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歴史の記事 (12)

遠蛮亭 2023/12/15 14:58

23-12-15.中国史書翻訳(北斉書_斛律光)

こんにちはです!
さっきまで台本制作やってたんですが、あまりに先が見えない作業なのでちょっとくじけてちょっと休憩。その間に「これでも上げとくか……」とカクヨムさんにあげましたのがこちら。「古今統帥者列伝」100話目、中国南北朝時代、北斉の名将斛律光。普通に変換すると国立校って出てしまいますが……、まあ武辺優れた名将です。ただ、治軍厳正に過ぎて厳酷なサド、また後半生はあきらかに傲慢で彼が悪い部分もあり、清廉潔白な人物とはいきません。かつて「中華名将録」というブログでこの人のことを「きわめて謙虚で篤実な人物だった。傲慢とするのはおかしい」と論戦を挑んできた方がいらっしゃいましたが、北斉の世が終わり、斛律光のことを惜しむ歴史家が書いてなお彼の驕慢ぶりを隠せなかったのですから推してしるべしです。

ちなみに遠蛮は中国史のなかでも「史記」「三国志」に関してあまり書きません。もうあまたの研究者と作家さんがうんざりするほど書いてある時代だし、だれがどう書こうがもとの時代と人物が変わらないのだから多少切り口を変えたところで変わり映えもしません。唯一すげぇわこれ、と思ったのは「泣き虫弱虫諸葛孔明」における新釈孔明像でしたが。なのでこの2つ時代にはあまり魅力を感じないのでした。それでもたまには書きますし、そっちのほうがpvとか回りますけども、はっきりいってやる気は出てません。面白いのはやっぱり宋と明。宋であれば孟キョウ(最盛期のモンゴル軍相手に不敗、しかも人格が完璧と言っていい高僧のような人物)だし、明であれば戚継光(名将にして拳法と剣術の達人。鴛鴦陣という8人で倭寇1人をボコる戦法の創始者。のちにこの戦法は日本の土方歳三に踏襲され新選組で猛威を振るいました)です。ほかに特筆すべきなのは唐初の二大頭脳、李靖と李勣。宋代であっても岳飛とかは正直どうでもいいです。岳飛という人物は史書読んでても「あー、こいつ誣告したくなるのわかるわ……」って思うタイプなので、岳飛を称揚する方々の気持ちというのは正直わかりません。

………………
斛律光(こくりつ・こう)
斛律光、字は明月。若くして騎射に巧みであり、武芸を以て世に知られた、というのは異民族系の武将には少なくない。まあ普通の経歴であろう。東魏末年、斛律金に従って西征する。周文帝の長史・莫者暉が行軍しているところに馳せて矢を射掛け、これを生捕り擒えたとき、まだ十七歳。驚嘆すべき若者であった。高祖は非常に喜んで彼を賞し、十七歳の若造を即刻、都督に抜擢する。世宗が嗣子として立つと、推薦を受けてその親信都督となり、漸々と昇遷して征虜将軍さらに官を加えられ衛将軍に。武定五年、永楽県子に封ぜられる。世宗が?橋で狩猟しているとき、たまたま一羽の大鳥が舞い上がり、雲に向かって飛翔したところを、斛律光は一箭これを射、みごと首を貫いた。鳥は車輪を描き、旋回して墜ちるとこれ信じられないほどの大雕だったという。世宗はこれを見て詠嘆し、斛律光の弓技の冴えを讃えて、丞相属の刑子高も感嘆して、「これ射雕の腕なり」と。それでついたあだ名が落雕都督。ついで左衛将軍を兼ね、伯爵に進められる。

北斉建国当初、斛律光は開府義同三司を加えられ、伯爵位とは別に西安県子に封ぜられた。天保三年、出塞して北伐に従軍、斛律光は真っ先に敵中に躍り込み、首を獲ることきわめて多く、また多くの牧畜を得て還る。帰還後、晋州刺史を拝す。晋州の北には北周の天柱、新安、牛頭という三か所の城があり、常に擾乱絶えない必争の地であった。天保七年、斛律光は歩騎五千でこれらを攻め、大いに北周の将・王敬儁らを破り、五百数十人を捕獲し、牧畜千余を得た。九年、また周を率いて北周の絳州、白馬、?交、翼城の四城を取る。同年、朔州刺史。十年、特進して正式に開府義同三司とされた。同年二月、一万騎を率いて北周の開府・曹迴公を討ち、これを斬る。時の柏谷義同・薛禹生は城を棄てて逃げ出した。斛律光はさらに文侯鎮を取り、さらに営を置き柵を立ててから還った。乾明元年、并州刺史とされる。皇建元年、爵を鉅鹿郡公に進められた。時に楽陵王・百年が皇太子とされ、粛宗は斛律光を以てその教育係に任じ、さらに彼を王室に入れるためその長女を太子の妃とした。大寧元年、尚書右僕射。中山郡に俸邑を得る。翌年太子太保。河清二年四月、歩騎二万を率いて識関(職は正しくは車編)に勲掌城を築き、万里の長城を二百里に渡って修築、十三の戌営を置く。三年正月、北周は将軍・達奚成興らを遣わして平陽に侵攻させたが、斛律光は詔を受け歩騎三万を率いてこれを迎撃、達奚成興らを潰走させる。斛律光は敗軍を北に追い、境内に入って俘虜二千余を獲て還る。同年三月、司徒。四月には騎兵を率いて北に突厥を討ち、軍馬一千余を獲て還った。ここまで武功が重なればただ武芸に長じ騎射に優れただけの猪武者ではないと誰もが信じるであろうが、さらにその名将ぶりを際立たせる大戦役が発生する。この年冬、周武帝は柱国大将軍・尉遅迥、斉国公・宇文憲、柱国庸国公・可叱雄らに十万の兵を与えて遣わし、洛陽を攻めさせた。対するに北斉は斛律光が五万の兵を率いて反撃、?山において戦い、半数の兵で尉遅迥らを大敗させる大殊勲を挙げる。斛律光は自ら矢を射て可叱雄を射殺し、斬獲三千余を獲た。尉遅迥、宇文憲らは単身かろうじて逃れる。武器甲冑と輜重多数を鹵獲して、また戦死者を洛陽を望む丘の堆肥に埋めた。世祖は自ら洛陽まで駕御し、斛律光の驍名勲功を賞して太尉(軍総司令官)に任ずる。このとき世祖の命にて斛律光の次女がまた太子の妃とされた。天統元年、彼女は皇后に封ぜられ、斛律光は大将軍の任を受ける。三年六月、父の喪に服して官を辞したが、同月、詔が下って斛律光とその弟斛律羨を前任に復すとされた。秋、太保に任ぜられ、父の爵位を世襲して咸陽王に進み、斛律一族の酋長となった。咸陽王とは別に武徳郡公に進められ、趙州に俸邑を得る。遷せられて太傅。

天統元年十二月、北周は兵を遣わして洛陽を囲み、糧道を截つ作戦に出た。武平元年正月、斛律光は歩騎三万を率いてこれを討ち、軍を定隴に屯す。周の将軍で張掖公の宇文桀、中州刺史・梁士彦、開府司水大夫・梁景興らは鹿廬交道上に駐していたが、斛律光は甲をかぶり矛を取り、身を士卒に先んじて敵陣を衝き、鉾が刃こぼれするまで戦い抜いて、宇文桀らを潰走させ斬首二千余を獲る。そのまま直ちに宜陽に向かい、北周の斉国公・宇文憲、申国公・?抜顕敬(?は正しくは手偏)らと対峙すること百日。斛律光はその間、統城、豊化の二城を築き、宜陽の交通にダメージを与えた。軍を還すとついで安?に往き、宇文憲ら五万の攻撃をその背に受けながら、騎兵をほしいままに動かして反撃し、敵兵を大潰走させ、開府・宇文英、都督・越勤世良、韓延らを俘虜とし斬首三百余を獲る。宇文憲はさらに令じて大将軍・中部公・梁洛都と梁景興、梁士彦らに歩騎三万で鹿廬交道の要路をふさがせるが、斛律光は韓貴孫、呼延族、王顕らと兵を合して大いにこれを破る。梁興興を斬り、軍馬一千頭を得た。詔により斛律光は左丞相兼并州刺史とされる。同年冬、斛律光ははまた玉壁にあって歩騎五万を率い、華谷、龍門の二城を築城、ここで宇文憲、?抜顕敬らと対峙するも、過去幾たびも苦渋をなめさせられている宇文憲らは敢えて動かず。斛律光はそこで兵を進めて定陽を囲み、南汾城を築城、州治を置いて夷華の衆万余を帰服させる。

