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2020年 04月の記事 (4)

おかず味噌 2020/04/30 03:56

いじめお漏らし 奇襲編

「だから――、何度言ったら分かるのよ!!!」

 オフィスに「怒声」が響き渡る。一瞬、室内を「沈黙」が支配し「時」が止まりかけたが、すぐに皆は自分の仕事に戻る。「我関せず」というように。下手に反応したり、「横槍」を入れたりして、怒りの「矛先」を自分に向けられるのだけは、誰もが御免だった。
「こんな資料のまとめ方で、どうやって『先方』に説明しろって言うわけ?」
 荒ぶる声の主は――、入社十四年目、今やこの「総務課」において、最長の入社歴を誇る「大ベテラン」の「長野京子」だった。
 齢三十六。かつてはそれなりに「男」の目を引くような美貌を持ち合わせていたが、経年による「劣化」のせいか、あるいは苦労の積み重ねを表すように刻まれた「皺」のせいか、今となってはその「美貌」はすっかり影を潜めている。それでも、「栄華」を極めた「過去」にすがるように年々化粧は「分厚く」なり、けれどここ何年も「ご無沙汰」のためか、塗りたくっただけの化粧は「雑」になり、影で若手女子社員達から「美容家(笑)」としての称号を拝命している。

――やれやれ、また始まった…。
 皆、思うことは同じだった。それはこの課において「日常茶飯事」だった。
 本日の「犠牲者」は「本田絵美」だった。
 絵美は大学卒業と同時に今の会社に入り、今年で二年目になる。学生時代は「テニスサークル」に打ち込み、「飲み会」や「合コン」三昧の日々とは打って変わり、アルバイト経験もわずかしかない彼女にとって、「仕事」というものは不慣れでありつつも、二年目になってやっと勝手が分かり始めてきた。まだ「知らないこと」や「分からないこと」も多いけれど、人当たりがよく「愛嬌」のある彼女を周りは受け入れ、優しく指導してくれる。ある「一人」を除いては――。
「すみませんでした…」
 絵美は謝った。その謝罪は「本心」半分、「不満」半分だった。確かに「ミス」をしたことは認める。だけど、「何もそこまで怒らなくても」というのが本音だった。そして、そんな心のこもっていない謝罪だけで、この場が収まるわけのないことを彼女は十分に理解していた。それもまた、彼女がこの二年で培った「経験」の一つだった。
「『すみません』で済むと思ってるの?」
 案の定、答えようのない「問い」が返ってくる。絵美は思う。
――「済まない」と思ってるから、「すみません」と言ってるじゃん…。
 だけど、もちろん「心の声」を言葉にすることも、表情に出すこともしない。今はただ、下を向いて「反省」を装いつつ、この時間が過ぎるのをじっと待っている。
「私、いつも言ってるわよね?分からないんだったら、ちゃんと訊きなさいって」
 その言葉自体は確かに「正論」だった。だけど、実体の伴っていない「正論」を果たしてそう呼べるのだろうか。
――だから、私ちゃんとやる前に訊いたし…。
 確かに絵美は、仕事に取り掛かる前に一応、先輩である京子に「お伺い」を立てたのだった。「まとめる資料はこれで全部ですか?」「グラフの挿入の仕方が分からないから教えてください」と。けれど、そんな絵美の姿勢に対して京子はこう言ったのだ。
「何でも人に訊かずに、自分で考えなさい」
 と。それもまた「正論」ではある。正論であるからこそ、彼女に反論の余地はなかった。そして「自分なりに必死に考えて」やった結果が、これだ。
――じゃあ、どうしろって言うのよ?
 絵美は心の内で反論を試みた。それが今の彼女にできる精一杯の「反抗」だった。けれど、それが良くなかった。京子はそんな、彼女の心の「動き」を見逃さなかった。敏感に「反抗心」を感じ取る。

「何よ?その態度」
 もちろん絵美の内心が、あからさまに「態度」に出たわけではない。それでも京子は、それを決して許さなかった。
「てか、あなた入社何年目?」
 京子は訊く。
「二年目です…」
 絵美は答える。それは「答えようのない問い」ではなかったけれど、それでも「嫌々」なのは隠せなかった。
「へぇ~、『二年目』ね~」
 わざとらしく、繰り返す。その言葉の端々に、「見下した」ような響きを隠そうともせず。絵美はこの「続き」におおよそ想像がついた。間もなくそれは「再現」される。
「私が入社二年目の時は、これくらい上司に訊かなくたってできたわよ?」
――出た!自分が新人の頃は出来ましたアピール!!
 絵美は自分の予想通りの結果に、思わず吹き出しそうになった。だけどもちろん、そうするわけにはいかなかった。彼女は唇をぐっと噛み締めた。
「要は、仕事に対する『意識』の問題なのよ」
 京子は諭す。絵美にはそれが欠けているのだと。だけど、彼女は知っている。「課長」や、社内の他の課のベテランから聞かされた「真実」を。

「へぇ~、あの長野がね~」
「アイツ、入社して何年かは本当に仕事できなくて――」
「仕事に対する『やる気』もなくて――」
「毎日、男性社員に『色目』使うことしか考えてなくて――」
「ミスも多いし、そのくせプライドだけは『いっちょ前』で――」
「何で『人事課』はあんな奴採用したのかって――」
「この会社始まって以来の『問題児』だってよく言われてたんだから!」

 絵美は「新人時代」の京子を思い浮かべた。当時の、毎日叱られてばかりの彼女を、それでも一部の男性社員からは熱烈なアプローチを受けていた彼女を。だけどその想像は、上手く「像」を結ばなかった。まるで遠い昔の「歴史上の人物」に思いを馳せるみたいに、「実体」を持たなかった。
 二十代前半の絵美にとって京子は、無駄に歳を重ねただけの「オバサン」に過ぎず、たとえかつては「若かった」のだとしてもそれは「過去の遺跡」に過ぎず、いわゆる「お局様」として敬遠され、いくら彼女が見え透いた「見得」を張ろうと、逆に若手社員に見下されるだけの「遺物」に過ぎなかった。
――今日は「何分」くらいかな…?
 絵美は、京子の隙を伺いながら、チラリと時計を確認した。果たして本日の「お説教タイム」はどれくらいかと、記録を測る。絵美は知っている。今日の京子は朝から機嫌が悪かった。というより、いつも不機嫌で「ブス」っとしているのだけど、今日は特に「虫の居所」が悪いらしかった。
――長くなりそうだな…。
 絵美はうんざりしつつ、心の中で「溜息」をついた。だが、彼女の予想に反して「お説教タイム」は、突如として中断されることになる。「ある人物」の登場によって――。

「それくらいにしてやったら、どうだ?」
 誰もが見て見ぬフリをする中、自ら進んで「渦中」に飛びこんできた者がいた。それは男性の声だった。絵美は俯いていた顔を上げた。そこには「課長」の姿があった。
 総務課の課長である○○はいわゆる「エリート」の部類に入る人間で、その「役職」を与えられる者としては若く、絵美が入社しこの課に配属されたのとほぼ同時期に「課長」に就任した。比較的「温厚」な性格の持ち主で、部下からの人望も厚く、彼が声を荒げたり部下を叱責するのを見たことのある者はいなかった。
 もちろん、京子より「年下」で入社歴も彼女より浅く、つまり彼女としては後から入ってきた者に「キャリア」を追い越されたことになる。それについて彼女がどう思っているのかは分からないが、彼女の事だからきっと「ハラワタが煮えくり返りそう」なくらいの「嫉妬」や「恨み」を抱えているに違いない。それでも京子の課長に対する態度は、そうした「負の感情」を少しも感じさせないものだった。
「課長~」
 さっきまでの「怒声」が嘘かと思えるくらい、京子の態度が一変する。一体彼女のどこからそんな声が出ているのか不思議なくらい甲高く、甘えたような声で、語尾には「ハートマーク」さえ付きそうだった。絵美は「吐き気」を催した。
「違うんですよ~、本田さんが私の言った通りにやってくれないから――」
 課長の前では「さん付け」をする。
「だから、ちょっと『注意』していただけなんです」
 あくまで「叱責」ではなく、「注意」だという。
「てか、これじゃ何だか私が『悪者』みたいじゃないですか~!」
「悪者」でなければ、お前は一体「何物」だと言うのだ。
「まあ、後輩の『指導』はこれくらいにしておいて――」
 それにしては、ずいぶんと長かったけれど。
「本田さん。次からはよろしくね」
 口角を不器用に吊り上げて、京子は不気味な笑みを浮かべた。絵美は背筋に空寒いものを感じた。京子は去っていく。
「私みたいに『優しい先輩』ばっかじゃないんだからね」
 去り際に、「余計な一言」を付け加えることを忘れずに。その場に取り残された絵美は課長と目を合わせて、「苦笑い」を浮かべるしかなかった。
 何はともあれ、これでひとまず絵美は「苦難の時」を乗り切ったのだった――。

 昼休み。いつも通り「一人ぼっち」の昼食を終えた京子は、「ある場所」に向かう。思えば、もうずいぶん長いこと、誰かと一緒に食事なんてしていないような気がする。
 京子の向かった先は――、「トイレ」だった。個室に入り、鍵を掛けて、きついスカートのホックを外し、ストッキングとショーツを同時に下ろし、大した「期待」もせずにしゃがみ込む。
 便器にまたがり、思いきり腹に力を込める。「肛門」が開き、奥の「モノ」をひり出そうと試みる。
――プスゥ~。
 手始めに「ガス」が放出されて――、それで終わりだった。肝心の「ブツ」は、うんともすんとも言わない。京子は「便秘」だった。
 京子は溜息をついた。誰かに向けた「失望」ではない。あえて言うなら、それは自分に向けられたものだ。もう三日間、京子は「排泄」を出来ていない。
――なんで…?
「三十路」を越えてからというもの、京子は食生活にはそれなりに気を遣っていた。「二十代」の頃は、好きなものを好きなだけ食べていたが、ここ数年、お腹の「たるみ」が気になり始めていた。少しは「痩せないと!」と思いつつも、長年染みついた食生活はそう簡単に改善できるものではなく、「今日だけ…」「明日からダイエット!」という甘い囁きに何度も屈した。そして結局、「誰かに見せるまでに痩せればいい」という極論に行き着くも、若くて男性に相手にされた頃とは違い、今や男性に見向きもされなくなった彼女にとって、その「機会」は一向に訪れる気配もなく、延々と「先延ばし」にした結果がこれだ。
 かつては「抜群」とまではいえないまでも、「それなり」のプロポーションを保っていた京子の体には醜い「脂肪」がたっぷりと付き、それが「加齢」と「重力」によって垂れ下がり、さらなる「醜さ」を表していた。

