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[♀/連載]不浄奇談 [1-1-2.小貫亜由美の話 破]

『不浄奇談』キャラクター紹介



 ――もちろん、この噂はすぐに広まってしまった。多分、クラス内の各地で似たようなやり取りがあったんだろうね。あはは。「約束だよ。誰にも言わないでね」なんて言い続けて、ついにクラスの全員に広まっちゃうっていう。冗談みたいな話。
 もちろん、茜音ちゃんは慌てたけど、もうどうにもならない。自分が話した誰が秘密を漏らしてしまったのかすら、茜音ちゃんには特定できなかったの。だって、複数人に教えちゃったからね。みーんな、自分は知らない、言ってない、の一点張り。
 さて、葵ちゃんは最初、噂が広まっていることに気付いてなかったんだけど、当然、ずっと気付かずに済むってわけにはいかない。ある時は、教室の隅で行われる陰口の中に自分の名前が聞こえて、首を傾げる。またある時は、廊下の曲がり角でのひそひそ話の中に、「おもらし」という単語が頻繁に使われていることに嫌な予感を覚える。そんな具合で、いつしか疑惑は確信に変わった。自分が裏切られたことを理解して、葵ちゃんは驚き、悲しさに涙さえこぼした。だって、葵ちゃんは本当に、茜音ちゃん以外にこの話をしていなかったから。
 しかも、厄介なことに、伝言ゲームみたいに噂には尾鰭がついていた。葵ちゃんが本当におもらししちゃったのは、『小さい方』を『一度だけ』だった。それなのに、何度もおもらししただの、実は『小さい方』ではなく『大きい方』だっただの、今でもおねしょしているだの、出自不明の新説まで続々登場。クラスの範囲を超えて、他のクラスの子にまで広がるに至っては、前後関係すらもめちゃくちゃになって、最後には「この前、葵ちゃん、学校でおもらししたらしいよ」とまで囁かれるように。もう、わけがわからない。
 それだけじゃない。噂が浸透するにつれて、クラスの中にも、今まではなかった葵ちゃんを馬鹿にしてからかうような空気が、徐々にだけど、目に見えて広がってきていたの。
 もう我慢できない――なぁんて言って、葵ちゃんは放課後二人きりになった時に、ついに茜音ちゃんを問い詰めた。今まで一度も見たことのなかった、葵ちゃんが本気で怒った時の表情を茜音ちゃんは初めてそこで目にしたの。
「茜音ちゃん、約束だって言ったのに」葵ちゃんは押し殺した声で言った。「信じてたのに。どうして、こんな、ひどいこと」
 怒りに身を震わせて、目尻に涙を浮かべる葵ちゃんを見て、茜音ちゃんはどうしていいかわからない。当然だよね。責任なんて、もう、どうやったって取れないもん。困ってしまった茜音ちゃん、仕方なく、起こったことをそのまま説明することにした。
 新しくできた友達に、何度も質問されて、秘密を話さなければ自分が仲間外れにされてしまいそうだったこと。
 『誰にも言わない』約束を破って、自分が数人に話してしまったこと。
 その数人は誰にも話していない、と証言していること。
 で――はい、これがまた大炎上。
「他の人が話してないって言うなら、誰が噂を広めたっていうの?」話を聞いた葵ちゃんは激情に任せて、茜音ちゃんに詰め寄る。「本当は全部、嘘なんじゃないの? 茜音ちゃんがみんなに言い触らして回ったんじゃないの?」
 思春期の繊細な時期に、誰にも知られたくなかった噂を広められてしまった葵ちゃんの怒りは一向に収まらない。一生懸命、言い訳したり、頭を下げたり。茜音ちゃんも精一杯努力はしたけど、葵ちゃんは許してくれなかった。
「茜音ちゃんなんて、友達じゃない。もう二度と話しかけないで」
 最後にはそう捨て台詞を残して、取り縋る茜音ちゃんを払いのけて一人で帰ってしまった。
 それから、葵ちゃんは茜音ちゃんを無視するようになったの。謝っても、何を喋りかけても、つーん、として何の反応もしてくれない。他の子が話しかけた時には、普通に受け答えするのに、茜音ちゃんに対してだけそうなのね。茜音ちゃんは悲しくなった。でも、『二、三日すれば、きっと許してくれる』『私達は親友だもん』と楽観的に考えていた。
 だけど、一週間経っても、葵ちゃんによる無視は続いた。悲しくて悲しくて、やり切れなくてね。ある日、葵ちゃんに無視されてすごすごと自分の席に戻った後、一人で声を殺して泣いていたの。
 すると、前に『誰にも言わない』約束を聞きたがった友達がね。声をかけてきたんだ。
「大丈夫? 泣かないで」それから、その友達は言ったの。「茜音ちゃんだけ無視するなんて、ひどいよね。あの子、おもらしのくせに、生意気なんじゃない?」
 茜音ちゃんはびっくりして、思わず顔を上げた。その友達の言い方が、険がある、って言うの? そういう言い方だったのね。
 それ以降、茜音ちゃんは、その友達と話をすることが多くなった。葵ちゃんは相手にしてくれなくなっちゃったからね。その友達は、葵ちゃんのことが元々気に入らなかったのか葵ちゃんの話題になるといつも「おもらしのくせに生意気」「おもらしのくせに生意気」としつこく陰口を叩いた。そんな時、茜音ちゃんは困ってしまって、いつも「そうかなあ、そうでもないと思うけど」とか言って愛想笑いを浮かべるしかなかった。無視されてはいても、茜音ちゃんは葵ちゃんのことがまだ大好きだったから、自分から進んで悪口を言いたくはなかったのね。
 無視が始まってから、二週間ほどが経過した頃。給食を一緒に食べている時にね、その友達が突然「葵ちゃんのまねー」と言い出して、「葵、おしっこ、おしっこ漏れちゃうよお、ああ、ああん、じょわわわ、じょわああああ」なんてくねくねした後、がに股で気持ちよさそうにおもらしする滑稽な小芝居をしたの。茜音ちゃん、牛乳を飲んでいる途中で虚を衝かれたんだろうね。ぶはっ、って吹き出しちゃって。その後も、「あっはははは、なにそれ、ひっどーい」なんてしばらく笑い続けちゃったりして。
 あっ、と我に返って、葵ちゃんの方を見ると、葵ちゃんは明らかに聞こえていたはずなのに何も言わない。背中を向けて、こっちを見もしない。でも、その背中がね、ちょっとだけ震えてるの。
 茜音ちゃん、これで気付いたんだ。葵ちゃんは今、無理して、自分のことを無視しているんだって。馬鹿にされて、笑われて、口惜しくて仕方ない。でも、無視することに決めたから、文句を言うこともできないんだって。
 この時、茜音ちゃんの中で何かが狂っちゃったんだろうね。もしかしたら、久しぶりに葵ちゃんの反応が得られて、嬉しかったのかもしれない。なんでそう思うのかって? だってえ、そうでもなきゃ、あんなことしないもん。あはは、実は茜音ちゃん、それから卒業式前日ぐらいまで、延々とね。事あるごとに、一番の親友だったはずの葵ちゃんをからかい続けたの。
 無視するなら、ずうっと無視してればいいんだ。そう、茜音ちゃんは考えていたんだろうね。だったら、私は葵ちゃんのおもらしのこと、いっぱいからかい続けてあげる。葵ちゃんが恥ずかしくてたまらなくなって、私を相手にしてくれる時まで、ずうっと。
 でも、どんなにからかい続けても、葵ちゃんは茜音ちゃんを頑なに無視し続けた。茜音ちゃんにおもらしの過去を囃し立てられて、クラスのみんなに笑われさえしても、意地になってたんだろうね。葵ちゃんは絶対に、茜音ちゃんを相手にしなかった。見えない空気のように扱い続けた。
 そんなグチャグチャな状況の中、いよいよ迎えたのが卒業式の前日。
 茜音ちゃんは焦った。葵ちゃんとはもうずっと一言だって話せていなかったし、そのせいで、葵ちゃんが自分と同じ近所の中学校に行くかどうかもわからない。もしかしたら、親友の葵ちゃんに無視されたまま、お別れになっちゃうかもしれないって。
 馬鹿だよね。茜音ちゃんって、そういうところは絶望的にセンスがないの。自分がやったことの意味が、全然、見えてないんだ。だって、もうここまで来たら、親友どころか友達ですらないのにね。葵ちゃんにとっては、ただの許し難い敵、なのにね。
 茜音ちゃんは、馬鹿な頭を絞って考えた。でも、馬鹿だからって、馬鹿なことばかりを思いつくとは限らない。この時もね、ある意味で天才的な、とんでもないことを思いついちゃったんだ。
 茜音ちゃんは、いつも葵ちゃんを一緒にからかっていた友達にこのことを話して、協力を求めたの。友達は弾けるような笑い声を上げて、「あはははっ、いいね、それ。最っ高」と同意してくれた。「それだけしたら、きっと葵ちゃんも茜音ちゃんのこと、もう無視していられないよ」