武平二年、斛律光は平隴、衛壁、統戎など十三鎮を修築。北周の柱国・枹罕公・普屯威、柱国・韋孝寛ら歩騎余万が平隴戌を攻めたので、斛律光はこれを迎えて汾水に戦い、大いにこれを破った。韋孝寛はのちに斛律光を除かぬ限り北周の覇業ならぬとして謀略を駆使、ついにこれを斉廷の手で殺させるという斛律光最大の敵手なのであるが、このとき両者はそれを知らない。ともかく、斛律光は周軍一千余を斬り、中山郡公に進められる。食邑は一万戸。大軍を返還するも詔によって再び出征、歩騎五万で平陽道に出て、姚襄、白亭などの城戌を攻め、ことごとく攻め下し、城主、儀同、大都督ら九人を俘虜とし、捕縛したものは数千に上った。また特進を受け長楽郡公とされる。同月、北周は柱国の?干広略を派遣して宜陽を囲む。斛律光は歩騎五万を率いて救援にはせ参じ、城下で大戦の末、逆に北周の建安など四城戌を奪い取り、千余人を捕獲して還る。大軍がまだ?都に還る前に皇帝は命令を下してこれを解散させた。これは斛律光の大きくなりすぎた勲功を警戒したと見るべきであろう。事実斛律光は軍の解散に対して恩徳が施されず、密通の疑いが(そんな事実はないが)自分にかかっているのではないかと恐れて、軍を解散させずに?都まで進んでいる。朝廷が使者を派遣して命令の遅延をとがめるとようやくにして軍を還した。その後紫陌、光に営使として派遣される。帝は斛律光の部隊が已に軍営に入っていると聞いて心に甚だこれを憎み、急ぎ舎人を遣わして斛律光の入見を追う、とあり、斛律光と北斉朝廷の齟齬はここに始まる。しかるのち斛律光は部隊の兵を労ってこれを解散させた。再び左丞相を拝し、また別に清河郡公に封ぜられた。憎しみはあってもすぐに逮捕して牢屋にブチ込んで○問、処刑なんてことは行われないのがこの時代救いではある。まあしばらく間を置いて処刑、というのはよくあることなわけだが。斛律光の側にも国家最大の功臣と言うおごりが見え始め、互いの擦れ違いは日増しに深く大きなものになって行く。

斛律光は入朝に際して、朝堂に御簾を垂れることをゆるされる。祖?がこれを知らずに馬に乗って斛律光の前を走り抜けると、斛律光は怒りをあらわにして手近の人に曰く「この人はついに我が前を犯した!」と。のち祖?は宮内から省かれ、声高に斛律光の驕慢を鳴らす。斛律光は多所でこれを聞き、ふたたび怒りを発したというがこの場合祖?が正しかろう。知らずに犯した罪なら許すのが大度というものだろうに、この時期の斛律光にはそれがない。ともかく祖?は斛律光の態度を聞いてまた憤懣やるかたなく、斛律光の奴婢を賄賂で買収して曰く「相王、孝徴(祖?の字)に瞋るや?」と問えば応じて曰く「あなたたちが在朝して以来、相王は毎晩膝を抱えて言っておられます。“盲人たちがある限り、この国は必ず破れるであろう!”と。」穆堤婆が斛律光の庶娘を妻にと求めたが、斛律光はかたくなに拒んだ。帝は穆堤婆に晋陽の田地を賜ったが、斛律光はそれにすらケチをつけて「この田は神武帝以来、常に種を発芽させ、馬数千を養うに足ります。今は寇難の時、堤婆ごときのために軍務を欠くのですか?」と。これより祖、穆両氏は斛律光に深い恨みを抱く。

周の将軍・韋孝寛は斛律光の英雄を忌み、歌を作ってこの謡言をお得意のスパイ網を使って?都に流した。曰く「百升上天に昇り、明月長安を照らす(百姓の上に登極する皇帝は、明月と言い長安を照らす)」あるいは「高山推さずして自ら崩れる、斛樹扶けなくして自ら立つ(高氏の天下自壊して、斛は助けなくして自立するであろう)」祖?はこれらの童謡に言葉をつなげ、「盲目の老翁は背に大斧を上下させ、饒舌の老婆も語るを得ず」と。これらの童謡を城中の子供たちに教え、ひろめさせた。穆堤婆はこれを聞き、その母令萱に告訴。令萱は饒舌を以て周囲の女たちから罵られており、盲目の翁というのはまさに祖?のことであったが、韋孝寛の作に比べわかりづらく取るに足らん謡であると断ぜざるをえない。やはり詩賦の才が違うのだろう。ともかくも祖、穆の両家は共同して謀議し、皇帝に告訴し、「斛律家がいくら代の全部族の大将であり、明月また北周を震わし、豊楽から突厥を討ってすなわち威光あり、その娘は皇后、公主であるといっても、今世に流行る謡が明月の野心を現しております。」と。皇帝は斛律光拿捕のため韓長鸞を遣わしたが、韓長鸞は証拠不十分で斛律光を逮捕できなかった。祖?はまた独り皇帝に時間を取らせ、ただ一人何洪珍をそばに置いた。皇帝は言う。「先日汝が彙めた報せは、もとより打算からの行動であろう。韓長鸞が言うに斛律光謀反の事実はない」祖?はこの正当性に当たりえず、かわって何洪珍が口を開くに「もし今は翻意がなくとも、もしかしたら地下でひそかに活動を起こしてい連中がるかもしれません。万一それが露見した場合、いかがなされますか?」と。帝曰く「洪珍の言うこと、尤もである」しかし事ここに至っていまだ決せず。たまたま丞相府の佐・封士譲が密告して「斛律光は前に西を討った還り、勅命で兵を放つべきところを聞かず、全軍で京師に逼りました。まさしく行動不軌、事果さずして止むものの、家には弩甲が蔵され、奴僕は数千、ことごとに使いして豊楽、武都と連絡し、陰謀往来であります。もし早晩これを討たずば、恐るべきこと測るべからず」と言ったので、そう言えば「軍を以て京師に逼る」という前科があったなと皇帝もここで斛律光への疑義を抱く。何洪珍のいう所に依れば「人心とはまさに恐るべし、わたくしは前に斛律光が兵を帯びて京師に逼った時から疑いを抱いておりました。果たしてまさにそのとおりではありませんか!」と。皇帝は性格怯懦であり、心に大変の発生が刻み込まれるとなると何洪珍の言葉に完全に惑わされる。祖?は乗っかって曰く「まさしく経営の地より呼び戻しましょう。彼が自身にかかった疑いに肯んずなら恐れず来るはず、その時は駿馬の一頭でも与えてお茶を濁せばよろしい。しかし彼が朝廷の恩に肯んぜぬならば入室して逮捕すべきであります」皇帝はこれを聞き彼らの話を了解。まもなく斛律光は懼れずやってきたが、凉風堂に引き込まれて劉桃枝に急襲され、殺害された。時に享年五十八歳。詔が下り、斛律光は謀反を企み、国法に伏さなかったという罪で一門全員が誅殺された。のちまた詔が下り、九族誅戮とされる。愚帝と昏臣により殺戮された斛律光だが、その死には彼自身の傲慢にも十分な原因があった。