 それでもここ数日は、少しでも「快便」になるのを期待して、野菜を多く摂るようにしていた。京子は元々野菜が好きな方ではなかったが、いつもの食事に追加でサラダを買って、無理してそれを食べた。それなのに――、「うんち」は彼女の性格と同じく、「凝り固まった」ままだった。
――どうして、私ばっかりこんな目に合わなくちゃいけないの?
 京子は考える。思えば自分の人生は、「不条理」と「不平等」の連続だった、と。周りと同じように、いやそれ以上に努力しているつもりなのに、なぜか「自分ばかり」結果が出ない。普段は適当にやっているくせに、ここぞという時だけ努力し、あとは持ち前の軽薄さとノリの良さだけで乗り切る連中ばかりが評価される。かといって、自分が連中の真似をしようと試みると、なぜか「自分ばかり」叱られる。まったくもって「不条理」だ。
――それもこれも、私が「ブス」なせいだ。
 京子は「自分ばかり」が不遇な扱いを受ける原因を、いつからか自分の「容姿」のせいだと断定することにした。自分の容姿が悪いせいで、仕事が、恋愛が、受験が、就職が、「全て」が上手くいかない。京子はいつしか、そう思い込むようになった。学生時代はその容姿が原因で、酷い「いじめ」に遭ったこともある。その当時はそんな自分の容姿を疎み、そのような姿に産んだ母親を憎んだりした。けれどある時点から、京子はそんな自分の考えを改めた。
――全ては「周り」が、「世間」が、「社会」が、「世界」が悪いんだ。
 京子は開き直ることにした。悪いのは「自分」ではなく、「周囲」なのだと。自分は何も悪くはないのだ、と。そう考えることで、少しだけ心が軽くなった気がした。
 そして、大学に入って「メイク」を覚え、自分の醜い容姿を化粧によって多少はごまかせるようになり、さらに一時期ハマった「ダイエット法」が功を奏し痩せたおかげもあり、これまでの人生では無縁と思っていた「異性」と初めて交際したことで、やがて彼女の中の冷たい「氷」が少しずつ溶かされていった。
 苦難の「就職活動」の末、「七社目」にしてようやく掴み取った「内定」。大して「やりたい事」でも「好きな事」でもなかったけれど、京子に「選択権」はなく、結局流されるままに、今の会社に入ることになった。そこには、京子の今までに「知ることのない世界」が待ち受けていた――。

 なんと、京子は男性に「モテ始めた」のだ。
 自分から行動を起こしたわけでもないのに、何人かの男性から言い寄られるようになった。最初は、学生時代によくあったみたいに、ただ「からかわれているだけ」なのかと怪訝に感じていた。けれど、違った。自分にわざわざ話し掛けてくる「異性」の後ろに、嘲笑を浮かべる「同性」の姿はなく、そこには彼女をいじめる者はいなかった。
 今にして思えば、それは京子の人生において唯一ともいえる「モテ期」というやつで、彼女にとってごく限られた「栄光の時代」だった。
 失いかけていた――とっくに失われていた「自信」を取り戻したことで、京子は変わった。まず、「身なり」に気を遣うようになり、学生時代は人の目が怖くて絶対に行くことができなかった「美容室」に通うようになった。金と労力を支払うことで、「醜い自分」が確実に「綺麗」になっていくのが嬉しかった。
 服や持ち物、下着に至るまで、なるべく高い「ブランド物」を買うようにした。これまで「お洒落」とは無縁だった彼女にとって、「高い物=良い物」という方程式は絶対的だった。
 京子は貰った給料のほとんどを「ファッション」に費やすようになった。当然、一介のOLにとってそれは手痛い出費となったが、そのぶん生活費を切り詰めることで何とかやりくりした。それに、当時の彼女には「ご飯」を奢ってくれる男性が「星の数」とは言えないまでも、「惑星の数」くらいはいた。そして、出費がかさむことで、ならばもっと仕事を頑張って出世しよう、という「前向き」な考えさえ、彼女には芽生えた。
 ところが、頑張れば頑張るほど、一生懸命になればなるほど、彼女の仕事は空回りした。至らぬ「ミス」が積み重なり、上司から叱責されることも増えた。すると、これまで京子のことを「憧憬」の目で見ていた同性たちからの評価は途端に失われていった。それでも彼女に「焦り」はなかった。
――自分にはまだ言い寄ってくる『男性』がいる。
 それが彼女の自信を担保し、彼女自身を甘やかしていた。
 やがて「同僚」たちは出世していき、あるいは「結婚」して退職していった。同じ課から「先輩」が徐々に減り、代わりに毎年「後輩」ばかりが増えていった。
 最初の頃、京子は後輩に対してなるべく温厚に接するよう心掛けていた。決して「理不尽」に叱ったりすることなく、「良き先輩」であろうと努めていた。

 だが、ある時京子は耳にしてしまった。自分のことを慕ってくれていると思い込んでいた「後輩」が、彼女の居ないところで自分の悪口を言っているのを。
――結局、何も変わらないじゃないか…。
 京子は失望した。自分が少しでもマシな存在になろうといくら努力しても、結局「あの頃」と何も変わらないのだ、と。「大人」になったことで「直接的」な悪口や嫌がらせは無くなったものの、ただ「間接的」、「陰湿的」になっただけで、その本質は変わらない。京子は下ろしかけていた「荷物」を抱え直し、脱ぎかけていた「鎧」を再び身にまとった。
――信じられるのは「自分」だけ。
 京子がそんな「結論」に行き着いたのは、すでに誰からも相手にされなくなった「三十路」一歩手前の頃だった。その時点ですでに、京子から外見の「美しさ」は失われていた。まだ「異性の目」を意識していた頃――、毎日セットしていた髪は櫛も通さずボサボサで、家事はほとんどしないのに手はカサカサで、若い頃に買い「勿体ないから」と捨てられずにそのまま着ている服はサイズが合わずパツパツだった。
 そして、京子は昔に――醜かった自分に、「後戻り」することになった。「一時期はモテた」という唯一の「優越感」を大事に抱えたまま――。
 元々、京子の「自信」は、自らの内側から「自発的」に芽生えたものではなかった。それはいわば、周囲からの評価の変化によって「自動的」にもたらせられたものだった。他者からの「評価」が無くなれば、立ちどころに失われてしまう頼りないものだった。それに、いくら多少の「自信」が生まれようと、彼女が長年抱えてきた「劣等感」を完全に払拭することまではできなかった。
――全部、周りが悪いんだ。私は何も悪くない。
 そうして、京子は全てを「他人のせい」にすることで、責任を転嫁することで、今日まで生きてきたのだった――。

 だが、今回ばかりは「誰のせい」にもすることはできない。「便秘」、それは他ならぬ「彼女自身」の問題であり、全ては彼女自身の中にその原因があった。
 いや、そうとも言い切れないかもしれない。京子はある「可能性」について思案してみることにした。便秘は確かに、「食生活」にその主な原因があるのだろうけど、それだけではない。「ストレス」によってもたらされることもある。何かの雑誌やテレビ番組で、そんなことを聞いた気がする。もしそうなのだとしたら――。
 自分のこんな苦痛を与えている原因は、「他人」ということになる。より具体的に言えば、「使えない部下」、「やる気のない後輩」である。彼女たちのせいで、自分ばかりがこんな目に遭っているのだ。
 そう考えると、京子は段々とムカついてきた。いけない、それがさらに「便秘」を悪化させるのだ。けれど、そうと分かっていても京子はその感情を抑えることができなかった。
――アイツらのせいで、どうして私ばっかりが…。
 苛々を込めて、京子はもう一度だけ思いきり括約筋に力を入れた。
 京子の肛門が「火山」のように盛り上がる。「火口」から「マグマ」と呼ぶべき「排泄物」が顔を出す。だが、それは冷えたマグマのように「強固」で、決して「噴火」してはくれない。京子が力を緩めるのと共に、「うんち」は再び腸内の奥深くに引っ込んでしまった。
――どうして、出てくれないのよ!
 もう少しなのに。もう少しで出せそうなのに。それは「頑固」に腸内に留まったままだった。「力の入れ方」を変えてみたところで、絞り出されたような醜い「屁」が出るだけだった――。

――はぁ~~~。
 京子は長い溜息をついた。今日もダメだった。一体いつになったら、私の「うんち」は出てくれるのだろう?もしかしたら、ずっとこのままなんじゃ…。
 京子は危機感を覚えた。けれど、「まさかそんなはずはない」と自分に言い聞かせる。
 いつかは出てくれるはず。けれど、それまでがツラい。「排泄欲求」を感じつつも、決して排泄できないという苦痛。お腹の中にずっと「異物」が溜まっているという感覚。肌の調子も心なしか悪いような気がするし、お腹だっていつも以上に出っ張ってしまっている。「うんち」をため込むことで、自分がより「醜く」なってしまったような、まるで自身が「うんち」になってしまったような、そんな気さえした。
――「浣腸」とか使った方がいいのかしら…?
 京子は考えた。自然にして出ないのなら、何らかの手段を講じるしかないと。けれど、それは「諸刃の剣」だった。「浣腸」というものが、どれほど恐ろしく、効き目のあるものかを京子は身をもって知っている。京子は思い返す。高校生の頃の「記憶」を――。


 当時の京子もまた同じように、「便秘」に悩まされていた。というより、それは彼女自身の体質による部分も大きく、「暴飲暴食」を繰り返していた二十代のある「一時期」を除いて、彼女の人生は「排泄の悩み」と共にあった。
 そして、長年続く「悩み」に耐えかねた京子はついに、新たな「一歩」を踏み出すことにした。薬局でそれを買うのは恥ずかしかったが、そもそも人と接すること自体が苦手だった当時の彼女にとってそれは、せいぜい「度合」の問題でしかなかった。
「浣腸」を買った京子は、早速それを試すことにした。「取扱い説明書」さえロクに読まずに、朝起きて一番にそれを「注入」した。
――全く効果が、なかった。
 と、失望した京子はそのまま学校に行くことにした。「無駄遣い」を惜しみつつ、徒労を省みつつ――。京子が強烈な「便意」に襲われたのは、それから数分後だった。
「お腹痛い…」
 その時、京子は電車に乗っていた。周りは、同じ高校に通う生徒ばかりだった。ほとんどの者が「友人」と談笑しているにも関わらず、彼女は「一人」だった。
 だけど、今ばかりはその方が都合が良い。京子は思った。今はとても誰かと話している余裕はない、と。
 京子は耐えた。普段はあれほど「出したい」と踏ん張っている括約筋を、まさか「出すまい」と使うことになろうとは――。
 京子は堪えた。電車のわずかな振動さえ、今の彼女にとっては「命取り」だった。「ガタン、ゴトン」と揺れる度に、「ガス」が、「実」が少しずつ漏れ出してくる。だけど、まだ「全部」が出たわけじゃない。生徒たちは誰も京子の「異変」には気づかず、「お喋り」を続けている。
 そして、京子たちの通う高校の「最寄り駅」に着いたとき――「油断」したのだろうか――彼女の肛門は緩み、ついに「崩落」を迎えた。

――ムリュリュル…!!

