さて、新しい生活をはじめようとしている。
発達障害者向けの就労移行支援事業所に相談に行くことにした。
ITエンジニアやデザイナーの講座を受けれるというものだ。
退所後、障害者雇用での就職を目指す。
今までのことを話すことになるだろうから、この機会自分を振り返ってみる。
■絵を描き始めたのは小学生の頃、当時コロコロコミックで連載されていたおちよしひこの「スーパービックリマン」が好きだったからだ。
よく模写をしていた。
「ドラクエ4コマ漫画劇場」も好きだった。
旧エニックスの羽振りがよかったのだろう、掲載されると5000円もらえるという触れ込みで「自分も漫画描きたい!」と思うようになった。
■中学生となり、雑誌「電撃プレイステーション」の読者コーナーに投稿し始め、毎号自分のハガキが載ってないか楽しみだった。
高校生になると「電撃G’sマガジン」だ。ちょうど「シスプリ」が人気の頃だった。
友達もおらず、放課後みんなが教室で話していたり、アルバイトをがんばっている中、家にささっと帰って読者コーナーに投稿するためのイラストハガキを描くことに熱中していた。
■いずれ絵を仕事にできたらいいな、と思いながらも親に言われるがままに地元の大学に入った。
全く興味が無い介護や社会福祉についての勉強は苦しく、周りにもなじめず1か月ほどで行かなくなった。
そのまま大学生という身分だけ持ち、大学に行かないまま2年が経つ。
漫画喫茶や古本屋などで漫画を立ち読みして時間をつぶして帰ってきた。
2年が経ち大学に行ってないことが親にバレ、ここでようやく大学を辞めることができた。
本当に無駄な2年間だった。
18歳から19歳、若者らしい経験も何も無くただどうしようどうしようと焦燥感にかられながら生きていた。
■2005年に福岡の専門学校に行き、イラストを学んでイラストレーターやゲームクリエイターを目指した。
ようやく自分の人生が始まった。
同期のみんなは18歳だが私は20歳、年下には負けられないというやる気のようなものがあり、まぁまぁの成績だ。
学校主催のイラコンで10本の指に入った。やはりここが俺の居場所だと自信になった。
それでもゲーム会社には就職はできなかった。
■2007年に専門学校を卒業後、DLsiteで最初のCG集を出した。
へたくそだったと思うがオンラインで同人頒布する人もまだ少なかったので50本くらいは売れて少し自信になった。
専門学校の紹介でカードゲームの塗りの仕事と映画館でアルバイトをしながら、いずれ絵一本で食べていくぞと思っていたがまさか22歳とそんなに変わらない状況のまま36歳になってるとは当時の自分は思うまい。
■2008年 1年の実家暮らしを経て専門学校のある福岡に戻る。
このころpixivが始まり、まだまだpixivに人が少なく、たまにランキングに入るのがうれしかった。
■2009年
アルバイトをしながら同人イベントに出るようになっていた。
この頃からアルバイトでつまづいたり、絵の仕事も無く、成長もできない自分にいら立ち、ストレスになっていた。
発達障害特性が強くなっていったように感じる。
■2010
実家に戻って、週に1回福岡の専門学校に夜間講座に通いだした。
また絵の勉強ができるので楽しかったが身にならなかったと思う。
遊んでいただけだと言われたら何も反論できない。
■2011
塗りの仕事が週に何本も来ていたのでアルバイトはせず、実家で塗りの仕事をしながら絵の仕事はないかと色んな斡旋サイトに登録したり、掲示板で募集するなどしていた。
ほとんど仕事は来なかった。
だんだんと心がすさんでいき、子供の頃の嫌な思い出を思い出すようになっていった。
それから4年間そのような暮らしをし、ほぼニート状態なのでついに実家を追い出される。
■2015年に東京に来てイラスト制作会社を何社か受けた。
うち1社からうちで働かないかと好感触だったが、通勤時間が長いのと給料が15万円程度なのと、
何よりひきこもって絵を描いていただけの自分が本当にやっていけるのか自信が無く、逃げ出してしまった。
その後派遣会社に登録したおかげでバンナムに面談に行くこともあり、さすが東京はチャンスが転がってるな、と感じた。
何せそれまでもゲーム会社にポートフォリオを送っても全く反応が無かったからだ。
結局ゲーム会社には入れず、派遣でカーナビのUIデザインをすることになった。
行った会社はパナソニックだった。
さすがの大企業なのでゆっくりじっくり育ててくれた。