斛律光は性言葉少なにして剛健、急変を好み、その統御するところの部下には厳、彼の督するところの兵は、みな杖刑を恐れたというからよほど厳しかったかサディストであったのか。常に鞭撻の士を左右に控えさせ、一般人でも彼の暴虐には困らされたらしい。十七歳で軍に入って以来、闘っては一度の敗北を喫することもなく、隣敵は彼を畏れ恐れて忌み憚った。その罪により屠殺されたとき、斉の朝野はこれを痛惜したが、周武帝は斛律光の死を大いに喜び、境内に大赦を出したほどである。のち?都を蹂躙した際、彼に上柱国、崇国公を追贈して詔に曰く、「この人ある限り、朕は?の土を踏めなかったであろう!」と。

………………

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遠蛮亭 2023/09/02 21:08

23-09-02.お絵かき(お狐様、VenusBlood)+中国史翻訳(西漢_衛青)

こんばんわです!

今日はゲーム制作進捗ほとんどありません……。ノベプラさんにくろてん3幕、pixivさんにくろてんリライトをそれぞれ連載はじめて、昼前に「お狐様」のイベント絵を一枚修正、そのあとお昼からは漢籍翻訳をやりまして、夕方からエロ絵を描いて今pixivさんにあげてきたところです。

これが本日修正したイベントイラスト。辰馬くんがあまりにもブサイクになっててこれでは魅力値ゼロだと思ったので線修正だけでなく全部描き直し。初音もけっこう手直ししました。修正できる限り修正する、のつもりでしたがもはや全部修正ですね。すでに大半の手直しが終わってるので修正作業、それほどつらいことはありませんでした。

で、翻訳。「108位中国千古将帥」という本がありまして、これを底本にして翻訳するわけですが、本日は西漢の衛青でした。こんな感じ。

【人生】
 衛青は西漢の名将である。字は仲卿、河東平陽のひと。もとは平陽公主に仕える家奴だったがのち漢の武帝の寵遇を受け、大将軍、長平侯に。武帝の元朔二年(前127)、衛青は軍を率いて大いに匈奴を破り、河套地区を漢の版図に入れた。元狩四年には霍去病と共同で匈奴の主力を撃破する。彼は前後七回にわたって塞外に出撃し、匈奴と隣接する諸郡を安定させ、また西漢開闢以来の匈奴の脅威を取り除いた。大司馬と大将軍を兼ね、元封五年(前106)逝去。

【簡評】
 衛青は生涯に七回塞外にでて匈奴と戦い、敵中に深入りしつつ奇兵と正兵を兼用し、その号令は厳にして士卒と甘苦をともにし、作戦に当たっては先陣を切って奮戦し、将士みなかれのために力を致そうと願った。またその処世は慎ましやかであり、法を奉って職分を越えず。これ一代の将帥たるものの模範であった。

【故事】
 衛青は私生児である。母は平陽公主(漢の武帝の姉)の女僕であり、衛という男との間に一男三女をもうけた。衛某の死後、母は県吏の鄭李と密通し、そして生まれたのが衛青であった。衛青は少年時代、父親からすこぶる疎まれ、終日山で放羊して過ごした。やや長じて鄭家の奴○として使われ、いいように母の身の回りの世話に酷使された。彼は鄭家に対して恨みこそあれど親情などなく、このとき鄭姓を衛姓に戻した。

 ある説によれば衛青には幼時から貴人の相があったという。あるとき、衛青がひとにつき従って甘泉宮に詣でた時、人相見をよくするひとりの囚人が「あなたは今困窮しているが、将来は貴人となるだろう。官につき、王侯に封ぜられるだろう」といった。ただしこれは伝説であって、想像の域を出ない。衛青が幼くして異常の人というべき気質を有していたことを喧伝するためのでっち上げかもしれない。衛青は成長してのち母の主人であった平陽公主にまみえ、公主は衛青の相貌堂々を見て自分の騎奴としたので、外出の都度公主に随行した。衛青はここに至ってようやくある程度の文化知識を学ぶ機会を得、また謹んで上流階級の礼節を学んだ。

 衛青の雄飛のきっかけを作ったのは彼の異母姉・衛子夫である。武帝の健元二年(前139)春、衛子夫は選抜されて美人として宮中に入り、衛青は姉の引き立てで召されて建章宮に上った。これが衛青の人生における最大の転機であったことは疑いない。

 衛子夫は宮中にはいるやほどなく妊娠した。陳皇后は武帝のために一男半女も生むこと能わず、武帝の寵愛は衛子夫に移ったため、陳皇后はひどい嫉妬を衛子夫に向けた。しかし衛子夫は無事に男子を出産し、彼が太子としてたてられた。母は子をもって貴し、彼女の地位は出産によって陳皇后を凌ぐに至る。衛子夫は正式に武帝の寵幸を受けた。陳皇后はもはや彼女を害することができなくなったが、そうなると今度は衛青に矛先を向け、手下に命じて襲わせた。衛青は死を覚悟したが、これを聞き知った朋友・公孫敖にすんでのところで助けられた。公孫敖は衛青奪回と同時に人をやって武帝に報告し、武帝はこれを聞いて大いに怒る。今後襲われることのないようすぐに衛青に建章宮監兼侍中の官を与え、公孫敖および彼とともに衛青を救った仲間たちも尊貴に上った。まもなく武帝は正式に衛子夫を夫人に立て、それに伴って衛青は大中大夫となる。衛青の人生におけるもっとも輝かしい瞬間は七たび長城を越えて塞外に長躯したことで疑いないが、ここに見るように、その始まりは姉の後光によるものだった。

 武帝の元光六年(前129)、匈奴が兵を興して南下、その先鋒が上谷を襲う。このとき武帝は衛青を車騎将軍に任じ、匈奴を迎撃させた。ここから衛青の戎馬(=軍人生活)に捧げた人生が始まる。

 この年、衛青と太僕、軽軍将軍の公孫賀、大中太夫、騎将軍の公孫敖、衛尉、驍騎将軍の李広はそれぞれ1万の兵を領し、それぞれ別路上谷を目指して雲中、代郡、雁門から出発した。衛青は竜城にあって初戦に捷ちを告げ、敵を殺すこと数百。しかしほかの三路のうち二路は敗北(公孫敖が死者7000人を出し、李広は生け捕りに遭った)し、一路(公孫賀)は功なくして還り、 四万の鉄騎は2万3000までへらされてしまった。

 衛青の最初の出征はこうして失敗に終わったが、個人的にはこれは幸運であった。漢軍が損失惨憺たるありさまのなか、衛青だけがほとんど損害を受けることなく勝利を飾って突出した成果を上げたのだから。衛青には第一等の爵位——関内侯が授けられた。同時に、これまでの衛青は皇の国戚としての官であるという侮りを受けたが、自らの武功をもって彼はその功業をひとびとに認めさせた。

 いちどは追い払われた匈奴だが、その報復は迅速かつ残忍に行われた。元朔二年(前127)秋、匈奴は再び侵入すると遼西の太守を殺し、漁陽の民二千余を虜囚とした。武帝は匈奴がもっとも恐れる飛将軍・李広を右北平に鎮守させたが、李広を畏れる匈奴はこれを避けて雁門関に入り、漢の北辺を脅かした。武帝は再度衛青を出征させ、同時に李息を代郡から出兵させた。衛青は騎兵3万を率いて長躯進軍し、速やかに前線に到達すると身を士卒に先んじて奮戦、これを見た将士はことさら死戦し、斬獲数千をあげて匈奴を大いに破り、敗走させる。

