投稿記事

浪人生だったの記事 (4)

尾上屋台 2018/02/10 18:39

その時のこと

物心ついた時から、俺の親父は入退院を繰り返していた。

親父が元気だった頃の記憶ってのはだから、俺が小さい時の記憶だったりするんだな。
まあ、それについてはいずれまたここで。

親父が初めて地を吐いて倒れたのは、俺が浪人生の時だった。
その日のことは何故かそれ以前のこともよく覚えていて、確か東中野の駅前にあった時計屋で、腕時計の電池を替えてもらったことなんかも覚えてたりするんだよね。
ともあれ家に帰ってしばらくすると、親父の部屋の方から、なにか物音が聞こえたんだ。
テレビの音とも違うみたいだしと様子を見に行くと、親父がゴミ箱に吐いているところだった。

まず、匂いで気づいた。
吐瀉物の匂いじゃないんだよな。
あの鉄っぽい感じの、血の匂いだった。

お袋も家にいたんで、すぐに救急車を呼んで。
比較的近所の病院に運び込まれたので、俺もすぐに後を追って、付き添いを代わることになった。
ちょっと話ずれるけどさ、当時携帯電話とかもなかったんで、こう、上手く連絡取り合ってみたいのって、今に比べると結構困難だったよね。
どっちかが家にいて、連絡を待ってみたいなのが、双方動いてたりすると、連絡取り合うこと事態が大変なんだよ。
ま、この時はさほど苦労せず、いや、病院を見つけるのに多少苦労したけど、無事付き添いの引き継ぎはできたってわけ。

で、吐血はどうやら胃に穴が開いたからということらしく、ベッドに横たわった親父は、鼻にチューブをつけていた。
そこからとめどなくベッド脇に吊るされた袋に血が流れ込んでいて、これは大変なことになったと、あらためて思わされて。
明朝に手術ってことになったんだけど、それまで生きてられるのかって思ったよ。
まあ輸血はしてるわけだけど、袋の中にみるみる血が溜まっていくわけだから。

ちなみにそれまで親父が入退院を繰り返していたのは肝臓が原因で、この時とは状況が違うし、いきなり救急車を呼ぶような事態とも違ってたんだよね。

この日の夜は、えらく長く感じたよ。
ちなみにお袋の方はというと締め切り間近の仕事を抱えてて、そのまま徹夜で仕事してた。
親父の意識はあって、何かこちらに伝えようとするんだけど、チューブのせいで、よくわからなかった。
あと、意識混濁も大分ある様子だったかなあ。
これ取ってくれってチューブを抜こうとするんで、まあそれを見張ってるって感じだったよ。

で明朝、手術になった。
この時まであまり徹夜の経験がなかったもんだから、俺の方はもうフラフラだったなあ。
手術中、どうしてたかってのは、あまり覚えてない。
でも手術前に医者から、助かる見込みは半々だって言われたのは覚えてる。
それなりに時間のかかる手術だったような気がするけど、この間どうしてたかって記憶は、前日の記憶が明瞭だったことに比べて、ほとんど覚えてない。

ただこの時になってようやく、親父死ぬのかもしれないなって思った。
変な話、頭じゃ上手く理解できないというか、なにか他人事のような気がしていたな。
実感がないっていうか。
でもさ、手が震えてるの自覚したりとかして、なんかこう、上っ面じゃない部分では、そのことを理解してたのかもしれない。

手術は、成功だった。
医者がちょっとご機嫌な様子でやってきて状況を説明した後「どんな様子だったか見てみます?」とか言って、切り取った胃を持ってきたんだよな。
いや、別に見たいとか言ってないんだけど(笑)。
で、医者が持ってきた胃の一部には、ばっちり十円玉くらいの穴が開いててね。
それ見て、うわ、こんな状態だったのかって。
よくこれで生きてたなあってくらい。

ともあれ、この時の医者には感謝してる。
五分って手術を生き残る方に持っていってくれたんだから、文字通りの命の恩人だよな。
いや、命を救う職業ってのは、本当にすごいと思った。
この時の俺は既に夢を持っていたからそっち側に引っ張られることはなかったけど、もし俺に夢がなくて、家に金があったら、医者を志していたかもしれないよね。
まあ、現実は逆だったんで、そうはならなかったってことさ。