 誉められて、茜音ちゃんは自信をつけた。馬鹿だからね。仕方ない仕方ない。
 卒業式当日、茜音ちゃんと、その友達は張り切って動き始めた――って言っても、ただ、あらかじめ済ませるべき自分達の『仕事』を済ませて、葵ちゃんの行動をずっと見張っていただけなんだけどね。見張って、一体、何をしようとしていたかって言うと……。
 あはっ、ほらあ、演劇の本番でもそうだけど、卒業式とか、運動会とか、何かの発表会の直前とかってね。こう、みんなに注目されることになるから、気持ちがピン、と張るじゃない。緊張、するじゃない。そういう時ってさ、落ち着かなくなって無性に――ふふ、そうだよね。特に「今から本番!」って時に限ってさあ。不思議と、行きたくなる、よねえ?
 そう、常人離れした鉄の意志で、茜音ちゃんを無視し続けて来た葵ちゃんもそこは同じ。やっぱり、卒業式という人生の門出を前にして、行きたくなっちゃうんだよね。
 で、目的地に行こうとすると、何故だか後ろからついてくるわけ。無視しなきゃいけない、許せるはずもない、約束破りの子とその友達が。目的地に辿り着いて、個室に入ろうとすると目の前で通せんぼするわけ。無視しなきゃいけない、許せるはずもない、約束破りの子が。
 葵ちゃんは無視を続けて、もちろん、別のトイレに向かう。トイレなんていくらでもあるもんね。でも、そいつらは必ず後をついて来て、同じ行動を繰り返す……。
 こんな風にされちゃうと、葵ちゃんも、焦っちゃうよね。追いかけっこしているうちに式の本番は近づいてくるし、だって、式は長いから、式の前に行っておかなきゃ……くすくす、ねえ? 後で困っちゃうもんねえ。
 いよいよ時間が近い、となった時にね。葵ちゃんは危機感を覚えて、茜音ちゃん――ではなくて、その横にいる友達に言ったの。「変なことしないで」って。
「変なことなんてしてないよ」その友達は澄ました顔で返す。「ただ、ちょっとふざけて、後ろをついて行っているだけじゃん」 
「葵はトイレに行きたいの。通せんぼしないで」葵ちゃんも唇を震わせて、必死になって言う。
「通せんぼなんてしてないよ。私はしてない。私はね」友達はにやにやして言い返す。
 葵ちゃん、これには何も言い返せなくなっちゃった。だって、直接に通せんぼしてくるのは、毎回、茜音ちゃんの方だったから。ここまで空気みたいに無視し続けた以上、茜音ちゃんのことを今更相手にするわけにはいかなかったから。
「いいから。あっち行ってよ!」
 葵ちゃんは癇癪を起こして、次のトイレへ。でも、また通せんぼ。もう、時間がない。後がなくなった葵ちゃんは、ついに強硬手段に出ることにしたの。無視しなきゃいけない相手を前にして、実力行使。無理矢理、押し通ろうとしたんだ。でも、茜音ちゃんも、ここまで来たら引き下がれない。必死に葵ちゃんの服を引っ張るとかして、個室に入らせないようにする。葵ちゃん、なんとか個室にまでは入れたんだけど、一緒に中に入ってきた茜音ちゃんが鍵を閉めさせてはくれないし、全力で服を脱ぐのを妨害しようとする。ああいう式の時って、ただでさえ慣れないフォーマルな服装をしているからね。寒い日だったから、葵ちゃん、スカートの下はタイツも着込んでいたりしたし。邪魔されちゃ、たまらないよね。
「あー、もう時間! 葵ちゃん、ほら、卒業式行かないと!」
 そして、友達のわざとらしい声。ついに時間が来ちゃったのね。早く行かないといけない。遅れて式場に入っていくなんて恥ずかしい真似をしたら、先生にも、見に来るお母さんにも叱られちゃう。
 ……結局ね、葵ちゃん、行きたいトイレに行けないまま、本番の式に出ることになっちゃったの。
 長い卒業式がね、本当にゆっくりゆっくり進むの。みんなも経験あるよね。授業中とかでもそうだよね。ただでさえ、どことなく退屈で間延びした時間が、我慢なんてしていると特にさあ。時間の進みが、驚くほどにゆっくりになる。あ、みんなにとっては、『今この時』もそうかな? あはは。
 卒業式って、本当は感動したり、別れを惜しんだりする場面なんだろうけどね。葵ちゃんにそんな余裕、あるわけはない。最初はまだ精神的なものだけだからいいとしても、徐々にね。ふふ、本格的に来ちゃうから。身体的な、どうしようもない、うずうずする感じが。今みんなも感じ始めているかもしれない、早く出してよぉ、出したいよぉっていう切羽詰まった感じが。
 式が進行するにつれて、葵ちゃんは徐々に平静さを失っていった。伸びていた背筋は丸くなって、お尻はもじもじ。何度も足を踏み替えたり、身に着けた瀟洒? なワンピースの裾を人目を気にしながらぎゅ、と握ったりね。
 近くの席では、妨害に精を出せるよう、あらかじめ自分達の『仕事』を済ませておいた茜音ちゃんとその友達が、すらっと格好良く背筋を伸ばしつつ、葵ちゃんの困り果てた様子を横目で眺めているの。
 胸のすうっとするような――おっと、間違った。胸の悪くなるような、えぐ味のある光景でしょ? あはは。
 式は進んで、卒業証書授与の時。あの一人一人名前を呼ばれて、舞台に上がって証書を受け取るやつね。
 あれをやる時には、もう、葵ちゃんの顔は真っ赤を通り越して、真っ青になっていた。パイプ椅子に載せたお尻を突き出して、極端な前傾姿勢、もちろん両手はスカートの前をがっちり押さえちゃったりしてね。もう、人目を憚る余裕もない。いっぱいいっぱいなのね。
 でも、葵ちゃんの個人的な危機のことなんて、卒業式は考慮してくれない。順番が来れば、名前が呼ばれちゃう。名前が呼ばれちゃったら、葵ちゃんは立ち上がるしかない。立ち上がっても、両手を前から離すこともできず、もじもじ、くねくね。たまにとんとんとん、と無意味なその場足踏み。
 事情を知っている茜音ちゃんもその友達も、卒業式向けの澄ました顔をしながら、お腹の中では大笑い。『いい気味!』茜音ちゃんは思うの。親友だったことなんて、もう忘れたかのように。『いい気味! 私を無視するから罰が当たったんだ! 葵ちゃんなんて、みんなの前で大恥かいちゃえ!』
 葵ちゃんの立ち姿は、客観的に見ても明らかに不自然で、生徒や先生、父兄の中にも気付いている人はいるはずなんだけど、不思議だよね。式の進行の妨げになっちゃいけない、みたいな。そういう意識が働くのかな。葵ちゃんには不運なことに、誰も何も言わずに、式はしめやかに進行しちゃう。ほんと不思議。卒業式って、人の心って、不思議。
 葵ちゃんはもう本当に限界に達していて、ほとんどまともに立っていることすら難しいぐらい。でも、茜音ちゃん達に負けたくない。その一心で、なんとか自分の卒業証書を受け取ろうと舞台にまでは上がったけど――ふふふ、そこまで。みんなも知っているだろうけど、そういうのって、生理現象だからね。そんな意地とかプライドとか、精神的なものだけじゃあ何ともならないんだ。
 もうね、瞬く間に、じょわあああああ――って。ばしゃばしゃばしゃ、って。卒業式の、まさにその舞台の上で、幼稚園児みたいなおもらしショー。ざわめく観衆の目の前で、どんどん取り返しのつかない事態が進行していく。最終的には、着ていた洒落た服もタイツも靴もぜーんぶおしっこまみれのびしょびしょで、青かった葵ちゃんの顔は恥ずかしさで耳まで真っ赤っ赤。
 あっはははは。最っ高だよね。一つ大人の階段を上るはずの卒業式で、階段から滑り落ちて、二段も三段も子供方向に転がり落ちちゃう、卒業式おもらし! 葵ちゃんは結局、卒業証書すら自分の手で受け取ることもできず、慌ててやってきた先生達に連れられてみじめに退場! 最っ高にみっともなかった! あたし、今、思い出しても、笑いが――おおっと、失言。あたしなんて登場してなかったね。ケアレスミスだった。えへ。
 そういうわけで、葵ちゃんの卒業式は大失敗で幕を下ろしたの。茜音ちゃんとその友達は、もちろん、立派に卒業。乾いてぱりっとしたままのフォーマルな出で立ちを見せびらかすように、保健室送りになった葵ちゃんのお見舞いに訪れて、落ち込む葵ちゃんにたっぷりと慰めの言葉(笑)をかけてあげたわけ。
 その時ね。葵ちゃんは、ついに茜音ちゃんを無視することをやめた。もう、我慢しきれなかったんだろうね。おしっこも我慢しきれなかったんだけどね。あはは。
「もう、二度と顔なんて見たくない」そう、葵ちゃんは言ったの。「茜音ちゃんのこと、一生許さない」

