投稿記事

2023年 06月の記事 (30)

[♀/連載]不浄奇談 [4-1.真崎えりかの話]

『不浄奇談』キャラクター紹介


     4-1.真崎えりかの話

 言いたくないんですけど。実はその、ちょっと、ほんともう、我慢が苦しくて……。
 私、このままだと、次の話が終わるまで我慢しなくちゃいけませんし。ちょっと、その、それ、難しいかも、しれなくて……。
 もじもじしている? もじもじ、してますよ! だって、我慢してますから!
 わ、笑わないで下さい。だって、仕方ないじゃないですかあ。せ、生理現象、ですよ。そんな風に笑ったりするものじゃないって、小学校でも先生が言っていました。う、だ、だから、笑わないで下さいったらぁ。
 それでもダメ? それじゃあ、手短に済ませます。
 この学校、昔は病院だったらしいです。だから、幽霊とかもいっぱい出るみたいです。
 以上。私の話はおしまいです。これでいいですよね? 
 そうですよ。よく考えたら、名案じゃないですか。こういう感じで、どんどん短く終わらせていけばいいんです。これなら、全然怖くもないですし、『不浄奇談』を中断した呪いも避けられるんじゃないですか?
 別にダメなこと、ないと思います。そもそも、亜由美先輩や悠莉先輩が、最初に長く話をしすぎたんですよ。そのせいで、みんな、長くなきゃいけないみたいになっちゃって。短くていいんです。怖い話なんて。そもそも、この期に及んで、怖い思いなんてもう誰もしたくないわけですし。
 屋上に放り出す? ま、待って! イヤ、それはぜったいにイヤです! わ、わかりました。少しだけ、話を詳細にしますから。許して下さい。
 それじゃあ、ええと――そう。人って、やっぱり、必ず死にますよね。私も、悠莉先輩も、他のみんなも。全然、実感はありませんけど、最後には全員死ぬと思います。人はそういう運命ですから。それじゃあ、人が最期の瞬間を迎える場所ってどこが多いと思います? 自宅とか、道路とか、色々ありますよね。でも、私、やっぱり、病院で最期を迎える人の割合が大きいと思うんです。だって、重い病気や怪我を負った人は、病院で治療を受けることになるわけですから。だから、病院で無念の想いを抱えたまま亡くなった幽霊が、病院跡のこの学校にはたくさん棲み着いているわけです。
 ところで、話はちょっと変わりますけど、学校の中で病院に似た施設ってありますよね。そうです。保健室です。ちょっとしたものですけど薬があって、ベッドがあって、怪我をした子や体調が優れない子がそこで眠る――。
 実はね、出るらしいんですよ。この学校の保健室。やっぱり、学校の中で唯一、元々ここにあった病院に似通った雰囲気の場所だからでしょうか。
 友達から聞いた話なんですけど、体調が悪いとか吐き気がするとかの仮病を使って、保健室のベッドでよく眠っていた子がいたらしいんです。ある日、その子が保健室のベッドでいつも通りにゆっくり眠っていると、誰かが中に入ってきた気配がして目を醒ましました。
 保健室なんですから、普通に考えたら、入ってくるのは保健の先生か、具合の悪くなった生徒ですよね。でも、どうも、様子が妙なんです。彼女はベッドを囲むように張られたカーテン越しに様子を窺っていたんですが、ベージュ色をした厚手のカーテンに映る影は大きく、ずいぶんと背が高かった。生徒のものではなさそう。かと言って、保健の先生のものかと言えば、そうでもない。彼女は保健の先生が立ち働く影を、サボりのたびにカーテン越しに見ていました。だから、見慣れていたんですね。保健の先生はせっかちで、足音も影も、いつもせかせかと早いテンポで動き回っていたそうです。けれど、目の前の影は違う。まるで足を引きずってでもいるように、ゆっくりと歩いているのです。小柄な保健の先生と比べると、影はずいぶんと大柄でもあったようです。
 彼女はなんだか気味が悪くなってきました。ついでに――まあ、本当はそれで目が醒めたのかもしれませんが――ひどく、トイレにも行きたい。
 でも、困ったことに、影はいつまでも保健室内をゆっくりゆっくり歩き回っています。まるで、何かを探しているかのよう。一分や二分ならまだ我慢もできましたが、十分も、二十分も、そうしているのです。彼女は我慢の限界でした。気味が悪いのを堪え、影と対面する覚悟でカーテンの外に出る決意をしました。
 カーテンを掴み、勢い良くカーテンを開く。カシャ、という音がして視界が開ける。そこには――水を打ったように静かな保健室が広がっていました。
 そうです。誰もいなかったのです。確かに黒い影が、ついさっきまで、はっきりとカーテンには映っていたのに。
 彼女は恐ろしくなって、すぐにその場を去ろうと思いました。そうして、ベッドから起き上がろうとした瞬間です。突然、枕元に置いてあった携帯電話が着信音を鳴らしました。ひどく気が張り詰めていて、我慢の限界に達していた彼女は――これはちょっと笑っちゃうような話ですが――自分の設定した、自分の携帯の着信音に驚き飛び跳ねて、あっ、と思った時にはもう遅い。我慢していたものを、ベッドの上で始めてしまったそうです。止めようと思っても、本格的に始まってしまったおしっこは、なかなか止まるものじゃないですよね。彼女は全部、そのままやってしまいました。ふふ、おもらしした格好で廊下に出ることもできず、彼女は気味の悪い保健室でずっと保健の先生が戻ってくるのを、今か今かと待ち続けるしかなかったらしいです。
 彼女の失敗は年齢不相応の失敗『おねしょ』として片付けられて、彼女が見た影の話は単純に彼女が見た怖い夢と解釈されました。中学生にもなって、怖い夢を見て『おねしょ』してしまった幼稚な女の子。そんな風に扱われてしまうのは、誰だって心外ですよね。彼女もそう思って抗議しましたが、保健室の影の話を信じてくれる大人は誰もいません。不幸中の幸いだったのは、彼女のベッド上での失態が保健の先生と彼女の信頼できる何人かの友人以外、誰にも知られずに済んだことです。
 それ以来、彼女はもう二度と保健室でサボろうとはしませんでした。それどころか、気味悪がって、保健室そのものに寄り付きもしなくなったとのことです。足を引きずる、奇妙な影。この学校では、同じような目撃談が少なくないそうです。まだ何の被害も発生していませんから、先生達は夢だの幻だの言って見ないふりをしていますけど、やはり本当に何かいるのではないでしょうか。
 ……というわけで、以上。私の話はおしまいです。
 え、短かった? 全然怖くなかった? むしろ、ちょっと和んだ? し、仕方ないじゃないですか。そもそも、先輩達がここまで作り込んできているとは思っていませんでしたし、それに怖い話なんかよりも、私達が置かれているこの状況の方がずっと……。
 はい、言いません。言わずに置きます。とにかく、早く終わりにしましょう早く。そうしないと、せ、先輩達だって、この子の二の舞にならないとは限らないんですからね!

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

[♀/連載]不浄奇談 [3-2-2.休憩 湯田真冬]

『不浄奇談』キャラクター紹介


    3-2-2.休憩 湯田真冬

 スマートフォンの発する明かりに照らされながら、表示される画面を無言で見つめる。ふとあることに気付き、まさかと思い、それが確かな事実であると悟った時、湯田真冬ははっと息を詰める。浅く、慎重に、息を吐き出す。
 あぁ、と真冬は低い声で呟いた。
 これは、凄い。これは、きっと――。