胃に関しては、とりあえず一命を取り留めた親父だけど、実はもうこの頃には、肝臓の方も限界に近かったんだよな。
この後、俺が大学に入った後に親父は他界するわけだけど、実はこの先の方が色々大変なことになるとは、この時の俺には予想できなかったことで。

ま、その大変だった話ってのは、いずれまたすることにしよう。
また、思い出した時にでも、この続きを話すことにするよ。
まだ君の親父が存命だったら、大切にしような。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

尾上屋台 2017/05/08 07:54

マッチョドラゴンの担々麺

前々回の記事で、俺が浪人生の頃、タイ料理の店によく通っていたということを書いた。
他にも、東中野には結構通ってた店が多かったんだよ。
むちゃくちゃ美味い!みたいのはこの記事の最後に書くとして、当時俺がよく行ってたのは、例のタイ料理屋を除くと、四軒くらいかな。

西の方、でいいのかな、東中野知ってる人は、駅から大きな道挟んでちょっと行ったとこに、商店街があるのがわかると思うんだけど。
そこの洋食屋には、よく行ったかな。
狭い店で、いつも昼休みにはテレビで「笑っていいとも」流しててね(笑)。

この店で、多分生まれて初めてチキンカツってヤツを食べたんだけど、これが結構イケる。
ランチは色んな種類があったと思うんだけど、一通り食べた後は、ずっとこれを注文してたなあ。
割合チープな店構えだったんだけど、まあ俺はこういうとこで食べるのが結構好きで。
女の子連れてはなかなか行けないけど、一人だったり男同士だったら、こういう店選んで食べることが多いよ。
ただね、こういう話すると、結構行きたがる女の子は多かったりするんで、そういう子とは、ちゃんとした話ができるような気がするな。
いや、ちゃんとしたって何だよって話だけど。

でもあれよ、パッと見冴えなかったり、あまり綺麗じゃないなって感じの店は、こと食事する所に関しては、美味い店が多いよな。
雑誌で紹介されるような小綺麗なとこってのは、どうも雰囲気で流し過ぎっていうか、美味さで勝負できる店は、ホント少ないと思うよ。
この洋食屋は、そういう意味で、ちゃんと食事するところって感じだった。
もう二十年くらい前の話だから、今はどうなってるんだろうなあ。

この商店街では、もうひとつ、とんかつ屋のお世話にもなった。
家ではさ、あんま揚げ物って出たことないんで、一人で食事するようになってからは、定番であるにも関わらず、家では滅多に食べないものを中心に選んでいたように思う。
ここも結構美味かったんだけど、浪人生の懐事情では、しょっちゅう行けるって感じの店でもなかったかなあ。
大体600円前後で食べられる店を探してたんだけど、ここは昼の定食で、確か800円くらいいってたと思う。
老夫婦が営んでる店で、引き戸の入り口を開けるとさ、いかにも昔ながらのとんかつ屋というか、なんとも和風な、落ち着いた感じの店でね。
席に着くと、商店街の喧騒も、どこか遠くの世界の出来事って感じでさ。
たまにそんな雰囲気を味わいたくて、二週間にいっぺんくらい、ここで定食を頼んだりしてた。

あと、当時東中野の北口出てすぐのとこにあった、立ち食いそばにもよく行った。
安いんだよね!
あと、頼んでから品物が出てくるまでが、異常に早い。
なんか一品つけても、30秒以内に出てくるもんなあ。
そりゃまあ立ち食いそばですからね、器につゆ入れて、そば入れて、作り置きの一品乗せて、はいどうぞって感じですから。
昼休みって一時間くらいだから、時間かけたくない時にはよくここ行ったよ。
あと安い、確か200円くらいだったんで、浮いたお金を、道挟んで目の前にあるゲーセンに使ってた(笑)。
てかさ、時間もそうだけど、ちょっとゲーセン寄りたいなあって時は、迷わず立ち食いそばなのだった。

で、最後、タイ料理屋行ってた時もよく行ってたし、その後はメインになったのが、当時大通りに面した場所にあった、ラーメン屋なのだった。
タイ料理屋の時に触れたけど、当時の俺は辛いもんが好きだったからね。
ここで初めて、担々麺ってヤツを頼んだんだ。
もうね、すごい辛いんだけど、すごい美味いんだよ。
その辛さに耐えられない時は、担々つけ麺ってのもあってね、こっちだとつけ麺な分かなりマイルドになるんで、これもよく食べてたなあ。
全体的に質の高いラーメン屋で、何食べても美味いって感じだったけど、担々麺は絶品だったなあ。
あれから色んな担々麺食べてきたけど、今でもここが、No.1だな。