 パンツの中が「熱く」なり――それは「温かい」なんて易しいものではなかった――「うんち」が溜まっていく。「ダメ!!」と分かっていても、止めることなんて出来ない。それは次々に生み出されていく。「どうか誰にもバレないで!!」というのも無駄だった。パンツの中に収まりきらない「うんち」は、やがて床にもこぼれ落ち、「衆人環視」に晒されることになる。
――きゃあああ~!!!
 最初に気づき声を上げたのは、京子の最も苦手な――毛嫌いするタイプの「女子」だった。
「うわっ!アイツ「うんこ」漏らしてね!?」
 そして、男子が「拡散」する。京子が「脱糞」したという事実を。しかも「電車の中」で、「大便」を、漏らしてしまったという現実を――。

 京子の「お漏らし」の噂は、すぐに学校中に広まった。まるで「連絡網」のように、余さず全員に伝わった。
 それには彼女の「脱糞」のせいで被害を被った、ある「企業」の存在もあった。
 彼女が電車内で「脱糞お漏らし」をしたことで、健気に走る「ローカル線」は一時「運休」を迫られたのである。

「△□線、一時運転見合わせ。原因は女子高生の『脱糞』か!?」

 そのような記事が「地方紙」に載ってもおかしくなかった。ただでさえ「事件」の少ない田舎にとって、それくらいの「大事」だった。けれど、さすがに京子の「脱糞お漏らし」が記事になるなんてことはなかった。
 それでも、翌日には学校中の「全員」が、京子の「失態」を知っていた。そのとき彼女は、「情報伝聞」の恐ろしさを痛感したのだった。
 京子には自らの犯した「過ち」に相応しい、まさに「身から出た錆」とも呼ぶべき「汚名」が与えられた。

「うんこちゃん」、「お漏らし女」、「脱糞姫」――。

 次々と名付けられる「愛称」と浴びせられる罵声に、京子はじっと耳を塞いでいることしかできなかった。
 すでに「いじめ」の対象となっていた彼女に対して、「加害者」たちはまさに格好の「材料」を得たのだった。そして、「一人ぼっち」の彼女を庇ってくれる者は、誰一人としていなかった――。


 そんな「トラウマ」があるせいか、京子は「浣腸」を使うことを忌避していた。
――もし、またあの時みたいに「失敗」してしまったら…。
 会社において、「トイレ」に行けない場面というのはそれなりにある。もし、その時に「便意」を催し、「限界」を迎えてしまったら――。
 京子はあれ以来、一度も「浣腸」を使用することはなかった。だけど、今回ばかりはさすがに――。
――このまま「出ない」苦しみに苛まれるくらいなら…。
 京子は思う。自分はもう大人なんだ、と。自分の体質とは長年付き合ってきたのだ。だからこそ大丈夫だ、と。もう「失敗」はしない、と。
 それに、いくら「会議中」などとはいえ、その気になればトイレに行かせてもらうことはできるはずだ。何たって、それは「生理現象」なのだから仕方がない。まさか「禁止」されるなんて、そんな「パワハラ」「セクハラ」じみた命令をされることはないだろう、と。
 京子は考える。
――そうだ、家に帰ってからなら…。
 帰宅してから次の「出社」までには、さすがに「便意」は訪れてくれるはずだ。その間は彼女にとっての「自由時間」だ。何に阻まれることもなく、いつだってトイレに駆け込むことができる。
 あの時は、「浣腸」の時間差による「効き目」をよく知らずに、自ら「閉鎖空間」に飛び込んだからこそ、あんなことになったのだ。浣腸の「恐ろしさ」を知っている今なら、きっと――。
――今日、帰りに「浣腸」を買って帰ろう。
 京子は決意した。それによって、この長い「苦しみ」からは、たとえ「その場しのぎ」であろうとも、「おさらば」することができる。彼女の中に「光明」が差した。
 そうと決まったら、ここで無理に「出す」必要はない。京子はトイレットペーパーを取り、自分の尻を拭いた。ペーパーには何も付かなかった。「うんち」は奥底で眠ってしまったらしい。それを呼び覚ますのは「今夜」だ。
 京子が「空白」の便器を水で流し、ショーツを履き直し、ストッキングを整えるために立ち上が――り掛けたその時。個室の外から「話し声」が聞こえてきた――。

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おかず味噌 2020/04/14 02:41

ちょっとイケないこと… 第九話「秘密と洗濯」

(第八話はこちらから↓)
https://ci-en.dlsite.com/creator/5196/article/241040


――国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 昔、お姉ちゃんの部屋の本棚にあった小説の書き出しに、そんな一文があった。

 僕はお姉ちゃんの部屋で、お姉ちゃんが帰ってくるのを待っていた。小学生の頃、僕はよくお姉ちゃんの部屋に勝手に入っていたが、怒られたり文句を言われることは一度もなかった。もしかしたら今でもそうなのかもしれないけれど。いつからか僕はお姉ちゃんの部屋に行くのをやめた。それは、自分の部屋に無断で入られたくないと僕が思うようになったのと同じ頃からだった。

 お姉ちゃんの本棚には、難しそうな本ばかりがずらりと並んでいた。漫画しかない僕の本棚とは大違いだ。いつもは特に興味なんてなかったのだけれど。その時の僕はあまりにも暇を持て余していて、一冊を抜き出して、それを読んでみることにした。小学生にありがちな大人の真似事だった。お姉ちゃんが普段そうしているみたいに、自分もその真似をすることで大人の気分を味わってみたかった。

 なぜ、その本を選んだのかは覚えていない。ただ何となく背表紙のタイトルを見て漢字だったことと、小学生の僕でもその漢字が読めたという理由からだったと思う。

 イスに座って本を開くと、そこには聞き馴じみのない単語がいくつも並んでいた。もちろん、漫画みたいに絵は付いていない。それでも僕はすっかりその気になって、書かれた文章を読んでみることにした。その冒頭がその一文だった。


――こっきょうのながい…。

 漢字が読めたことで僕は増々得意になる。今にして思えば、それは「くにざかい」と読むのが正しいのかもしれないけれど、どちらが正解なのかは未だにわからない。そして当時の僕は「国境」という言葉の意味を、国と国の境目だと理解したものの。おそらくそれは郷と郷、「県境」や「市境」を指したものなのだろう。

 そんな間違いや勘違いはさておき。小学生の僕でも書かれた一文のおよその意味は理解できたし、「長いトンネル」を抜けた先の異国の情景を思い描くことができた。

 だけど結局、僕がその続きを読むことはなかった。本を読み始めてからすぐ後に、お姉ちゃんは帰ってきた。僕が読書に飽きるのとお姉ちゃんが帰ってくるのと、そのどちらが早かったのかは覚えていない。


 暗い廊下の奥に光が見える。それはまるでトンネルのように。果たして、その先に何が待ち受けているのか。僕は興味を抱きつつ、同時に底知れぬ恐怖を感じていた。

 静寂の中、水の音が響いている。僕はまた少し進む。「だるまさんがころんだ」をしているみたいだ。緊張が僕の脚を強ばらせる。それでも一歩ずつ、明かりの方へと近づいてゆく。

 洗面所の入口まで来た。この先にお姉ちゃんがいる。僕の優しいお姉ちゃん、が。仮にバレたところで何も言われないだろう。「まだ起きてたの?早く寝ないと!」と自分のことを棚に上げて、せいぜい小言を言われるくらいのものだ。

 またしても水流が止んだ。キュッと蛇口を止める音が聞こえた。僕も息を止めた。お姉ちゃんはすぐ目の前にいる。だけどその姿は見えない。

――はぁ~。

 それはお姉ちゃんの溜息だった。がっかりしたような、後悔しているような吐息に僕は心配になる。大好きなお姉ちゃんが何か心配事を抱えているんじゃないか、と。それを覗き見し、盗み見ようとする自分に罪悪感を覚えた。

 僕はお姉ちゃんの姿を見ることなく、そのまま自分の部屋に引き返そうと思った。だけど罪悪感より好奇心がわずかに勝った。再び水が流れ始める。その音に紛れて、僕は洗面所の中を覗き込んだ。


 お姉ちゃんは、手を洗っていた。

 僕の位置からだとお姉ちゃんの背中しか見えない。それでも洗面台の前に屈んで、ジャブジャブと音を立てている様子はおそらくそうだろうと思った。それにしても、ずいぶんと熱心に手を洗っているみたいだった。

 そんなに手が汚れてしまったのだろうか。小学生の頃の僕じゃあるまいし、まさか大学生のお姉ちゃんが泥遊びをしたとは考えられなかった。

――ジャブジャブ…(?)