「休憩時間、おしまい。それじゃ、次、えりかちゃんの番ね」
「私の番って――いや、あの、ちょっと、待ってください!」
 尼野悠莉が話を始めるように促した直後だった。
 次の話者である真崎えりかが、強い拒絶反応を示した。流れに逆らうことなく、柳のごとくに状況に合わせる――普段の柔軟な姿勢は現在のえりかには見られなかった。悲鳴にも似た声で、まくし立てる。
「今、そんな、怖い話なんてしている場合ですか? 何ですかさっきの! 屋上には誰もいないはずなのに、あんな凄い音……。これ、絶対に何か起きてますよ! やばいですって! 亜由美先輩だって結局戻って来ないし、さっきの、亜由美先輩の声だって。あれ、一体、なんだったんですか」
「確かに……。ちょっと、普通じゃないかも」自身も困惑した様子で、三夏が半ば同意を示す。
 自分のすぐ近くで始まった議論に、湯田真冬は心中で頷く。二人の言う通りだ。どんどんと事態は奇妙な方向に進み始めている。常にない挙動をした『お兄ちゃんのウィジャボード』。その直後に起きた不可思議な現象。いずれも、尋常のものとは思えない。加えて、皮膚感覚もどこかおかしい。にじり寄る何者かの気配からか、確実に近づく我慢の限界からか。気温の高い時期であるはずなのに、背筋が異様にぞくぞくする。その寒気とも興奮とも判別できない感覚に、真冬は胸苦しい想いを抱く。遠い昔に幾度となく味わった、じりじりとした心許ない感覚。
「私、提案があるんです!」真冬の考えをよそに、えりかは話を続けている。声には調子外れの鋭さがある。「一旦、この怖い話の会をやめて、みんなでトイレに行きませんか。やっぱり、我慢したままじゃ、ちゃんとした結論も出ないと思うんです。トイレを済ませて落ち着いてから、この先を続けるかどうかを考えた方が……」
「待って」琴美が言いにくそうに口を挟む。「『不浄奇談』は途中でやめると呪われる、らしいから。変な現象が実際に起き始めているこの状況だと、むしろ、『ルール破り』をする方が危険かも」
「でも……」えりかが唇を噛む。無意識的な動作か、不安げにお腹を片手でさする。その顔は血色が悪く、肌の表面にはうっすらと脂汗が浮かんでいる。「だって、このままじゃ……」
 急かされているのに、動きが取れないままならなさ。すぐにでも行きたい、行かなければならない場所があるのに、足踏みするようにして床の上でお尻を揺らすことしかできない切なさ。今、真冬には、えりかの気持ちがわかった。まさにこの瞬間、真冬も同じものに責め苛まれていたので、手に取るように理解できた。
 ずいぶんと昔、毎日のように経験した感覚だった。幼少時、『お兄ちゃん』に怖い話を聞かされていた頃、真冬はこの感覚を嫌というほど味わった。夜の闇に怯えながら、生理的欲求にお尻を蹴飛ばされながらも、行きたい所にはどうしても行けず、ただただじっとこみ上げてくるものを耐え忍ぶ他ない――あの時の不安に満ちた世界が突如、当時と寸分違わぬ姿で真冬の眼前に蘇っていた。あの頃から今まで、長いこと直面することのなかった、自らの原風景とも呼べるもの。その中に、真冬はいた。
 真冬は自分の中に、確かな恐怖を感じ取っていた。しかし、同時にどこか心懐かしい、ずっと戻りたかった故郷に帰ったような心境でもあった。もしかしたら、と真冬は頭の隅で考える。もしかしたら、わたしはずっとこれを求めていたのかもしれない。『怖い話』や『こっくりさん』を悪用して、集団の中に居場所を作ったり、友達をおもちゃにするようなことではなく、わたしが求めていたのはこれだったのかもしれない。あの頃と同じように、心の底から怯えることができて、切なく辛い忍耐を無理強いしてくれる、本当の、恐ろしい何か。真冬自身が成長するに従ってなりを潜めてしまった、真冬を通せんぼしてくれるおぞましい黒い影。
 真冬は無言で膝をこすり合わせる。元々、『不浄奇談』のルール上、話者を務めたばかりの自分はまだトイレに立つことはできない。でも、もしも、ルールによる制約がなかったとしても――自分は変わらず、床に座り込んでもじもじしていることしかできなかったに違いない。真冬はそんな情けない自分の挙動を、愛おしい気持ちで眺める。試しに、やあい、と心の中で自身の震える四肢に投げかける。やあい、いくじなし。
 とくん。未発達な胸の中で、心臓が上擦った音を立てた。
 いくじなし。一人でトイレにも行けない幼稚園児。このまま、ずうっと行けないまんま、もじもじしてればいいんだ。おしっこ漏らして大恥かいちゃえ!
 とくん、とくん、と心音が感じられる。自分自身にひどい言葉を浴びせられて、高ぶり早まる、心の鼓動が。
「とりあえず、さ」悠莉がそっけない口調で言った。真冬は茫洋とした意識の中、彼女の意見を聞くともなく聞く。「さっきの声が幻聴か何かとすると、亜由美は帰って来なかった……要するに逃げたってことになるよね」
 そうだろうか。本当に亜由美先輩は逃げてしまって、ただ帰ってきていないだけなのだろうか。真冬にはそうとは言い切れないように感じられた。
「ってことはさ」悠莉が続ける。「亜由美の『秘密』はもう見ちゃってもいいんじゃない?」
 悠莉の発言は、真冬の耳にはひどく場違いなものとして響いた。集中できていなかったこともあって、一瞬、何のことを言われているかわからなかったほどだ。
 視線を転じる。『不浄奇談』開始当初、他ならぬ亜由美自身が集めた皆の秘密を記した紙片。それは場の中央辺りに置かれている。氏名が書かれた面が表を向いていて、裏面にはそれぞれの『誰にも言えない秘密』が記載されている、ことになっている。
「亜由美の秘密、見てみようよ」
 ヘラヘラとした笑みを崩さず、悠莉は他のメンバーを促す。それでも、気が進まないのか、特に誰も動こうとはしない。真冬も行動に移さない。
 悠莉がふん、と鼻を鳴らす音がした。
 悠莉自身が腰を上げる。そうして、小貫亜由美の名前が記載されている紙片を裏返す。
 天井に備え付けられた灯りは、いまだ点灯される気配がない。もう、今夜は点灯されることはないのかもしれない。深まる暗闇の中、皆で顔を寄せ合って、紙片の表面の文字を見つめる。書かれている文字を真っ先に確認した悠莉は、言葉を何も発さなかった。同様に亜由美の秘密を目にした全員が、黙り込んだ。真冬も言うべき何事も思い浮かばなかった。そこにはこうあった。
『茜音ちゃんと葵ちゃんを殺しちゃったこと』
 予想外の内容に、どう受け取っていいのかわからなかった。
 真冬は記憶をたぐる。茜音ちゃんと葵ちゃんというのは、亜由美先輩自身が語った『怖い話』の主な登場人物だったと記憶している。この秘密を真に受けるのならば、二人を殺したのは実は亜由美先輩自身だった、ということになる。でも、それは一体どういう――。
「いや、ぜんぜん意味がわからないんだけど。なにこれ」悠莉がつまらなさそうに吐き捨てる。「これ、やっぱり、適当に書いといて逃げたんでしょ。絶対」
「でも、適当にしても、意味がわからなすぎない?」三夏が至極当然の疑問を口にする。
「そんなこと、もうどうでもいいです」えりかが苛立ちを隠し切れずに言った。やけに抑揚を欠いた声だった。「とにかく、早く『不浄奇談』なんてやめて、みんなでトイレに……」
「待って。もしかしたら」琴美が低い声で言った。「もしかしたら、これ、本気で言ってるのかも」
 琴美の何かを察したような態度に、全員が琴美の方に目を向ける。皆の無言の求めに応じて、再び琴美が口を開く。
「最初の、亜由美の話ってさ。ちょっと変じゃなかった? まるで、自分がその場で見ていたみたいな……そういう言い方をしているところが、いくつかあった。例えばさ、亜由美、自分の話の中で言ってたよね? 『あたし、今、思い出しても、笑いが――』みたいなこと。しかも、その後、『おおっと、失言。あたしなんて登場してなかったね』とかさ。やけにわざとらしかったから、印象に残っているんだけど」
「言ってた、けど」三夏が続きを促す。「でも、それってつまり……?」
「要するに。自分とは言わずに、亜由美自身、あの話のどこかに登場していた……ってことなんじゃないの?」
「あぁ……」