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[♀/連載]不浄奇談 [1-1-1.小貫亜由美の話 序]

『不浄奇談』キャラクター紹介



     1-1.小貫亜由美の話

 みんな、人間だからさ。『誰にも言えない秘密』ってあると思うの。それで突然なんだけど、みんな、今から五秒数える間に、それぞれ『誰にも言えない秘密』を一つだけ、頭に思い浮かべてみて欲しいの。
 うん、そう。怖い話の一環で必要になるから。「恥ずかしくて誰にも言えない!」っていうのとか、「これ言ったらみんなに引かれちゃうかなー」っていうマジもんのやつお願いね。それじゃあ、始めるよ。はい、スタート。
 ……ストップ! 全員、思い浮かべた? OK。その秘密、覚えておいてね。後で使うから。
 さて……突然だけど、あたし達、仲間だよね? 友達だよね?
 え。なんで急にそんなこと聞くの、って?
 やー、考えたらさあ。あたし達って、同じ部活の仲間なのに、お互いの秘密みたいなことって語り合ったことないでしょ。
 この前、ふと寝る前にね。そういうの、本当の友達って言えるのかなあ、と思ったんだ。あたし、本当の友達って、実はいないのかも……なーんて考えたら、悲しくなって来ちゃったりして。やっぱり、本当の友達は、どんな秘密でも共有できる相手じゃなきゃって思うからさ。
 うん、だからね。今日、ここで、あたしはみんなと本当の友達になりたいなって思ってるの。みんな、さっき思い浮かべた『誰にも言えない秘密』、一つずつ教えてよ。ううん、もちろん、ここで直接教えてくれなくてもいいんだ。ただ、秘密を共有し合うことが大切、って思うから。
 というわけで、はい、ここにノートを用意しましたぁ。一ページずつ破って、と。ほい、一人一ページね。ボールペンもあるから使ってね。ここにさっき思い浮かべた秘密を書いて欲しいの。秘密を共有するって、お互いに秘密を書いた紙を持ち合うだけでいいと思うんだ。読まなくても、知らなくても、ただそれだけで心が通じ合うっていうか。
 あ、別の秘密じゃダメだよ? さっき瞬間的に思い浮かべた、『誰にも言えない秘密』そのものじゃなきゃ。これはもう儀式みたいなものだから、ちゃんと決まり通りやってくれないと、どうなっちゃうか保証できないからね。
 え? 『怖い話』と関係ないでしょ、って。うーん、いや、結構あるんだよねこれが。個人的なお願いでもあるんだけど、さっきも言ったように、『怖い話』の一環でもあるんだなコレが。だからね、協力して欲しいの。わかっていると思うけど、嘘とかふざけたことは書かないでね。さっき瞬間的に思い浮かべた、『誰にも言えない秘密』以外はダメだから。本気でダメだから。これ、もう、本気の儀式が始まっちゃってるから。変なことすると、呪われちゃったりすることもあるかも? あたし、真面目に書いてくれる前提で考えてきちゃったから。そういうおふざけに対する責任、ほんと、取れないからね。
 ん、あたし? うん、書く書く。あたしもとっておきの秘密、書いちゃうよお。
 いやあ、それにしても、秘密って不思議だよねえ。あたしとあなただけの秘密、みたいにすると、急にお互いの距離が縮まった気がする。凄く親密になれた気がする。あたし、そういうの、憧れちゃうんだよねえ。せっかく部活の仲間なんだし、あたし、みんなともっと仲良くなりたいんだ。いいでしょ? 友達少ない子の夢、かなえてよ。みんなの秘密、教えて。あ、そうそう、紙の裏には名前も書いてね。フルネームでよろしく。
 ――はい、ありがとう。やったあ。みんな、ちゃんと書いてくれたんだね。感謝感謝。全部、回収するよ。はい、どうもどうも。
 こほん。ところで、東川先輩にも相談したんだけど、あたしね。『不浄奇談』の劇中で出てくる怪談遊び、実際に遊ぶには欠点があると思ってるんだ。そう思わない? だって、あれ、途中でトイレに行くって言って、そのまま逃げちゃったらおしまいじゃない。臆病者とかって後で馬鹿にされるかもしれないけど、うーん、それだけじゃあ、かなり弱くない?
 だからね。あたし、その欠点を埋める方法を用意しました。まあ、考えたのはほとんど東川先輩だけど。うん、それぞれの『誰にも言えない秘密』を人質にしたらどうかなって思ったの。もし途中で逃げたら、この秘密みんなにバラしちゃうぞー、みたいな。あはは、ごめん、実はそうなの。さっき書いてもらったこの六枚の『誰にも言えない秘密』のページは、ぜーんぶ、その人質になるんだ。みんなが怖くて逃げ出したりしないように、ね。あははは、怒らないでよ。ゲームを盛り上げるためのシュコウ? ってやつなんだから。
 あ、せっかくだし、あたしだけみんなの秘密、先にちらっと見ちゃおうかなー。ふうん、はー、なるほどなるほど。あれだけ言ったのに、ちゃんとした秘密書けよオラァ、って言いたくなる奴が約一名……。どうせ、ろくでもない企みがあるって見破られてたのね。信用ないんだなあ。亜由美かなしい。あはっ、でもぉ、『呪われちゃうかも?』なんてホラー系で強めに脅してあげたからかな? それとも、『本当の友達』の話の方にほだされちゃったのかな? 結構面白いのもあるね。
 えー、うわわわ、これすっごい、これ最っ高。これ、誰の誰の? はー、なるほど、そうなんだあ。うふふふ、これ、衝撃的なの来ちゃったから、一つだけ発表しちゃおっかなあ? みんな、誰にも言わない? 約束ね。
 それじゃあ、はーい、注目ー。大事件でーす。この中にぃ、今でも夜ぅ、たまにおねしょしちゃってる子がいまーす!
 あっはははは。みんなにくすくす笑われちゃって恥ずかしいねえ。やあい、おねしょおねしょー。でもでも、怒れないでしょー? 怒ったら、誰がおねしょ常習犯か一発でわかっちゃうもんねえ。ほらほら、自分が犯人だってバレないように、みんなと一緒になって自分自身の恥ずかしくて情けないクセ、一生懸命笑わないとね。あっ、あっ、気を付けて。恥ずかしすぎて顔が真っ赤になっちゃってるよ。ふふ、誰にもバラされないはずだったのに、みんなにバラされちゃって、恥ずかしい恥ずかしいねえ。あーらら、頑張って笑ってる。恥ずかしいおねしょ癖、自分自身にまで笑われることになっちゃって、可哀想なおねしょ常習犯ちゃん。
 ふふ、みんな、誰の秘密かわかったあ? おっ、良かったねえ。みんな、わからなかったって。夕陽のおかげかな? なんとか誤魔化せたみたい。ふふ、よくできました。
 あ、ごめん。面白いのあったから、ちょっとはしゃいで、羽目を外しすぎちゃった。一発目から失礼。はい、前座はここまで。ここから本格的に怖い話、始めます。
 さて、みんな、今みたいに、「『誰にも言わない』から教えて」なんて約束で、誰かに自分の大切な秘密を喋っちゃったことってなあい? ほら、好きな子、の話とか。ふふ、みんな、一度ぐらいはあるんじゃないかなあ。ええ、はい。あたしも恥ずかしながら、経験あります。
 でもねえ、疑問なんだ。その約束って、本当に守られているのかなあ? どうなんだろう。
 実はね、あたし、知ってるんだ。気をつけた方がいいよ。前に何かで見たんだけど、ああいうのって、実際に約束をちゃんと守れる子はとっても少ないんだって。最初から破る気満々で聞き出すひどい子もいるだろうけど、大抵の子はそうじゃない。それなのに、どうしてそうなっちゃうのかな。不思議だよね。
 実は今さっきも、あたし、それをやったんだ。気付いた? 気付いた?
 お、三夏、鋭い。あたし、言ったよね。『みんな、誰にも言わない? 約束ね』って。『誰にも言わない』約束が、どうしてほとんどの場合、破られちゃうかって言うと、今みたいなことが起きちゃうのね。誰かの秘密を知ってしまったあたしは、その秘密が大きければ大きいほど、誰かにしゃべりたくてたまらない。秘密を知らないみんなは、他の人がすでに知っているのに、自分は知らないものだから聞きたくなっちゃう。でも、あたしは秘密を抱えた張本人と『誰にも言わない』約束をしてしまっているから、ただそのまましゃべってしまうのは、ね。なんというか、気が咎める。だからね、あたしは今から破りたい約束とまったく同じ約束を、今度はみんなにしてもらうの。『誰にも言わない』約束を。そうしておけば、あたしがしゃべっちゃった人達以外には、秘密は絶対に広がらないでしょ。仮に秘密がさらに広がっちゃったとしても、それはもう、あたしのせいじゃない。みんながあたしとの『誰にも言わない』約束を破ったせいだもん。