 その音に微かな違和感を覚えた。また水が止まる。お姉ちゃんが上半身を起こす。僕は見つからないように壁で体を隠しながら、お姉ちゃんの手元を鏡越しに見た。

 そこでお姉ちゃんは、一枚の布を広げた。

 僕は最初それをハンカチだと思った。綺麗好きなお姉ちゃんはちゃんとハンカチを持ち歩いていて、帰ってきて自分でそれを洗っているのだろう、と。だけどその形はどう見てもハンカチではなかった。三角形の小さな布に、僕は見覚えがあった。


 それは、水着だった。

 いや、水着であるはずがない。海水浴やプールの季節には早すぎる。それでも僕がとっさにそう思ったのは、テレビの中で最近それを見たからだ。

 それは、パンツだった。

 とはいえ、僕が穿いているものとはだいぶ形が違う。それは女子用の下着だった。

 僕はお姉ちゃんのパンツを見てしまったことに動揺した。だがもちろん家族だし、一緒に暮らしているのだから、何度かお姉ちゃんの下着を見てしまったことはある。その時は何も思わなかったし、後ろめたさを感じることもなかった。だけど今は…。

 僕は、困惑していた。混乱していた、と言ってもいいだろう。どうしてお姉ちゃんがこんな夜中に自分のパンツを洗っているのだろう、と。

 明日穿く下着がもう無いのだろうか。服や靴下を脱ぎっぱなしにする僕とは違い、お姉ちゃんは脱いだ服をきちんと洗濯に出している。ママは毎日洗濯をしているし、まさかお姉ちゃんに限って下着が足りなくなるなんてことはないだろう。


 さらにお姉ちゃんは謎の行動に出た。なんと、洗った下着を嗅ぎ始めたのだ。布にそっと鼻を近づけ、確かめるみたいにクンクンと匂いを嗅いだ。そして、小さな声で「よし…!」と言った。

 そんなお姉ちゃんの不審な行動を眺めている内に、頭の中である想像が浮かんだ。それは、ついさっき観たテレビ番組から得たばかりの知識だった。

――お姉ちゃん、もしかして。
――『おもらし』しちゃったのかも…。

 画面の中の女子大生とお姉ちゃんが重なる。「性の悩み」を暴露していた彼女が、まるでお姉ちゃんであるかのように。

 その一致には無理がある。身内だから贔屓目もあるだろうが、あの女子大生よりもお姉ちゃんの方が美人だ。それに、お姉ちゃんは黒髪だ。あるいは「もんめ」の方が近いかもしれない。だけど漫画のヒロインが相手だと、さすがにお姉ちゃんといえど分が悪かった。

 それに。まさか、お姉ちゃんが『おもらし』するだなんて。真面目でしっかり者のお姉ちゃんがそんな失敗をするだなんて、とても考えられなかった。


 だったらなぜ、お姉ちゃんは下着を洗っているのだろう。洗っているということは汚れたということだ。そりゃ服や下着は着たり穿いたりすれば多少は汚れるものだ。でも、それなら洗濯に出せばいい。今の時代、洗濯機という便利な機械があるのだ。わざわざ手洗いする必要なんてない。それなのに…。

 お姉ちゃんは自分で自分のパンツを洗っている。それはつまり、そのまま洗濯機に入れられない理由があるのだ。たとえば下着がいつも以上に汚れてしまった、とか。あるいは『おもらし』をしてしまった、など。

 そんなはずがないことは分かっている。だけど、全ての証拠がお姉ちゃんの犯罪を裏付けているみたいだった。イケないと分かっていても脳は勝手に想像してしまう。お姉ちゃんが『おもらし』する姿を…。

 スカートの内側から『おしっこ』が溢れ出し、足元の地面に『水溜まり』を作る。まるで漫画の一コマのようなワンシーン。


 いや違う。それは「もんめ」だ。またしても「もんめ」とお姉ちゃんの姿が被る。脳裏に焼き付いたそのシーンに、空想上のお姉ちゃんが上書きされる。それはとても素敵な想像だった。だけど今は、そんな妄想に浸っている場合ではなかった。

 ふと、僕は我に返る。改めて、自分の置かれている現在の状況を整理する。ずっとこうしているわけにはいかない。お姉ちゃんはパンツを洗い終えたらしい。もうすぐ洗面所の電気を消して、僕の方へと向かってくる。その前に部屋に戻らなければ…。

 だが僕の心配をよそにお姉ちゃんはその場を動かなかった。僕に見られているとも知らずに自分の下着を広げて、それをまじまじと観察していた。再び鼻を近づけて、クンクンと嗅いだ。何度も何度も、洗い立てのパンツの匂いを確かめていた。

 早く逃げなければ、と思いながらも僕もその場から動けなかった。僕はいつまでもお姉ちゃんの秘密を覗き続けていた。

 何度目かにお姉ちゃんが下着から顔を離したとき、僕は急に呪縛から解放された。そして、自分の今取るべき行動を思い出した。名残惜しさを抱きつつも、僕は廊下(トンネル)を引き返すことにした。

 来たとき以上に音を立てないように注意して、すぐ後ろにお姉ちゃんが迫ってきているような気配を感じながらも、なんとか自分の部屋に無事帰還することができた。


 真っ暗な部屋にまだ視界が慣れていなくて、洗面所の明かりが眼球に残っていた。それと共に網膜に焼きついた光景を思い出す。

――あれは、何だったんだろう…?

 もしかすると、夢だったんじゃないかと思う。僕はいつの間にか寝落ちしていて、束の間に見た夢だったのではないかと。だが夢にしてはあまりに記憶は鮮明だった。

 廊下を歩く足音が聞こえた。お姉ちゃん、だ。お姉ちゃんが下着の観察を終えて、自分の部屋に帰っていく足音だ。それは僕がさっき見た光景が決して夢ではないと、紛れもない現実だと報せてくれているみたいだった。

 家族は全員、寝静まっていると思っているのだろう。お姉ちゃんはなるべく足音を立てないように気をつけながらも、完全にその音を消し去ろうとまではしていない。まさか洗面所での姿を弟の僕に見られていたなんて、夢にも思っていないのだろう。やがて、お姉ちゃんがドアを閉める音が聞こえた。


 その夜、僕は上手く寝付けなかった。僕の鼓動は早いままだった。目を閉じると、あの光景が浮かんできた。それと共に「見てもいない」情景も現れてきた。

――『おもらし』するお姉ちゃん。

 考えちゃいけない、想像しちゃいけないのだと分かっていても。それは次々と違うシチュエーションで何度も繰り返された。僕はアソコに血液が集まるのを感じた。

――お姉ちゃんはもう寝たのかな…?

 こんなにも僕を眠れなくしておきながら、自分はぐっすり眠っているのだろうか。僕はこっそりとドアを開けて、真っ暗な廊下のその先を見た。お姉ちゃんの部屋にはまだ明かりがついていた。


――続く――

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おかず味噌 2020/04/12 01:49

ちょっとイケないこと… 第八話「漫画と番組」

(第七話はこちらから↓)
https://ci-en.dlsite.com/creator/5196/article/228667


 早めにお風呂に入って、歯磨きをして、部屋に戻る。いつもならお風呂も歯磨きもママに言われてから嫌々するのだけれど、今日は違う。言われる前に自分からした。別に、褒めてもらおうとか思ってるわけじゃない。だけど…。

「純君、ちゃんと宿題は済ませたの?」

 自分の部屋に戻ろうとしたとき、ママにそう訊かれる。

「これからする~!」

 振り返りもせずに僕は答える。やれやれ、親というのは子供に向かって何か一つは小言を言わないと気が済まないものらしい。

「ちゃんと寝る前にするのよ!」

 お皿を洗いながら言うママに対して。

「わかってる!」

 僕は少し不機嫌になりながら返したのだった。


――ふぅ~。

 部屋のドアを閉めて、一息つく。もちろんすぐに宿題に取り掛かるわけでもなく、ベッドに横になる。

――さて、これからどうしよう。

 何気なく本棚を見る。そこには、僕がこれまで集めた漫画がたくさん並べてある。

 僕一人が買ったものだけじゃない。中にはお姉ちゃんが買ってくれたものもある。「猫夜叉」なんかはほとんどがそうだ。だけどお姉ちゃんはそれを僕の部屋の本棚に置いていて、自分が読みたいとき(ほとんどないけど…)はわざわざ借りに来る。

 もし逆の立場だったら、絶対に嫌だと思う。自分のものは手元に置いておきたい。独占したいわけじゃないけれど、何となくそんな感じだ。でも、お姉ちゃんは…。

「純君の部屋に置いてていいよ。そしたら、いつでも読めるでしょ?」

 自分のお金で買ったものなのに。お姉ちゃんは優しい。いや、それが大人の余裕というヤツなのだろうか?


 そもそも、僕とお姉ちゃんとでは財力が全然違う。中学生の僕が一月2000円のお小遣いなのに対して、大学生のお姉ちゃんはアルバイトをしている。アルバイトというのが一体どれくらいのお金を稼げるものなのかは知らないけれど、僕のお小遣いよりも圧倒的に多いことは間違いないだろう。だからこそお金持ちのお姉ちゃんは、漫画をたくさん買うだけの余裕がある。ただそれだけのことなのかもしれない。

 そういえば、お姉ちゃんはバイト代を何に使っているのだろう。女子大生だから、服やお化粧品に使っているのだろうか。だけどそこは真面目なお姉ちゃんのことだ。ちゃんと貯金しているのかもしれない。

 思えば、お姉ちゃんの部屋に入ったことは一度もない。僕が小さい頃はよく一緒に遊んでくれていたけれど、僕が中学校に上がると同時に受験生になったお姉ちゃんはあまり遊んでくれなくなった。僕だってお姉ちゃんが忙しいことは分かっていたし、勉強の邪魔をしちゃ悪いとも思っていた。

 それでも。三か月に一回出る「ドラゴン・ピース」の続きをお姉ちゃんは楽しみにしているらしくて、新刊が発売されるたびに僕の部屋に借りにくる。(お姉ちゃんはなぜか発売日を知っていて、僕が買ってから一週間以内に絶対借りにくる)

 僕としては正直「ドラゴン・ピース」は展開もマンネリ化していて、あまり面白くなくなってきたから買わなくてもいいんだけど、お姉ちゃんが楽しみにしているから買っているというのもあった。

――次の発売日はいつだろう?