 衛青の二度目の戦いは大勝利で終わる。この一年は衛氏の家族にとって記念的な意義をもつ年になった。衛子夫は武帝との間の太子劉据の陰をもって皇后となり、衛青は外戚としての地位をさらに確固たるものにした。

 元朔二年(前127)、匈奴の酋長たちは大兵力を結集、再度上谷、漁陽を攻める。武帝は「実を避けて虚を撃つ」に決し、みたび衛青を派遣。衛青は大軍をもって匈奴の盤踞する河南を攻めた。この戦いは西漢と匈奴の最初の大戦役といわれる。衛青は4万を率いて雲中を出発、迂回側撃戦術を採用して匈奴の後方にまわり、高闕を占領して河南の匈奴王、白羊王と楼煩王、および単于王の連携を断ち切る。しかるのちに衛青はまた精兵で南下し、朧西に至って白羊王、桜煩王を包囲撃滅。形勢不利と見た白羊、桜煩の両王は倉皇として逃走する。漢軍はここで河套地域を制圧、水豊かで土地の越えた肥沃なこの一帯はまた険要の地でもあり、武帝は衛青に命じて朔方城を建てさせ、朔方郡と五原郡を置いた。内地の民10万余が移住してここに住まい、衛青は彼らを労働力に秦の蒙恬が築いた辺塞を修復、川沿いの防御を強化する。このようにただ匈奴騎兵を長安から威嚇するのみならず、一歩踏み込んで匈奴の前線基地に反撃を加えた。功により長平侯。

 衛青の三度の勝利にもかかわらず、殺した敵の数は多くない。しかしこの戦勝は大きな意義があった。ひとつには匈奴の作戦方式の探査であり、もうひとつが河南の奪取及び朔方城の修建である。朔方城は西方にある匈奴に打撃を与える前線基地となった。こうして衛青はこの先の漢朝の勝利、その系譜の基を築いていく。

 匈奴の酋長たちは河南での敗北から、関心を朔方に切り替えた。この数年内しばしば出兵するが、しかしすべて漢軍に撃退され、敗走する。

 元朔5年(前124)春、衛青は3万を率いて高闕を出兵、同時に李息、張次公らの軍を統べ、総兵力10数万で匈奴を撃つ。これが衛青四度目の匈奴出征であり、彼の個人的名声を高める意味では最高潮に達する戦役だった。この作戦における標的は匈奴の左賢王。匈奴社会の階級区分は単于を頂点として、左右の賢王、左右の谷蠡王、左右の大将、左右の大都尉、左右の大当戸、左右の骨都侯と続く。歴史上右は西方を指し、用兵の指向性からも西を目指す衛青は右賢王とその麾下の勢力に標的を定めた。

 右賢王は漢軍を軽視し、漢兵は遠く離れたところにあって自分の領土まで到達することは不可能であると認識、警戒を放棄した。衛青は急行すること600~700里、右賢王の幕舎に夜襲をかけ、営を包囲する。そのとき右賢王は帳の中にあって美女と美酒に溺れていたが、状況よろしからずと見て愛妾を連れ、精兵100騎で囲みを突破し逃げ去った。衛青は右賢王の副将10余人を捕え、男女1万5000人と牧畜数万を得て帰る。

 武帝はおおいに悦び、衛青が班師まだ至らずのところに、塞上まで迎えの使者をよこした。ここに衛青を大将軍に封じ、諸将の統率者として上位に置いて名義上、大漢帝国の軍中における第一人者に任じた。衛青の三人の息子も武帝の引き立てを受け、列侯に封ぜられる。衛青という人物はひじょうに謙虚であり、これを再三固辞したが、まさに皇帝と諸将に推されて栄誉に浴した。さらに武帝は衛青の作戦に随行した公孫敖らにも褒賞を与えた。衛青はまごころから暇を返上し、皇帝の面前で甘苦をともにした将士のもとに帰ることを請うた。これこそが衛青の名将たるゆえんであると言われる。

 数回の激突を経て、なお匈奴の猖獗は続く。元朔6年(前123)春、衛青は大将軍となってのち最初の出征に出て、斬首1万9000余という非凡な成績をあげる。この戦役で霍去病が歴史の表舞台に正式に登場し、彼は精騎800で参戦、敵兵2000を殲滅するという輝かしい戦果をあげる。これより以降、霍去病の輝さに衛青の戦果はややかすむかに見える。衛青は一連の作戦中、蘇建が軍を失った問題を処理した。
 蘇建と趙信は3000余の兵で単于の大軍に遭遇、苦戦すること一晩、兵は死に将は尽きた。趙信はもと胡人で匈奴の誘引を受けて単于のもとに走ったが、蘇建は全軍覆滅して単身漢の軍営に逃げ帰った。この蘇建の処遇をどうするかで軍中の意見は割れ、衛青は自らに裁量の権があるといえども武将をみだりに殺すべきではないといい、蘇建を囚車に乗せて長安の武帝のもとに護送した。武帝は蘇建を許し、贖金を納付させて平民に落とした。

 衛青が第一線で活躍した最後の戦いは漠北の戦いである。
 武帝の元狩4年(前119)、漢王朝は匈奴と雌雄を決する気が熟したと判断し、武帝は全国の財力と物力を結集して衛青と霍去病にそれぞれ5万の騎兵を与え、それぞれ漠北に進軍させて匈奴の主力を殲滅するよう命じた。

 この戦役において、衛青と霍去病の身分はすでに対等である。出征にあたっての布陣からしても、武帝はあきらかに霍去病に肩入れし、衛青に主役を譲るよう暗に迫った。のち、情報の失誤が露見すると武帝は戦略を調整、衛青に主役を渡して霍去病を困難から遠ざけようとしている。

 衛青は前将軍・李広、左将軍・公孫贅、右将軍・趙食其、後将軍・曹襄ら四将をしたがえて定襄から出兵、李広と趙食其に命じて二人の軍を合併させ、右翼から進ませて敵を包囲させると同時に、自らは公孫敖、曹襄を従えて敵の正面、単于の駐屯地を直撃する。

 漢の降将・趙信は単于・伊稚斜に策を献じて「漢軍は無道にして害をなし、まさに砂漠を越えんとしておりますが、漢人は熱砂にあえぎ馬は乏しく、われらは逸を以て労を待つべし、さすれば敵どもを俘虜とすることが叶いましょう」単于はすべての物資を漠北に移動させ、漢兵を待った。

 衛青の条件は困難だった。まず先んじて匈奴の主力を捕捉しなくてはならないが、戦闘力に優れた部隊はすべて霍去病に連れていかれており、残った兵力も4人の偏将に分かち与えなければならない。さらに趙食其と李広の部隊は戦場に間に合わず、さらに天の時と地の利は匈奴の側にあって「逸を以て労を待」たれている。千里を離れて匈奴の主力を撃つに予定の戦場へ正確に到達することは不可能に近く、衛青はいまだかつてない困難な局面に直面した。

 逆境に激発した衛青はむしろ静かに沈潜し、厳に陣を敷いて匈奴の軍を待った。衛青は危機に臨んで怖れるところなく、彼の命令に部隊は手甲と兵車を用いて柵営を築き、堅固な防衛線を形成した。歩兵をもって弓手とするのは防戦の基礎であり、また騎兵を方陣の前衛に並べ、さらに両翼に予備の騎兵を置く。もって完成した陣をもって戦闘開始し、衛青はまず騎兵5000をもって匈奴の陣に冲撃、匈奴は1万でこれを迎撃する。時間の経過とともに匈奴は逐次援軍を投入、漢軍は敵が包囲の「袋」に入ったとみるや軍の収縮を開始し、匈奴の出入りする袋の入り口を両翼から包囲して叩く。戦闘は黄昏まで続き、このとき突如大風が吹いて砂礫舞い散る。局面は一気に混乱に陥ったが、衛青は鋭敏にここぞ反撃の機と感じ取った。両翼の騎兵隊に突撃を命じ、包囲を完成させる。単于は匈奴に不利と見ておそれ、逃亡を図り、数百騎で囲みを突いて西北の方角に走る。衛青はこれを追うこと200里、匈奴はただ腰兵糧のみで壊散、全軍退却し、逃げ切れない味方に火をつけ焼き殺して逃げた。衛青は匈奴の拠点をことごとく粉砕し、殲滅する。

