植民地にされてしまうと、怒りは頂点に達して爆発するに至る。かくして米比戦争が勃発することになるのだが、兵の数でも武器の質でも勝るアメリカ軍の前に、エミリオ・アギナルド率いるフィリピン第一共和国の敗北は必然だった。
 フィリピン第一共和国軍はアメリカ軍に対して決死のゲリラ戦を仕掛け、必死になって戦ったが、アメリカ軍による苛烈なまでの掃討戦には一切の容赦がなかった。兵士だけでなく、無抵抗な民間人も数多く殺害された。田畑は焼かれ、家も焼かれ、家畜たちも皆殺しにされて、軍民合わせて一五〇万人が殺された。しかもそのほとんどが民間人であり、死因も餓死であったところに、この戦争の悲惨さを垣間見ることができるというものだろう。この激戦の余波はカブラン島にも及び、アメリカ軍は、この地に逃げ延びた第一共和国軍の残党に対して容赦なく攻撃をおこない、投降した三〇〇人の捕虜を生きたまま焼いたのだった。
 カブラン島の血生臭い歴史は続く。太平洋戦争の勃発によってフィリピン全域が日本軍の支配下に置かれると、この島に日本軍の基地が建設され、厚木一郎中佐率いる一二〇〇人の守備隊が配置された。戦争の初期段階では破竹の勢いで連勝を重ねていた日本軍も、ミッドウェー海戦でケチがつき始めてから連敗を重ね、ついに戦線はフィリピンまで後退する。フィリピン奪還に執念を燃やすアメリカ軍の猛威は凄まじく、日本軍は粘りながら戦うも希望が見出せるわけもなく、各地で敗れ、自決や万歳突撃を敢行してその命を散らしていった。
 それはカブラン島とて例外ではなかった。厚木中佐率いる一二〇〇人の守備隊は、浜より上陸したアメリカ軍に向かって突撃し、端から機関銃で皆殺しにされた。生き残ったわずかな者たちも、逃げた先の洞窟に火炎放射器を向けられて、生きたまま焼かれて全滅の運命を余儀なくされた。厚木中佐の遺骨はいまも見つかっていない。
 そのような血塗られた歴史を持つカブラン島も、現在は状況が異なる。
一年を通じて気温も湿度も高い熱帯モンスーン型に属するこの島は、その暗い歴史とは裏腹に、絵に描いたような南国の楽園を彷彿とさせる景色が広がっていた。白い砂浜、珊瑚礁が広がる青い海、緑豊かな手つかずの自然が残されており、空には燦燦とした太陽が輝いている。これに目をつけたのが、世界中でリゾートホテル事業を展開するグラチネル社だった。
「ここは、金になる」
 観光の金脈を見つけたグラチネル社は、地元州政府から格安でカブラン島を買い取ると、そこに多額の資本を投下して開発に乗り出した。その結果、この島には、合計で一万室を超える五つの巨大ホテルと、専用のビーチ、高級水上コテージ、天然芝生で構成された一八ホールのゴルフ場、八五〇種一五〇〇〇匹を飼育する大型の水族館、世界中の希少な植物を集めた植物園、アメリカのラスベガスをモチーフにしたカジノ施設、そしてマニラの繁華街と遜色ない規模を誇るショッピング街が建てられて、通年型の一大リゾート地として生まれ変わったのであった。開業してから三五年、年平均四〇〇万人という来島者の数が、その人気ぶりを物語っているといえよう。
 この島の人気は日本でも高く、旅行関連の雑誌では、毎回といっていいほど「生涯に一度は行ってみたい南国リゾート」と紹介されることでも有名である。これはもちろん、グラチネル社による宣伝戦略の一環ではあるのだが、実際訪れた観光客の感想を聞くと、環境はもちろん、サービスもよく、料理も美味しくて、さらには日本語に堪能なスタッフも数多くいるとのことで、「何度でも行ってみたい!」という感想を持つ者が多いそうだ。そして実際、リピーターとなってまた何度も訪れるのだという。そのリピーターの中に、五十嵐という苗字を持つ一家がいた。
 父親は横浜で貿易業を営む実業家で、専業主婦の母親は元国際線のキャビンアテンダント、そしてふたりの間には娘がひとりいた。名前を愛美といって、彼女は私立魔鬼孕学園の芸能科に通う二年生だった。
 彼女は、その名が示す通り、誰からも愛される美しい少女だ。「類稀」という言葉を冠してもよいだろう。頭脳は父親ゆずりの明晰で、容姿は母親ゆずりの端麗さを誇る。ただし、グラビアアイドルを彷彿とさせるような抜群のスタイルは、本人の努力による賜物である。