 真冬はぴんときた。確かによく登場するわりには、最後まで名前のなかった『茜音ちゃんのお友達』がいたように記憶していた。その人物は話の中で、茜音ちゃんと葵ちゃん、二人の関係を決定的な破局へと追い込んだ元凶となっていた。そして、言われてみれば、そのキャラクターの性格は明るい一方、粘着質で底意地が悪い――亜由美先輩によく似たものだったかもしれない。
「それじゃあ」悠莉が神妙な面持ちで言う。「話の中のあの二人は、亜由美のせいで死んだってこと?」
「本人がいない以上、想像でしかないけど」琴美は眼鏡の弦を弄びながら話を結ぶ。「あの二人、特に葵ちゃんの方は、前に亡くなった私達と同学年の子だよね? だったら、亜由美が原因になっていても、筋は通るんじゃない」
「そういえば、さ」三夏がふと気付いたように、自分のスマートフォンを取り出しながら言う。「誰か亜由美本人に連絡はしたの?」
「私、したよ」悠莉が返事をする。「でも、反応なかったね。携帯は持って行ってるはずなんだけど、ずっと未読のまま……」
 そこまで告げて、悠莉が目を見張る気配がした。自分の携帯端末の画面表示を眺めて、見慣れない箇所を見つけたのだと真冬にはすぐにわかった。三夏も同じことに勘付いたのだろう、自分のスマートフォンを手に押し黙っている。
 わずかな沈黙の後、悠莉は端末の画面を皆に向けた。静かに続ける。
「……ねえ、これ、繋がってないんだけど。みんなのは、どうなってる?」
「わたしのは繋がりません」真冬は何も見ずにすぐに応えた。先ほどある種の予感があって端末を開いた際、すでに圏外表示になっていることを確認済みだった。「インターネットも繋がりません。たぶん……誰のも繋がらないんじゃないですか?」
「……ほんとだ」
「こっちもダメ」
「どうして? ついさっきまで、普通に……」
「『戻れない』。『道がない』」思考を口に出しただけの真冬の声が、虚ろに響く。皆が真冬を見た。真冬は皆の注視を意識することなく、そのまま思考の続きを言葉にする。「『お兄ちゃん』も言っていた。亜由美先輩は戻れないんだ、って。亜由美先輩が本当にこの学校で死んだ人と深い関係があって、その人に恨まれていたんだとしたら。亜由美先輩、本当に戻って来られない状況になっているのかも」
「湯田ちゃん?」えりかが怪訝げな声を上げる。
「あ、大丈夫です。心配してくれなくても。でも、凄い、ですよね……」真冬は呟く。自分の声が震えているのを、真冬は自覚する。ある種の感慨を込めて、真冬は続ける。「わたしも、初めて見ました。色々と怪談遊びにも手を出してきましたし、話には聞いたことはあります。だけど、初めて見たんです。そういうことが本当に起こっている時、『携帯電話は繋がらなくなる』。でも、あぁ、本当に、こんなことがあるんですね。これは、凄いですよ。これは、もう、きっと――」
「も、もう、いいから! こんなの、やめましょう」えりかが苦しそうな声を上げた。「もうやめにして、全員でトイレに行って、合宿のみんなと合流しましょうよ!」
「よくよく考えれば」真冬はえりかの発言を意図的に無視した。馬鹿げたことを、と思っていたのだ。終わりにするなんてとんでもない。こんなに身体の芯から震えるほど素敵な夜なのに、どうして帰ったりしなければいけないのか。「この状況、『不浄奇談』のストーリーと同じなんですよね……。そう思いませんか? あの話、舞台はずうっとここと同じような階段の踊り場で、一度もまともな場面転換がないじゃないですか。主な登場人物はずうっと舞台の上にいて、休憩時間にトイレに行って舞台から去った人からいなくなっていく……」
 真冬は自分の顔色は果たして蒼白になっているだろうか、と考える。それとも、興奮のあまり、紅潮しているだろうか。どちらでも、ありそうな話に思えた。あの頃と同じ不安は、恐怖は、ひどい高揚感に満ちていた。深い慰めに満ちていた。
「一人一人、我慢しきれなくなって、トイレに立った人からいなくなる……。でも、あの演出、わたし好きなんです。いなくなった人達も、舞台上にはちゃんといるじゃないですか。全身灰色の服を来て、灰色のメイクをして、青系のライトを当てたりして。物語上は誰にも見えていないみたいだし、身動きもしないし、何一つとして台詞を発することもない。もう二度と、誰にも話しかけられることもない。でも、舞台上に、いることはいる。そんな『灰色になった』人達を前にして、まだ灰色になっていない他の登場人物達は、いなくなったことになっているその人達の話をああでもないこうでもないとしているんです。どこに行ったんだろう、逃げちゃったのかな、なーんて。でも、本当は、『灰色』になってすぐそこにいる。あれが本当に『いる』のか、学校に棲まう悪霊に囚われてしまったことを示す演出なのかはわかりません。でも、まさに、今」
 もっと、もっと、怖くなればいい。
 もっと、もっと、したくなればいい。
 真冬はその場にいる全員に対して、そう願った。自分自身に対してはより一層強く、そう願った。
 怖くて恐ろしくて、トイレになんて行けなくなればいい。
 それなのに、どうしてもしたくてしたくて、たまらなくなればいい。
「まさに今、この状況みたいじゃないですか」
 不安に心臓がきゅっとする。縮んで、乱れて、心が踊る。
 怯えに膀胱がきゅっとする。縮んで、出そうになって、脳が華やぐ。
 これは、凄い。帰ったりするなんてとんでもない。これは、きっと――生まれて初めて体験する、『本物』なんだ。
 雨がしとしとと降り続いている。誰も助けの来ない、誰とも連絡の取れない、怪談に満ちた夜の校舎。真冬は自分を怯えさせてくれる、追い詰めてくれる、『本物』の気配に深い悦びを感じていた。
 わずかな沈黙の後。悠莉が声を発した。
「……いや、あのさあ。盛り上がってるところ悪いけど。これは現実だから。劇とは違う」真冬を鼻で笑うような気配を無理に滲ませて、言葉を継ぐ。「うん、全然、劇とは違うでしょ。だって、あれはトイレに行ってから帰ってくる人間は一人もいない。でも、うちにはいたよね。そうでしょ、ねえ三夏。三夏はさっきトイレに行って、無事に帰って来たわけでしょ」
「……そうね。トイレに行って、帰って来た」三夏が静かに頷く。
「ほら、やっぱり、劇とは違う」悠莉は唇を吊り上げて、目を細める。少し引き攣ったようにも見えるが、それは立派な微笑みだった。「……ていうかさ。みんな、びびりすぎだよ。想像力、逞しすぎ。ただ、亜由美が逃げただけだってば。携帯が偶然、圏外になっただけだってば。幽霊とかいないよ。呪いとかないって」
 しん、とする。誰も悠莉の言葉に応えない。彼女のきわめて現実的発言を言外に否定するような沈黙だった。それでも、悠莉は声を張る。強引に話をまとめようとする。
「あー、もう、なに静かになってんのみんな。とにかく! 私らは東川先輩に言われてるんだから、少なくとも、最後までやらなきゃでしょうが。えりかちゃん、もう、とっとと始めちゃってよ。えりかちゃんの話、楽しみにしてるんだからさあ」
「で、でも、私は……」
「じゃあ、次からやめたいって言った奴の秘密も開くことにしようか。あー、思いついた。そういう奴は、一人で屋上に放り出すっていうのも楽しくない?」
「そ、そんなの!」えりかの顔色が変わった。屋上へと続く金属製の扉に、正視できないおぞましいものでも見るような目を向ける。「だって、屋上は……」
「そ。正体不明の、こわーい音とこわーい声の聞こえてくる場所」片手を顔の高さに上げて、悠莉はわきわきと動かしてみせる。「ふふ、あの向こうに何がいるのか自分の目で確認してきたければ、ここで『怖い話』をやめてもいいんだよ? えりかちゃん」
 えりかは黙って、身じろぎした。三夏も琴美も何か言いたげにしながらも、結局、口を挟むことはなかった。真冬はこの夜の継続さえ叶えば異論はない。えりかはいよいよ助けがないことを悟って、顔を伏せ、目をつむる。
 幾度か深呼吸をしてから、えりかは顔を上げた。
 その瞳は、潤んでいた。その頬には、朱が差していた。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