周りもみんないい人だった。契約満了まで働けたのはここだけだ。
■2017年に派遣で2月に勤め始めた会社で自分は何もできない役立たずであることを思い知らされ、パナソニックを契約満了まで勤めたという自信はすっかり打ち砕かれた。
業務内容が同じでも環境が変わると全くできなくなってしまった。
この時期に発達障害の診断を受け、ああやっぱりか、と今までの自分の人生の解が提示された気がした。
「障害があるなら仕方ない。自分は会社で働くのは無理だ、やはり絵しかない」とネガティブな方向に突き抜けたのか再びCG集を作るようになった。
そのとき作ったのが「ち〇ぽに勝てないヒロインたち~」
なぜか売り上げがよくて、失業保険をもらいながら2作目、3作目を作った。
売り上げもよく、描くのも楽しかった。
■2018年にはCG集の売り上げだけで生活できるレベルになっていた。
ひきこもって一人で過ごす生活が長くなったが映画に毎週のように行ったりたまに同人イベントに出たり、そこで知り合った友達と会うなどしてそれなりに楽しんでいたと思う。
■2019年になるとだんだんCG集の売り上げが落ちてくる。
新たにファンティアを始め、生活レベルを落とさないようにした。
この年の年収は370万くらいだったので自分としては人生で1番稼いだ。精神障害3級の発達障害が毎月30万を稼いでいたらたいしたものだと自信になった。
■2020年 絵を描くのが苦痛になってくる。
人間は同じことばかりしていると無気力になるらしい。増えすぎた一人の時間が自分の首を絞め始めた。
同時にコロナ禍に突入した。
生活の一部となっていた映画館が閉まり、友達とも気軽に会える状況ではなくなった。
不安で押しつぶされそうな中、ついに動悸が止まらなくなり鬱病になってしまった。
慢性的にあったフラッシュバックがさらにひどくなり子供の頃の嫌な記憶が1日中ずっと頭にこびりついて離れない。
起き上がれず何もできない日が続いた。
心療内科に行き薬をもらい、カウンセリングを何度か受け少し回復すると、鬱病や発達障害の本を読み漁るようになった。
そこからは生活改善、意識の改善、睡眠改善など自分をアップデートして行く毎日だ。
しかし回復は働くにはほど遠く、生活のための借金が増え続ける。
依然として絵に対する苦痛さ、モチベーションの無さもひどくなる一方だ。
CG集も1年で2作しか出せず、モチベーションの低さが絵にも出ているのだろう、売り上げも最低だった。
■2021年
通院して回復してきたと思ったら、また悪くなって寝たきりになったり、本を読んで情報収集をしたり、というのを繰り返して徐々に病気との付き合い方が落ち着いてきた。
ジムに行くようになったり栄養素を考えて食事を摂るようになったり健康に気を使いだした。
家ではイライラと無気力で絵が描けないのでコワーキングスペースを借り環境を整えるようにもなった。
ここにきてやっと家族に発達障害と鬱病だというのを打ち明けることができた。
発達障害の診断から4年、鬱病になって2年が経っていた。
いい歳をして恥ずかしいが仕送りを頼んだ。
母はやっぱりそうか、という感じだったが父にはとても驚かれた。
心配した父が頻繁に電話をしてくるようになり、それがまた新たなストレスになってしまった。
子供の頃、殴られたり、怒鳴られたりしてしつけられたことが今も怖いのだ。
父の何気ない言葉がトリガーになり、ものすごく取り乱してしまい「ウワー-!あー--!!クソがー---!!!」とギャアギャア泣き叫んでしまった。
パニックになってしまったのだ。朝の4時に。
たいして飲めないのに酒を煽りながら、なぜかカレーを作り出しなんとか落ち着いた。
今思えば包丁で手首ザックリいかなくてよかった。
カレーはめちゃくちゃ不味かった。
「鬱病、最近落ち着いてきたかな」と思っていたのに実際は全然治っていなかった。
先日カウンセラーと話す中で、「家族のことが好きじゃない」と言えた。
呪いが解けたような気がした。
今の家族は人生経験を積みアップデートされて優しいし心配してくれているが、自分がストレスを受けたのは90年代前半のまだまだ昭和な子育てだ。
だから今の家族がどんなに良くなっていても過去受けたことには関係無い。
もう36のいいオッサンだが自分の家族を作りたいと思ったことが無い。
そういう家で育ったのだ。
家族のことは好きじゃないと言いつつ、生活の援助はしてもらっているというのが本当に情けない。
早く現状から抜け出し、心が安定する暮らしをしたい。