彼女は元々、少しぽっちゃりとしていて(これは両親が彼女を甘やかしてよく食べさせていた結果であるが)、全体的に無駄な肉が乗っている体型をしていた。デブ、と言われるほどではないにせよ、お世辞にも痩せているとは言えなかった。
だが、中学卒業時の失恋を機に、高校に入学してからダイエットに取り組んだ結果、手や足、顔、お腹周りなどの贅肉を削ぎ落すことに成功した。だが、その一方で、胸や尻など、女性の魅力を引き立たせる部位の肉は維持することには成功し、抜群のプロポーションを手に入れた。それはグラビアアイドルを彷彿とさせるような蠱惑の美肉体であった。乳房は人の顔よりも大きくたわわに実っており、むっちりとしたお尻は肉感を漂わせ、歩けば揺れるそれらの部位は、異性のみならず同性すらも魅了して、見る者の視線を釘付けにしてやまなかった。
この肉体に、痩せたことで戻った彼女本来の端麗な容姿が加わった結果、彼女は学園でも人気の美少女になることに成功したのだった。それは学園でおこなわれた美少女コンテストの結果からも判るとおりであって、彼女は他の美少女たちと同数の票を獲得して同率一位「神セブン」の称号を手に入れている。
 そんな彼女の現在の趣味は、告白してきた男を振ることである。これは悪意をもっておこなわれる行為であった。
彼女は男子生徒たちから頻繁に愛の告白を受けるのだが、もったいぶって態度を保留にした挙げ句、その全員を無下に振っているのだ。これは中学卒業時に経験した失恋の影響が大きい。失恋のショックがあまりにも巨大だったため、形成途上だった彼女の人格に悪い影響を及ぼしてしまったのである。
「ふふん、いい気味よ。みんな苦しめばいいんだわ。苦しんで、苦しんで、がっかりして、肩を落として、落ち込んで、自分の容姿の不甲斐なさを呪って、報われない恋に嘆き悲しめばいいんだわ」
口にはださない。しかし、告白してきた相手を振るたびに、その愛嬌ある態度や名前とは裏腹に、愛美はいつもそう思っていた。心の奥底で、歪んだ笑みを湛えながら。
 そんな彼女も、両親と行動を共にする時はひとりの愛らしい娘に戻る。五十嵐一家は毎年、お盆の時期をカブラン島で過ごすことを恒例としている。家族揃って中部セントレア空港からフィリピンに向かって出立する際、愛美は父親と腕を組みながら、笑顔で親し気に話をしていた。
「それでねぇ、お父さん、学園に宇智田裕也っていう人がいるんだけどね、この人がすっごく頭がよくて、それにカッコイイんだよぉ。なんでもこの人、最近、凄いお薬を発明したらしいんだけど、お父さん知ってる?」
「ああ、知ってるよ。最近、ニュースになったからね。アルツハイマー病の新薬を開発した人だろう? 確かに彼、若いのに凄い人物らしいね」
「へー、やっぱ凄い人なんだ! なら今度、声かけてみようかな。あたし、学園だとすっごい人気があるんだよぉ。もしかしたら、付き合うことになっちゃったりして」
「は、ははは・・・・・・」
などという他愛のない会話を交わしながら、一家は出国するため、飛行機の搭乗口へと歩を進めた。
 ちょうどその時、ロビーに設置されている大型スクリーンにて、ひとつのニュースが報じられていた。
「・・・・・・それでは次のニュースです。アメリカの民間軍事企業ダーク・シェアーズは、保有していたグラチネル社の株式を全て売却したことを発表しました。売却された株式総数は八〇〇万株に上り、これはグラチネル社の発行済み株式総数の一七パーセントにあたります。この報道を受け、グラチネル社の株価は一時一一パーセントまで下落しました。ダーク・シェアーズは、株式売却によって得た資金を新たな事業に回すとしており、フィラデルフィアにある本社の前では、同社の行動が世界に不安定化をもたらすとして、多数の人権団体が抗議のデモをおこなっております・・・・・・」

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