[♀/連載]不浄奇談 [3-2.休憩 尼野悠莉]

『不浄奇談』キャラクター紹介


    3-2.休憩 尼野悠莉

 背にしていた扉から、ドンドンドン、と重い衝撃音がして。
 ひゃあ、と思わず素っ頓狂な声が漏れて。
 しょろ、と何かの迸りを股間に覚える。
 湯田の語尾をかき消すように、突如として背後から鳴り響いた轟音。その物恐ろしい音に気圧されて、一瞬にして皆が黙り込む。
 誰も口を開けない。皆が緊張に満ちた表情で見守る中、音は屋上へと出るための扉から断続的に響き続ける。ドン、ドンドンドン、ドンドン。これは、と尼野悠莉はピンと来た。これはノックだ。屋上にいる誰かが、この踊り場へと続く扉を外側から叩いているのだ。
 まるで金縛りにでもあったかのごとく、誰もが動きを止めていた。悠莉も固唾を呑んで見守る。胸の鼓動が強く打つ。実際に音が鳴っていたのは十秒程度だったにも関わらず、悠莉にはそれがひどく長く感じられた。次第に扉を叩く音は収まっていき、ついには完全に鳴り止んだ。後には、さらさらと降る雨音、ぱちゃぱちゃと雨樋を伝って落ちる水の響きだけが、静まり返った踊り場に残る。
 場のどこかから、ほお、とため息が漏れる。安堵の吐息。それが合図だったかのように、皆がようやく停止していた活動を取り戻す。悠莉は思い出したように、息を吸う。ねっとりとした湿気を含んだ空気。わずかに混ざる黴の臭いが、鼻腔を刺す。
「あっ、ど、どうしよ。私、指、離れ……」声に反応して目をやると、えりかが自分の指とウィジャボード上の十円玉を見比べて、慌てふためいている。「今ので、指、離れちゃいましたよお……!」
 悠莉は自分の指を見る。内心、ほっとする。自分は十円玉から離れていない。見れば、はっきりと腰が引けている三夏の指も、すんでのところで十円玉上に残っている。しかし、それよりも何よりも――まずいことに悠莉は気が付いた。
 明らかに、下着が湿っていたのだ。ひょっとして、私、今の音に驚いた拍子に……。そういえば、と思い返す。さっき、確かにそれらしい感覚があったような……。
 自分の失敗を理解した瞬間、顔が熱くなる。
「湯田ちゃん、ちょっと、これ早く終わらせてよ!」悠莉は焦燥感に駆られて叫んだ。必要以上の大声になってしまっていることを理解しつつも、あらゆる意味で、自由に動きの取れない姿勢のままのんびりとしていられる状況ではなかった。「ちゃんと終わらせないと、ヤバいんでしょ!」
 茫然としていた湯田があわあわしながらやって来て、「お、お兄ちゃーん、『後ろ』はわかったからあ。今日はおしまい。ね。いいから、早く早く。ごめん、ごめんね。好きよお兄ちゃん、わたしも好き好き大好き超愛してる」などとウィジャボード上に宿るという亡き兄の説得を始める。湯田の半ば強引な説得が功を奏したのか、十円玉は鳥居に戻り、どうにか儀式を終えることができた。
 湯田と三夏が揃って息をつく。ようやく自由を取り戻し、悠莉も人心地ついたその瞬間だった。
 ドンドン、ドンドン。また、金属製の扉が騒音を立て始める。えりかが両手で耳を塞ぐ。悠莉も身を硬くした。
 だがしかし、今度は先ほどとは違った。扉を叩く音に遅れて、声がやってきたのだ。
「おーい、開けてよー」場にそぐわない、明るい少女の声。この場の全員がよく知る、聞き覚えのある声が言った。「あたしだよ、あたし! みんな大好き、亜由美ちゃんだぞー」
 はあ? と思う。亜由美。その名前と声、常と変わらぬ話しぶりに、硬直した身体から一気に力が抜けていくのがわかる。
 悠莉だけではない。場に張り詰めていた緊張感が、一気にほどけていく。
「な、なあんだ。そういうこと? 亜由美なのお?」悠莉は目の前に迫っていた恐怖から解放された喜び半分、おちびりに至るほどに震え上がらされてしまった口惜しさ半分に悪態をつく。「お前、もう……わざわざ遠回りして屋上から戻ってくるとかさあ。驚かすにしても、バカすぎでしょ。それはさすがに反則だって」
「なはははは」亜由美の笑い声が、扉の向こうからやってくる。「いいからいいから、雨降り出しちゃったしさあ。お願い。開けて開けて」
「いやまあ、言われなくても開けるけどさあ」
 屋上の錠はサムターン式。外側からは無理だが、内側からなら摘みを捻るだけで容易に開くことができる構造になっている。悠莉は金属製の扉の向こうにいる亜由美に促されるまま、錠を外そうと摘みに指をかけた。
「――待って」
 瞬間、背後からの鋭い制止の声が飛んできた。悠莉は動きを止めた。振り返ると、琴美がこちらを見つめていた。
 険しい表情だった。悠莉はわずかに気圧された。でも、強いて、笑おうとする。ここで笑えるからこそ今後もハッタリが効くのだ、と自分に言い聞かせながら。
「なにさ、そんな怖い顔して」悠莉は挑戦を受けるようにして、琴美のことを見返す。「だって、これ、亜由美でしょ。もう、そういうの、いいからさ。開けるよ?」
「やめて。開けないで」
 あくまでも、頑なな声。声量は抑え気味だが、剣呑な雰囲気は変わらない。まるで、睨みつけるような厳しい瞳。
 悠莉は喉の辺りがきゅう、と締め付けられる感覚を覚えた。その感覚が何を示しているのか理解できないまま、悠莉は口を開く。上手く動かない喉からは、自ずと険のある声が出る。
「なんで? て言うか、なにその目。馬鹿にしてんの?」
 余裕を持たなければ笑われてしまう。笑われるのはたまらない。だから、常に余裕を持って、笑う側でいなければいけないのに――濡れた下着が肌に貼りついている。下着を通り越した雫がつつー、と太腿を伝う不快な感触がする。
 悠莉は笑えなかった。自分がすっかり余裕をなくしてしまっていることを、はっきりと悟る。
 心音が早鐘のように打っている。背筋が奇妙に冷たい。太腿を伝う雫がぽとり、と床へと落ちた瞬間、はたと気づく。自分は情けないことに、おしっこちびりの女の子らしい幼稚な、それでいて切実な怯えに囚われてしまっているのだと。だから、強いて脅かすかのごとき態度を取る琴美に、異様なまでに反感を抱いているのだと。自覚していなかった自らの姿を知り、そのか弱い○女のごとき姿を頭の中に想い描いた瞬間、悠莉は自分自身がひどくちっぽけな存在になったように感じた。『他の子には負けない』という自負心の強い悠莉が自分の存在をこうまで頼りなく感じるのは、この学校に入学して以来、初めてのことだった。
「ちょっとー。何の話してんのさあ。早く開けてよー、濡れちゃうよー」亜由美の声が、急かしてくる。
「考えてもみて、悠莉」悠莉の屈託を察しているのかいないのか。琴美は外から聞こえる声を無視して、尖った声のまま告げる。表情はわずかに引きつっている。「どうして、亜由美が屋上なんかにいるの?」
「どうしてって」何を言われているのか理解できず、悠莉は口ごもる。「そりゃ、私達を驚かせようとして……」
「だから、どうやって?」琴美が言葉を被せてくる。「ここを通らないと、屋上には出られないんだよ?」
「……」
 冷え切った手でうなじを撫でられたような感覚。場が、しん、と静まり返る。
 考えてみれば、確かにそうだった。自分達は屋上へと上がることのできる、唯一の道のど真ん中に居座っているのだ。自分達の目を盗んで、屋上に上がることなんてできるはずがない。でも、と悠莉は抗弁する。ありえないことが起きていることを認めたくないがために、問題を矮小化したいがために、抗弁する。
「いや、待ってよ。そう、非常階段! 非常階段があるでしょ。あれを使えば、屋上まで出ることだって……」
「あー、無理です。非常階段では、屋上までは上がれません」予期しない地点から、返答が返ってきた。湯田だった。「わたし、ああいうひと気のない場所は好きなんで、知っているんです。非常階段は屋上に上がる途中に鍵付きの扉があって、厳重に封鎖されていますから。鍵がないと絶対通れません。前に先生に聞いてみたら、鍵は警備会社か何かに預けられてるって話で……亜由美先輩では難しいかと……」
 悠莉は考えるより先に口を開き、反論しようとする。しかし、湯田の話に理解が追いついた途端、何も言葉を発せなくなってしまった。琴美や湯田の言うことの方が、明らかに筋が通っている。
 錠を解除するため、すでに指が触れていた屋上へと続く扉の摘み。冷え切ったその金属部品から、恐る恐る手を離す。
「それじゃあ、今、外にいるのは――」
 一瞬の沈黙が降りる。さらさらと降り続ける雨の音が、薄気味悪さを伴って背中の中枢辺りを震わせる。
 直後、がんっ、とこれまで以上に物凄い音で扉が叩かれる。まるで、悠莉の下した決断への不満をぶちまけるような一撃。続いて、数人が半狂乱になって、めちゃくちゃに叩き続けない限り実現できないほどの勢いで、扉が乱打される。
 巻き起こった凄まじい音と衝撃の嵐に圧倒されて、悠莉は耳を塞ぐ。恐怖のあまり、今にもまた開いてしまいそうなおしっこの穴を固く締める。そのうち、心の中にいつもの呪文が蘇ってくる。
 他の子には負けない。びびっちゃだめ。笑われるのは嫌だ。そうだ。
 笑うんだ。
 悠莉は顔を上げた。皆、いまだ続く音に怯え切って、思い思いの姿勢で身を縮め、耳を塞ぎ、顔を伏せていた。幼子のような、完全に恐怖に屈した姿。
 悠莉は無理に笑った。笑うことができた。負けていない、と。このわけのわからない音の荒れ狂う修羅場で、顔を上げることができているのは、ただ一人自分だけ。自分が一番、恐怖に耐えることができている。自分が一番、この場で心の余裕を保つことができている。
 先ほど突っかかってきた琴美も、いつも澄ましているむかつく三夏も、掴み所のない湯田も、個人的な事情で今一番凹ませてやりたいえりかも、誰も今この状況で笑える人間なんていない。
 過去が脳裏をよぎる。笑われることなく、笑い続けて来た人生。勝ち続けて来た人生。嫌がらせもやった。せこい裏工作もやった。いじめだってやった。演劇部でも、意図的に顧問の男性教師に近づくことで、一年生の頃から良い役をもらって、常に中心に近い場所を守り続けてきた。最近は顧問の視線がえりかに移りつつあるのが最大の不満の種だけれど、でも、必ず勝つ――。
 悠莉の中で損なわれつつあった自己像が、急速に再構築されていく。頼りない幼子から、いつもの飄々とした尼野悠莉へ――。
 長く続いた音が次第に消え、皆が顔を上げ始めた時には、いまだ湿り気を帯びた下着を除き、悠莉は元通りの姿を取り戻していた。
 怖々と周囲を見回す彼女達を軽く見下ろして、悠莉は言った。うっすらと皮肉な笑みを浮かべて。
「とりあえず、静かになったね。……それで、どうする? 休憩時間だけど。誰か、トイレ、行く?」
 手を挙げる者は、誰もいなかった。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

