尾上屋台 2017/05/04 08:05

扉の奥は、タイ料理屋だった

初めて、一人で外食したのは、確か浪人生の時の、あの店だと思う。

意外とね、一人で外食する機会って、それまでなかったんだよね。
親がいない時なんかは、ファストフードだったり、弁当屋だったりかな、そういうとこで持ち帰りで買って家で食べてたもんだから、一人で外食する機会ってのは、それまでなかった気がする。
家族か、友人と連れ立ってしか、外食する機会って、なかったのよ。

何気にさ、今でこそ慣れてしまってなんてことはなくても、初めて一人で外食するのって、それなりに勇気がいたんだよ。
あくまで、当時はってことだけど。
まあファミレスみたいなとこだったら、そうでもないのかなあ。
最近は明るい雰囲気の店が多いんで、女性でも気軽に一人で入れるような店が増えたんで、そういう感覚を経験する人ってのは、少なくなってきたのかもしれないね。

ともあれ、俺が初めて一人で外食したのは、予備校生になって、間もない頃だった。
ちなみに、東中野にあるその小さな予備校に通い始めた春休みは、昼休みに一緒に食事をする子がいたんだ。
よりにもよって、女の子だよ。
男子校上がりの自分が、よく女の子誘えたなあと思うけど、その話はまた別の機会にしような。
女の子にまったく慣れてなかったから、ものすごい緊張してたけどね(笑)。
けど、その女の子は高校生で、浪人生の自分は、春休みが明けた後は、一人で食事をすることにしたんだ。
えらい少人数の予備校とはいえ、既に出来上がってるグループはあって、そちらに合流する手もあったと思うんだけど、これもまたいい機会だと思ってさ、一人で昼飯をとることにした。
何がいい機会かって、当時の俺は、基本的に今まで経験したことないことに、すごく貪欲だったからね。
一人で外食したことないなら、これぞ絶好の機会ってことだよ。

一軒、目をつけていた店はあった。
これは通学路(?)の途中にある店で、大通りに面しているにも関わらず、注意しないと見落としてしまうような店だった。
なんかね、一応通りに面したところに入り口はあるんだけど、一見普通の家のような感じなんだよ。
その通りに、他に店はないんで、その点でもちょっと異質だったな。
門みたいのはないし、平屋だし、まあ店といえば店なんだけど、店内の様子が、まるでわからない。
表にメニューを書いた看板があって、ああ、ここは食事できる店なんだって感じ。
タイ料理の店だったね。

今考えると、初めての外食にしては、やけにハードル高いなあ(笑)。
もっと入りやすい店なんて、いくらでもあるだろうに。
そこはそこ、冒険心なんだよな。
最初にハードル低くしちゃうと、ゴールが見えてないものって、その低いハードルのままで終わっちゃうことがほとんどじゃない?
「外食道」みたいのがあるわけじゃなし、ゴールみたいのは、そもそもないんだから。
ゴールのあるものは逆にできるだけ低いハードルから入った方がいいことが多いんだけど、これは逆だからねえ。
まあ、こういう滅茶苦茶入りづらいとこに最初に入っとけば、大抵の店に入るのに、おかしな勇気振り絞る必要はないだろうと、十八歳の俺は考えていたんだろうなあ。
あと何でも言えることだけど、「初めて」ってのは、できるだけ若い内に済ませておいた方がいいよな。
ある程度の歳になると、それまでの自分の人生でやってこなかったことって、すごく些細なことでも、そうそうやらなくなってしまうものだから。
俺は今でも気をつけて、できるだけ初めて、新しいものに触れようと意識してるけど、意識しないと、ある歳から人生がルーティーンになってしまう、そんな大人はそれまでの短い人生でも、いくらでも見てきたからさ。
と、話がずれ始める前に戻すと、ともあれその日の昼休み、意を決して、俺はその店の中に入ることにしたんだ。
扉のノブに触れた時、やっぱ鼓動は激しくなっていたよね。

店内は、思ったよりずっと狭く、カウンター席しかなかったよ。
五、六席ってとこだったかな。
客は、二、三人。
ただ、内装は白を基調としてたんで、暗い雰囲気の店ではなかったな。
「いらっしゃい。好きな席どうぞ」って、カウンターの向こうのお姉さんが声掛けてくれて。
当時三十歳くらいだったのかなあ。
十八歳の俺には、すごく歳上に見えたんだけど。

ランチがいくつかあったんでね、とりあえず俺は、タイカレーのセットを頼むことにした。
値段を覚えてないんだけど、決して裕福ではない俺が頼めたんだから、結構安かったと思うよ。

ちなみにもうひとつ、俺はそれまで、タイ料理というものを食べたことがなかったんだよね。
これも今からだと考えづらいだろうけど、当時タイ料理って、まったくもって無名だったからね。
周りでも、タイ料理食べたことある人間なんて、一人もいなかったよ。
かくいう俺も、タイ料理って、聞いたことはあるけど何なんだろうみたいのが結構あって、それを体験したいってのがあったからさ。
パクチーを初めて食べたのも、この店だった。
当時は、それがなんなのかすらわからなかったわけだけど、それまでまったく口にしたことのない味だったから、びっくりしたよねえ(笑)。

今振り返っても、かなり本格的なタイ料理の店だったんだろうね。
初めて食べたタイカレーは、それはそれは辛かった(汗)。
こんな辛い食べ物があるのかって感じで。
水を何杯もおかわりしたよ。
でも辛さに慣れてくると、その奥に隠れている美味さに、気がつくんだよね。
美味かったよ。
こんな料理もあるのかと、感動すらしたなあ。

その後しばらくは、この店を、昼飯のメインにしていた。
今でも浪人生の頃を思い出す時、頭に浮かぶ景色のひとつは、この店でジャンプ読みながら、食事ができるのを待っている光景だよ。

いわゆる激辛ブームってのが来る、いわばその前夜のような時代でもあったね。
一ヶ月もすると辛さにもすっかり慣れて、水なしで普通に食べてたな。
二日に一度はこの店で食べてたんで、すっかり常連みたいな感じになってね(笑)。

ただ、この店に通い続けたのは、夏休み前までだった。
この店は夜もやってて、まあ普通に考えればそっちメインのはずなんだけど、売り上げが当初思ってたよりも、ずっと高かったそうなんだ。
で、この店、夏にもっといい立地の所に、移店することになったんだよね。
記憶が定かじゃないんだけど、荻窪か、中野辺りだったかなあ。
こんな、周りに店もないような辺鄙な場所じゃなくてね。
「今までありがとう」って店のお姉さんに言われた時、なんとも切ない気持ちになったよ。

その話聞いてからは、ずっとその店でランチをとっていたよ。
こちらの方が先に夏休みに入ってしまって、当然夏期講習までそこには行ってなかったんで、最後の営業日がいつだったのかは、ちょっとわからなかったなあ。
でも、夏期講習が始まってからそこを通りがかった時、もう店は閉まってたよ。

今ではタイ料理も当たり前に食べられる時代になったし、俺もどこか知らない店にふらっと入るのに、何の気構えもなくなってしまった。
それでも、今でも昨日のことのように思い出してしまうな。

あの浪人生の頃の鬱屈とした気持ちを、その時だけでも吹き飛ばしてくれた、本物のタイ料理の辛さをね。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

限定特典から探す

記事を検索