おかず味噌 2020/04/30 03:56

いじめお漏らし 奇襲編

「だから――、何度言ったら分かるのよ!!!」

 オフィスに「怒声」が響き渡る。一瞬、室内を「沈黙」が支配し「時」が止まりかけたが、すぐに皆は自分の仕事に戻る。「我関せず」というように。下手に反応したり、「横槍」を入れたりして、怒りの「矛先」を自分に向けられるのだけは、誰もが御免だった。
「こんな資料のまとめ方で、どうやって『先方』に説明しろって言うわけ?」
 荒ぶる声の主は――、入社十四年目、今やこの「総務課」において、最長の入社歴を誇る「大ベテラン」の「長野京子」だった。
 齢三十六。かつてはそれなりに「男」の目を引くような美貌を持ち合わせていたが、経年による「劣化」のせいか、あるいは苦労の積み重ねを表すように刻まれた「皺」のせいか、今となってはその「美貌」はすっかり影を潜めている。それでも、「栄華」を極めた「過去」にすがるように年々化粧は「分厚く」なり、けれどここ何年も「ご無沙汰」のためか、塗りたくっただけの化粧は「雑」になり、影で若手女子社員達から「美容家(笑)」としての称号を拝命している。

――やれやれ、また始まった…。
 皆、思うことは同じだった。それはこの課において「日常茶飯事」だった。
 本日の「犠牲者」は「本田絵美」だった。
 絵美は大学卒業と同時に今の会社に入り、今年で二年目になる。学生時代は「テニスサークル」に打ち込み、「飲み会」や「合コン」三昧の日々とは打って変わり、アルバイト経験もわずかしかない彼女にとって、「仕事」というものは不慣れでありつつも、二年目になってやっと勝手が分かり始めてきた。まだ「知らないこと」や「分からないこと」も多いけれど、人当たりがよく「愛嬌」のある彼女を周りは受け入れ、優しく指導してくれる。ある「一人」を除いては――。
「すみませんでした…」
 絵美は謝った。その謝罪は「本心」半分、「不満」半分だった。確かに「ミス」をしたことは認める。だけど、「何もそこまで怒らなくても」というのが本音だった。そして、そんな心のこもっていない謝罪だけで、この場が収まるわけのないことを彼女は十分に理解していた。それもまた、彼女がこの二年で培った「経験」の一つだった。
「『すみません』で済むと思ってるの?」
 案の定、答えようのない「問い」が返ってくる。絵美は思う。
――「済まない」と思ってるから、「すみません」と言ってるじゃん…。
 だけど、もちろん「心の声」を言葉にすることも、表情に出すこともしない。今はただ、下を向いて「反省」を装いつつ、この時間が過ぎるのをじっと待っている。
「私、いつも言ってるわよね?分からないんだったら、ちゃんと訊きなさいって」
 その言葉自体は確かに「正論」だった。だけど、実体の伴っていない「正論」を果たしてそう呼べるのだろうか。
――だから、私ちゃんとやる前に訊いたし…。
 確かに絵美は、仕事に取り掛かる前に一応、先輩である京子に「お伺い」を立てたのだった。「まとめる資料はこれで全部ですか?」「グラフの挿入の仕方が分からないから教えてください」と。けれど、そんな絵美の姿勢に対して京子はこう言ったのだ。
「何でも人に訊かずに、自分で考えなさい」
 と。それもまた「正論」ではある。正論であるからこそ、彼女に反論の余地はなかった。そして「自分なりに必死に考えて」やった結果が、これだ。
――じゃあ、どうしろって言うのよ?
 絵美は心の内で反論を試みた。それが今の彼女にできる精一杯の「反抗」だった。けれど、それが良くなかった。京子はそんな、彼女の心の「動き」を見逃さなかった。敏感に「反抗心」を感じ取る。

「何よ?その態度」
 もちろん絵美の内心が、あからさまに「態度」に出たわけではない。それでも京子は、それを決して許さなかった。
「てか、あなた入社何年目?」
 京子は訊く。
「二年目です…」
 絵美は答える。それは「答えようのない問い」ではなかったけれど、それでも「嫌々」なのは隠せなかった。
「へぇ~、『二年目』ね~」
 わざとらしく、繰り返す。その言葉の端々に、「見下した」ような響きを隠そうともせず。絵美はこの「続き」におおよそ想像がついた。間もなくそれは「再現」される。
「私が入社二年目の時は、これくらい上司に訊かなくたってできたわよ?」
――出た!自分が新人の頃は出来ましたアピール!!
 絵美は自分の予想通りの結果に、思わず吹き出しそうになった。だけどもちろん、そうするわけにはいかなかった。彼女は唇をぐっと噛み締めた。
「要は、仕事に対する『意識』の問題なのよ」
 京子は諭す。絵美にはそれが欠けているのだと。だけど、彼女は知っている。「課長」や、社内の他の課のベテランから聞かされた「真実」を。

