無意味な正義を聞くのは飽きた
今日、ちょっと気なる記事があった。
「銃撃事件がパンドラの箱を開けたと捉えるのは絶対にマズイ」
というものだが…
う~ん、でもこれ(開けた)は事実ですよね…
おそらくほとんどの人が「結果的」にそう捉えた。
「結果」と「過程」を、この人みたいに一緒にしてはいけない。
結果は結果、胡麻化したり、無かったことにしたらだめ。
直視しなければ。
だからといって、こような銃撃というプロセス(過程)は、
違法であり容認できない。
こうやって分けてマズいという理由は、実は無いんですよ。
「結果」は、「過程」を正当化しない。
しかし過程はどうあれ、結果は誤魔化せない、無視してはいけない。
私は、そういう事と思います。
これを無視するということは、あの日以前の全国民は、何も知らず、不平不満すら言う気力もなくし、全くの無力であったという厳然たる事実から「目を背ける」ことになり…
そうなれば結局、またもとに戻るでしょう。
特に若い世代の人たちは、こういう旧来の人道主義に偏った「無意味な正義」には飽き飽きしているはず、中年の私だってそう。
逆に本質的な、本質を鋭く突く、
「ひろゆき」さんみたいな方に惹かれるのでしょう。
ひろゆきさんは賛否両論ある方だけど、この度のカルトに対する的確な批判で、多くの未来の被害者たちを確実に救いました、彼が言わなければ「何も知らない」若い方を中心に確実に被害者が大勢出た筈なのですから。
こういうのを「意味のある正義」というのだと思う。