この一戦で衛青があげた首級は1万9000余だが、より重要なことは匈奴の主力に重創を負わせたことである。これ以降、漢と匈奴の実力比、その天秤は漢王朝へと傾く。

 漠北の戦いよりのち、衛青は大司馬となって霍去病の上位に置かれる。しかしこれ以後衛青が実戦の場に出されることはなかった。

 のち、衛青は寡婦となっていた平陽公主を娶る。武帝の親任はより重きを加え、はなはだ寵信を受けた。ただし衛青はひととなり謙恭仁和、生活ぶり恬淡として派手さがなく、派手好みの武帝の寵愛は日々霍去病のほうへと移る。大将軍門下から霍去病門下へと奔る将軍も非常に多かった。衛青の門前はしだいに零落していったが彼は誰を恨むこともなく、これも人の情の常と甘んじて平静に日々を送った。

 衛青は恬淡とした人柄と赫赫たる戦功で重用されたのであって、のち衛皇后が廃され武帝の彼に対する寵愛が失われたあとも彼の公人としての立場に何らの影響もなかった。

 武帝の元封5年(前106)、大司馬大将軍衛青逝去。諡は烈侯。武帝の命により武帝の陵墓・茂陵の東、廬山に墳墓と像を建てられ、その赫赫たる戦功に彩られた一生を象られた。

以上ここまで。衛青って非常に恭仁なひとで甥っ子の霍去病に比べてはるかに聖人様なのですが、武帝のアホは霍去病の方が派手で好き。やっぱり地味な人って魅力に欠けるのかなぁとか思うのです。霍去病とかどう考えてもチンピラだし、間違いなくヤリチンのクズですよ? いやまあその辺どうでもいいんですが。

そして夕方からのお絵描き。

VenusBlood-ABYSS-、聖女セレナ・オペコット。嫁にいただいたのはVBHのルセリなんですが、ルセリを描くのはすこし憚られるところがあるのです。なのでVBのイラスト描くときはもっぱらセレナ。

以上でした! ここまで閲読いただき、ありがとうございます!

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遠蛮亭 2023/02/17 20:35

23-02-17.「日輪宮」イベ絵とライブドアブログに名将録4名

こんばんわです!

今日も体調不良……なんと2時ごろに起きていられず、2時間ほど昼利してしまうていたらく。この大変な時期に体調が悪いとか言ってられないはずなんですが、いかんともしがたく……。

そておいて今日やったことですが、まず朝言いましたスキル作り。これが3~40個しか進まず、まだ全体500分の300ぐらい。このスキルにはこのステートとか、プラグイン機能のためにメモ記述とかやってるとどうにもなかなか、進みません。

そして5時から昨日の晦日さんイラストを塗りましたのがこちら。

メイドたるものガーターベルトとストッキング必須な気がしますが、そのへんは寧々さんがガーターベルト装備なのでいいかな、と。とにかくアングルがなれない構図なのでえらい苦労しました。

そしてストックしてある中華名将録のテキストを4つ、ライブドアブログに放出。4人とも五代の名将です。

李克用
https://enban-no-toraware.blog.jp/archives/18959897.html
李存孝
https://enban-no-toraware.blog.jp/archives/18959947.html
周徳威
https://enban-no-toraware.blog.jp/archives/18959989.html
郭崇韜
https://enban-no-toraware.blog.jp/archives/18960056.html

以上になります。今日はこんなところで、それではです!

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遠蛮亭 2023/02/11 10:50

23-02-11.「日輪宮」イベント下絵1枚+「百将伝」翻訳着手

おはようございます! ちょっと体調崩して朝の間倒れてましたが。

昨日は大したことをしていません。いや、ゲーム制作外のことでいうと中国の「百将伝」翻訳に着手して100人分の3人(姜子牙、慕容恪、王忠嗣)を訳したとかあるのですが、くろてんとは関係ない(作中の軍略とか、そういう意味では非常に関連してますが)ですからね……。とりあえず1人、ここに上げてみましょうか。

62.慕容恪~静をもって動を制す
慕容恪は字を元恭といい、慕容皝の子である。慕容恪は落ち着きがあって度量が広く、胸には常々城府のこと(国家経略のこと)があった。15歳にして8尺7寸、体貌はきわめて立派であり、雄々しく毅く、粛然と整っていた。口を開けば往々にして国を治めるすべと天下を平らげる業であり、つねづね謀略と計策を出して国家に貢献した。慕容恪は遼東に鎮守すると非常な威力を発揮し、高句麗の兵は決して国境を騒がせることができなかった。

慕容皝は臨終を前にして慕容雋に「今、中原は統一を見ず、まさに功業のたてどき。慕容恪は智勇双全、かならず重任に応えるであろう。」慕容雋は即位すると慕容恪に重きを加え、慕容恪はそれに答えてしばしば戦功を立てたので、太原王。慕容雋の病が重くなると慕容評のことを嘱託された。慕容愇が帝を称すると慕容恪は朝中の大権を総覧した。慕容雋歿後、東晋王朝はみな中原を回復すべしと息巻いたが、桓温は「慕容恪が生きている、かれはまったく(晋にとって)心腹の大患である。」と廷臣たちを説いた。

慕容根が殺された後、朝廷の内外はみな恐れ已まず。しかし慕容恪の挙措は変わらず、神色自若。朝廷に出入りするにも随従は一人しか連れなかった。あるひとが慕容恪に身の安全を注意するよう勧めたが、慕容恪は「あなたたちが危うい時、わたしはさらに鎮定を保持しておかねばならない。いかでか我が魂が恐れて定まらないようなことがあれば、あなたたちはいったい誰を頼りにすればいいだろうか?」ひとびとはこういわれて納得し、引き下がった。

慕容恪はだれに対しても胸襟を開き、快活であり、たやすく人を近づけ、人を任ずるに才覚をもってした。大権を掌握しても決して専権することなく、つねづね朝臣たちと諮問してよく彼らの論を聞いた。そして朝廷から帰って私人となると政治を忘れて心身を養った。慕容恪が洛陽を攻囲すると、前秦は震撼した。苻堅は自ら潼関の守備に就いた。慕容恪の軍が撤退すると苻堅は一気に反撃に出た。慕容恪は兵を帯びるも威厳を尊ばず、恩信の方法は軍心を得るのみと確信していた。彼が重んじるところは大略のみであって将士たちの細枝末節にもこだわらなかった。軍士が法を○すと慕容恪はひそかにその罪を免減してやったので彼らは勇憤して敵を斬り殺し全軍を震撼させた。慕容恪の軍は陣形などばらばらであったが、敵軍いたると百出、防御はなはだ厳重であり、逆襲してこれを打ち破った。

臨終のとき、慕容恪は「わたしが聞くに、温情に応えるには、推薦された人を才能に応じて活かさなければならないと。呉王は文武兼備し、管仲や蕭何の風あり。陛下がもしよく彼を用いられれば、国家は安定に向かうでしょう。もし、さにあらずば、隣国から寇敵に襲われ、都は欲望に沈むことでしょう。」言い終わって、慕容恪は世を去った。

<孫子兵法・謀攻>篇に曰く、「輔周は則ちかならず国を強くす。」将帥が周密に君主を補佐すれば、国は必然、盛強となる。慕容恪存命時、桓温はまさにかれは(東晋にとって)心中の大患であるといい、また<孫子兵法・行軍>篇に曰く「卒、いまだ罰につかざれば、すなわち服さず。」士卒の信頼を得るために軽率な処罰を行う将は多いが、それでは士兵の反抗を避けられない。慕容恪は兵を領して敵を打つにあたり、兵を復させるに恩信をもってして威厳をもってしなかった。

こんな感じで1人1人に関しての記述はそれほど長くありません。これを後日1冊にまとめて出版するかなと思ってます。

で、昨日のお絵描きですが……、こちらは下書きが1枚のみ。

沼島寧々さん和姦イベ①。あまみその御景先輩イベントを手本に。ホント和姦イベントはクロシェットからばっかりお手本にしてます。寧々さんは雫おねーちゃんの旧友、名雪さんは瑞穂さんの友人ということで、関係イベント(3P)とかも考えてますがそのあたりまだ未定。瑞穂さんの場合はフミハウとの今後の友情もあるのでそっちも考えないといけません。

それでは、以上でした!