「へぇ~、あの長野がね~」
「アイツ、入社して何年かは本当に仕事できなくて――」
「仕事に対する『やる気』もなくて――」
「毎日、男性社員に『色目』使うことしか考えてなくて――」
「ミスも多いし、そのくせプライドだけは『いっちょ前』で――」
「何で『人事課』はあんな奴採用したのかって――」
「この会社始まって以来の『問題児』だってよく言われてたんだから!」

 絵美は「新人時代」の京子を思い浮かべた。当時の、毎日叱られてばかりの彼女を、それでも一部の男性社員からは熱烈なアプローチを受けていた彼女を。だけどその想像は、上手く「像」を結ばなかった。まるで遠い昔の「歴史上の人物」に思いを馳せるみたいに、「実体」を持たなかった。
 二十代前半の絵美にとって京子は、無駄に歳を重ねただけの「オバサン」に過ぎず、たとえかつては「若かった」のだとしてもそれは「過去の遺跡」に過ぎず、いわゆる「お局様」として敬遠され、いくら彼女が見え透いた「見得」を張ろうと、逆に若手社員に見下されるだけの「遺物」に過ぎなかった。
――今日は「何分」くらいかな…?
 絵美は、京子の隙を伺いながら、チラリと時計を確認した。果たして本日の「お説教タイム」はどれくらいかと、記録を測る。絵美は知っている。今日の京子は朝から機嫌が悪かった。というより、いつも不機嫌で「ブス」っとしているのだけど、今日は特に「虫の居所」が悪いらしかった。
――長くなりそうだな…。
 絵美はうんざりしつつ、心の中で「溜息」をついた。だが、彼女の予想に反して「お説教タイム」は、突如として中断されることになる。「ある人物」の登場によって――。

「それくらいにしてやったら、どうだ?」
 誰もが見て見ぬフリをする中、自ら進んで「渦中」に飛びこんできた者がいた。それは男性の声だった。絵美は俯いていた顔を上げた。そこには「課長」の姿があった。
 総務課の課長である○○はいわゆる「エリート」の部類に入る人間で、その「役職」を与えられる者としては若く、絵美が入社しこの課に配属されたのとほぼ同時期に「課長」に就任した。比較的「温厚」な性格の持ち主で、部下からの人望も厚く、彼が声を荒げたり部下を叱責するのを見たことのある者はいなかった。
 もちろん、京子より「年下」で入社歴も彼女より浅く、つまり彼女としては後から入ってきた者に「キャリア」を追い越されたことになる。それについて彼女がどう思っているのかは分からないが、彼女の事だからきっと「ハラワタが煮えくり返りそう」なくらいの「嫉妬」や「恨み」を抱えているに違いない。それでも京子の課長に対する態度は、そうした「負の感情」を少しも感じさせないものだった。
「課長~」
 さっきまでの「怒声」が嘘かと思えるくらい、京子の態度が一変する。一体彼女のどこからそんな声が出ているのか不思議なくらい甲高く、甘えたような声で、語尾には「ハートマーク」さえ付きそうだった。絵美は「吐き気」を催した。
「違うんですよ~、本田さんが私の言った通りにやってくれないから――」
 課長の前では「さん付け」をする。
「だから、ちょっと『注意』していただけなんです」
 あくまで「叱責」ではなく、「注意」だという。
「てか、これじゃ何だか私が『悪者』みたいじゃないですか~!」
「悪者」でなければ、お前は一体「何物」だと言うのだ。
「まあ、後輩の『指導』はこれくらいにしておいて――」
 それにしては、ずいぶんと長かったけれど。
「本田さん。次からはよろしくね」
 口角を不器用に吊り上げて、京子は不気味な笑みを浮かべた。絵美は背筋に空寒いものを感じた。京子は去っていく。
「私みたいに『優しい先輩』ばっかじゃないんだからね」
 去り際に、「余計な一言」を付け加えることを忘れずに。その場に取り残された絵美は課長と目を合わせて、「苦笑い」を浮かべるしかなかった。
 何はともあれ、これでひとまず絵美は「苦難の時」を乗り切ったのだった――。