 前置きが長い? あ、ほんと? ごめんごめん。
 今回はこれと同じ話。何年か前、この近くの小学校に茜音ちゃんっていう女の子がいたんだって。六年生の茜音ちゃん……背は低めで少し痩せ気味、髪型はショートカット。内気で友達の少ない陰気な子。でも、陰気なくせに、頭はあんまり良くなかったりする。どう、想像できた? この茜音ちゃんが今回の主人公。
 さて、ある時、この茜音ちゃんのクラスに転校生がやって来た。黒板の前で自己紹介をする転校生の女の子の姿を見た瞬間、茜音ちゃんははっとした。一目見た瞬間、心を奪われてしまったの。ようするに、転校生はとっても綺麗で魅力的な女の子だったワケ。茜音ちゃんはあまり友達を作ったりするのが得意な子ではなかったんだけど、この子とは仲良くなりたいと強く思ったのね。憧れ、みたいな感じかな。
 でも、転校生はいつだって期間限定の人気者。どうせ、目新しさがなくなってすぐに寂れちゃうんだけど、最初はとにかく凄い人気なんだ。だから、教室では他の同級生に囲まれていて、なかなか話しかけられなかった。でも、放課後の帰り道、一人になったところを勇気を出して、茜音ちゃんはその子に話しかけた。転校生の子も大人しめの子だったから、話しかけてみると案外仲良くなれた。転校生の子は葵ちゃんっていうんだけど、話をしていると、葵ちゃんは自分のことを自分の名前で呼ぶの。「葵はパンが好き。葵はパセリが苦手」って具合にね。そのちょっと変わったところも、茜音ちゃんからしたら個性的で、素敵に見えたんだ。
 それから、日を追うごとに、二人はどんどんと仲を深めた。憧れの女の子と仲良くなれて、茜音ちゃんは幸せ。転校生の葵ちゃんも親友ができて幸せ。
 でも、幸せなんて、そう長くは続かない。言ったでしょ? 茜音ちゃんは、元々友達が少ないの。でも、葵ちゃんはそうでもなかったのね。新しい学校で、茜音ちゃん以外にもそれなりに仲の良い子ができちゃったんだ。
 茜音ちゃんはね、それがとても嫌だったの。自分以外の子と、葵ちゃんが仲良く話をしているのを見ていると、胸が引き裂かれるような心地がした。
 クリスマスの近いある日もね、茜音ちゃんは一人だった。理由は簡単、親友の葵ちゃんが他の子達とグループになって、おしゃべりに興じていたから。自分はひどく淋しくて相手にして欲しくてたまらないのに、葵ちゃんは自分をほっぽっておいて、他の子と楽しく笑っている。茜音ちゃんは、葵ちゃんの朗らかな表情を恨みがましく見やって、怒りすら感じていたの。でも、茜音ちゃんは、そんな自分が嫌でもあった。自分の一番の親友は葵ちゃんで、葵ちゃんの一番の親友は自分だと信じたかった。
 だから、たまりかねた茜音ちゃんは、あとになって誰もいない廊下で葵ちゃんを問い詰めたの。「葵ちゃんは、私より他の子の方が大切なの」って。まるで、恋人に言うみたいな物言いだけどね。
 葵ちゃんは突然、予想もしていなかったことを友達から言われてびっくりしちゃって、すぐに言葉が出て来ない。
「そ、そんなことないよ」葵ちゃんは言う。「茜音ちゃんが一番。でも、他のお友達も大切だから」
「信じられない」頭に血が上った茜音ちゃんは言う。「それじゃあ、何か、証拠をちょうだい」
 葵ちゃんは俯き加減で押し黙ったまま、しばらく口を開かなかった。何かひどく迷っているみたいだった。そんなめんどくさいこと言うなら知らない、とでも言えば良かったのにね。ばしん、って突っぱねちゃったら良かったのにね。でも、葵ちゃんはそうしなかった。真面目でけなげな良い子だったの。新しい学校に転校して、最初にできた親友に対して、心の底から大切に想っているという確かな証拠を差し出したいと考えちゃったのね。
 ずいぶんと間が空いてから、葵ちゃんは「わかった」と呟いた。俯いていた顔を上げた葵ちゃんの顔には、決意の色が窺えた。凄く、真剣な顔をしていたのね。頭に血が上っていた茜音ちゃんですら、一瞬たじろいでしまうほどに。
 葵ちゃんは言ったわ。
「葵ね、この学校に来てから、誰にも話していない秘密があるの。それを茜音ちゃんにだけ、教えてあげる。茜音ちゃんだけだよ。だから、葵の言うこと、信じて」
 葵ちゃんは、茜音ちゃんに耳打ちした。自分自身を守るために誰にも話さずにいたことを、茜音ちゃんだけにそっと伝えた。
 茜音ちゃんはね、その大変な秘密を聞いて、どうしたと思う? ひどく興奮したんだ。その秘密は客観的に見ても、大きな秘密だった。もちろん、小学生の『大きな秘密』なんて、たかが知れてるけどね。それでも、もしも明らかになってしまったら、葵ちゃんの教室内での人気が危うくなってしまいそうな程度の大きさはあったわけ。
 茜音ちゃんは感動したわ。自分にこんなに重要な秘密を話してくれた、って。葵ちゃんはやっぱり、誰よりも自分のことを大切な親友だと想ってくれているんだって。
「……茜音ちゃん、約束」葵ちゃんは消え入りそうな声で言うの。「絶対に誰にも言わないでね」って。茜音ちゃんは頷いた。
 それから、また、茜音ちゃんはしばらく幸せな日々を送ったの。葵ちゃんが他の子と楽しそうにしているのを見かけても、もう全然、平気だった。何故なら、心の中にはいつも、自分だけが知っている葵ちゃんの秘密があるから。『誰にも言わない』約束をした、二人だけの秘密があるから。
 ――でもねえ、秘密なんて、さっきも言ったようにそうそう守れるものでもないのよね。
 そうこうするうちに、年も明けて、小学校の卒業式はすぐそこ、という頃になった。その頃、茜音ちゃんの身の周りに、ちょっとした変化が起こった。葵ちゃんの存在のおかげもあって、茜音ちゃん、クラスの他の子とも徐々に打ち解けるようになっていたんだ。卒業間近になって、友達付き合いが苦手だったぼっちの茜音ちゃんにもようやく友達が新しくできたのね。これ自体はいいことだったんだけど――。
 ある日ね。茜音ちゃん、新しくできた友達に聞かれちゃったんだ。
「葵ちゃんが転校してきた理由って、茜音ちゃん、知ってる? 直接聞いても、『それはひみつ』って感じで教えてくれないんだあ」
 茜音ちゃんはすぐにわかった。あの秘密の話だ、と。茜音ちゃんはぽう、と胸に火が灯ったみたいに嬉しい気持ちになった。葵ちゃんは本当に他の子には話していないんだって。本当に自分だけが特別に教えてもらった秘密なんだって。
 でもね、茜音ちゃんは、失敗しちゃったの。わかるよね? 本当はこういう時は知らないフリをしなきゃいけない。だって、知ってるけど教えなーい、なんて都合の良いこと、誰も許してくれやしないんだからさ。
 だけど、茜音ちゃんは人付き合いが苦手な子だったし、知っていることを知らないフリをすることに慣れていなかったんだろうね。まずいことに、「言えないけど、私、知ってるかも」って正直に言っちゃったんだ。しかも、ちょっと得意げにね。本当に軽はずみだよね。
 さあ、そうなったら、もう大変。その友達はどうしても聞きたくなっちゃう。新しくできた友達は、何度もしつこく聞いてくる。「それは秘密だから」と何度か断っていると、ついに「教えてくれないなら、茜音ちゃんはもう友達じゃないから。他の子達にもそうするように言うから」なんて言い出す始末。
 いよいよ観念して、茜音ちゃんはその友達と、その仲間の数人にだけ耳打ちすることになってしまったの。葵ちゃんと自分の間だけのはずの秘密を。『誰にも言わない』約束をした、誰にも言ってはいけない秘密を。
「約束だよ。誰にも言わないでね」そう前置きして、葵ちゃん以外の人の耳元で、茜音ちゃんはこう言ったの。秘密を伝える人数分、繰り返して言ったのよ。「葵ちゃん、前の学校でね。おもらし、しちゃったんだって。それで、そのことで、ずっとしつこくからかわれたりしていて……それで転校してきたんだって」
 その友達と仲間達は「えー、あはっ、そうなんだあ。すっごい秘密じゃん。あの子、おもらしで転校してきたんだ。笑っちゃう」なーんて言って大喜び。この年頃の子、そういう失敗に対して、結構、残酷だったりするからね。同級生のトイレの失敗話なんて大好物、だったりして。まあ、中学生でも大差ないかもしれないけど。