 前の巻が出たのは確か二か月くらい前だったから、たぶんもうすぐのはずだ。僕はその時が待ち遠しくて仕方なかった。続きが気になるからじゃない。新刊が出れば、お姉ちゃんはきっとまた…。


 本棚から「ドラゴン・ピース」の今のところ一番新しい巻を取る。発売日に備えて復習しておくのも悪くないと思った。

――そうだ!主人公の「ライス」が絶体絶命のピンチというところで終わったんだ。

 この後の展開が気になる。だけど、これまでダテに漫画を読んできたわけじゃない僕には分かる。きっと仲間が助けに来るんだろう、と。

「ドラゴン・ピース」を本棚に戻して、代わりに「猫夜叉」の第一巻を取る。それを読むのは久しぶりな気がした。パラパラとページを捲って内容を思い出すと同時に、僕は別のことを考えていた。

――これを買ったときは、まだお姉ちゃんと…。

 よく一緒に本屋に漫画を買いに行っていた。当時小学生だった僕は、何をするにもどこに行くにもお姉ちゃんと一緒で。その中でも特に本屋に行くのが大好きだった。

 店に入るなり漫画コーナーに走っていく僕を、お姉ちゃんは「走ると危ないよ」と言いながらも優しく見守ってくれた。本屋には数えきれないくらいの漫画があって、そこは僕にとって宝物庫みたいな場所だった。

 僕が漫画選びに夢中になっているとお姉ちゃんはいつの間にか居なくなっていて、自分はいつも難しそうな本のコーナーにいた。お姉ちゃんは頭が良い天才なんだ、とその時は僕もなんだか誇らしくなった。

 そして。僕が「これにする!」と指さした漫画を、お姉ちゃんは自分のお小遣いで買ってくれた。お姉ちゃんは僕の選んだ漫画がたとえ一巻じゃなくても、続きからであっても、何も言わずに買ってくれた。(一巻から買わないという小学生の考えは、今の僕には理解できない)

 でも僕が「猫夜叉」を選んだとき。初めてお姉ちゃんは「え~、別のにしなよ」と言ってきた。僕にはどうしてお姉ちゃんがそんなことを言うのかが分からなかった。そして「ダメ」と遠回しに言われるほど余計に欲しくなった。「これがいいの!」と僕が駄目押しすると、お姉ちゃんは渋々その漫画を買ってくれた。


 家に帰ってから読んでいる内に、どうしてお姉ちゃんがそんなことを言ったのかが何となく理解できた。「猫夜叉」はもちろん健全な少年漫画なのだけれど、その中に一部「えっち」な場面があったのだ。

 それは。ヒロインの「もんめ」が見知らぬ土地でトイレに行けず、挙句の果てに『おもらし』をしてしまうというシーンだった。

(注:パロディの元となった作品に、もちろんそんなシーンはありません。)

 それまでに僕が読んでいた「ゴロゴロコミック」でも、「ウンチ」がギャグとして登場することはあった。だけど「猫夜叉」の中のそれは、そうしたギャグなんかとは少し違うものだった。

「もんめ」は内股になって、お腹を押さえて『おしっこ』を我慢していた。その姿は小学生の僕にとって、とても「えっち」なものに思えた。やがて彼女のスカートから液体が溢れ出す。僕はムズムズとした変な感じがした。なんだかちょっと悪いことをしているような、イケないことをしているみたいな、不思議な気持ちだった。

 だから僕はなるべくそのシーンを見ないように、数コマ分だけを飛ばして読んだ。それでもその場面はまるで現実のように、僕の目にはっきりと刻みつけられた。僕は自分が「ヘンタイ」になってしまったんじゃないかと思った。女子の『おもらし』に興奮するだなんて、異常なことに違いなかった。


 僕が「ヘンタイ」になってしまったと知れば、お姉ちゃんはきっと悲しむだろう。だからこそ、僕はそれを「面白いから読んでみて!」とお姉ちゃんにも薦めてみた。

 そうすることで、僕がその漫画の「えっち」な部分に気づいてないというように。純粋に漫画として楽しんでいるというように。僕が自分の買った(買ってもらった)漫画をお姉ちゃんに貸したのは、それが初めてのことだった。

「猫夜叉」を読んだお姉ちゃんは、どうやらその漫画にハマったらしかった。確かに例のシーンを抜きにしても、「猫夜叉」はめちゃくちゃ面白い漫画だった。

 そしてある日、お姉ちゃんは「猫夜叉」の二巻を自分で買ってきた。お姉ちゃんが自分の意思で漫画を買ってきたのは、おそらくそれが初めてのことだった。それから三巻四巻と、お姉ちゃんは事あるごとに次の巻を買ってきてくれた。

 僕たちはその漫画の続きを楽しみにし、二人でその展開にハラハラドキドキした。だけど僕は純粋に「猫夜叉」を楽しむ反面で、密かにある期待をしてしまっていた。もう一度「もんめ」が『おもらし』をしてくれないかな、という微かな願望だった。(だが結局、最終話まで読み終えてもそんな場面が登場することは二度となかった)


 僕は「猫夜叉」の第一巻を読み続けていた。その結果、どうしたってそのページに行き着いてしまう。「もんめ」が『おもらし』をするシーンだ。最初に彼女が尿意を感じ始めてから、それが徐々に深刻なものとなり、ついに決壊を迎えてしまう。

 何度も読み返し、すっかり目と脳に焼き付いた数ページ。僕はそれを再び繰り返す。記憶の中でいつの間にか省略されていた、数コマをなぞる。展開が分かっていても、分かっているからこそ、やっぱり僕はゾクゾクした。そして中学生になった僕には、そのゾクゾクの正体が何なのか分かっていた。

 イケないことだと分かっていながらも、僕は下半身に手を伸ばす。ズボンの上からそこに触れる。僕のアソコは膨らみ始めていた。軽く触っただけで、ビリビリとした電流のような衝撃が走った。とても気持ちが良かった。

 片手で漫画を持ちつつ、片手でおちんちんを握る。硬くなったことで大きくなり、「ビンカン」になったアソコを擦るように上下に動かす。誰に習ったわけでもない。そうすればもっと気持ちよくなれると経験から知っていた。

 いよいよ、そのシーンが迫ってくる。僕の手はさらに激しい動きになる。そして、ついに…。


「純君~!」

 廊下からママの声が聞こえた。僕は慌ててアソコから手を離し、同時に勢い余って漫画を放り投げてしまう。

「…何~?」

 僕はなるべく普通の声で返事をした。ママの足音が近づいてくる。ママはそのまま僕の部屋のドアを開けた。

「りんご切ったんだけど、食べ――」

 そこでママは、僕がベッドに寝転んでいるのを見た。

「宿題は?」

 怒り気味に言うママ。「もう終わった!」と嘘をつくのはさすがに無理があった。

「今から、やるよ…」

 僕もちょっと不機嫌になりながらそう答えた。

「また漫画読んでたんでしょ?」

 床の上に放り出された漫画を見つけて、ママはさらに怒りっぽく言った。

「ちょっと休んでただけだよ…」

 僕は言い訳をする。だけど、それがママに通じないことは分かっている。

「もう中学生でしょ?ちゃんと勉強しないと、授業についていけなくなるわよ?」

 ママのお説教が始められる。こうなると長い。言い返すと余計に長くなる。だからいつもは素直に聞いておくに限るのだけど、なぜか今日はそんな気になれなかった。あと少しのところで邪魔をされたから、というのもある。


「てか部屋に入る時はちゃんとノックしてって、いつも言ってるじゃん!」

 僕は口答えをする。宿題をやってないことについては何も言い返せないからこそ、別の所から反撃をする。(お姉ちゃんはいつも、ちゃんとノックをしてくれる)

「良いじゃない。別に見られて困るものもないんだし」

 ママは言う。見られて困るものという言葉に僕は一瞬たじろぐ。確かに、床の上の漫画は見られて困るものじゃない。それは健全な少年漫画だ。たとえ中身を見られたとしても問題はない。問題は僕がその中のどの部分を熱心に読んでいたか、だ。

 そして、僕がさっきまでしていたこと。それは完全に見られて困ることだった。

「じゃあ、りんご食べてからちゃんとするよ」

 僕は言った。別に今りんごを食べたい気分ではなかったけれど、そう言ったほうが丸く収まる気がした。

「食べたら、ちゃんと歯磨きするのよ!」

 ママの怒りも、とりあえずは収まったみたいだった。僕としては余計な仕事が一つ増えてしまったけれど、それは仕方がない。

 リビングに行ってりんごを食べた。そこにパパもいた。お姉ちゃんはいなかった。今日もバイトなんだろうか?それにしても最近、帰りが遅い気がした。僕は少しだけ心配になった。お姉ちゃんが僕の知らない別の誰かになってしまうような気がして、ちょっぴり怖かった。

 りんごを齧りつつ僕はパンツの中に気持ち悪さを感じていた。濡れたような感覚。汗のせいでもなければ「もんめ」のように『おもらし』してしまったわけでもない。ヌルヌルとした変な感触。それは紛れもなく、おちんちんから出てきたものだった。


 もう一度歯を磨いて部屋に戻る。今度こそ宿題をやろうと机に座る。今日の宿題は数学ワークの17~18ページの問題を解くことだった。数学は僕の得意な科目だった。だけど、あまり集中できなかった。僕は時計を見た。

――9時37分。

 まだ、あと三時間くらいある。何がといえば、それは僕の観たい深夜番組が始まるまでの時間だった。

 一ヵ月前のことだった。僕は0時過ぎまで起きていた。それ自体は少しも珍しいことじゃない。僕はもう中学生なのだ。小学生みたいに、10時に眠くなったりはしない。そりゃ夜更かしだってする。

 中学に上がったのとほぼ同時に、部屋にテレビがきた。お姉ちゃんのお下がりだ。

「私はもう使わないから、純君にあげるよ」

 お姉ちゃんは言ってくれた。僕が「テレビが欲しい!」とママにねだっているのを知っていたらしい。やっぱりお姉ちゃんは優しい。お姉ちゃんにだって観たい番組があるはずなのに。(それとも大人なお姉ちゃんはもうテレビを観ないのだろうか?)