 昼休み。いつも通り「一人ぼっち」の昼食を終えた京子は、「ある場所」に向かう。思えば、もうずいぶん長いこと、誰かと一緒に食事なんてしていないような気がする。
 京子の向かった先は――、「トイレ」だった。個室に入り、鍵を掛けて、きついスカートのホックを外し、ストッキングとショーツを同時に下ろし、大した「期待」もせずにしゃがみ込む。
 便器にまたがり、思いきり腹に力を込める。「肛門」が開き、奥の「モノ」をひり出そうと試みる。
――プスゥ~。
 手始めに「ガス」が放出されて――、それで終わりだった。肝心の「ブツ」は、うんともすんとも言わない。京子は「便秘」だった。
 京子は溜息をついた。誰かに向けた「失望」ではない。あえて言うなら、それは自分に向けられたものだ。もう三日間、京子は「排泄」を出来ていない。
――なんで…?
「三十路」を越えてからというもの、京子は食生活にはそれなりに気を遣っていた。「二十代」の頃は、好きなものを好きなだけ食べていたが、ここ数年、お腹の「たるみ」が気になり始めていた。少しは「痩せないと!」と思いつつも、長年染みついた食生活はそう簡単に改善できるものではなく、「今日だけ…」「明日からダイエット!」という甘い囁きに何度も屈した。そして結局、「誰かに見せるまでに痩せればいい」という極論に行き着くも、若くて男性に相手にされた頃とは違い、今や男性に見向きもされなくなった彼女にとって、その「機会」は一向に訪れる気配もなく、延々と「先延ばし」にした結果がこれだ。
 かつては「抜群」とまではいえないまでも、「それなり」のプロポーションを保っていた京子の体には醜い「脂肪」がたっぷりと付き、それが「加齢」と「重力」によって垂れ下がり、さらなる「醜さ」を表していた。

 それでもここ数日は、少しでも「快便」になるのを期待して、野菜を多く摂るようにしていた。京子は元々野菜が好きな方ではなかったが、いつもの食事に追加でサラダを買って、無理してそれを食べた。それなのに――、「うんち」は彼女の性格と同じく、「凝り固まった」ままだった。
――どうして、私ばっかりこんな目に合わなくちゃいけないの?
 京子は考える。思えば自分の人生は、「不条理」と「不平等」の連続だった、と。周りと同じように、いやそれ以上に努力しているつもりなのに、なぜか「自分ばかり」結果が出ない。普段は適当にやっているくせに、ここぞという時だけ努力し、あとは持ち前の軽薄さとノリの良さだけで乗り切る連中ばかりが評価される。かといって、自分が連中の真似をしようと試みると、なぜか「自分ばかり」叱られる。まったくもって「不条理」だ。
――それもこれも、私が「ブス」なせいだ。
 京子は「自分ばかり」が不遇な扱いを受ける原因を、いつからか自分の「容姿」のせいだと断定することにした。自分の容姿が悪いせいで、仕事が、恋愛が、受験が、就職が、「全て」が上手くいかない。京子はいつしか、そう思い込むようになった。学生時代はその容姿が原因で、酷い「いじめ」に遭ったこともある。その当時はそんな自分の容姿を疎み、そのような姿に産んだ母親を憎んだりした。けれどある時点から、京子はそんな自分の考えを改めた。
――全ては「周り」が、「世間」が、「社会」が、「世界」が悪いんだ。
 京子は開き直ることにした。悪いのは「自分」ではなく、「周囲」なのだと。自分は何も悪くはないのだ、と。そう考えることで、少しだけ心が軽くなった気がした。
 そして、大学に入って「メイク」を覚え、自分の醜い容姿を化粧によって多少はごまかせるようになり、さらに一時期ハマった「ダイエット法」が功を奏し痩せたおかげもあり、これまでの人生では無縁と思っていた「異性」と初めて交際したことで、やがて彼女の中の冷たい「氷」が少しずつ溶かされていった。
 苦難の「就職活動」の末、「七社目」にしてようやく掴み取った「内定」。大して「やりたい事」でも「好きな事」でもなかったけれど、京子に「選択権」はなく、結局流されるままに、今の会社に入ることになった。そこには、京子の今までに「知ることのない世界」が待ち受けていた――。