[♀/連載]不浄奇談 [3-1-3.湯田真冬の話 急]

『不浄奇談』キャラクター紹介


 大切な夜のお守りであるオムツが見つからない南ちゃん。見ていてかわいそうになるぐらいに慌てふためいて、失くしてしまったものを探します。でも、あはっ、オムツなんて持ち込んでいること自体、みんなに秘密にしなければならない恥ずかしいシロモノです。事情をよく知るわたし以外の誰にも相談できず、結局、見つからないまま寝る時間になってしまいました。南ちゃんは不安に怯えながらも、先生に促されるまま、布団に入るしかありません。
 その夜、気持ちよく眠っていたわたしは、南ちゃんに揺り起こされました。南ちゃんは奇跡的に、夜、尿意を感じて目覚めることができたのです。一人でトイレに行くのが怖いから、わたしについてきて欲しいのだと瞬時に理解できました。わたしはとっさに狸寝入りを決め込みました。何度揺すられても、声をかけられても、わたしは目覚めてあげません。同じ部屋で、南ちゃんと特別仲良くしている子はわたし以外には一人もいません。南ちゃんは諦めて、一人で部屋を出ました。わたしは心の中で強く念じました。応援しました。もちろん、南ちゃんを、ではありません。南ちゃんの中で大きく育ったわたしの子供達を、です。数秒後、南ちゃんは戻ってきました。おどおどした様子で、です。恐ろしい影を纏ったわたしの子供達が、また、南ちゃんを通せんぼしたのです。ただでさえ慣れない宿泊施設で、南ちゃんは夜闇に潜むモノに怯えるあまり、一人でトイレに行くことをすら断念してしまったのです。わたしは自分の布団の中で、一人、ほくそ笑みました。五年生も近い時期にもなって、南ちゃんの行動はあまりにも幼稚で意気地のない、同時に危険をはらんだ選択でした。
 当然、そういうなさけない選択をしてしまった子には、神様から素敵な罰が用意されているものです。夜中、眠っていたわたしがふと目を覚ますと、隣で横になる南ちゃんの声が耳につきました。寝息混じりの、苦しそうな声。トイレに行けないまま、南ちゃんは眠ってしまっていたのです。そして、暗闇の中、南ちゃんは眉根をひそめた辛そうな表情をしていました。何やらうわごとを呟き、うなされてさえいます。神様は夜中、一人でトイレに行けなかった臆病者に対する罰として、南ちゃんに胸躍る怖い夢をプレゼントしてあげたようでした。きっと、わたしが嫌というほど聞かせてあげた怪談が、暗闇を纏ったわたしの子供達が、南ちゃんの中で大活躍しているに違いありません。わたしの胸は自ずと高鳴ります。やっちゃえやっちゃえ、とわたしは悪意のある声援を送ります。お布団の中でぜーんぶやって、大恥かいちゃえ。わたしの見守る前で、不意に南ちゃんの眉根がやんわりと緩みました。口元から深い吐息が漏れ、頬にかすかな朱が差しました。そういう風に、見えました。南ちゃんが無意識に発してしまった水流の音さえも、かすかにですが、確かに聞いた気がします。わたしは、やったあ、と心の中ではしゃぎました。南ちゃん、やったあ、やっちゃったあ、と。もちろん、掛け布団に隠れていたので、確証はありませんでした。でも、確かにこの時、南ちゃんは失敗してしまっていたのだと思います。
 わたしは南ちゃんが行けなかったトイレに行って、南ちゃんがトイレでしたかったはずのことをして、気持ちよく眠りました。濡らしてしまった衣服のせいか、不快そうに眉を寄せる南ちゃんに「明日が楽しみだね。南ちゃん」とお友達らしい声をかけてから。
 次の日の朝、南ちゃんはなかなか布団から起きてくることができませんでした。顔は血の気が引いて蒼白、額には汗も噴き出して、今にも泣き出してしまいそう。わたしはそんな南ちゃんを、あえて放っておきました。何もわたしが悪役になって、無理に失敗を暴き出すことはありません。どうせ、いずれはばれてしまうに決まっていましたから、この『おねしょしてしまった日の朝』のスリルに溢れた時間を、南ちゃんに少しでも長く味わわせてあげようという配慮でした。
 空は暗く、外にはしとしとと雨が降る音が聞こえる――どことなく湿った空気の漂う、しかし、素敵な朝でした。本当に最高に素敵な朝。南ちゃんはいじらしく、一生懸命に隠し続けました。きっと、本来ならば、そっとわたしに失敗の真実を伝えて協力してもらい、なるべく穏便に物事を収めてしまいたかったはずです。でも、わたしはその朝、わざと南ちゃんに近づきませんでした。南ちゃんは布団から動けないのですから、距離さえ取ってしまえば、他の子に聞かれずにわたしにだけ真実を伝えることができません。機会を窺う南ちゃんは、神様に祈っていたはずです。お願いします神様、どうにか、真冬ちゃん以外の誰にもバレずに終わらせて下さい――。真冬ちゃん、早くこっちに来て――。そんな風に願っていたはずです。
 じりじりとした時間が流れました。そして、タイムリミットが訪れました。朝礼の時間でした。みんな、自分達の部屋から出て、宿泊施設にあるホールに集合しなければなりません。みんなが着替えて準備を終えているのに、南ちゃんだけがいまだパジャマのまま布団の中――嫌でも目立ってしまいますよね。
 南ちゃんはみんなの注目を浴びて、とっさに体調が悪いふりをしました。確かに冷や汗をかいていましたし、顔色も悪い。でも、明らかに挙動不審で、中の一人がそのことに気付きました。
「ねえ、南ちゃんさあ」とその子はあくまで冗談めかして言いました。わたしは背筋がぞくぞくとして、興奮を隠すことができませんでした。運命の瞬間が、今まさに始まろうとしているという確かな予感がありました。窓の外では、変わらず雨が降り続いています。「もしかして――おねしょ、したんじゃないの」
 その瞬間、南ちゃんの顔色がさあ、と変わりました。病人じみた蒼白から羞恥の朱色へと。
 南ちゃんは返答できずに、黙りこくってしまいました。予期せぬ反応に、同室の子達もすぐには何も言えません。少し遅れて、同室の子の一人が声を上げて笑いました。つられたようにして、他の全員が笑いました。それから、総出で南ちゃんの失敗を隠していた掛け布団が暴かれました。わたしはみんなを止めようとして、押しのけられたふりをしました。どさくさに紛れて、元々、閉まっていた部屋の扉をそっと開けるという大切な仕事をするために。扉が開きさえすれば、集合場所のホールはすぐそこでしたから。室内で発された声は嫌でも、すでに集合している同学年の子達の耳に届いてしまうのです。
 暴かれた布団の中には、微笑ましいことに、南ちゃんが意に反して作ってしまった素敵な世界地図がありました。四年生らしい立派な、でも、四年生にしてはあまりにもかわいらしい液体で描かれた力作でした。これだけで、室内が沸き返ります。「南ちゃん、おねしょだー!」という甲高い、からかい混じりの声はホールにまで響き渡ります。遅れて、ホールの方からざわめきが、そして様子を見るために野次馬の子達もやってきます。自ら作ってしまったかわいらしい世界地図の上に尻餅をついて、パジャマの下をぐっしょり濡らした南ちゃんの姿をたくさんの子が目撃します。南ちゃんは真っ赤になって俯きました。「見ないで……あっち行って……!」と南ちゃんは懇願しました。でも、誰もそんなお願いを聞いたりはしません。
 南ちゃんのおねしょは南ちゃん自身の願いに反して、こうして大騒動に発展し、学年中に広がってしまいました。わたしはこれ以上ないほどに深い満足感を覚えました。これはわたしの作り出した事件だったからです。わたしが南ちゃんを追い詰めて、みんなの前で大恥をかくように仕向けてあげた結果だったからです。みんな、南ちゃんに注目していました。この事件を作り出したわたしを責める人はやはり誰もおらず、南ちゃんだけが責められている――まるで、完全犯罪を成功させた犯罪者のような気分でした。わたしには何でもできる。そんな風に思えました。
 でも、やっぱり、最後の最後で南ちゃんにトドメを刺したのは、わたしの子供達――怖い話とこっくりさんから生まれた影達だったように思います。あの時、一人で夜のトイレを済ませることができていれば、わたしも打つ手はなかったのですから。だから、皆さんもあんまり怖い話やこっくりさんを甘く見ていてはダメです。ちょっと間違ったら、幽霊やお化けなんて実際には出てこなくても、それらには人の運命をねじ曲げてしまうぐらいの力があるんですからね。ふふふ。
 南ちゃんは運命をねじ曲げられて、宿泊行事で見事な変身を遂げました。行きにはただのクラスの端にいる普通の子だったのに、帰ってきた時には、もう、みんなから馬鹿にされるおねしょキャラの女の子でした。
 ここまで来てしまうと、わたしも南ちゃんと一緒にいるだけで笑われてしまいます。いじめられる危険性さえあります。だから、南ちゃんと一緒にいる時には仲の良いお友達のふりをしながらも、陰では進んで南ちゃんの名誉を傷つけるようなことを言いました。南ちゃんのおねしょ癖のこともバラしました。毎晩、オムツに頼っている情けなくてかわいらしい面も、面白おかしく喋ってしまいました。みんな、大笑いしてくれました。まあ、ある時、陰口を叩いて南ちゃんを笑い物にしているところを本人に見つかってしまってからは、さすがにわたしもスタンスを変えざるをえませんでしたけど。
 わたしはそれ以降、お友達のふりをしながら南ちゃんを貶める立場を捨てて、終始一貫して南ちゃんをからかう立場になりました。毎朝のように、南ちゃんの夜の結果をこっくりさんに聞いて、みんなの前で発表するのです。難しいことはありません。みんなの注目を集めてからウィジャボードに十円玉を置いてこう言えばいいんです。『南ちゃんは今朝おねしょをしましたか?』。さっきも言いましたよね? 答えはもちろん、「はい」です。それだけで、周囲がわっと湧きます。「いいえ」は一度だって出してあげません。みんなの中には、あの日、南ちゃんがおねしょした姿を目撃した子が多くいました。そのイメージを利用してこっくりさんを仕掛ければ、もしも南ちゃんのおねしょ癖が治っていたって、全然意味ありません。みんなの中では、毎晩おねしょしたことにできるんですよ。いくら本人が否定しても、その証言こそが嘘ということになります。だって、こっくりさんが言っているんですから。こっくりさんはぜーんぶお見通しなんですから。あはは。