 そして、僕の部屋に念願のテレビが置かれた。


 最初の頃こそ、特に観たい番組があるわけでもないのに電源をつけたりしていた。だけどいざそれが当たり前になったら、そんなに珍しいものでもなくなっていった。自分の部屋にテレビがあっても、あまり観ないものだ。欲しいものは手に入るまでが一番欲しいのだと、僕はその時学んだ。

 リビングにもテレビはある。我が家のルールで食事中はニュースと決められているけれど、それ以外の時は好きな番組を見せてくれた。だから、わざわざ自分の部屋で観る必要もなかった。それに、リビングのテレビの方がずっと大きいのだ。

 だから僕はその日も特に観たい番組があるわけでもなく、ただ寝るまでの暇潰しにチャンネルを回していただけだった。僕がその番組を見つけたのはその時だった。

 それはバラエティ番組だった。だけど深夜よりゴールデンタイムの方が知っている芸能人も多いし内容だって面白い。その番組には僕が名前だけは聞いたことのある、歌手か俳優なのかよくわからないタレントが出ていた。MCというやつだろう。そして僕のあんまり好きじゃない芸人がゲストだった。僕はチャンネルを変えようとした。だけど番組の内容を聞いて、思わずリモコンを置いた。

「女子大生が水着になったら~!!」

 MCが大袈裟にタイトルを発表すると文字が「バン!」と大きく表示され、ゲストがやっぱり大袈裟に「イェーイ!」と言って手を叩いた。僕は慌ててリモコンを取り、テレビの音量を落とした。


 その番組の内容はこうだ。

 MCとゲストが二人一組になり、まずはそれぞれ女性用の水着を選ぶ。そして今度は街に出て、女子大生に声を掛けてパーティーに来てくれるよう誘う。最終的に渡した水着を着てくれた女子の人数が多いほうが勝ちとなる。

 企画としてはどこか面白いのか分からなかった。とてもゴールデン向きじゃない。だけど面白さとは別の理由で、僕はその番組に釘付けになった。

 街を歩く女子たちを、MCとゲストは色んな手段を使って誘っていく。全然似てないものまねを披露したりギャグをやったりして、女子を笑わせて水着を渡す。これが「ナンパ」というやつなんだろうか。(水着を渡すのはもちろん違うだろうけど…)

 いよいよ番組の後半。MCとゲストは会場で祈りつつ、女子が来てくれるのを待つ。いつの間にか僕も四人と同じ気持ちになっていた。

 そして、ついに一人目が会場に現れる。それはナンパの時は絶対来てくれなさそうだと思っていた女子だった。僕は少し意外だった。

 女子大生が登場してくるステージにはカーテンがあり、その向こうに姿が現れる。カーテン越しのシルエットで芸能人たちはどちらの水着が選ばれたのかを予想する。僕は瞬きをするのさえ忘れていた。そして…。


 カーテンが引かれて、そこから登場した女子は黒い水着を着ていた。それと同時にゲストの前に目隠しの壁が出現する。だけど僕には関係なかった。

 水着姿の女子大生はモデルみたいにランウェイを歩いてくる。それは水着なのに、まるで下着のように。男子が決して見てはいけない、お尻やおっぱいが強調されて、とても「えっち」だった。僕は無意識に自分の股間を弄っていた。

 次々と女子大生が登場しては水着になっていく。中には「こんな水着あるの?」と思うくらいに肌を盛大に露出し、お尻をほとんど丸出しにしているものもあった。

 顔だけを画面に向けてベッドにうつ伏せになる。おちんちんを手で触る代わりに、パジャマ越しに布団に擦り付ける。自分で触るよりも気持ち良かった。

 そうして。僕はすっかりその深夜番組の視聴者になった。曜日と時間帯を覚えて、新聞を読むふりをしては番組欄を確認するようになった。だけど…。

 これまで四回、番組欄を見てみたものの。そこには「女子大生」とも「水着」とも書かれてなかった。「番組名を間違えたのかな?」と実際に番組を観てみても。MCは変わらずあの二人だったけれど、内容は「ご飯を食べたり」「罰ゲームをかけて勝負したり」というような、ゴールデンタイムの番組とあまり変わらないものだった。

 僕はがっかりした。そして大した期待もせずに番組欄を眺めていた今日。ついに、そこに興味のそそる文字を見つけた。


――女子大生の「性の悩み」相談会!!

 僕は股間がピクリと反応するのを感じた。だがそれを面に出すわけにはいかない。「落ち着け」と自分に言い聞かせて、咳払いをしたりしてみた。それから番組欄以外ほとんど読んだことのない新聞をめくった。様々な事故や事件の記事が載っている。その中で僕が興味あるのはせいぜい四コマ漫画くらいだった。だけど今はそれさえも頭に入ってこない。

 僕の脳内には、デカデカとした文字で番組のタイトルが浮かんでいた。

 果たして、女子大生の「性の悩み」とはなんだろう。僕は想像を膨らませてみた。だけど例は一つも出てこなかった。中学生男子の悩みというなら僕にだってわかる。「好きな子とうまく話せない」とか、「アソコに毛が生え始めて恥ずかしい」とか。それから…。

「女子の『おもらし』に興奮する自分は変態なのか?」

 最後の悩みは僕だけのものかもしれない。あるいはそう思い込むことこそが悩みをより深刻にし、人に話せない秘密にしていく。だけど僕の悩みについては、ひとまず置いておこう。問題は女子大生の持つ「性の悩み」とは何か、だ。


 僕は一番身近な女子大生を思い浮かべてみた。それはもちろんお姉ちゃんだった。お姉ちゃんも「性の悩み」を抱えているのだろうか。とてもそんな風に見えないし、僕は一度たりともお姉ちゃんからそんな話を聞いたことはない。それもそのはずで、そういう悩みを誰よりも知られたくない相手は家族なのだ。僕だってお姉ちゃんに、そんな相談はできない。軽蔑されるかもしれないし、お姉ちゃんに「ヘンタイ」だと思われたくなかった。

 番組の内容には見当もつかなかったけれど、それでも僕のアソコが反応したことは事実だった。そこには僕の勝手な想像があった。

――女子大生が出るということは、また水着になってくれるかもしれない…。

 僕の期待は高まった。それから夜までとても長かった。

 僕は、ハッと目を覚ます。いつの間にか眠っていたらしい。現在の状況を思い出す。そういえば、宿題をしている途中だった。慌てて時計を見る。時刻は0時過ぎだった。危ないところだったと思うと同時に、僕のワクワクはいよいよ最大限に高められる。あと数分で番組が始まる。

 それを知ると、もはや宿題なんて手につかなかった。「一日くらい、いいさ!」と僕の中の悪魔がそう言った。これまで宿題をやらなかったことなんてないけれど、「今日だけなら…」と僕の中の天使も許してくれた。

 ワークを閉じて、イスから立ち上がる。電気を消して、代わりにテレビをつける。ベッドに潜り込んでリモコンをスタンバイして、準備完了だ。

 そして、いよいよ番組が始まる――。


 結果から言うと期待外れだった。今回もその番組に「えっち」な部分はなかった。

 水着になることはもちろんなく、悩み相談も彼氏のことについてなど、僕にはよく分からないものばかりだった。途中「Tバックを履いていて、汚れるのに困っている」という相談には少しだけ興奮したけれど、それだけだった。

 だけど、ある一人の女子大生の「性の悩み」は僕の興味をくすぐるものだった。

「エッチの時に『おもらし』してしまった。彼氏に引かれていないか心配…」

 そんな内容だった。僕は意味が分からなかった。「エッチ」という言葉の意味が、じゃない。(それくらい僕にだってわかる。近頃の中学生をナメないでもらいたい)そうじゃなくて、「なぜ『おもらし』をしてしまったのか?」ということだ。

「もんめ」のように敵に囲まれたわけじゃない。近くにトイレだってあっただろう。

 それなら普通にトイレに行けば済む話だ。恥ずかしくて言えなかったのだろうか。その気持ちは少しだけわかる。たとえば授業中。僕も何度か「トイレに行きたい」と言い出せなくて我慢したことがある。(もちろん『おもらし』なんてしてないけど)そういうことなんだろうか?


「彼に触られてたら、段々したくなってきちゃって…」

 女子大生の言葉に顔が火照るのを感じた。「触られて」というのはどこをだろう。何となくの辺りはわかる。だけど女子のそこが、僕のアソコとどう違っているのかはよく分からなかった。「おちんちん」が無いことは知っている。女子はその代わりに「穴がある」らしい。

――女子もそこを触られたら、気持ちいいのかな…?

 僕は想像する。だけど、男子の僕にはやっぱり分からなかった。

――女子はそこを触られたら『おしっこ』したくなるの…?

 それも僕には「初耳学」だった。もしそうなのだとしたら、女子というのはとても不便な生き物だ。アソコを弄るたびにトイレに行きたくなっていたら、大変だ。

「それで、イクのと同時に出ちゃって…」

 女子大生は告白する。カメラの前で、自分の失敗談を暴露する。

 テレビでそんなこと言ってしまっていいのだろうか。大勢の人が観るというのに。周りに知られて恥ずかしくないのだろうか。今さらになって、僕は女子大生のことが心配になる。

 中学生にとって『おもらし』をしたなんて秘密がクラスメイトや友達にバレたら、もう生きてはいけない。いじめられるかもしれない。


「どれくらい出ちゃったの?」

 MCが質問する。それは僕も気になるところだった。「ナイス!」と思う。

「めっちゃ出ちゃって…。普通に一回分くらい。『じょろ~』って…」

 恥ずかしそうにしつつも笑いながら答える彼女。僕は想像する。想像してしまう。女子の『おもらし』を…。

「ベッドが水浸しになっちゃいました!彼の家だったのに…」

 ベッドの上に広がる『おしっこ』。まるで『おねしょ』みたいだ。

 ふと、僕の頭の中で女子大生と「もんめ」が重なる。全く似ていない。女子大生は茶髪だし「もんめ」は黒髪だ。それに「もんめ」の方がずっと可愛い。さらにいえば「もんめ」は女子高生だ。空想と現実は違う、というのも分かっている。

 それでも。いつの間にか僕の想像は「ベッドの上でおもらしをする『もんめ』」に塗り替えられていた。「もんめ」が裸になりエッチをする。その相手は、僕だった。

 僕は興奮していた。固くなったアソコをベッドにこすりつける。僕は目を閉じて、自分の想像をオカズにした。だけど、それだけだった。

 そうしている内に女子大生の番は終わり、次の人の番になった。僕はモヤモヤしたなんとも言えない気持ちのまま、お預けを喰らうことになった。その時だった。


 ふいに玄関の方から物音が聞こえた。僕は布団に潜り込み、息を潜める。

――こんな時間に、誰…?

 僕は一瞬、泥棒が家に入ってきたのかと思った。だけどすぐ冷静になって考える。

――お姉ちゃん、だ…!!