 なんと、京子は男性に「モテ始めた」のだ。
 自分から行動を起こしたわけでもないのに、何人かの男性から言い寄られるようになった。最初は、学生時代によくあったみたいに、ただ「からかわれているだけ」なのかと怪訝に感じていた。けれど、違った。自分にわざわざ話し掛けてくる「異性」の後ろに、嘲笑を浮かべる「同性」の姿はなく、そこには彼女をいじめる者はいなかった。
 今にして思えば、それは京子の人生において唯一ともいえる「モテ期」というやつで、彼女にとってごく限られた「栄光の時代」だった。
 失いかけていた――とっくに失われていた「自信」を取り戻したことで、京子は変わった。まず、「身なり」に気を遣うようになり、学生時代は人の目が怖くて絶対に行くことができなかった「美容室」に通うようになった。金と労力を支払うことで、「醜い自分」が確実に「綺麗」になっていくのが嬉しかった。
 服や持ち物、下着に至るまで、なるべく高い「ブランド物」を買うようにした。これまで「お洒落」とは無縁だった彼女にとって、「高い物=良い物」という方程式は絶対的だった。
 京子は貰った給料のほとんどを「ファッション」に費やすようになった。当然、一介のOLにとってそれは手痛い出費となったが、そのぶん生活費を切り詰めることで何とかやりくりした。それに、当時の彼女には「ご飯」を奢ってくれる男性が「星の数」とは言えないまでも、「惑星の数」くらいはいた。そして、出費がかさむことで、ならばもっと仕事を頑張って出世しよう、という「前向き」な考えさえ、彼女には芽生えた。
 ところが、頑張れば頑張るほど、一生懸命になればなるほど、彼女の仕事は空回りした。至らぬ「ミス」が積み重なり、上司から叱責されることも増えた。すると、これまで京子のことを「憧憬」の目で見ていた同性たちからの評価は途端に失われていった。それでも彼女に「焦り」はなかった。
――自分にはまだ言い寄ってくる『男性』がいる。
 それが彼女の自信を担保し、彼女自身を甘やかしていた。
 やがて「同僚」たちは出世していき、あるいは「結婚」して退職していった。同じ課から「先輩」が徐々に減り、代わりに毎年「後輩」ばかりが増えていった。
 最初の頃、京子は後輩に対してなるべく温厚に接するよう心掛けていた。決して「理不尽」に叱ったりすることなく、「良き先輩」であろうと努めていた。

 だが、ある時京子は耳にしてしまった。自分のことを慕ってくれていると思い込んでいた「後輩」が、彼女の居ないところで自分の悪口を言っているのを。
――結局、何も変わらないじゃないか…。
 京子は失望した。自分が少しでもマシな存在になろうといくら努力しても、結局「あの頃」と何も変わらないのだ、と。「大人」になったことで「直接的」な悪口や嫌がらせは無くなったものの、ただ「間接的」、「陰湿的」になっただけで、その本質は変わらない。京子は下ろしかけていた「荷物」を抱え直し、脱ぎかけていた「鎧」を再び身にまとった。
――信じられるのは「自分」だけ。
 京子がそんな「結論」に行き着いたのは、すでに誰からも相手にされなくなった「三十路」一歩手前の頃だった。その時点ですでに、京子から外見の「美しさ」は失われていた。まだ「異性の目」を意識していた頃――、毎日セットしていた髪は櫛も通さずボサボサで、家事はほとんどしないのに手はカサカサで、若い頃に買い「勿体ないから」と捨てられずにそのまま着ている服はサイズが合わずパツパツだった。
 そして、京子は昔に――醜かった自分に、「後戻り」することになった。「一時期はモテた」という唯一の「優越感」を大事に抱えたまま――。
 元々、京子の「自信」は、自らの内側から「自発的」に芽生えたものではなかった。それはいわば、周囲からの評価の変化によって「自動的」にもたらせられたものだった。他者からの「評価」が無くなれば、立ちどころに失われてしまう頼りないものだった。それに、いくら多少の「自信」が生まれようと、彼女が長年抱えてきた「劣等感」を完全に払拭することまではできなかった。
――全部、周りが悪いんだ。私は何も悪くない。
 そうして、京子は全てを「他人のせい」にすることで、責任を転嫁することで、今日まで生きてきたのだった――。