 ああ、すみません。久しぶりにこっくりさんの雰囲気を味わったせいで、キャラが変わってしまっていました。わたしはそういうのはもう卒業したんですが、ついついスイッチが入ってしまって、あの頃のように……。
 ……まあ、でも、そんな風にめちゃくちゃできたのは、五年生ぐらいまででした。六年生辺りから、いよいよ周りのみんなも知恵を付け出して、そう簡単には騙されてくれなくなりました。全てを奪ってあげたつもりだったのに、その頃にはちょうど南ちゃんも元気を取り戻し始めていました。じっくりいたぶって、毎日おもちゃにして泣かしてあげたのに、本当にしぶとい子です。南ちゃんは裏切られた怒りを込めて、わたしを攻撃するようになりました。まあ、南ちゃん一人の時には、おねしょネタで何度か返り討ちにしてあげましたけど。おねしょのこと、じっくりいじってあげたら、真っ赤になって泣いちゃったから、きっと、まだ完全には治っていなかったんじゃないかなあ。もう、わたしたち、六年生だったんですけどね。ふふふ。
 あぁ、ごめんなさい。笑っちゃダメでしたよね。だって、この中には、当時の南ちゃんよりも大きいのにまだやっちゃっている人がいるんですから……。くすくす。あぁ、ごめんなさい、また……。でも、だってぇ、中学生にまでなっておねしょなんてして……。そんな子、どんなにみんなにこっぴどく笑われちゃっても文句は言えないですよお。馬鹿にされたからって、そんな子に怒る権利があると思いますか? ありませんよお。おねしょも自分で治せないくせに、馬鹿にされて怒るなんて生意気です。文句があるなら、おねしょをちゃーんと治してから言ったらいいのに。治せないんですかねえ? みーんな、ちゃんと治してるのにぃ? ふふ、そんなこともできない劣等生、笑われて当たり前なんです。大人しく笑い物にされて、真っ赤になって、みんなに素敵な楽しみを提供していればいいんです。それがお似合いなんです。あー、そうだ。もしアレだったら、後でこっくりさんに聞いてみましょうかあ? ちゃーんとお手手を挙げて、「私がおねしょの犯人です」って自己申告できないなら、後で本当にしちゃいますからねえ。覚悟していて下さいねえ。あははは。
 おっと……またスイッチが入ってしまっていましたね。とにかく、当時のわたしは、今みたいな具合でした。意地の悪い、陰湿なやり方をしていました。そういうことを長くやっていたせいか、知らないところで恨みを買っていたんでしょうね。わたしは徐々に人望を失っていき、最終的には取り巻きだった子達のほとんどが去って行きました。ついには南ちゃんだけじゃなく、みんなからも、嘘つき、というレッテルを貼られてしまって。失礼ですよね。嘘つきなんて。いくらなんでも、言いすぎだと思いません? わたしはただ、みんなに楽しい遊びや、心躍るイベントを提供してあげているつもりだったのに……。
 さて、嘘つき扱いがひどくなって、いよいよ友達がいなくなってきたわたしは寂しい日々を送っていました。でも、誰も相手にしてくれなくなった中でも、きちんと向き合ってくれる人が人が一人だけいました。お兄ちゃんです。あんなに意地悪だったお兄ちゃんでしたが、この時は優しくしてくれました。これは、ええ、本当に嬉しかったです。わたしはあまり人に心を開くタイプではなかったので、両親にもお兄ちゃんにも本当の意味で心を開いていたわけではありませんでした。そもそも、お兄ちゃんのことは意地悪で苦手でしたしね。
 でも、この時はわりと困り果てていたこともあって、お兄ちゃんの姿が輝いて見えました。日が経つにつれて、わたしの中でお兄ちゃんの存在はどんどんと大きくなっていきました。あんなに苦手だったのに、不思議ですね。わたしは次第に思い始めました。お兄ちゃんだけは、お兄ちゃんにだけは心を開いても良いかも……って。
 そんな時でした。最後のこっくりさんをお兄ちゃんとやったのは。わたしは六年生、お兄ちゃんは中学二年生でした。
 でも、やっぱり、血の繋がった兄妹ですよね。わたしと同じく、お兄ちゃんもこっくりさんを悪用しました。お兄ちゃんは最初に、わたしの好きな人を聞いて「いない」というのを確認しました。その後、わたしのことを好きな人が誰かを質問したんです。
 ……あれは、自然と動いたわけじゃなかった。絶対にわざとだった。滑らかに動いたその十円玉が指し示した名前は、わたし達のよく知る名前。お兄ちゃんの名前でした。もちろん、わたしは「妹として好き」という意味だと解釈しようとしました。でも、お兄ちゃんは、そうじゃなかった。
 十円玉に指を置いたままの姿勢で――き、キスを、迫ってきました。そこでわたしは理解しました。「妹として好き」じゃないんだって。でも、キスぐらいさせてあげてもいい、と思いました。それぐらいなら許してあげよう、と。でも、片方の手がお尻に伸びてきて、凄く嫌な感じがして、それで――。
 あぁ、雨の音が聞こえますね。外、降ってきたみたいですね。雨の日の怪談、雨の日のこっくりさん、なんて。なんだか、不思議と、気持ちが盛り上がってしまいますね。そう思いませんか?
 よく憶えています。お兄ちゃんと最後のこっくりさんをやったあの夕暮れも、雨が降っていました。しとしとしと、静かに降っていました。
 お兄ちゃんを思わず払いのけた瞬間、わたしの指はまだ十円玉に載っていました。お兄ちゃんの指は離れていました。色々なルール破りをしてきたわたし達でしたが、十円玉から途中で指を離してしまった人を見たのは初めてでした。それだけは破ってはいけないと、なんとなく、本能的に理解していたんですね。しばらくの沈黙の後、何事もなかったかのようにわたし達は二人で儀式を終えました。でも、始める前と終わった後では、何もかもが違ってしまっていました。わたしの心の扉は、もうすっかり閉じてしまっていました。そして、お兄ちゃんはお兄ちゃんで、青ざめた、この世の終わりのような顔をしていました。
 お兄ちゃんが亡くなったのは、数日後でした。死因は交通事故。あぁ、今まで言い忘れていましたが、わたしのお兄ちゃんは、もういないんです。故人なのです。赤信号なのに、ふらふらと車の前に飛び出して行ったそうです。直接の原因は交通事故であっても、自殺じみたその死に方に至った、間接的な原因が何だったのかはわかりません。こっくりさんのルールを破った禁忌破りのせいかもしれませんし、わたしにしたことや、わたしがしたことのせいかもしれません。
 何にしても、お兄ちゃんは一年前に死にました。『どうろ』で『くるま』に轢かれて死にました。わたしは今でもわかりません。わたしはその時まで、ずうっと信じていたんですよ。最初にしたこっくりさんの結果は――『どうろ』も、『くるま』も、『ふじょう』も――全部全部、お兄ちゃんがわざとわたしを怖がらせようとしてやったことだったんだって。この死に様も、そうなんでしょうか。お兄ちゃんの最後の嫌がらせ、なんでしょうか。そして、今日の『不浄奇談』。『不浄奇談』なんてまるで運命のような……。でも、こっくりさんなんて、本当はいないはずなのに。
 ……あぁ、そうなんです。こっくりさんなんて、本当はいないんですよ。いないはず、なんです。
 本当のことを言います。わたしは何度も何度もこっくりさんをしてきましたけど、でも、自然と十円玉が動いたことなんてただの一度もありませんでした。いつも、わたしが好き勝手に動かしていただけです。
 だけど、不思議なんです。――皆さん、指をわざと自分の意思で動かしている方は、いますか。いませんよね。勝手に、動いているんですよね。
 そうなんです。ある日を境に、ある条件を満たした時だけ、本当に勝手に十円玉が動くようになったんです。その境となった日は、お兄ちゃんが死んだ日です。条件は今、皆さんが使っているそのウィジャボードを使うことです。
 あの日、こっくりさんの儀式を終えた瞬間から、ずうっと思っているんですよね。もしかしたら、私はお兄ちゃんを受け入れてあげるべきだったんじゃないかって。変に潔癖な所を出してあんな風になるぐらいなら、お兄ちゃんが求めているどのような行為でも付き合ってあげれば良かったんじゃないかって。実際、それまでも、ちょっといかがわしいこともやってきたわけですし。
 皆さんはどう思いますか?
 もしも、わたしが受け入れてあげていたら、お兄ちゃんは多分生きていたわけですし……。ええ、そうなんです。そういう心残りがあったから、本当はこっくりさんをした後のウィジャボードは捨てなければいけないルールなんですけど、どうしても、破ったり捨てたりできなくて――。
 だって、それ、お兄ちゃんとの最後の思い出の品物なんです。こっくりさんなんていません。いないはず、です。でも、そのウィジャボードを使った時だけは、お兄ちゃんと本当に話ができるんです。
 だから、もし今、皆さんの指が自然と動いているのだとしたら、そこにいるのは多分――。
 あぁ、ごめんなさい。話に夢中になってしまいました。もう、こっくりさんの儀式は終わりにしますか。聞きたいことは全部聞けましたか?
 え? 途中から勝手に動いてしまって止まらない?
 ええ、このウィジャボードはいつもそうなんです。最初の十五分ぐらいはきちんと答えてくれるんですが、途中からは同じ言葉を繰り返すばかりになってしまって……。なんて言っていますか? あぁ、いつもと同じ、ですね。わたしはずっと、わたしにはこの世に好きな人間なんてただの一人もいない、って言っているのに。
 はい、それでは、気を取り直して締めの儀式です。続けて言って下さい。『こっくりさん、こっくりさん、どうぞお戻り下さい』。『はい』に戻りませんか? 鳥居にも戻らない? 変ですね。繰り返す言葉が変わった?
 う、し、ろ。う、し、ろ。後ろ?
 え? なんだろう。
 こんなこと言い始めたこと一度もなかったんですけど、どうして今日に限って……。
 とにかく、十円玉から指を離さないで下さいね。わたしが落ち着いて話をすれば、お兄ちゃんもわかってくれるはずなんで……。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