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[♀/連載]不浄奇談 [0.プロローグ 芦田琴美]

『不浄奇談』キャラクター紹介


     0.プロローグ 芦田琴美

 自分でも抑えの効かない苛立ちを抱えて、グチグチと言葉にできない不満を心の中で繰り返しながら、賑やかな校庭を離れる。校庭の喧騒を背中に感じつつ、昇降口で上履きに履き替え、一歩、長い廊下に足を踏み入れる。

 その瞬間、目の前に広がった光景に、私は思わず息を呑んだ。
 電灯の点っていない廊下の暗さは、想像をはるかに超えたものだった。そして、暗闇の中に差し込む、目に痛いほどの紅い紅い夕陽。
 美しい、と感じることもできたとは思う。しかし、私は何よりも、まずその凄惨なまでの赤と黒の世界に『恐ろしさ』を感じた。それはいつも目にする廊下でありながら、まるで違う、どこか奇怪なものとして眼前に立ち現れていた。
 昇降口までは電気が点いていたため、何の準備もなしにいつもの感覚でその空間に飛び込んでしまったのもまずかった。目の前の凄まじい光景に、私は踏み出した足をそれ以上動かすことができなくなってしまう。
「うわ……」突如として湧いてきた底知れない不安を誤魔化すため、乾いた喉を震わせて独り言を呟く。「なんか、凄い……」
 雰囲気に呑まれかけていた私は、日常と変わらず鼓膜を震わせた自分の声に、ほんの少しだけ気分を落ち着かせることができた。
 一度、二度、その場で足踏みをしてみる。進めそうだ。トイレはこの廊下の突き当たりにある。早く済ませて、みんなの所に戻ろう。

 廊下は校庭の喧騒が嘘のように、しん、としていた。普段は意識もしない心臓の鼓動が、強く、早く、打っているのがわかる。できる限り、平常通りに歩こうとしているのに、上手く行かない。自分の足音にすら怯えながら、私は早足で廊下を進む。
 何かに急かされるようにせかせかと進み、ようやくトイレの前まで辿り着いた時――。そこで私を待っていたのは、予期しない光景だった。
 強い西日以外、光源らしい光源のない、古い校舎の、不潔な湿気をはらんだトイレ前の暗がり。そんな誰もが早く通り過ぎたくなる場所に、人影があった。それも、複数の人影が。
 人影――私と同じ制服に身を包んだ少女達が、一斉にこちらを見る。まるで、私が来るのをずっとそこで待っていたかのごとく。
「来たね、五人目」その内の一人が言う。口調は楽しげに弾んでいる。
「タカマキさんも来ちゃったんだ。あ、でも、良かったあ。知ってる子が来てくれて」
 見ると、中には同じクラスの見知った顔もいる。獲物の品定めをするみたいに、彼女達は私の姿を無遠慮に眺めて笑い合っている。
 なんだかよくわからない嫌な予感がして、私は彼女達に曖昧な笑みを返して、その場を切り抜けることにした。そのまま行くべき場所――トイレへと足を向ける。
 しかし、その私の正面、身体がぶつかりそうなぐらいの距離の所に、中の一人が立ちふさがった。
「な、なに?」
 近すぎる距離にたじろいで、私は身を引く。抗議の声を上げる。自然、口調は硬いものになる。
「だめだよ」返事は、端的な禁止。
「何がだめだって?」
「あなたは五人目なんだから。トイレに行っちゃ、だーめ」悪戯っぽく、『だ』と『め』の間を伸ばして言う。
「何を言っているのかわからないよ。五人目って、なんのこと?」
「簡単に言うとね。私達、これから――」
 その女子は実に楽しそうに微笑んで、私の腕をきゅっ、と掴んだ。まるで、もう逃がさないよ、とでも言うように。
「みんなで怖い話、するの。あなたも一緒にね」

 ――夕暮れ時、同じ中学校に通う演劇部の仲間五人とやって来たのは、屋上へと続く小さな踊り場。
 確かにぴったりだ、と芦田琴美(あしだことみ)は思う。天井に備え付けられている電灯は、時間帯の問題だろうか。まだ点灯していない。そのため、窓に嵌まった曇りガラスを通して差し込む、紅い紅い夕陽だけが唯一の光源となっている。その光量は鮮烈な見た目に反して弱く、周囲に溜まった黄昏時の闇を払うにはいかにも心許ない。
 今、練習している『不浄奇談』の舞台である踊り場のイメージに、ほぼ合致する。赤と黒の世界。薄闇の吹き溜まり。何かが”潜んでいそう”な、誰も寄り付かない場所。劇中の表現が、脳裏に蘇る。
「はい、目的地に到着ー」部の仲間である小貫亜由美(おぬきあゆみ)が、どこかで聞いたことのある台詞を言う。「楽しい楽しい『怖い話』の舞台にようこそ! ここ、いいでしょ? 雰囲気あるでしょ?」
「はは」と尼野悠莉(あまのゆうり)が意味ありげに笑う。そして、こほん、と咳払いを一つ。演技がかった口調に切り替えて続ける。「えー? 楽しい楽しい『怖い話』って、なんか矛盾してない?」
 琴美自身も気付いていたし、その場にいる全員が察しているであろうことも琴美にはわかった。亜由美の第一声は、今、練習中である『不浄奇談』の劇中の台詞そのものだったのだ。『不浄奇談』の主な舞台である階段の踊り場にキャラクター達が到着した時、亜由美が演じているミナトハラがまず場にそぐわない陽気な口調で告げるのだ。まるで、舞台下の観客たちに対しても告げているかのように。『楽しい楽しい『怖い話』の舞台にようこそ!』と。悠莉の発した言葉も、その次に続く劇中の台詞だ。
「矛盾? してないしてない」亜由美の演技は続く。劇中人物であるミナトハラの口調は、いつだって明るい。亜由美によく合っている、と琴美は思う。「怖い話は、イコール楽しい話でしょ」
「ふう」高坂三夏(こうさかみか)がついていけない、とばかりに嘆息する。順番通りに行けば、次の台詞は三夏の番なのだ。急かす亜由美の視線を受けて、三夏が声を発する。発した声質でわかる。これも台詞だ。「それじゃあ、ここでざっと円を描く感じで座ったらいいのかな」
「私は手前にしよっと」真崎(まざき)えりか。特に嫌そうな気配も見せずに、決められた台詞を決められたように言う。彼女は周りに流されるタイプだ。「あ、そうだ。これ、録画するんでしたっけ?」
「うん。だって、何か映るかもしれないでしょ?」
「うえー。これ、本当に映ったらどうするんですかあ?」
「さあ。お祓いとか? 必要かなあ」
 元気で明るい悪戯好き。亜由美にミナトハラ役はよく合っている。それは認める。でも、劇中人物と違うのは、場の空気が読めない独特の鈍感さと、物事の加減のわからない無神経さ。いつまで役を演じているつもりなのか。そして、いつまで、周囲が合わせてあげないといけないのか。琴美は早くも嫌になってきた。そろそろ、自分も登場しなければならない。
 亜由美の視線が、次の人物の台詞を待つ。次の台詞は『ちょっと待って』。台詞を発する人物は琴美の演じるタカマキ。最後の登場人物にして、巻き込まれた主人公の一人。
 琴美はため息をついた。
「……もういいよ。やめにしよ」気は進まないが、琴美は自らの手で流れを切ることにした。不満げな亜由美の顔が、ちらっと見える。「舞台の練習を、そのまま通しでやるために来たわけでもないでしょ?」
 一瞬、間が空いた。皆が役から自分自身に戻るわずかないとま。
 ほっとしたような雰囲気も、かすかに感じる。
「はは、ほんとほんと。琴美の言う通り」役の解けた悠莉がへらへらする。琴美の知る限り、彼女は役を演じている時以外は、いつでもへらへらしている。良識のある女子生徒・セナ役。皆はよく合っていると言う。けれど、琴美はそれほど役に合っているとは思えない。「長いよ亜由美。長ければ長いほど、最初に乗っかったわたしが悪いみたいになっちゃうじゃん」
「ええ? みんなもノリノリでやってくれているのかと思って」
「三夏とかため息ついてたじゃん……。ていうか、どこまでやる気だったん?」
「行けるところまで行こうかと」
「マジかこいつ。それじゃ、湯田ちゃん、何もしゃべれなくなっちゃうよ」
 名前を挙げられて、「あ、いやあ、あはは。わたしは別にぃ」などとぐにゃぐにゃするのは、湯田真冬(ゆたまふゆ)。この場にいる六人の演劇部メンバーの中で、唯一、役を演じることのない裏方だ。学年も一つ下で、特に仲が良いわけでもない琴美から見ると、変わった名前をしているおとなしい子、という認識。
「雑談はいいわ。そろそろ始めましょう」とりとめもなく続いてしまいそうな会話を、三夏が冷ややかな声で制する。「さらっとやって、さらっと終わりたいし」
 皆が黙る。琴美は心の中で賞賛する。さすがは我が部が誇るクールビューティー。美人で頭が良くて自分だけは他の連中とは違うみたいな澄ました顔をしていて――ちょっと、むかつく。本当は怖くて早く終わりにしたいだけなんじゃないの、と皮肉の一つも言ってやりたくなる。
「それじゃあ、ええと……始めるう?」
 亜由美が少し言いにくそうに言った。
 始める。亜由美の発した言葉に、しばしの沈黙が降りる。ごくり、と誰かが喉を鳴らす音が聞こえた。お互いの視線が交錯し、誰からともなく頷く。
 琴美は感じる。皆が皆、どことなく、落ち着かない雰囲気であることを。皆が皆、今からある種の禁忌に触れることに対して、漠然たる不安を抱えていることを。軽口を叩く亜由美も、考えの読めないへらへら笑いの悠莉も、かっこつけで冷静な態度を崩さない三夏も、調子良く流れに任せるだけのえりかも、隅で所在なさげにしている湯田も、自分自身をも含めて。みんな、いつもと同じようでありながらも、どこかそわそわと、浮き足立っているように見える。でも、それもこれも、当然のことだとも思う。
「始めよう」
 だって、今から、この薄気味悪い場所で、自分達は『怖い話』の会をするつもりなのだから。しかも、『不浄奇談』の劇中と同じように、本当は外に出すべき溜まったモノを内側に封じ込めたままの状態で――。