 お姉ちゃんがバイトから帰ってきたのだ。泥棒じゃないことに、僕は一安心した。それにしても遅い帰宅だ。僕は時計を見た。もう1時前だった。

――どうせ、友達と遊んでいたんだろう。

 僕はちょっとだけ腹立たしい気持ちになる。ムカついた、と言ったほうがいいかもしれない。自分がなんでそんな気持ちになるのか分からなかった。

 中学生の僕には、門限が決められているのに?いや違う、そうじゃない。真面目なお姉ちゃんが不良になってしまったみたいな、お姉ちゃんをそんな風にしてしまったバイトが憎らしかった。


 お姉ちゃん(多分)が廊下を歩く音が聞こえた。少しずつ僕の部屋に近づいてくる。安心している場合でもムカついている場合でもなかった。僕は慌ててテレビを消して寝たふりをする。お姉ちゃんが勝手に僕の部屋に(しかもこんな時間に)入ってくるとは思わなかったけれど、それでも僕がまだ起きていると知られたら何かと面倒だ。僕は目を閉じて、お姉ちゃんが行き過ぎるのを待った。

 ゆっくりとお姉ちゃんの足音が廊下を通り過ぎ、遠ざかっていく――はずだった。だけどそれは僕の部屋のずっと前で止まった。

 僕は不思議に思った。幽霊だったのかも、とまた少しだけ不安になる。

 カチッという音が聞こえた。電気をつける音だった。僕はドアの下の隙間を見た。だけど廊下から明かりは漏れていなかった。

 ジャーという音が聞こえた。水の流れる音だ。洗面所の方からだった。

 お姉ちゃんが手を洗っているのだと思った。さすがはお姉ちゃん。帰ってきたら、ちゃんと手洗いうがいをしているのだ。(僕は言われない限りしない)

 それでも、やっぱり不思議なことがあった。


――いつまで、手を洗ってるんだろう…?

 水の音はしばらく聞こえた。石鹸で洗うにしても長すぎる。

 ようやく音が止んだ。だがまたすぐに水を出す音が聞こえ、何回か繰り返された。僕は意味が分からなかった。

――お姉ちゃん、何やってるんだろう…?

 僕の疑問は不審へと変わる。僕は気持ち悪さを感じた。同時に腹立たしさも。

――お姉ちゃんが、また僕に何かを秘密にしている…。

 そうやって、お姉ちゃんが僕の知らない他人になっていくことが腹立たしくもあり怖くもあった。

 目を開けて、ベッドから起き上がる。足音を立てないようにゆっくりと部屋の中を移動し、音がしないようにドアをそっと開けた。

 真っ暗な廊下。洗面所に明かりがついている。外灯に引き寄せられる虫みたいに、僕はその場所へと慎重に近づいていった。


――続く――

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おかず味噌 2020/04/02 08:47

短編「不動産レディの着衣脱糞」

ハンドルを握りながら、文乃の脳は「フル稼働」していた。
「もうすぐ着きますよ~」
 脳内の激しい「情報処理」とは裏腹に、軽やかな口調で文乃は言う。声を向けた先は、後部座席に座る「若いカップル」だった。
「へぇ~、この辺だと駅からも近そうだな」
 彼氏の方が言う。
「はい、今回紹介させて頂く物件は『駅から徒歩五分』となっています」
 文乃は答える。事前に見せた「物件情報」に載せられた、そのままの文句だ。
「徒歩五分だってさ!」
 まるで初めて知らされた情報であるように、男は大袈裟に驚いてみせる。
――だから、最初からそう言ってるじゃない…。
 そもそも「駅からなるべく近い方がいい」と条件を掲示してきたのは、そっちの方じゃないか。無意味なやり取りに辟易させられつつも、もちろん表情には微塵も出さない。「プロ」として当たり前のことだ。
 それにしても、一体何度同じようなやり取りをさせれば気が済むのだろう。男の理解力の無さに嫌気が差してくる。こんな男と付き合っていると、日常的にイライラさせられてばかりだろう。だがそれでも客として、「彼氏」の方はまだマシなほうだった。
 問題は「彼女」の方だ。

 文乃はルームミラー越しに、ちらりと「彼女」の様子を窺う。女は相変わらず、不機嫌そうに窓の外を眺めている。彼氏の感嘆には決して同調しようとしない。
 文乃は思わず、ため息をつきたくなる。
 楽観的でいちいちリアクションの大きい彼氏と、現実的で冷静な彼女。あるいは「お似合いのカップル」であり、普段の彼らはそれでうまくバランスが取れているのだろう。だがそんな事、文乃にとっては知ったこっちゃない。
――今日こそは、決めてもらわないと!!

 文乃がこのカップルと会うのは、今日で三回目だ。最初に彼らが店を訪れた時は「しめた!」と思った。若いカップルは春から「同棲」をするつもりらしく、そのための物件を探しているらしかった。
「当初」の条件としては最低でも「2DK」で、予算は特に決まってないらしく、けれどなるべく安い方が良いらしい。文乃は早速いくつかの物件情報をパソコンで呼び出し、それらを順番に説明していった。頭の中で「仲介手数料」を計算し、今月課せられた「ノルマ」と照らし合わせた。雲行きが怪しくなり始めたのは、その時からだ――。

 彼氏の方は、文乃の説明にいちいち「へぇ~」とか「なるほど」といった反応を示した。それに引き換え、彼女の方はじっと黙ったままで、良いのか悪いのか判然としない無表情を浮かべているだけだった。
 その時の文乃の「彼女」の印象は、「物静かで大人しい娘」というものだった。自分では何も決めれずに、ただ周囲が判断してくれるのを待つ。きっとこれまで彼女はそうやって生きてきたし、これからも生きてゆくのだろう。文乃には理解できない「生き方」だったが、自分の仕事としてはやりやすい。そう悟った文乃は、途中から主に彼氏の方に向けて説明をすることにした。そして、彼氏が最も好反応を示した物件へ「内見」に行くことになった。

 内見をしている時も彼氏の方は相変わらず好感触で、文乃が部屋のドアを開く度に、備えつけられた機能を紹介する度に、「おぉ~」と感嘆の声をあげていた。その間も終始無反応な彼女を、文乃は半ば無視していた。
 そして、ついに彼氏が「この物件にします!」と契約を宣言する時になって、そこで彼女が重い口を開いた。
「待ってよ。そんな簡単に決めていいの?」
 その厳しい口調は、これまでの物静かな彼女の印象を逆転させるものだった。そこから、彼女の怒涛の追撃が開始される。
「てか、ここ駅から遠すぎない?私、駅から近い方が良いんだけど」
「この広さで『七万』ってのもちょっと高すぎる気がするんだよね」
「それに、ここ『木造』ですよね?」
 彼女の「追及」はやがて文乃にも向けられる。
「はい…、でも『木造』といっても『耐震』はきちんとされていますよ」
 文乃はマニュアルに沿って答えた。けれど、彼女が気に掛かっているのはそこではないらしい。
「『木造』だと、音響きますよね?」
「はい…、まあ『鉄筋コンクリート』と比べると多少は、でも――」
「ほら、やっぱり!!私、隣の人の声が聞こえるのとか嫌だからね?」
 どんな昭和のアパートを想像しているのだろう。「○○荘」など、売れない漫画家が住む「重要文化財」とでも勘違いしているのではないだろうか。
「さすがに、よほど隣人の方が騒がれない限りそんなことは――」
 文乃の説明を遮って、彼女は言う。
「もっと、違う物件も見せてもらえます?」

 そうして、文乃と若いカップルの「長い付き合い」が始まった。彼女が溜め込んだ「意見」を述べる中、今度は彼氏の方が「借りてきた猫みたいに」大人しくなっていた。本当に良いバランスだ。文乃は皮肉まじりにそう思った。

 これで、内見に回る物件は「八件目」になる。
――さすがにもう決めないと。
 文乃は心の中で決意する。だが決意してみたところで、結局は「お客様次第」なのだ。彼女が首を縦に振らなければ、この「内見地獄」はいつまでも続くことになる。そして「いい加減、早く決めてくれ」なんて、文乃の立場ではそう強くも言えない。彼女の気分を害し、「じゃあ、他の不動産屋で探します!」という事態にもなりかねない。不動産屋は他にいくらでもあるのだ。
 文乃は改めて今月の「ノルマ」を思い浮かべる。もしそれを達成できなければ――、上長から「叱責」を浴びることはほぼ確定だし、文乃自身の「成績」と「評価」にも大きく影響する。
――今月中に、このカップルの契約さえ取れれば…。
 それでなんとか、今月の「ノルマ」には届きそうだ。文乃はようやく「胃痛」から解放され、健全な睡眠を迎えることができる。
 ハンドルを握る手に、力が込められる。「今日こそ、決めなければ」と文乃は決意を新たにする――。

 駐車場に「社用車」を停める。数度の切り返しだけで、見事に「駐車」してみせる。「女はバックが苦手だ」などという非論理的な意見に、文乃は真向から反論する。それは文乃のアイデンティティにも関わる問題であり、「男には負けたくない」という彼女のキャリアウーマンとしての「プライド」から来るものでもあった。
 店から持参した鍵をもって、玄関の鍵を開ける。文乃が自らの「異変」を感じたのは、まさにその時だった――。

――ギュルルル…!!
 突如、腹部が悲鳴をあげる。それが「空腹」から来る叫びでないことはすぐに解った。それよりもっと下、それは「大腸」から届く叫びだった。
――どうして…?
 文乃の脳裏にまず浮かんだのは、そんな「疑問」だった。どうして急に――、どうして今この時に――、という「不可解さ」だった。
 次に文乃は、今日の自分の行動を振り返ることにした。今は午後二時過ぎ。今朝はいつも通り七時に起きて、朝食は――「ヨーグルト」と「食パン」を食べ、「オレンジジュース」を飲んだ。定時より少し早めに出勤し、今日会う事になっている顧客の資料をまとめ、昼食はコンビニで「サンドイッチ」と「トマトサラダ」を買って食べた。
 文乃は考える。今日口にしたそれらの内、どれかが傷んでいたのではないかと。
「腹痛」にいくつかの種類があることを、文乃は経験上、実体験として知っていた。いわゆる「生理的欲求」から来るもの。女性特有の――それがあるから女は男に比べて、そのキャリアにおいて大きな「ハンデ」があると決めつけられている――もの。そして、今感じているそれは、紛れもない「下痢」から来るものだった。