[♀/連載]不浄奇談 [3-1-2.湯田真冬の話 破]

『不浄奇談』キャラクター紹介


 中でも、わたしが一番都合良く使ったのがこれ――そう、こっくりさんです。意外と友達作りに役に立ったりするんですよ、これ。みんなで怖い話をする、とかもそうですけどね。誰かと一緒にやると、吊り橋効果、っていうやつなんでしょうか。それだけで、グッと仲良くなれたりするんです。通常の方法ではなかなか不可能なほどに、人間関係の距離が一挙に縮まったりするんですよ。わたしなんて、こっくりさんに詳しいだけで、一時的に教室の中心に居座ることもできたりして。
 もちろん、本当の意味での悪用もできます。例えば、こっくりさんに聞くふりをして、まったくの嘘をやるっていうこともできるんです。本当はルールがあって、『一人でこっくりさんをやってはいけない』し、『ふざけ半分で行ってはいけない』と決まっているんですけど、子供って怖いですよね。わたしはこの二つのルールは平気で破っていました。だって、お兄ちゃんも明らかにこの二つのルールを破っていたのに、何の祟りも受けずに元気に生きていましたから。このルールは破っても平気なんだ、と子供心に理解していたんでしょうね。
「AちゃんはBくんが好き」「CちゃんはDちゃんと仲良くしているけど、本当は心の中では嫌っている」「Eちゃんはこの年でまだおねしょしている」なーんて愉快な嘘を、こっくりさんに聞くふりをして流したりして。普通に言えば信じてもらえないようなことでも、こっくりさんに聞いたふりをすれば、わたしが直接言うよりもずっと箔がつく。つまり、みんな、信じてくれるんですね。そのせいで、真偽は不明なのに、「おねしょ」「おねしょ」とからかわれて半分いじめられちゃう子までいたんですよ。あははは、笑っちゃいますよね。
 わたしはそれがとても嬉しかった。だって、そうでしょう? こっくりさんに聞いたふりをすれば、わたしが発した言葉が神様の言葉みたいになるんです。わたしはまるで百発百中の占い師でした。Eちゃんをいじめちゃおう、と思えば、みんなの注目を集めてからウィジャボードに十円玉を置いてこう言えばいいんです。『Eちゃんは今朝おねしょをしましたか?』。答えはもちろん、「はい」です。それだけで、周囲がわっと湧きます。「いいえ」は一度だって出してあげません。ふふふふ。
 あれ、引かれてしまいましたか。でも、一つだけ弁解しておくと、きっと、根も葉もない嘘ではなかったと思いますよ。Eちゃんこと南ちゃんはわたしの幼なじみでしたが、口うるさくてきつい性格のわりに、とっても怖がりな、かわいらしい所のある女の子でしたから。わたしがまだ南ちゃんと仲の良かった頃は、お兄ちゃんの真似をして、よく怖い話を聞かせてあげていました。嫌がることも多かったですけど、「えー、南ちゃん、お化け、怖いのお?」って挑発してあげれば、すぐに虚勢を張って聞いてくれるんです。南ちゃんのそういうわかりやすい所、わたしは大好きでした。
 だから、わたしはここもお兄ちゃんの真似をして、わざとトイレに行きづらくなるような怪談ばかりを耳元でいっぱい囁いてあげました。こっくりさんでは、南ちゃん自身がトイレで死ぬという予言から始まり、トイレにいるという怖い幽霊や妖怪の名前なども大量に吹き込んであげました。わたしの吹き込んだ情報は、南ちゃんの耳を通って南ちゃんの弱虫で幼稚な脳の中に根付き、そこで南ちゃんのかわいらしい恐怖を食べながら、同時に恐怖を煽る影となって大きく育ちました。その結果、当時の南ちゃんのおうちの物干し竿には、毎朝のように大きな染みのある布団が干されちゃっていたんです。そういう経緯を考えると、南ちゃんとわたしが完全に仲違いしてしまってからも、南ちゃんが一度も夜中に失敗しなかったとは思えないんですよね。
 まだ仲違いしていなかった当時、わたしは表面上はお友達として仲良くしていながら、心の中では南ちゃんのことをいつも笑っていました。お兄ちゃんの影響で、オカルト知識の面では早熟だったわたしにとって、怖がりで信じやすい南ちゃんは格好のオモチャでした。南ちゃんの家の物干し竿――そこに頻繁に干されてしまう失敗の証拠を眺め、わたしはいつも不思議な充足感を味わっていました。見ている方が恥ずかしくなるようなあの失敗をわたしがやらせてあげたんだ、というどこか誇らしいような思いでした。とうの昔に治っていたはずの南ちゃんのおねしょを再発させてあげたのは、確かにわたしと、わたしの吹き込んだ怪談達だったからです。わたしは南ちゃんに一人で抱え込むしかない、『おねしょ癖』という大きな悩みの種と恥ずべき秘密をプレゼントしてあげたのです。
 おねしょだけじゃありません。南ちゃんの反応が面白くて、わたしがついつい調子に乗ってやりすぎてしまった時のことでした。南ちゃんと来たら、怯えるあまり、学校でトイレに行くことができずに――四年生にもなって、教室のど真ん中でやってしまったんです。しかも、授業中、みんなの見ている前でした。わたしは一度も経験がありませんが、きっと、あれは死ぬほど恥ずかしい体験だったと思います。だって、みんなが見ている前で、自分の本当の年齢よりもずっと小さな子みたいに着ているものをびしょびしょに濡らしながら、教室の床に自分のおしっこで水たまりを作るんですよ? そんなの、わたしだったら耐えられません。でも、南ちゃんはそれをしました。
 南ちゃんは俯いていました。南ちゃんはいつも偉そうで生意気な子だったので、男子も容赦なくからかいました。男子を泣かしてしまうほどに口の達者な南ちゃんでしたが、その時ばかりは何も言えずに黙ってぐずぐず泣くばかり。
 わたしはその時、わたしをおもちゃにしていた頃のお兄ちゃんの気持ちが、はっきりとわかりました。実際、こんなに愉快なことはなかったのです。こっちの思惑通りに右往左往して、授業中も必死にもじもじくねくねして、最後にはみっともない失敗をして大恥をかいて。情けない姿をこれでもかと言うほどに演じて、わたしを面白がらせてくれるわけですから。コッケイ、っていうのはこのことを言うんですよね。きっと。