 『不浄奇談』は演劇部に伝わる作品の一つである、らしい。少なくとも、琴美はそう聞いている。ジャンルとしてはある種のホラー作品で、脚本の出所ははっきりしていない。昔、演劇部の顧問をしていた先生が書いたという噂もあるし、演劇部OBの一人が系列高校在学中に書いたものであるとの説もある。
 琴美が通う中学校の演劇部は歴史が古く、代々伝わる作品がいくつもある。『不浄奇談』はその中の一つだ。
 内容は――ある中学校に通う五人の生徒が、夏休みに開催された『学校お泊まり会』の夜に最近流行しているという怪談遊びをする、というものである。『我慢怪談』『不浄怪談』などと作中で呼称される怪談遊びの特筆すべき点の一つは、そのメンバーの選定方法。あるトイレ前の廊下で待ち伏せて、トイレに入ろうとしたものを強○的に参加メンバーとするのだ。メンバーとなったものは、少なくとも、怪談遊びが始まって一人目の話が終わるまではトイレに立ってはならない。また、話と話の合間にはトイレに立って良いが、必ず一人ずつ向かわなければならない。
 要は、怪談遊びでありながら、一種の肝試しの要素も含まれているのだ。トイレは怪談の種と肝試しの舞台を兼ね備えた装置として使われている。
 そのような設定であるため、この作品に登場する五人の生徒は、程度はどうあれ、終始『我慢』していることになる。もちろん、演じる人間が本当に『我慢』している必要はないし、そんなことをしていてはまともに演技できない。あくまでも、『我慢』している演技が必要なだけだ。
 だから、この作品を上演することに決まっても、一部のキャスト以外は大きな拒否感を示すことはなかった。しかし、劇が完成に向かいつつある頃、どこから聞きつけたのか、演劇部OBの一人である東川が部室にやってきて言ったのだ。
 『演技』がなっていない。今度、学校でやる合宿でこの怪談遊びを一度、実際に必ずやってみて演技の参考にしろ、と。そして、やってみた証拠として撮影した映像を後で見せるように、と。
 正直、鬱陶しい、と琴美は思った。系列高校の演劇部との交流が多いせいか、演劇部は無闇にOBの発言力が大きい。顧問もあっさり説得されてしまい、怪談遊びをメインキャスト全員と裏方からの代表一人で本当に実施する運びとなってしまった。琴美はやたらと上から目線で口出ししてくるOB達に、内心、辟易していた。しかし、正面切って、高校生やもっと上の先輩達とやり合う思い切りも持てない。
 結果として、琴美を含む演劇部員の内心に関わらず、この場が設けられることとなった。琴美は踊り場に満ちたどことなく異様な雰囲気に呑まれそうになりながらも、息を軽く吸い込む。
 止める。そして、覚悟を決める。めんどくさいし、正直言うとかなり怖い。でも、ここまで来て逃げ出そうものなら、仲間達からは意地悪くからかわれ、東川先輩からは厳しく叱責される未来が目に見えている。琴美はこの場にいる演劇部の一癖も二癖もある面々に、さほど心を許してはいなかった。心を許していない相手に対して、弱みは極力見せたくない。やるしかない。ここまで来てしまった以上、言われた通りにやって、証拠の映像を送るしかない。
「順番は誰から?」三夏が口を開いた。車座になった六人の中で、三夏は琴美の正面に当たる箇所に座っている。
「お話通り、役通りでいいんじゃないのお?」
 悠莉の提案に、真冬がおずおずと声を上げる。
「いや、でも、それだとわたしは役がないんで……」
「あ、そっか。忘れてたわ」
「いうか、カメラ、ちゃんとセットした? ちゃんと撮れてる?」
「撮れてる撮れてる。ちゃんと映ってる……っぽい」
「え? 『っぽい』って何」
「普段、動画撮影とかスマホしか使わないし。正直、操作方法に確証が持てない」
「いやいやいや、ちょっと。ねえ、湯田ちゃん、裏方だし、こういうの得意でしょ。ちょっと見てみて」
「あ、はい」
「ていうか、スマホで良くない?」
「スマホは長時間の撮影はきついんだって」
「あ、そうなの?」
 油断すると、すぐに会話がテトリスのように歪な形で積み重なって、あらぬ方向へと流れていく。琴美は内心の苛立ちをため息として吐き出す。いよいよ流れを是正しようと口を開いた時、三夏が切り出した。その声は、ため息混じりだった。
「……順番なんか正直どうでもいいけど、まあ、東川先輩からも、本気でやれって言われてるから。一旦は役のことは忘れて、私達本人として普通に遊ぶのがいいんじゃない?」
「それじゃあ、じゃんけんで」琴美はここぞとばかりに話を進めにかかる。こんなことで、無駄に時間を浪費したくない。ただでさえ、自分達は余計なモノを体内に溜め込んだままでいる。「負けた人からってことで。あとはそこから時計回り。これでどう?」
「えー、やだ。くじ引きにしようよお」亜由美がどうでもよいことにこだわってくる。「て言うか、実はここに用意してあるのですよ。くじ引き用の道具が」
 亜由美が脇に置いた自分の鞄から、大きめの茶封筒を取り出した。琴美は不承不承、頷いた。すでに用意してあるのであれば、他の方法を選ぶ理由もない。反対意見は特に誰からも出なかった。
 くじを引いた結果、亜由美から始まり、悠莉、真冬、えりか、琴美、三夏の順番で話をしていくことに決まった。
「あはは。……それじゃあ、亜由美、どうぞ。やるからには、本気でね」
 何がおかしいのか、悠莉が意味の掴み難い笑顔のまま促した。きっと、意味などないのだろう。琴美は思う。この子は、最初からこういう顔なのだ。
 促された亜由美が、覚悟を決めたようにすう、と息を吸う。
 そうして、吸った息を一言目にして吐き出した瞬間から、新たな『不浄奇談』が始まった――。