ちなみにここの主人、いや、主人は多分じいさんだけど、ここで働いてるおっさんがいてね。
その人が、なんか藤波辰爾に似ててさ、俺はこのおやじを心の中で「マッチョドラゴン」って呼んでたんだ。
もう途中から面倒くさくなって、単にドラゴンって呼んでたけど。
いや、本人に向かってそんなこと言ったことないけど(笑)。
ともあれドラゴンが、なんというか、人懐っこい笑みを浮かべる人でね。
愛想がいいというか、何かしら話しかけてくれたり、「いつもありがとう」って言ってくれたりね。
まあなんか、雰囲気もいい店ではあったよ。
ラーメン屋っていうか、下町の中華料理屋って雰囲気でもあったか。
ここはホント常連で、二日に一度はここで食べてた。

で、それから十年くらい経った後に、またあの店の担々麺が食べたいって思って、女の子の友人と二人、その店を訪ねてみたんだ。
久々に東中野訪れてびっくりしたのが、当時は常に工事してた大通りが、大幅に拡張されてたってことなんだ。
ちょっと嫌な予感しつつその店を訪ねてみると、というか、その店があった場所は、やはり道の一部になってたんだ。

あー、あの店なくなっちゃったのか、と一瞬あきらめかけたんだけど、待てよ、確かあの店には、おそらくドラゴンの息子と思われる男も働いていたなって。
で、息子が後継ぐかもなのに、そう簡単に、立ち退いて店たたむってこと、あるんかいなと。
そう思って、商店街の方歩き回ったり、駅周辺を見て回ったんだけど、それらしいラーメン屋はない。
途方に暮れていると、その友人が、電話帳で調べればいいんじゃないかって思いついてね。
いや、当時ネットはあったけど、スマホとかはなかったし、携帯にナビみたいなサービスも、あんまなかったから。
んなわけで、まずは公衆電話を探し、中のボックスにある、電話帳を調べることおよそ数分。

あった。
確かに、あの店の名前がある。
単に立ち退きに応じて場所を変えただけで、店は健在だったのだ。

で、およそ十年振りに入ったその店の味は、あの頃のままだったよ。
当然、ドラゴンもいたしね(笑)。
まあドラゴンは俺のこと覚えてない様子だったけど(ひょっとしたらどこかで見たことあるくらいは思ったかもだけど)、メニューなんかは、ほぼ当時のままでね。
美味かったよ。
あれから色んな担々麺食べてきたけど、やっぱりここのが一番だなって、あらためて思ったね。

ちなみに今でもこの店が健在なのか気になって、食べログで調べてみた。
あるね、今でも。
評価はまあ普通って感じだけど、口コミ書いてる誰もが、ここで本当に美味いもん食べてないのに、ちょっとイラっと来たよ(笑)。
メニューが結構多いのよ、ここ。
で、メニューやら価格帯やらがかなり広いもんだから、中には当然、んー、まあこんなものかな、というものもある。
担々麺食べなよ、って言いたい感じで(笑)。
他にもいくつか当たりのメニューがあるんだけど、誰もそれを食べてないものだから、あんまり食べログとかも、こうやって知ってる店になっちゃうと、イマイチ当てにはならんよなあ。
まあ口コミでレビューされてるとこだから、致し方ないわけでもあるんだけど。

そうだなあ、君がこの店で食べたいって言ったら、俺が案内するよ。
何よりもこれ書いてて、俺が今すぐにでも行きたい感じだからさ(笑)。
この店の担々麺は、君にも食べてほしいな。
辛いの苦手だったら、担々つけ麺が、マイルドでおすすめだぞ。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

尾上屋台 2017/05/04 08:05

扉の奥は、タイ料理屋だった

初めて、一人で外食したのは、確か浪人生の時の、あの店だと思う。

意外とね、一人で外食する機会って、それまでなかったんだよね。
親がいない時なんかは、ファストフードだったり、弁当屋だったりかな、そういうとこで持ち帰りで買って家で食べてたもんだから、一人で外食する機会ってのは、それまでなかった気がする。
家族か、友人と連れ立ってしか、外食する機会って、なかったのよ。