 わたしは保健委員でしたから、ぐずる南ちゃんを保健室まで連れて行ってあげました。それだけじゃありません。保健室でびしょびしょのおもらしパンツを脱いで、保健室の備品である真っ白な貸出用パンツに履き替える所まで、わたしは目撃しました。もちろん、わたしは表向きは心配している素振りをしつつ、お腹の中では大笑いです。ああいうパンツって、わたしは履いたことありませんけど、本当に恥ずかしいシロモノですよね。真っ白で飾り気がないだけじゃなくて、『○○小学校保健室』なんて大きめにマジックで書いてあったりして――もう、いかにも、おもらしした子専用、っていう感じなんです。学校でおもらしをしてしまった、学校の中でも選ばれた幼稚な子だけが履くことを許される不名誉な無地の木綿パンツ。それをよく見知ったお友達の南ちゃんがぐすぐす鼻を鳴らしながら身に着ける姿は、わたしにある種の感動を与えてくれました。きっと、これまでにもたくさんの、『トイレの劣等生』である先輩達が受け継いできたものなのでしょう。その不名誉な歴史を継ぐ最新の一人として、南ちゃんはこのパンツに選ばれたのです。
 教室に戻った南ちゃんを、男子の手荒な歓迎が迎えました。男子をやっつけるほどに気が強く、他の女子をかばって男子と喧嘩することも多かった南ちゃんでしたが、自分の恥を攻撃されると簡単に気丈さを失ってしまいました。庇いに入る女子も何人かいましたが、その子達も「ションベンもらしの仲間」として意地悪く囃し立てられてしまい、すごすごと引き下がるしかありません。この日、南ちゃんは四度ほど、男子にからかわれて惨めに泣かされてしまいました。
 帰り道、わたしは家も近かったので、いつも南ちゃんと一緒に帰っていました。その日も肩を並べて帰りました。南ちゃんは服もスカートも自分のおしっこで汚してしまったので、上下共に体操服です。手に提げているのは、おもらしした子に付き物の汚れた衣服を入れた袋――いわゆる『お土産袋』です。そんな目立つ格好をしているものだから、下校途中の子の視線は南ちゃんに集まります。同じ小学校の子なら、みぃんな、わかっちゃうんですよね。あぁ、この子、今日学校でおトイレ失敗しちゃったんだあ、って。くすくす、くすくす、という笑い声がどこからともなく聞こえてきます。わたしの耳に入っているということは、もちろん、南ちゃんの耳にも届いているでしょう。伏し目がちな南ちゃんの頬が、見る間に赤く染まります。言葉少なだった南ちゃんは、校門を出た辺りで呟くような声で言いました。弱気な、消え入りそうな声でした。
「おもらしした子と帰るの、いや、だよね? 恥ずかしい、よね?」
 わたしは南ちゃんがどういう答えを待っているのか察して、首を横に振りました。「ううん、恥ずかしくないよ。気にしないで」と応えました。南ちゃんはわずかな間を置いて、「ありがと」と短く言いました。
 わたしも神妙な顔ぐらいはしていたと思います。ほら、場面が場面ですから。それでも、やっぱり、わたしの胸の奥はその状況がおかしくておかしくて震えていました。小刻みに痙攣していました。この日の騒動は傑作でした。南ちゃんにとっては最低の体験だったでしょうが、わたしにとっては最高に面白い見世物だったのです。だって、本当は、ぜーんぶ、わたしが悪いんですから。南ちゃんの心の中を占領し、学校のトイレに行けないほどに恐怖でいっぱいにしたのは、わたしの意地悪な口から生まれたいわばわたしの子供達でした。わたしが南ちゃんの耳元でめいっぱい囁いてあげた怪談が、南ちゃんの恐怖を餌に立派に成長し、トイレに行きたい南ちゃんを通せんぼしたのです。通せんぼして、絶対にトイレに行かせてあげなかったのです。それなのに、責められるのも、恥ずかしい目に遭うのも、いじめられるのも、ぜーんぶ、南ちゃんなのです。わたしはその光景を心の中でたっぷりと楽しみながら、すぐ近くで見ていることが許されていたのです。教室で南ちゃんがそわそわしてトイレに行けない苦しみを味わっていた時、わたしは自分の子供達が意地悪くトイレに行かせてあげない姿を想像して、胸の膨らむ想いで観察していました。南ちゃんの椅子からみっともない水が流れ落ちて音を立て始めた時、我慢の限界を超えるまで南ちゃんをいじめ抜いてみせた子供達を手を叩いて誉めてあげたい気持ちでした。
 それにも関わらず、不思議なことに、南ちゃんは全ての元凶であるわたしにお礼まで言ってしまったのです――。わたしを信頼して、わずかに微笑んでくれる南ちゃん。夕映えを受けて儚く光るその顔は、実に美しいものでした。その美しい顔に向けて、わたしは心の中で言いました。やあい、おもらしぃ。明日もいじめられちゃえー。
 ……って、あれ、いつの間にか、お兄ちゃんの話じゃなくて、南ちゃんの話になってしまっていますね。まあ、無関係なわけではありませんから、せっかくなのでもう少しだけ続けさせて下さい。
 さて、南ちゃんの立場は、おもらし事件を発端に弱くなっていきました。南ちゃんはすっかりおとなしくなってしまい、クラスの中心辺りから、徐々にクラスの端っこの方へと追いやられていきました。
 クラスでの立場が弱くなればなるほど、南ちゃんはわたしに頼るようになりました。わたしは南ちゃんと何度となくこっくりさんをやりました。南ちゃんは四年生にもなって、夜、オムツがないと安心して眠ることができないという誰にも喋ってはいけないはずの内情までわたしに相談してくれました。わたしはこっくりさんで一緒に占ってあげました。愉快だったので、盛れるだけ盛って、二十歳になるまで治らないことにしてあげました。もうじきやってくる宿泊行事を心配していた南ちゃんは、真っ青になって震えていました。わたしは宿泊行事では、みんなにオムツがバレないよう南ちゃんに協力する約束をしてあげました。
 宿泊行事の当日のこと。わたしは約束通りに協力してあげる代わりに、南ちゃんが厳重にカムフラージュして持ち込んだオムツを、誰にも見つからないようにそっと隠してあげました。誰にも、南ちゃん自身にも見つけられないように。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

1 2 3 4 5 6

月別アーカイブ

記事を検索