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遠蛮亭 2022/11/30 19:03

22-11-30.中国史-李克用(五代)

おつかれさまです!

翻訳の方をもう一個。中国史上、騎兵の突撃力ということならこのひとはかなり屈指だろうかなと思います。実のところ漢人ではなくて沙陀族ですが。Twitterにも書きましたけども、朱全忠が悪でこのひとが善人、とかいうわけではないのです。現実の戦争に善悪なんてものはないし、今あってる胸糞悪い事柄についてもですが、戦争があってる時期には当事者はおろか周囲で冷静ぶってる人々にも判断などできません。戦争仕掛けたほうが悪いとか国際法に照らせば明瞭とかどうとか、あの辺の議論は戦争の本質をまったく理解してないと思います。国を動かすのは民衆ではなくてトップにいる個人であって、その気分や機嫌を損ねたせいで戦争が起こることって多い…むしろそれ以外の原因が少ないぐらいですが。なので喧嘩売ってる強国が絶対悪くて、国力が少なくて防衛に徹してる小国は絶対に正義だなどとはまったく思えないところです。もちろん大国の侵略が正しくて小国が間違ってるというつもりもないですが、歴史を読めばあの侵略の原因と大国の言い分というのは理解できるので。…ってこれ言うと怒られそうではありますが。現実として起こっていることの是非は確かとして、その是非がどうして引き起こされたか民衆レベルの視点に降りてくるのって戦争が終わって数十年、数百年後なので、今の現実の部分を忘れずに記憶しておきたいと思います。人間ってすぐに忘れますからね。

さておいて李克用も悪いんだよという話ですが、略奪の度が激しいという点古代中国史ナンバー1でしょう、この人の鴉軍。「沙陀の通った後は草も生えぬ」といわれた具合ですからね、イナゴみたいなもんです。

………………
李克用(り・こくよう。八五五-九〇七)
 李克用、本姓は朱邪、もとは隴右金城の人である。先祖の朱邪抜野は唐太宗に随い高麗、薛延陀の討伐に功を建て、金方道副都護を授かる。太宗は北庭に都督府を置くとその地・大沙堆に因んで沙陀都督府と名付け、高宗のとき朱邪抜野は沙陀都督とされる。これ以来沙陀を部族の名とした。祖父・朱邪執宜は徳宗のとき陰山府都督、憲宗のとき仮北行営招撫使。父・朱邪赤心は懿宗の咸通中年(866頃)龐勛の乱平定の功により金吾上将軍を授かり、李の姓と国昌の名を賜る。李克用は大中十年(856)に神武川で生まれ、六、七歳の時にはすでに騎射を良くし、十三歳の時空を飛ぶ二羽の鳥を見て矢を放ち、両発両中であった。十五歳で父に随い出征し、戦場で冲撃陣を落としてその勇猛果敢なことがあまりに非凡であったことから軍中に“飛虎児”と称され、戦後まもなく中牙将に。かつて韃靼人と遊んで腕比べし、韃靼人が空を飛ぶ大鳥を指して「あなたはよく一箭であの大鳥を落とせますかな?」と問われたので、李克用は連射して二つの大鳥を落し、境内にその名を響き渡らせた。成年して雲中守提使。

 乾符三年(876)、僖宗が段楚文を雲州防御使に任じた。当時農業は飢饉の発生により潰滅的ダメージを蒙っており、段楚文は軍糧を削減したので、雲州の将士はみな彼に対して恨みを持つに至った。李克用は雲中防督辺将であり、彼の部下も再三軍糧が足りないと訴上して、口々に不満を並べた。防辺軍校の程懐素、王行審、蓋寓、王存璋、薛鉄山、康君立らは一斉に李克用を擁立して雲州に進入、彼を将士の代表として段楚文に軍人の飢餓の実情を陳述させ、食糧の増量を請求する。周りを囲む駐留軍の雲中将士はこれに一斉して行動し、雲州に到り衆万余を聚めて、斗鶏台に在って強烈に軍糧問題解決を請うた。段楚文と李克用は代表として談判し、まず双方の解釈をなしてから、とひきのばそうとしたので、代表らはこの物を軍法に照らして処断すべしということになり、一様に激怒した大衆を宥めるため、彼を城外に引き出し軍糧横領のかどで斬首に処した。将士大衆は李克用を後任の防御使にということで一致し、朝廷に官爵を授与さるべく上奏するが、朝中の将相は朝廷の任じた官者を斬るとは造反行為と認じ、職を授与するどころではなく、軍を編成してこれを討伐すべしと討伐の準備を進めた。李克用は防御留後を自称して雲州を拠守し、反逆行動もやむなしとの措置を取る。

 乾布五年(878)、農民起義軍の領袖、黄巣はその部を率いて長江を南に渡り、勢力を迅速に拡大して、国内の局勢は危急を告げた。僖宗は李克用を大同軍節度使、検校工部尚書に任じてその心を穏当に保たせ、叛乱と合致しないよう手を打つ。当時李克用は父親に任ぜられて振武軍節度使を名乗ったが、吐谷渾と戦って敗北。李克用は辺軍を集め彼の父を頼って雲州に到ったが、雲州の守将は堅く拒んで門を開かず。李克用は怒り、自ら帯びる数人の将兵とともに蔚、朔二州を取り、兵馬を招いて三千余人を集め、神武川の新城に進駐する。吐谷渾はその兵力の寡弱であることから昼夜これを囲んだが、李克用は兄弟三人とともに四面これに応じ、父・李国昌も蔚州から兵を帯びて到来したので吐谷渾は退走した。ここにおいて李克用の軍威は大いに震う。朝廷は李克用がクーデターを起こしたとして吐谷渾の将軍赫連鐸に大同軍節度使を授け、もってこれを鎮圧させようとする。

李克用親子が蔚州を占拠した後、朝廷は各路の兵を招集し連合してこれを討たんとする。最初の年の冬、天から大雪降り、南方の士卒は寒さに耐えられず。しかるに李克用とその将兵はみな北方人なので寒冷を懼れず、かくして官軍は大敗し、総指揮官の北面招討使・李釣は射殺される。翌年、僖宗はまた元帥・李琢に兵数万を授けて蔚州を攻めさせ、李克用親子は敗北、その領する部族を率いて韃靼部に亡命する。韃靼部に住まうことになって数か月、吐谷渾の赫連鐸が人を派遣して秘密裏に韃靼部を調査し、賄賂を使って李克用と韃靼の間を離間せしめようとする。李克用は発覚後も泰然自若、韃靼貴族と将官をともなって狩りに出、門から百歩の外に馬を奔らせこれを射て、ある時は馬に括りつけた鞭を射て、またあるときは先のとがった矢で標的を射て、皆外すことがなく、これにより韃靼部の人はみな彼に敬服し、あえて裏切りの挙動を取ることがなかった。まもなく、黄巣が南方より北上して江淮地帯に打って出たという消息を聞き、李克用は牛を殺し酒を飲んで韃靼の酋長と宴を張り、これ痛快事よと。李克用曰く「我ら親子を奸臣の讒言よって迫害し、ここに落ち延びさせ、使いを致して報国させるの門なくば、忠を献じる路なし。今聞くに黄巣北上し、江淮を侵犯し、将来必ず中原の一代災禍となろう。晨に皇帝が我を赦し罪なしとして兵馬を集めさせるを許すのなら、我はあなた方とともに挙兵し南進して天下を定むものを。これは我が希望であるが、人生世に在り、多少の年に非ず、いかでか沙堆の間に老死するや! 願わくば諸君と報国の努力できんことを!」韃靼人はこれより彼がここにとどまる意思なしと知り、猶友好を結び、彼と行動をともにすることに決した。