何気にさ、今でこそ慣れてしまってなんてことはなくても、初めて一人で外食するのって、それなりに勇気がいたんだよ。
あくまで、当時はってことだけど。
まあファミレスみたいなとこだったら、そうでもないのかなあ。
最近は明るい雰囲気の店が多いんで、女性でも気軽に一人で入れるような店が増えたんで、そういう感覚を経験する人ってのは、少なくなってきたのかもしれないね。

ともあれ、俺が初めて一人で外食したのは、予備校生になって、間もない頃だった。
ちなみに、東中野にあるその小さな予備校に通い始めた春休みは、昼休みに一緒に食事をする子がいたんだ。
よりにもよって、女の子だよ。
男子校上がりの自分が、よく女の子誘えたなあと思うけど、その話はまた別の機会にしような。
女の子にまったく慣れてなかったから、ものすごい緊張してたけどね(笑)。
けど、その女の子は高校生で、浪人生の自分は、春休みが明けた後は、一人で食事をすることにしたんだ。
えらい少人数の予備校とはいえ、既に出来上がってるグループはあって、そちらに合流する手もあったと思うんだけど、これもまたいい機会だと思ってさ、一人で昼飯をとることにした。
何がいい機会かって、当時の俺は、基本的に今まで経験したことないことに、すごく貪欲だったからね。
一人で外食したことないなら、これぞ絶好の機会ってことだよ。

一軒、目をつけていた店はあった。
これは通学路(?)の途中にある店で、大通りに面しているにも関わらず、注意しないと見落としてしまうような店だった。
なんかね、一応通りに面したところに入り口はあるんだけど、一見普通の家のような感じなんだよ。
その通りに、他に店はないんで、その点でもちょっと異質だったな。
門みたいのはないし、平屋だし、まあ店といえば店なんだけど、店内の様子が、まるでわからない。
表にメニューを書いた看板があって、ああ、ここは食事できる店なんだって感じ。
タイ料理の店だったね。

今考えると、初めての外食にしては、やけにハードル高いなあ(笑)。
もっと入りやすい店なんて、いくらでもあるだろうに。
そこはそこ、冒険心なんだよな。
最初にハードル低くしちゃうと、ゴールが見えてないものって、その低いハードルのままで終わっちゃうことがほとんどじゃない?
「外食道」みたいのがあるわけじゃなし、ゴールみたいのは、そもそもないんだから。
ゴールのあるものは逆にできるだけ低いハードルから入った方がいいことが多いんだけど、これは逆だからねえ。
まあ、こういう滅茶苦茶入りづらいとこに最初に入っとけば、大抵の店に入るのに、おかしな勇気振り絞る必要はないだろうと、十八歳の俺は考えていたんだろうなあ。
あと何でも言えることだけど、「初めて」ってのは、できるだけ若い内に済ませておいた方がいいよな。
ある程度の歳になると、それまでの自分の人生でやってこなかったことって、すごく些細なことでも、そうそうやらなくなってしまうものだから。
俺は今でも気をつけて、できるだけ初めて、新しいものに触れようと意識してるけど、意識しないと、ある歳から人生がルーティーンになってしまう、そんな大人はそれまでの短い人生でも、いくらでも見てきたからさ。
と、話がずれ始める前に戻すと、ともあれその日の昼休み、意を決して、俺はその店の中に入ることにしたんだ。
扉のノブに触れた時、やっぱ鼓動は激しくなっていたよね。

店内は、思ったよりずっと狭く、カウンター席しかなかったよ。
五、六席ってとこだったかな。
客は、二、三人。
ただ、内装は白を基調としてたんで、暗い雰囲気の店ではなかったな。
「いらっしゃい。好きな席どうぞ」って、カウンターの向こうのお姉さんが声掛けてくれて。
当時三十歳くらいだったのかなあ。
十八歳の俺には、すごく歳上に見えたんだけど。

ランチがいくつかあったんでね、とりあえず俺は、タイカレーのセットを頼むことにした。
値段を覚えてないんだけど、決して裕福ではない俺が頼めたんだから、結構安かったと思うよ。

ちなみにもうひとつ、俺はそれまで、タイ料理というものを食べたことがなかったんだよね。
これも今からだと考えづらいだろうけど、当時タイ料理って、まったくもって無名だったからね。
周りでも、タイ料理食べたことある人間なんて、一人もいなかったよ。
かくいう俺も、タイ料理って、聞いたことはあるけど何なんだろうみたいのが結構あって、それを体験したいってのがあったからさ。
パクチーを初めて食べたのも、この店だった。
当時は、それがなんなのかすらわからなかったわけだけど、それまでまったく口にしたことのない味だったから、びっくりしたよねえ(笑)。