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[♂/読切小説/旧作]もしも、僕が宇宙人だったなら



 もしも、僕が宇宙人だったなら、と最近よく考える。

 目の前に、一人の男子がいる。そいつは顔がまあまあ良く、勉強はできないが運動はよくできた。クラスの人気者だった。
 そいつは、ははははは、と気狂いのような笑い声を上げた。僕はそいつの前で股間を抑え、蹲っていた。掃除の時間だった。
「あっれー、ボールだと思ったんだけどなあ」そいつはわざとらしく、ふざけた調子で言った。「わりー。また、田中の金玉だったわ」
 一部始終を見ていたクラスの女子達が、ひそひそと囁き合っているのが聞こえる。その中には、くすくすという無数の忍び笑いが混ざっている。
「あは、田中くん、また秋山くんにおちんちん蹴っ飛ばされてる」
「あんなに何度も蹴っ飛ばされて、潰れちゃわないのかなあ」
「ぷぷ、田中、かわいそー。男子って、すっごく痛いんでしょお? ああやって、アソコ強く打つと」
 そいつは粗野で、品位のない言動が目立つ人間だった。僕が人前ではとても口にできない単語も、平気で口走って恥じるところがない。けれども、小学校で人気者になるためには品位なんていう高尚なものは邪魔でしかない。むしろ、下品であれば下品であるほど良い。運動神経とサービス精神さえあれば、小学校ではヒーローになれる。そいつには抜群の運動神経があった。サービス精神も旺盛だった。クラスの女子達の前で、格下と見なした特定の男子の局部を蹴り上げてみせたり、時に無理矢理に下半身を露出させてみせたりする程度には。
「うーん、いや、やっぱりボールだわ。練習しよっと」
 仰向けに突き飛ばされて、両脚を掴まれる。市のサッカークラブで鍛え上げられた足が、両脚の間に強引にねじ込まれる。ぐりり、と汚い上履きの靴裏がズボンの上から僕の股間を踏みにじる。僕はクラスの女子が見守る中、そいつに『電気按摩』の刑を執行された。
 女子の一部が、悲鳴に近い黄色い声を上げた。女子のほとんど全員から失笑がもれた。
 両脚を掴む手と、小刻みに振動する足裏から、そいつの高揚感が伝わってくる。異性の前で、同学年の男子に対し、圧倒的なオスとしての優位性を見せつけているこの瞬間の快感に、そいつは著しく興奮しているようだった。両脚を掴む手に、他人の股間を踏みつける足に、力がこもる。
 僕は刺激の強さに気を失いそうになる。力が抜けた瞬間、そいつの驚く気配を感じる。
 女子がわあ、と歓声を上げる。そいつが不必要なほどに声を張って、さも得意げに言う。
「うわあ、田中、ションベン漏らしやがった! 汚ねえ! 掃除中に何してんだよ!」
 おもらし、おもらし、とざわめく女子の声。その中には、くすくすという無数の忍び笑いが混ざっている。

「大丈夫?」
 伊藤絵里那が尋ねる。声の調子は優しい。
 僕は大丈夫、と応える。大丈夫ではなくとも、大丈夫、と応えることにしている。
 保健室で、僕は着替えを行っていた。男子の保健委員は休みだったので、女子の保健委員である伊藤絵里奈に『おもらしした子の付き添い』という汚れ役が回ってきたのだった。
 伊藤絵里那は、僕があいつに虐げられている光景を目にして、笑うことのない数少ない女子だった。そういった場面に出くわした時、彼女は気の毒そうに目を伏せるか、唇を噛み締めていた。まるで、自分の無力さを恥じるかのように。
「……ごめんね。女子について来られるの、嫌じゃなかった?」
 僕は大丈夫、と応える。大丈夫ではなくとも、大丈夫、と応えることにしている。
 僕のことを、宇宙人みたいだ、と言ったのはあいつだった。こういう『事前に決めた対応』をなるべく行うことにしている具合が、そのような印象を与えたのかもしれない。あいつが主に言及したのは、僕の耳の形が少々変わってることだったけれども。
「……」
 伊藤絵里那が、気まずげに僕を見ている。
 僕は何か話そう、と思った。気まずげに僕を見る人間に対しては、僕は何かを話すことにしている。
「僕、宇宙人に見える?」僕は言った。
「ぜんぜん、見えないよ」伊藤絵里那は急きこんで言った。「あいつが言ったんでしょ? 秋山が変なだけだよ」
「そうだね。僕は宇宙人じゃない。僕は地球人で、日本人だ」
「うん」
「僕は、でも、僕が宇宙人だったら良かった、って最近良く思うんだ」
「え?」
「この前、読んでいた小説にね。出て来たんだ。宇宙人が。地球を視察に来た宇宙人だよ。宇宙人の星は凄い技術力を持っていて、この地球なんて百回だって滅ぼせてしまうんだ。この宇宙人は地球人の本質を自分の目で確かめるために、この地球にやって来たんだ。地球人がまともに交流するに値するかどうか、を試すためにね」
「そうなんだ……」
「僕がその宇宙人であったら良かったのに」
「うん……」そこでしばらく考える間を取って、伊藤絵里那は真面目な口調で言った。「でも、もし、そうだったらさ……田中くんは、どうするつもりなの?」
 どうもしないよ、と僕は応える。どうかするつもりであっても、どうもしないよ、と応えることにしている。
「私、やっぱり、先生に言うよ」伊藤絵里那が深刻な表情で呟く。
 どうもしないよ、と応えることにしている。事前に決めている。
 でも、今この瞬間だけは、それが自分の本心に思えた。

 目の前に、一人の女子がいる。その子は顔がまあまあ良く、真面目で勉強はできるが運動はあまりできない。クラスではさほど目立たない子。
 その子はおどおどとした様子で、あいつ――秋山に迫られている。
「ほら、お前も面白いからやってみろよ」
「でも……」
「お前、そういう気弱なこと言ってるから、馬鹿にされて田中との相合い傘なんて描かれるんだよ。なに、お前、本当に田中と付き合ってるの? 好きなの?」
「ぜ、全然そういうのじゃないし、付き合ってないよ!」
「だったら、いいじゃん。言っとくけど、今やらないともう手遅れだからな。本当に付き合ってることになっちゃうからな。ほら、簡単だからさ。ここではっきりと、お前が田中のことなんて何とも思ってないって証拠を見せとけって」
 掃除の時間だった。その子を動かすための、秋山の手際は見事だった。黒板にでかでかと描かれた相合い傘から始め、醜聞の濡れ衣を着せて騒ぎ立てる。逃れようとするその子の動きに合わせて、的確に望む方へと追い込んでいく。その子は見る間に追い詰められて、一つを除く退路の全てを断たれた。あからさまに残されたたった一つの退路を、その子は選ばされる。
 秋山に気のあるらしき二人の女子に取り押さえられて、僕は尻餅をついた体勢で教室の床に座り込んでいる。秋山によって、両脚は開かれている。
 その子は、僕に恐る恐る近づいてくる。震える手を伸ばし、秋山から僕の両脚を受け取る。その子の口元が、ごめんね、という形を結ぶのが見て取れる。
 その子は、ゆっくりと自らの利き足を上げる。僕はよく知っていた。その子の利き足が左足であることを。
 僕を取り押さえた二人の女子の身体が、強張る。教室内の空気が緊張で張り詰める。こういうことが起きるのは、この荒れた教室でも初めてだった。その子は秋山の指示した通りの位置へと、遠慮がちに足を運ぶ。きゃー、と女子の声が上がる。そう、そこで力を入れて、思いっきり踏みつけて――秋山が促す。
 すう、と息を深く吸って。その子は、ぐっ、と息を止め、全身に力を込める。
 ぎゅむううう、と踏みつけられる。ぐりぐりぐり、と踏みしだかれる。