広明元年(880)冬、黄巣は進軍してついに潼関を衝く。僖宗は河東監軍・陳景思を北起軍使とし、黄巣の軍を阻ませる。黄巣はまもなく長安に進み、僖宗は逃げて蜀中に避難する。陳景思と李友金は代北から沙陀各部の兵五千騎を帯びて長安に赴く。李友金は李克用の叔父であり、沙陀の兵を帯びて雁門に駐留した。刺史・瞿正は三万の精兵を招募し、惇県(惇は正しくは山偏)の西に軍営を建てた。この新兵はみな北方の大部族から徴収されたもので、驍勇剽悍ではあるが軍規軍法を守らないこと甚だしかった。瞿正と李友金はこれを管理しえず、李友金は陳景思に建義を提出して「衆人を聚めて大事を辧ずるに、必須であるのは威信あり名望ある将領であります。大家には残念ながら領導の才なく、しかるに今我らは幾万の兵を招募したといえども一個の好将領なし。すなわち出戦せば、勝ちを獲て功を建てることかなわずかな」陳景思はその慮んぱかるところなきを以て「良く兵を帯びてここに些かの功を建てうる将領とは誰ぞや?」と問えば、李友金答えて「我が兄親子は去る年朝廷に罪を獲、今は韃靼に身を寄せております。彼らは皆勇あり謀あり、北方の人士みな佩服しており、しかるに朝廷に奏してこれに尽力させるべく、彼らの罪を赦し北より帰らせんことを。これに新兵を管理させれば、代北の人皆集い呼応し、黄巣の平定など問題にもならないでしょう」陳景思はこの建議を容れてすぐさま朝廷に上奏した。僖宗は答えて李克用に雁門節度使を授け、あわせて彼に命じ自らの部下を率いて黄巣を討伐せよと命ず。李克用は韃靼諸部一万余を率いて雁門に駐守し、ここにあって忻、代、蔚、朔、韃靼の兵馬を各路より募り、総勢三万五千人を得て、しかる後部を領して黄巣を掃蕩すべく長安に進発した。

中和三年(883)正月、李克用は弟の李克脩に先鋒五千を率いさせ、黄河を渡り敵情を威力偵察させる。黄巣の派遣した人員を買収した李克用はこれに高官厚禄を許す。李克用は当面黄巣の書信を焼き捨て、金銀財宝を収奪しては身辺の将領に分配した。当時、長安救援に各路からの兵は多かったが黄巣軍の士気が旺盛であり、あえてこれに当たろうという者はなかった。ただ李克用の部隊だけが黄河を渡り、黄巣の将領はみなこれを「鴉児軍は励害、応対して彼の兵鋒を避くべし」といって恐れた。ここにおいて尚譲、林言、王璠、趙璋の四大将が十五万の大軍で梁田陂に屯する。翌日、李克用はよく軍を率いてこれを攻め、両軍交戦して正午から晩まで戦い、ついに黄巣軍は大敗し、夜に乗じて華州に奔る。李克用は華州の包囲を指揮し、再び発起攻撃するも、黄巣の弟・黄鄴、黄揆は拒んで戦わず、城池を堅守する。ただ李克用の英雄頑強を以て、華州はたちまち危急の時を迎える。尚譲は兵を帯びて救援に向かうも李克用は主動的に出撃し、増援部隊の道を截ち、これが双方の陣地戦に発展して李克用また勝ち、進軍して渭橋に。黄揆は華州を棄てて長安に奔り、長安城中の黄巣は李克用の凶猛に恐れをなし、抗うべからずとして、ただ拱手長安を譲るのはむかっ腹が立つとして宮院に火を放ち、焼き毀す。このとき李克用はまた北面行営都統、検校尚書左僕射に任ぜられた。李克用は良く準備して長安に兵を進め、ときに黄巣は長安を脱し東は蘭関に到る。李克用が長安に入城した時、見る限り一片の焦土であり、遍く瓦砕けていた。それでもついに京師回復ということで国家のため皇帝のために功を建てたとして、僖宗は喜んで彼に金糸光禄大夫、太原節度使を授け、晋王に封じた。時に李克用二十八歳。

李克用が黄巣に勝ちを獲て長安を修復したことは、その威声を大きく震わせ、各路軍の将帥はみな彼に畏れを抱いた。直接彼に文句を言うことはないが、彼の片目が潰れていることを綽名して“独眼竜”と呼んだのもこの時期に始まる。淮南の守将・楊行密は彼の独眼を一個の妙手丹青と思い、商人に身をやつして太原に到り、彼の図像を描かせるべく画匠を呼んだ。李克用はコンプレックスを暴かれることを嫌い画匠を擒え難詰したが、画匠は「淮南方面にあなた様の絵を送るのは、必ずその技芸が非凡であられるからであり、今わたくしがあなた様の絵を描くのは、果たして十分にその象を伝えるべしにであります。これを家の石段に飾り、あなた様が至られたと思い胸襟を正すのです」といって紙に筆を走らせた。時に猛暑炎熱、李克用は手の中の八角扇を揺さぶりいらだちを表し、画匠はこれに怯えてあたかも李克用に両目があるかのように描いた。李克用はこれを見て「汝はこれで有意とするか、よろしからず。汝が我を描くにあたって、美化は不用である!」画匠はそこで新たに画きなおし、新たに画面上に描かれた李克用は腕に上袴を佩いて大弓を取り、千里の外に矢をつがえ、まさしく単眼で狙いを定め弓を曲げんばかりに振り絞っている姿であった。李克用はこの一幅の絵に大層満足し、画匠に重い賞与を授けて彼を釈放した。
同年十二月、汴州宣武節度使・朱温と徐州節度使・時溥、陳州刺史・趙犨らが相次いで李克用と連携し、ともに出兵して黄巣を討った。

中和四年(884)春、李克用は五万の兵を帯びて出征、太康地区に在って朱温、時溥らと師を会してのち、一挙黄巣の大将・尚譲を攻め、大勝し斬獲万余に上る。さらに進軍を続けて西華に屯する黄鄴の部隊と戦い、時に大雨雷電、平地が水深く数尺まで水に浸され、黄鄴は営を棄てて逃げ、兵士たちは荒涼として潰乱し、各自命を逃れる。李克用は王満渡にあって黄巣の軍を大いに破った。まもなく、黄巣自ら大軍を率いて征戦、李克用はその軍が汴水を渡りきらないうちに迎撃して痛撃を与え、陣に臨んで大将・李周、王済、陽景らを殺し、夜ただちに到り、黄巣軍を大敗させる。黄巣は妻子と一族一千余人を連れて東に逃れ、李克用はまた曹州にこれを追撃し、しかるのち班師朝廷に還る。