今振り返っても、かなり本格的なタイ料理の店だったんだろうね。
初めて食べたタイカレーは、それはそれは辛かった(汗)。
こんな辛い食べ物があるのかって感じで。
水を何杯もおかわりしたよ。
でも辛さに慣れてくると、その奥に隠れている美味さに、気がつくんだよね。
美味かったよ。
こんな料理もあるのかと、感動すらしたなあ。

その後しばらくは、この店を、昼飯のメインにしていた。
今でも浪人生の頃を思い出す時、頭に浮かぶ景色のひとつは、この店でジャンプ読みながら、食事ができるのを待っている光景だよ。

いわゆる激辛ブームってのが来る、いわばその前夜のような時代でもあったね。
一ヶ月もすると辛さにもすっかり慣れて、水なしで普通に食べてたな。
二日に一度はこの店で食べてたんで、すっかり常連みたいな感じになってね(笑)。

ただ、この店に通い続けたのは、夏休み前までだった。
この店は夜もやってて、まあ普通に考えればそっちメインのはずなんだけど、売り上げが当初思ってたよりも、ずっと高かったそうなんだ。
で、この店、夏にもっといい立地の所に、移店することになったんだよね。
記憶が定かじゃないんだけど、荻窪か、中野辺りだったかなあ。
こんな、周りに店もないような辺鄙な場所じゃなくてね。
「今までありがとう」って店のお姉さんに言われた時、なんとも切ない気持ちになったよ。

その話聞いてからは、ずっとその店でランチをとっていたよ。
こちらの方が先に夏休みに入ってしまって、当然夏期講習までそこには行ってなかったんで、最後の営業日がいつだったのかは、ちょっとわからなかったなあ。
でも、夏期講習が始まってからそこを通りがかった時、もう店は閉まってたよ。

今ではタイ料理も当たり前に食べられる時代になったし、俺もどこか知らない店にふらっと入るのに、何の気構えもなくなってしまった。
それでも、今でも昨日のことのように思い出してしまうな。

あの浪人生の頃の鬱屈とした気持ちを、その時だけでも吹き飛ばしてくれた、本物のタイ料理の辛さをね。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

尾上屋台 2017/01/17 18:48

誠実であるということ

誠実、と言葉にすると簡単だけど、誠実であるということは、生きていく上で一番大切なことだと思っている。

と、この誠実という言葉、辞書的な意味はわかるとしても、具体的なイメージをもって行動できている人は、そんなにいないのではないだろうか。
もちろん、ここを読んでくれてる人を責めるような意味合いで書いているわけではなく(笑)、思いのほか、イメージが漠然としている言葉なのだ。
特に、行動に移そうとすると。
ただ自分の場合、それを行動として示してくれた人が、何人かいる。
その内の一つ、自分が浪人生だった頃の話をしようと思う。

自分が浪人の時に通った予備校は、なんとなく「塾」みたいな言葉がしっかりくる、小さな予備校だった。
浪人生は全生徒合わせても、20人いなかったんじゃないかと思う。
夏休みとか冬休みなんかだと学生の子たちが来たりしたので、それなりに人数は増えたりもしたのだけれど。
実はこの予備校には、そして浪人生の間にも色々あったりしたのだが、それはまたの機会に。

ともあれそんな小さな予備校で、かつ世界史の授業を取っているのは、なんと自分含めて二人しかしなかったのだ。
おまけに、そのもう一人は夏休み前に予備校に来なくなってしまったという(汗)。
さらに言えばその彼は、その前にもよく授業をサボっていたっけ。
そんなわけで一年間、自分とその講師だけの世界史が続いたのだ。

一応、名前をT先生としておこう。
このT先生、途中からは完全に自分だけだったというのに、授業の始まる時間になると、実にしっかりと講義をしてくれた。
普段は結構人当たりのいい人で、授業以外の時間では「尾上君〜♪」と、とても気さくに接してくれた。
が、授業の間は一切私語を挟まず、自分一人だけの為に、ちゃんと講師をしてくれたんだな。
適当に済ますみたいのは一切なく、ホワイトボードにガシガシとテキストを書いていき、自分も必死になってそれを写しつつ、質問したところや気になった点は、しっかりとメモを取った。