 今まで見たことのない類の光景に、女子が一斉に歓声を上げる。秋山が馬鹿みたいな大声を立てて笑う。
「あははは、いいぞいいぞ。もっと踏め踏め!」
 秋山が上機嫌でその子を焚き付ける。顔はいつも以上に嗜虐の悦びに輝いている。自分以外の男が女の子に大切な部位を踏みつけられていることが嬉しいのか、あるいは女の子に自分以外の男の大切な部位を無理に踏みつけさせているのが嬉しいのか、はたまたその両方なのか。恐らくは、本人にもわかっていない。野卑な本能が命じるまま、行動しているだけだ。
 とにもかくにも、秋山ははしゃいでいた。本来女の子の下半身に受け入れてもらうために存在する男子の象徴となる器官を、女子達の見守る中、その対象となるはずの女子自身の足で踏みつけにさせる行為は、想像していた以上に痛快なものだったらしい。
「おい、どーよ、田中。気になってた女子に、上靴履いたままチンポ踏んづけられる気分は! 抱き寄せてキスしたい女子に、キスどころか、金玉踏み潰されそうになってる感想は!」
 大丈夫ではなくとも、大丈夫、と応えることにしている。どうかするつもりであっても、どうもしないよ、と応えることにしている。
 だけれども、大丈夫とも、どうもしないよとも、僕は言うことができない。僕は悲鳴にも喘ぎにも似た、意味の取れない声を上げることしかできない。
「ビビんな。やれやれ、もっとだ。踏み潰しちまえ!」
 つま先を赤く塗ってある女の子の上履きが、強く、深く、押しつけられる。ねじ込まれる。回転をつけて、リズムをつけて、ぐりりりりり、と。
 僕は息を止める。強すぎる刺激によってあらぬ方向に吹っ飛ばされた意識が、視線が、教室の後ろに貼り出してある情報を無作為になぞる。わけもなく、授業で書いた習字や、額に入った標語、ポスターの文字の表面だけを空虚になぞる。『友情』、『仲間』、『愛』――ぐりぐりぐり――『よく学び、よく遊べ』――ぎゅうううううう――『STOP! いじめ』――ぎゅるんぎゅるんぐりりりりり。
 あ、と呟いて。目の前が一瞬、真っ白に染まった。瞬間、今まで一度も味わったことのない感覚と共に、ズボンの中で性器がびくんびくんと跳ねる。股間がじっとりと温かくなる。
「って、うわっ、マジでか。また、もらした? ……違う、これ、シャセイだわ! うはははは、すげーよ、田中、シャセイしやがった! こいつ、女子にチンポ踏みまくられて、気持ち良くなってやんの!」
 イった、シャセイ、とざわめく女子の声。その中には、くすくすという無数の忍び笑いが混ざっている。
 息を乱したその子が、濃く染まった僕のズボンの生地を茫然と見つめる。相手の大切な部分を踏みつけにする動作を何度も繰り返したその子の顔は火照り、口元はかすかに緩んでいる。もう、その子の顔に一、二分前、「ごめんね」と声なき呟きを紡いだ時の余韻はない。
 『私、やっぱり、先生に言うよ』と真面目くさって言ってくれた時の誠実さは、ない。
「大好きな伊藤におちんちん踏んづけられてボクとっても気持ちいいよお、ってかあ? 田中ー、お前、変態だな! て言うか、なに勝手に気持ち良くなってんだよ。伊藤がまだ満足してねーだろ。ほら、伊藤、もっとやれ! このみっともない勘違いおもらしクンに、お前みたいな変態なんて何とも思ってねーってこと思い知らせてやれ! またションベン漏らすまで、踏んで踏んで踏みまくってやれ!」
 そう乱暴に指示する秋山は、一方で、その子に先ほどまでとは異なる熱のこもった視線を向けている。秋山は考えている。自覚はないかもしれないが、本能で考えている。田中の性器と尊厳と恋心を足の裏で散々に踏みにじり、男子としての存在を完全に否定したその子の下半身に、オレだけが特別扱いで優しく受け入れられてみたい、と。上靴を履いた足で田中の性器を散々に踏み潰した、その身体を抱いてみたい。田中は足でぎゅうぎゅうに踏んづけられてぐりぐりぐり、オレはチンポをこの子の奥にぎゅうぎゅう挿し入れてぐりぐりぐり、だ。田中はめちゃくちゃに踏み潰されてズボンの中で惨めなおもらし射精、オレはこの子の中に優しく受け入れられて気持ち良く中出し射精だ。あぁ、田中のヤツ、悔しがるだろうなあ――と。
 そして、僕は知っている。すでに六年生にして初体験を済ませたと豪語する秋山は、女子に関する限り、的を外したことがほとんどないことを。
 思考が中断される。ぎゅうううううう、ときつく踏みつけられる。ぐりりりりりり、と激しくねじ込まれる。
 両脚を掴む手と、小刻みに振動する足裏から、その子の高揚感が伝わってくる。両脚を掴む手に、他人の股間を踏みつける足に、力がこもる。息は荒く、鼓動もきっと早い。邪な遊びに頑なに参加せずにいたその子は、その種の遊びに伴う下劣な蜜の味への耐性がまるでなかった。そういう子を誑かす秋山の手口は、悪魔のように鮮やかだった。挑発されて、誘き出されて、邪な遊びの蜜の甘さを教え込まれて――僕の知る、静かに光を湛える宝石のような美質を備えた伊藤絵里那は、すでにそこにいなかった。その子は魔法をかけられたかのごとく劇的に、すでに跡形もないほど変質してしまっていた。その子は今、動作に没頭している。男の子のまだ見ぬ性器を足蹴にして、男の子にとって大切なはずの睾丸を自分の上履きの裏で蹂躙し続ける。新鮮で強烈な刺激に満ちた一種性的とも言える体験の前にあって、つい先日までその子を律していた道徳規範や心の中の芯は、土台からグズグズに溶け落ちてしまっていた。
 小刻みな振動が終わりを告げて、大きな動きに切り替わる。
 膝の辺りぐらいまで上げた足を、そこから勢いをつけて落とす。ずしん。重い一撃。続ける。一度、二度、三度。
「うおー、いい! 伊藤いいよそれ! マジ潰せそう。いけいけ、二度と変態シャセイできなくしちまえ!」
 そして、上履きの底を押し付けるように、ぐりぐりぐり。そのセットが終わると、もう一度、最初に戻る。足を上げ、落とす。ずしん。ずしん。ずしん。繰り返される強烈な金的。
 僕は刺激の強さに気を失いそうになる。力が抜けた瞬間、その子の驚く気配を感じる。
 女子がわあ、と歓声を上げる。
「あっ! やだあ!」その子も声を上げる。声は内心の興奮を反映して、高く、大きい。「田中くん、また、おもらししてる! おしっこだ、おしっこもらしだ!」
 おもらし、おもらし、とざわめく女子の声。その中には、くすくすという無数の忍び笑いが混ざっている。
 あはははは、と。こういった場では、今まで聞こえることのなかったその子の笑い声が、ひときわ高く教室内に響く。
「すっごーい。田中くん、おしっこの勢いで、ズボンの前、噴水みたいになってるよお。あはっ、世界で一番情けなくて恥ずかしいおもらしの噴水ね。あららら、噴水からおもらしの湯気まで出しちゃってんの――ふふ、ほら、かっこ悪ーいおもらしクンにはこれ。お・ま・け!」皆の反応に気を良くしたその子は、上げた足を失禁真っ最中の股間に勢い良く打ち下ろす。ズボンの表面でささやかな溜まりを作っていた漏らし立ての尿が、ぱしゃっ、と跳ねる。そして、体重を乗せて踏みつけにしたまま、足首を小刻みに回転させる。「さらにおまけに、ぐりぐりぐりー」
 真面目なその子らしからぬ行動に、教室中がどっと沸いた。女子達の冷やかす声が耳に届く。
「いやあん、田中くん、せっかく気持ちよーくおちっこおもらししてる最中だったのにー。かわいそー」
「きゃははは、絵里那、ひどーい。やりすぎだよー。相合い傘描かれた恨みー、ってやつぅ?」
「ぷぷぷー、良かったねー。田中ー。おもらし中におちんちん踏んづけられるなんて、誰も経験したことない貴重な体験ができてー」
 苦しそうに腹を押さえてひーひー言いながら、秋山が「すげー。すげーよ、伊藤。お前サイコー。お前ヒーロー」と最大級の賛辞を送る。
 男の子の誇りと尊厳を散々に蹂躙した興奮に酔って、自分が教室のヒーローになれた喜びに浮かされて、その子は今まで僕が目にしたどんな時よりも屈託のない笑顔で返す。
 いつの間にか、秋山に腰を抱かれていることを意にも介さずに。
 その子の耳元で、秋山が何事かを囁く。その子は頷いて、僕に向き直る。嘲りの対象となる排水を、いまだにズボンから続々と溢れ出させている僕を高い位置から見下ろし、神妙な口ぶりで言う。質問する。
「……ねえ、田中くん。もしかして、本当に私のこと好きだったの?」
 僕は目を伏せる。肯定しない。否定も、しない。
「そっか。そっかあ――」
 沈黙を肯定と受け取ったのだろう。その子は僕の目の前で、真面目くさった表情を一変させた。
 きゅっと目蓋を閉じて、舌を突き出し、あっかんべーをしてみせる。
「絶対やだよー、だ。田中くんみたいなおもらしクンと付き合うなんて、百億円もらってもおことわり!」
 僕は目を見開く。秋山が噴き出す。女子が沸く。それぞれの反応に満足したように、その子は満面の笑みを浮かべて続ける。
「――あはっ、世界で一番情けなくて恥ずかしいおもらしの噴水を眺めながら、ロマンチックな愛の告白ご苦労様。ねえねえ、おもらししながら女の子にフラれちゃうの、どうだった? おもらしが原因で女の子にフラれちゃったの、どうだった? ……ふふふ、やあい、おもらしぃ。フラれおもらしぃ。ねえ、一体、いつまでおしっこ漏らしてるつもりなのお? 恥ずかしい。六年生にもなって、二度も教室でおもらししちゃうなんてサイッテー。教室でまたおもらししちゃった罰として、田中くんとはもう口も利いてあーげない」
 教室中が再び、爆笑に包まれる。
「絵里那、鬼すぎー。ウケる」
「あーあ、田中、みんなの前でおもらししながら女の子にフラれてる! すごい恥ずかしーい!」
「あっあっ、田中、泣いちゃってるー。あはは、かわいそー」
 自ら作った水たまりの中に尻餅をついたまま、僕は

 今日、この世から消えてなくなってしまったあの子のことを想う。
 もしも、僕が宇宙人だったなら、と考える。
 また、考える。

(了)

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