李克用が汴州を通り過ぎる時、汴州節度使・朱温が封禅寺にあって慰労歓迎の意を表した。李克用は請うて彼の府第に休息し、これに将官三百人と監軍使・陳景思が上源駅の官舎で休憩する。その晩、朱温は上源駅で歓待の宴を張り、歌舞と妓芸とで李克用をもてなし、朱温みずから酒を取って勧める。李克用は酩酊して耳まで厚くなり、朱温の手を取りいかにして黄巣に勝利を得るか、得意洋々、志にためらいなし。しかしこのとき朱温は内心で彼の威名を怨み、ここを彼の死地とすべく諂って見せていた。果たして今門前に送り出そうというとき、彼を陥れるべく罠が発動する。ここにおいて副将・楊彦洪が密かに部署を完了し、楊彦洪は巷の要道に軍車と木柵を設置して障碍をなし、もってその逃路を截った。宴席上、李克用と彼の随行官員は酩酊して大いに酔っぱらっていたが、このとき、楊彦洪が彼らを排除すべく上源駅の官舎から突然将兵を発し、四面から一辺に殺さんと声を上げる。李克用とその随員十余人は抜刀して自衛し、李克用の侍中・郭景銖が急ぎ慌てて李克用滅亡の謀略を見破る。彼は蔵に到り、またカーテンの裏から外の格闘音を近くに聞き、根本から謀られていたことに気付いた。干戈の中に酒もすっかり冷めた李克用は眦を吊り上げ、計られて及ばざるを知って言うに「朱温我を害さんとするか、既に殺しにかかるとは!」李克用はようやく驚嘆の体から冷静をとり戻し、床下に隠れ弓矢を取って抵抗する。このとき四面から炎発して彼らを焼き殺さんとし、李克用の随員将領・薛鉄山、賀回鶻らは協議して囲みを衝き、このあたりの不習熟な地理街道を、大体の判断で進む。しかるに火は旺盛であり跨ぎ越えて近寄る。彼らは死中に活を求める精神で炎の中に囲みを衝いた。このとき忽然と巨雷轟き天地どよもし、盆上の水を覆すかのような大雨が降って、ゲリラ豪雨。五指を伸ばしても相手の顔が分からない状況になり、火は鎮火したものの雨更に大。彼らは閃電的に城墻に上り、しかるのち下にロープを垂らし、城外に出てようやく本営に走って帰る。監軍・陳景思、大将・史敬忠は上源駅の舎中で没した。翌日早朝、李克用は考えあって汴州を攻め立てるが、彼の妻劉氏が「あなたはこれ国家のために賊寇を討たんとするお方、汴人に謀られ害されかけたと言えど、それを決裁なさるのは朝廷でありましょう。果たしてあなたは今反撃の矛を取って城を攻めますが、これが我らの理を曲げ話の柄を変えてしまわないよう願う所です」李克用は夫人の言葉に兵を引き揚げ、ただ朱温に手紙を出してその原意を質問したが、朱温は「あの夜は不愉快な出来事が起こりましたが、わたくしの本意ではございません。これは朝廷の天子と牙将・楊彦洪の共謀したところであります」李克用は朱温の辧辞をもはや信ぜず、ここに両人の人心照らしてよろしからず、冤讎を結ぶ。李克用は太原に帰ったのち、朝廷に上書して理由を申明にされたしと問うも、朝廷は李克用の大功により太傅、同平章事、隴西郡王とするにとどめて釈明しなかった。しかるに李克用は官を加えたことで満足せず、彼の本意である朝廷の奸臣と汴州への恨みを八次に分かって上表し、朱温の職を剥奪してしかる後彼に本軍を率いて進討させよと請うた。僖宗はただ恐怖して彼ら二人を共に節度使とし、同時にまた頗る実力ある二大将の間に戦闘が起こらぬよう、絶えず人を派遣して自分がどれだけ貴公らに服しているかを説き、慰労の旨意を勧めたが、李克用が感覚顕明となることはなく、皇帝はどちらかと言えば朱温を恃みにした。

光啓元年(885)、各地の軍閥、割拠勢力が中原に鹿を逐い、反覆常なく州府鎮城を奪い合った。文徳元年(888)三月、昭宗即位、李克用は旧官に加えて開府義同三司、検校太師兼侍中を授けられる。この一年後には地方節度使の間の権力闘争が混迷の色をまし、李克用は朱温らの人を連名で上表してこれを譴責している。昭宗はついによく彼の職を奪い、朱温は汴、幽、雲、華州節度使として連合をなし、攻撃してきた。李克用は兵を率いて戦うも勝ちあり負けあり。勝ちは多く負けは少なかったのが救いか。大順二年(891)に到り、李克用はとうとう本格的に苦戦するようになり、秋毫ほどの進展もなく、将士は疲れ倦み、前途茫然として、当初本来国家社稷のために南下して入関し、黄巣を掃蕩して長安を修復した後は、叛族匪賊と見られ、名誉を棄損されて官を削られ、四面に敵を受け、長らくこの下に在って、何ぞ自立を考えんや? 改めて自己を取り巻く環境の変化を好転させるに最良の辧法は皇帝への上書申告であり、彼は奏文の中に自己の心跡と功績を連ね、削官以来の自己の境遇について誰何し、しかるのちこう書した。「我今無官にして名義上は国家の罪人、ゆえにあえて提出の蒙昧を冒さず! 皇上に帰服し、ただ望むは河中に寄寓し生存することのみ、今後いかなる行動をとるか、すなわち皇上次第であります、我只命ぜらればこれに従うのみ」李曄はこの李克用の上奏文を読んでその誠心誠意をくみ取り、情理を尽くした中に感じて、彼を河東節度使、西隴郡王に復し、また中書令を加えた。

大順二年からの十八年間、李克用は主に朱温と晋、絳、沢、潞、刑、磁州を争った。一戦区一局面での直接対決では太原に分があったが、全方面的な関係と双方彼我の勢力では河北の利は消え、重要な関区を取られ、双方反覆常なくして争った。その間、李克用はかつて乾寧二年(895)関中に進軍し、李貞茂平定に参与し、王行瑜および韓建が朝廷の逆臣となると昭宗を保護している。天復元年、二年(901-902)、朱温が二度にわたって太原を冒すと、城を破られることはなかったが李克用と雖も勝ちを獲ることが困難になり、ついに寡兵無力を以て出撃し、形勢以前朱が強く李が弱なり。天佑4年(904)、朱温が帝位を僭称して国号を梁と定める。李克用は唐の復興を念願にこれと相争ったが、翌年晋陽において病逝、享年五十三歳。

李克用は臨終に際して三本の矢を手に取り、長子李存勗に示して曰く、「一本の矢は劉仁恭に用いよ。汝はまず幽州で攻め克ち、すぐに河南を取るべし。一本の矢は契丹に用いよ。契丹王・阿保機はかつて我と兄弟の契りを結んだが、唐朝の社稷回復のための攻守同盟は破られ、今やあい反目する敵である。汝は必ず彼を討伐し、父の仇に報いよ。一本の矢は朱温を滅ぼすに用いよ。汝が良くこの三項に随い、実現させるのであれば、我は死すとも遺憾なしである」李存勗は涙を含んで矢を手に取り、必ず父の意に従い意を果たすと誓った。しかるのち三本の矢は祖廟に陪葬された。まさに彼は準備して劉仁恭を討ち、祖廟に祭祀して一箭を特製の錦袋に入れ、親族将領が出征するに当たってはこの矢を授けて大軍の先鋒を任せた。戦勝して凱旋した時には一箭をもって俘虜と祖廟に同行し先人に告げ、しかるのちまた再起の時を待った。こののち契丹征伐、朱氏勢力滅亡にあたっても挙行に当たっては「請矢」の儀式、凱旋しては「帰矢」の儀式を執り行った。李存勗は重托を背負って龍徳三年(923)、後梁を滅ぼし、魏州にあって登極して国号を唐とし、年号を同光として、父李克用に追諡して武皇帝の名を捧げた。

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