 だが、今回ばかりは「誰のせい」にもすることはできない。「便秘」、それは他ならぬ「彼女自身」の問題であり、全ては彼女自身の中にその原因があった。
 いや、そうとも言い切れないかもしれない。京子はある「可能性」について思案してみることにした。便秘は確かに、「食生活」にその主な原因があるのだろうけど、それだけではない。「ストレス」によってもたらされることもある。何かの雑誌やテレビ番組で、そんなことを聞いた気がする。もしそうなのだとしたら――。
 自分のこんな苦痛を与えている原因は、「他人」ということになる。より具体的に言えば、「使えない部下」、「やる気のない後輩」である。彼女たちのせいで、自分ばかりがこんな目に遭っているのだ。
 そう考えると、京子は段々とムカついてきた。いけない、それがさらに「便秘」を悪化させるのだ。けれど、そうと分かっていても京子はその感情を抑えることができなかった。
――アイツらのせいで、どうして私ばっかりが…。
 苛々を込めて、京子はもう一度だけ思いきり括約筋に力を入れた。
 京子の肛門が「火山」のように盛り上がる。「火口」から「マグマ」と呼ぶべき「排泄物」が顔を出す。だが、それは冷えたマグマのように「強固」で、決して「噴火」してはくれない。京子が力を緩めるのと共に、「うんち」は再び腸内の奥深くに引っ込んでしまった。
――どうして、出てくれないのよ!
 もう少しなのに。もう少しで出せそうなのに。それは「頑固」に腸内に留まったままだった。「力の入れ方」を変えてみたところで、絞り出されたような醜い「屁」が出るだけだった――。

――はぁ~~~。
 京子は長い溜息をついた。今日もダメだった。一体いつになったら、私の「うんち」は出てくれるのだろう?もしかしたら、ずっとこのままなんじゃ…。
 京子は危機感を覚えた。けれど、「まさかそんなはずはない」と自分に言い聞かせる。
 いつかは出てくれるはず。けれど、それまでがツラい。「排泄欲求」を感じつつも、決して排泄できないという苦痛。お腹の中にずっと「異物」が溜まっているという感覚。肌の調子も心なしか悪いような気がするし、お腹だっていつも以上に出っ張ってしまっている。「うんち」をため込むことで、自分がより「醜く」なってしまったような、まるで自身が「うんち」になってしまったような、そんな気さえした。
――「浣腸」とか使った方がいいのかしら…?
 京子は考えた。自然にして出ないのなら、何らかの手段を講じるしかないと。けれど、それは「諸刃の剣」だった。「浣腸」というものが、どれほど恐ろしく、効き目のあるものかを京子は身をもって知っている。京子は思い返す。高校生の頃の「記憶」を――。


 当時の京子もまた同じように、「便秘」に悩まされていた。というより、それは彼女自身の体質による部分も大きく、「暴飲暴食」を繰り返していた二十代のある「一時期」を除いて、彼女の人生は「排泄の悩み」と共にあった。
 そして、長年続く「悩み」に耐えかねた京子はついに、新たな「一歩」を踏み出すことにした。薬局でそれを買うのは恥ずかしかったが、そもそも人と接すること自体が苦手だった当時の彼女にとってそれは、せいぜい「度合」の問題でしかなかった。
「浣腸」を買った京子は、早速それを試すことにした。「取扱い説明書」さえロクに読まずに、朝起きて一番にそれを「注入」した。
――全く効果が、なかった。
 と、失望した京子はそのまま学校に行くことにした。「無駄遣い」を惜しみつつ、徒労を省みつつ――。京子が強烈な「便意」に襲われたのは、それから数分後だった。
「お腹痛い…」
 その時、京子は電車に乗っていた。周りは、同じ高校に通う生徒ばかりだった。ほとんどの者が「友人」と談笑しているにも関わらず、彼女は「一人」だった。
 だけど、今ばかりはその方が都合が良い。京子は思った。今はとても誰かと話している余裕はない、と。
 京子は耐えた。普段はあれほど「出したい」と踏ん張っている括約筋を、まさか「出すまい」と使うことになろうとは――。
 京子は堪えた。電車のわずかな振動さえ、今の彼女にとっては「命取り」だった。「ガタン、ゴトン」と揺れる度に、「ガス」が、「実」が少しずつ漏れ出してくる。だけど、まだ「全部」が出たわけじゃない。生徒たちは誰も京子の「異変」には気づかず、「お喋り」を続けている。
 そして、京子たちの通う高校の「最寄り駅」に着いたとき――「油断」したのだろうか――彼女の肛門は緩み、ついに「崩落」を迎えた。

――ムリュリュル…!!