T先生の年齢は、確か二十代後半だったと思う。
十九歳だった自分とは、ざっくり十歳差か。
T先生は毎年司法試験を受けていて、いわば浪人生のような環境だった。
実は予備校の講師の仕事は掛け持ちしているバイトのひとつで、他にも昼夜問わず、様々なバイトをして生計を立てているという話だった。
その予備校の講師もその年が初めてだったそうだが、とてもそうとは思えない、というよりそれまでに通った予備校の中でも、間違いなく一番の講師だったと断言できる。
知識が異常に幅広いことはもちろん、わかりやすく、受けた講義がすっと頭に入ってくるのだった。

いよいよ受験まであと三ヶ月の頃合だったか。
T先生は世界史の、問題として出そうな所を空欄にしたプリントを持ってきた。
ワープロで作った、T先生自作のものだ。
世界史通史で問題となるであろうところだけをまとめたものだが、実際これはかなりの厚さだった。
年号順で、それこそクロマニヨン人から太平洋戦争までだから、世界史全部を網羅したものとなる。
「もっと必要だったらバンバンコピーするからさ」
そう言って笑う
T先生を見て、真面目に取り組んでいた世界史だが、これは絶対に受からなくてはと思いを新たにしたものだった。
たった一人の生徒の為に、ここまでしてくれたのだ。

当時恐ろしく入りづらかった大学という所に、進学校に通っていたわけでもない自分が一浪だけで合格できたのは、間違いなくこのT先生のおかげだろう。
得意なのは現国のみだった自分に、世界史という一番の得意科目を加えてくれたのだ。
T先生は確実に、僕を世界史で大学に入れてやるという真剣さがあった。

合格が決まり、その報告に行った際、そのT先生は予備校にいた。
事前に予備校には最後の挨拶に行くと言っていたので、待っていてくれたのだろう。
そして飯をおごってもらった。
美味い店があるからと、予備校から新宿までを、二人で歩いた。
確か一時間くらいかかったと思うんだけど(笑)。
かなりカツカツの生活をしているとは聞いていたので、飯をおごってもらえると聞いた時には、ありがたいやら申し訳ないやら、しかしそこで食べたパスタの味は、昨日のことのように思い出せる。

入試とは関係ない話だが、当時自分は詩を書いていて、このT先生にも幾度となく読んでもらった。
その都度感想や的確な指摘をもらい、その意味でもとてもお世話になった人だった。
大学に行った後もちょくちょく連絡は取っていて、よく深夜のファーストフードで色々な話をさせてもらったものだ。

まずT先生の授業が面白かったというのはあるかと思う。
しかしたった一人の生徒に対して、普通だったらもう少し手を抜いたり、いい加減な対応を取っていても、決して責められるようなものではなかったと思う。
授業はいつも真剣で、それ以外の時間も、例えばあのプリントにしても、一人の生徒にそこまでしてくれるのだと、今思い出しても胸が震える。
驚いたことに後から聞いた話だと、 そのプリントを作る前の時点で、あまりに生徒がいないので、来年度からはその予備校から世界史がなくなる、要は
T先生はこの一年でクビになることがわかっていたのだという。
それを聞いて、T先生も予備校の講師自体をやめることを決意していたという。
にも関わらず、そこで手を抜かなかったことが、いかに大変なことか。

誠実、という言葉に関して考える時、自分にはいつもこのT先生のことが頭に浮かぶ。
十九歳という多感な時期だったので、それは一層胸に沁みた。
自分が人と接する時に、誠実でありたいというのは、その頃から始まったことだ。

以後も、誠実であることが求められる、あるいはそうでありたいと思った時、自分はいつもこのT先生の態度を頭に置いている。
今日の、今の自分は、人、仕事に対して誠実でいられたか。

ただ、こちらがそうであることを利用したり、都合の良いように解釈したがる人間を前にすると、ひどく憤るし、また傷つきもする。
今では当時のT先生よりもずっと年を食ってしまったけれど、思い出すにつけ、とてもT先生には敵わないなあという思いは大きい。

誠実であるというのは、自分でそう思い込むことではなく、相手にそうであると思われることでもあると思う。
相手があって、初めて成り立つものなんだ。
そしてそうあろうとする限り、見ていてくれる人はきっといるものだと、信じている。

さて、今日の自分は誠実だったかな。
君はどう思う?

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

限定特典から探す

記事を検索