 まず文乃が第一の「容疑者」として挙げたのは、「ヨーグルト」だった。その理由は「乳製品だから」という、食品からしてみればやや理不尽なものだったが、それもまた紛れもない事実である。
 文乃は今朝食べた「ヨーグルト」の味を可能な限り思い出してみた。それは文乃がいつも買うメーカーのものと同じもので、買う時にも食べる前にもちゃんと「賞味期限」は確認したはずだ。味もいつも通りで、酸っぱかったりすることもなかった。
 続いて文乃の捜査線上に浮かんだのは、いわゆる「生もの」だった。その理由もまた「傷みやすい」という、経験上あるいは伝聞情報による事実だった。
 だがそうなると、「容疑者」の範囲はかなり広がることになる。「魚介類」こそリストにはないものの、「サラダ」の中に含まれる「野菜」は全てがそうだし、「サンドイッチ」の具である「ハム」や「卵」なんかも栄養学上の分類では違うが、広義の意味では「生もの」である。
 そしてそれを言い出すなら、文乃は今日口にした食材全てを「容疑者」の範囲に含めなくはならなくなる。だが少なくとも、文乃の体感としてはどの食品も「無実」である気がした。(「動機」や「アリバイ」については、その限りではないが)

「外部」からの「異物」の「侵入」でないとするならば。その原因は文乃自身の「内部」にあることになる。そして、文乃には少なからずその「心当たり」があった。
 それは「ストレス」によるものだ。
「ストレス」と「腹痛」、あるいは「下痢」における因果関係が医学的に証明されているのかは分からないが、恐らく間違いなく関係はあるだろう。
 特にここ最近の文乃は、課せられた「ノルマ」を達成できないという焦燥から、度々「胃痛」を感じていた。(「下痢」になったことはないが)
 だとしたら、今の腹痛の原因は紛れもなく「ストレス」によるもので、その「ストレス」の原因は間違いなく、今後方にいて、呑気にも新居への期待に胸を膨らませる「カップル」にある。
 文乃は自分の体調さえも悪化させ、「生殺与奪」の権利さえ握るカップル(主に彼女の方)を恨めしく思いながらも、もちろんそんな感情を面に出すわけにはいかなかった。

 室内に一歩足を踏み入れると、例の如く彼氏の方から感嘆の声が上げられた。彼女の方は黙り込んでいる。それもまた、いつも通りだった。
「こちらが『リビング』兼『キッチン』になります」
 慣れた口調で、文乃は説明を始める。「ルーティーン」に入ったことで、文乃の腹痛は一時的に収まりつつあった。
――とりあえず、早く「内見」を済ませちゃおう。
 いつまた「波」が訪れるかは分からない。「トイレ」に行けるのはどんなに早く見積もっても、店に帰ってからだ。少なくとも、あと二、三十分は我慢しなくてはならない。
「キッチンは『IH』になっているので、掃除もお手軽になっています」
 文乃は続いて、キッチン設備の説明にうつる。そこで初めて――今回の内見のみならず、これまでの全ての内見において初めて、彼女の方が好反応を見せた。
「へぇ~、これなら私が料理しても大丈夫だね」
「IH」じゃなきゃ料理しないつもりかよ?というツッコミはさておき。これなら今回こそはいけるかもしれない、と文乃の中で期待が高まる。
「はい!よくお料理をされるなら、かなりオススメですよ!」
 文乃の説明にも力がこもる。「どうせ、滅多に料理なんてしないくせに。得意料理はパスタにレトルトの具をかけたものですか?(笑)」などとは言わない。
「良いかもね!どう?」
 彼女の方から初めて、彼氏に向けてポジティブな意見が発せられる。それに対して彼氏の方はもちろん、「良いじゃん!」と同調する。文乃はいよいよ契約成立の「足音」を感じ始めた。あとは「足早」に、なるべく「手短」に他の部屋の説明を済ませてしまおう。その時文乃は自分の「腹痛」のことなど、すっかり忘れかけていた。あくまでそれが「一時的」なものであるとも知らずに――。

「続いては、こちらの部屋です」
 文乃が自分のテンションに任せて、ドアを開いた瞬間――。
――ギュルルル…!!
 再び、「腸」が雄弁に語り始めた。さっきよりも激しい悲鳴。今すぐ「トイレ」を切望したくなるようなものだった。
 文乃は思わずお腹を押さえて、「前屈み」になってしまう。本当なら今すぐにでもうずくまってしまいところだが、文乃の「理性」とキャリアウーマンとしての「プライド」がそれを拒否し、「括約筋」をもって踏みとどまる。
「こちらは…『六畳』のお部屋になります」
 幸い、カップルたちには「異変」を悟られていないようだ。文乃はほっと胸を撫でおろす。まさか自分が「腹を下している」なんて、勘付かれるわけにはいかない。
「『二部屋』」の内、こちらは少し狭い方のお部屋になりますが、その分『収納』はかなり大きめの設計です」
 文乃は「長所」を強調する。その言葉は文乃の口から半自動的に流れた。
「私、服多いから助かるかも~」
 ここでも、彼女の方は好感触だった。どうやら、こっちの部屋が彼女の部屋になるらしい。彼女はクローゼットを開け、そこに自分の「衣装」が並ぶのを想像しているようだった。文乃としては気に入ってくれたのは嬉しいが、早く他の部屋の紹介にうつりたかった。

 ようやく彼女の部屋の検分が終わり、続いて必然的に彼氏の部屋になるであろう部屋へ向かう。その数歩の間にも、文乃の腹痛は決して治まることはなく、むしろ時間と共にその「波」は増すばかりだった。
 文乃は部屋のドアを開ける。その手以上に下半身、主に「尻」に力を入れながら。
――もうちょっとだから。まだ耐えて。
 文乃は自らの括約筋と「肛門」に懇願する。
「こちらのお部屋は『七畳』で、しかも『ロフト』が付いています」
 文乃の説明は、いよいよ「大詰め」を迎える。この部屋の紹介が終われば、あとは「風呂」と「トイレ」というごく当たり前な、必要最低限の設備の説明を残すのみで、それらは半ば惰性で済ませることができるだろう。この部屋の紹介、主に「ロフト」についての紹介こそが肝要なのだ。

「『ロフト』付きってすげぇ~!!」
 案の定、彼氏が分かりやすくリアクションを取る。ここは「君の部屋」になるんだから、無理もない。だが、そこで彼女が――。
「へぇ~、『ロフト』に私の荷物置けるじゃん!」
 と言った。「いや、一体どんだけお前の荷物あるんだよ?てか、二部屋ともお前が使う気か?彼氏の部屋は「廊下」ですか?(笑)」などという皮肉はもちろん胸の奥に閉まっておくことにする。文乃は段々と、このカップルの扱い方が今さらながら解ってきた気がした。
「そうですね。『ロフト』を収納に使われる方も多いですよ?」
 文乃はツッコミをスルーして、彼女に呼び掛ける。彼氏の意見などお構いなく、あくまで顧客を彼女の方に限定する。だから、そこで彼女の方からもたらせられた「ある不安」に対しても、文乃は自らの「体」を使って実証してみせる。
「でも『ロフト』って、上り下り危なそう」
 彼女は言う。女性の「身体能力」が男性に比べて著しく劣っている、とでも言いたいのだろうか。だからこそ、文乃は自ら実践することでそれを否定することにした。

「そんなことないですよ。『女性でも』簡単に上り下りできます」
 文乃はロフトの「梯子」に手を掛けた。「女性でも」という言葉は不本意なものであったが、それも「入居者」の不安を解消させるためには致し方ない。
 文乃は自ら「梯子」を上ってみせる。文乃は「パンツスーツ」を履いていて、下からの「視線」を気にする必要はない。一段目、二段目、三段目と梯子を上っていき、そして「四段目」に差し掛かったところで――。

――ブチッ!!

――えっ…!?
 文乃の「尻」から「破裂音」が発せられた。力んだことによる、紛れもない「それ」だが、文乃はその「音」の原因を転嫁する。
「ちょっと、梯子が傷んでるのかもしれませんね…」
 決してそんな「音」ではなかったのだが、文乃はありもしない物件の「瑕疵」を装うことで、何とか「緊急」の事態を回避する。
「入居までには、きちんと修理するよう言っておきますね」
 文乃は言う。ここまで来て「欠陥」が見つかったかのように振舞うのは、文乃にとっても大きな「賭け」であったが、それでも自らの「瑕疵」を露呈するよりはずっとマシだった。幸い、未来の「入居者たち」は、「音」の原因を設備による「欠陥」だと思い込んだらしく、「本当にここ大丈夫~?」と薄ら笑いを浮かべつつ、あまり「大事」とは感じていない様子だった。
 文乃はとりあえず安堵する。だが、文乃の「緊急事態」はそれだけには留まらなかった――。

文乃は、ショーツの中が温かくなるのを感じた。「異物感」というほどではないにせよ、そこには確かに「違和感」があった。
 文乃は「放屁」をしてしまったのだと思い込んでいた。だが、そこから出たのは「ガス」のみではなかった。「気体」より質量をもった「液体」にも似た「固体」が発射されたのだ。
 文乃はショーツの中に少しだけ「下痢便」をチビってしまったのだ。ほんの「少量」だけ、「お漏らし」と呼ぶほどのものではない。それでもショーツの中に甚大な「被害」が及んでいることは確実だった。
――どうしよう…。
 文乃の不安は継続していた。ショーツの中に「温かみ」を感じながら、文乃の当面の怪訝は、その被害が「パンツスーツ」にまでも及んでいないかというものだった。
 梯子を上り終えた文乃は、こっそり「尻」の部分に手をあてがう。「大丈夫、濡れてない」、文乃はスーツの「生地の厚さ」にこれほどまでに感謝したことはなかった。
「ほら、女性でも簡単でしょう?」
 文乃は自らを「被験体」として、証明してみせる。女性だって、それほど「非力」な存在ではないのだと、自らの身をもって体現してみせる。自分の下着の中が「女性」として、「大人」としてあるまじき「失態」を含んでいることを悟らせずに――。

「『ロフト』良いかも!」
 文乃の「体を張った」パフォーマンスの成果もあり、彼女が認めてくれる。「契約成立」もいよいよ目前だ。
 問題は、どうやってこの「梯子」を下りるか、だった。それ自体はそれほど難しいものではない。文乃は「高所恐怖症」ではなかったし、高い所はそれなりに平気だった。あるいはそれも、「女はすぐに怖がる」という大衆の意見に対抗したものなのかもしれない。
 だが今の文乃は、それとは別の「問題」を抱えていた。すなわち、上る時と同じような「失態」を繰り返してしまわないか、という不安だ。
――これ以上「漏らして」しまったら…。
 さすがにショーツの「許容量」を越えてしまうかもしれない。そうなってしまったら――、文乃の「おチビり」が白日の下に晒されてしまう。それだけは何としてでも避けなければ――。

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