 パンツの中が「熱く」なり――それは「温かい」なんて易しいものではなかった――「うんち」が溜まっていく。「ダメ!!」と分かっていても、止めることなんて出来ない。それは次々に生み出されていく。「どうか誰にもバレないで!!」というのも無駄だった。パンツの中に収まりきらない「うんち」は、やがて床にもこぼれ落ち、「衆人環視」に晒されることになる。
――きゃあああ~!!!
 最初に気づき声を上げたのは、京子の最も苦手な――毛嫌いするタイプの「女子」だった。
「うわっ!アイツ「うんこ」漏らしてね!?」
 そして、男子が「拡散」する。京子が「脱糞」したという事実を。しかも「電車の中」で、「大便」を、漏らしてしまったという現実を――。

 京子の「お漏らし」の噂は、すぐに学校中に広まった。まるで「連絡網」のように、余さず全員に伝わった。
 それには彼女の「脱糞」のせいで被害を被った、ある「企業」の存在もあった。
 彼女が電車内で「脱糞お漏らし」をしたことで、健気に走る「ローカル線」は一時「運休」を迫られたのである。

「△□線、一時運転見合わせ。原因は女子高生の『脱糞』か!?」

 そのような記事が「地方紙」に載ってもおかしくなかった。ただでさえ「事件」の少ない田舎にとって、それくらいの「大事」だった。けれど、さすがに京子の「脱糞お漏らし」が記事になるなんてことはなかった。
 それでも、翌日には学校中の「全員」が、京子の「失態」を知っていた。そのとき彼女は、「情報伝聞」の恐ろしさを痛感したのだった。
 京子には自らの犯した「過ち」に相応しい、まさに「身から出た錆」とも呼ぶべき「汚名」が与えられた。

「うんこちゃん」、「お漏らし女」、「脱糞姫」――。

 次々と名付けられる「愛称」と浴びせられる罵声に、京子はじっと耳を塞いでいることしかできなかった。
 すでに「いじめ」の対象となっていた彼女に対して、「加害者」たちはまさに格好の「材料」を得たのだった。そして、「一人ぼっち」の彼女を庇ってくれる者は、誰一人としていなかった――。


 そんな「トラウマ」があるせいか、京子は「浣腸」を使うことを忌避していた。
――もし、またあの時みたいに「失敗」してしまったら…。
 会社において、「トイレ」に行けない場面というのはそれなりにある。もし、その時に「便意」を催し、「限界」を迎えてしまったら――。
 京子はあれ以来、一度も「浣腸」を使用することはなかった。だけど、今回ばかりはさすがに――。
――このまま「出ない」苦しみに苛まれるくらいなら…。
 京子は思う。自分はもう大人なんだ、と。自分の体質とは長年付き合ってきたのだ。だからこそ大丈夫だ、と。もう「失敗」はしない、と。
 それに、いくら「会議中」などとはいえ、その気になればトイレに行かせてもらうことはできるはずだ。何たって、それは「生理現象」なのだから仕方がない。まさか「禁止」されるなんて、そんな「パワハラ」「セクハラ」じみた命令をされることはないだろう、と。
 京子は考える。
――そうだ、家に帰ってからなら…。
 帰宅してから次の「出社」までには、さすがに「便意」は訪れてくれるはずだ。その間は彼女にとっての「自由時間」だ。何に阻まれることもなく、いつだってトイレに駆け込むことができる。
 あの時は、「浣腸」の時間差による「効き目」をよく知らずに、自ら「閉鎖空間」に飛び込んだからこそ、あんなことになったのだ。浣腸の「恐ろしさ」を知っている今なら、きっと――。
――今日、帰りに「浣腸」を買って帰ろう。
 京子は決意した。それによって、この長い「苦しみ」からは、たとえ「その場しのぎ」であろうとも、「おさらば」することができる。彼女の中に「光明」が差した。
 そうと決まったら、ここで無理に「出す」必要はない。京子はトイレットペーパーを取り、自分の尻を拭いた。ペーパーには何も付かなかった。「うんち」は奥底で眠ってしまったらしい。それを呼び覚ますのは「今夜」だ。
 京子が「空白」の便器を水で流し、ショーツを履き直し、ストッキングを整えるために立ち上が――り掛けたその時。個室の外から「話し声」が聞こえてきた――。

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